お前にセックスの経験があるかどうかを世界はまったく気にしていない

和田島イサキ

そのままの君でいて

 それを個性にしちゃったら人間おしまいだよねって話をされた。


 そんなことないよと僕は答えた。実際全然そんなことなくないっていうか、正直「ねえその話って今じゃなきゃダメ?」と喉から出かかったのだけれど、どうあれ一度場に出された話題はもう戻せない。いま問われているのは僕の器で、話題はそのためのいわば触媒でしかないなら、そこに泣き言をいうのは敗北も同じだ。

 童貞であることを自分のアイデンティティにしちゃう人。あるいは、それがもうおしまいであること。要は「本職の芸人でもないと正直キツいものがあるよね」ってことらしいのだけれど、はたしてそれはどうだろう。

 だってそれは、つまり自分の話しかできない人ってことだ。それくらい自分が大好きで、自分語りでみんなが喜ぶと認識しているのは、逆にそう学習しうる人生を歩めばこそのこと。つまりそれだけ周囲から愛されてきた、その証左に他ならないのだから——。

 と。

 そんな適当な擁護がスラスラ出てくるくらいには、僕もこの旅で成長したのだ。


 人は強くなる。抱いた女の数だけ、なんてことは勿論ないけど、でも傷つき流した涙の数だけ、誰かに優しくできるというのは本当のこと。


「いいんじゃない。別に、それしか持ちネタがなくっても。きみは愛されているんだから、きみのままでいていいんだよ」


 じゃ、始めるね——そう伝説の剣を構え直す僕は、でもこのときまだ気づいていなかった。


 所詮、僕らは宿敵同士。

 こうして言葉を交わすことはできても、決して相入れることはないのだ、と。


「——待て。なんか勘違いされとる気がするというか、わらわの話ではないのじゃが?」


 えっなにそれ気を遣って損した、と横薙ぎの一閃。それが「痛っオイ貴様よいのか初太刀がこんなどさくさの一撃で」と直撃して、こうして僕らの戦いの幕は切って落とされた。


 魔王と、勇者。

 世界の命運をかけた最後の戦いが、いま始まる——。




 最終決戦前の口上が童貞云々ってどゆこと、とは、正直思う。


 さりとて、魔王とて人の子だ。いや人の子かどうかは微妙だけれど、まあ嫌なことでもあったんだと思う。正直、迷った。なんだったんだろう正解は。勇者として、あるいは人類の代表として、僕はそこに返すべきだった本当の答えを知らない。


「じゃからって、妾が童貞ってことにはならんじゃろ普通」


 漆黒の火球を放ちながらの苦情。まあわかる。わかるけどそんな堂々と言われると逆に「じゃあきみ、抱いたことあるの。女」となる。流れとして当然のその問いに、でも、


「なッ、何を言うか、このたわけ!」


 と露骨にあたふたし出す時点であっダメだこれ絶対経験ないわというか、なんなら男ともないっぽいぞと見透かされる羽目になる。


「たわけ。妾は魔王、唯一にして絶対の頂点なればこそ、もとより生殖自体を必要とせぬのじゃ」


 と、堂々とそう言い切りたかったことは伝わった。実際には堂々とは程遠いというか、「生殖」のあたりで語の生々しさに頬を赤くして、なんか「せ、せいしょモニョモニョ」と尻すぼみになった。処女だ。


「違う! 処……モニョモニョではない! よしんばそうであったとしても妾は認めぬ! 仮にも魔族の王として、認めちゃったらいろいろまずいものがこの世にはあるのじゃ!」


 咆哮。周囲に無数の黒炎が逆巻き、その威容が増すというかどうにか立ち直る。さすがだ。なりは小さくともやはり魔族の頭領、こんな少女そのままの見た目ではちゃめちゃに強いんだからずるいと思う。もっとも少女といってもそこは魔族、肌は青いし目の白目にあたる部分は黒いのだけれど、でも勇者は肌や瞳の色で人を決めつけたりしない。


「つまり見た目でなく、あくまで妾の言動から童貞と思った、と? たわけ!」


 貴様の目は節穴か、妾はどう見てもメスじゃろうが——と彼女。まあわかる。いくら女性との性体験がないといっても、女の人をして童貞ということはあんまりない。ただ、僕は勇者だ。勇者は肌や瞳の色と同じく、ち◯ちんの有無ひとつで人を判断しない。


「いいんじゃない。別に、童貞で。だって男の場合は『後ろの処女』って言うし」


 だからきみの場合は前の童貞ね——なんて言いたいわけじゃないけど、でもこの魔王の場合はもう童貞でいいと思う。理由は最初に彼女の言った通り。こちらからすれば心底どうでもいい童貞の話を、さも人は誰しもそれを気にして当然とばかりに振ってくるのは、まず童貞かその近縁種より他にないからだ。


「いいか魔王。この世に童貞を気にする人間は三種ある」


 まず、当の童貞自身。

 次に、いい歳してその童貞しかマウントの取れる相手のない、ただ童貞じゃないだけの人。

 最後に、よく知らないぶん逆に童貞に都合のいい妄想を仮託できる、さみしい処女だ。


「そしてその三つをひとりで全部コンプしてるのが魔王、お前だ! 許さない!」


 人の愛と勇気の力を知れ——そう叫ぶと同時に解き放たれた勇者の紋章。髪が逆立ち、全身が淡い輝きに包まれたそのとき、魔王はもうその場にくずおれていた。


「——ゥウワアァァァーーーーッ!」


 絶叫。もう顔中ぐしょぐしょのべしゃべしゃにして泣いて、手の先がブルブル震えてるのが見える。そんなに。そんなになるほどコンプレックスに思っていたなら、なんで初手から「はい平気ですこうして自分から話題にしちゃう余裕もありまーす」アピールをしちゃったのきみと、そう問いかけた瞬間また「アアーッ!」って叫んで這いつくばって震えて吐いた。オエエって。すごい。そんなに。


「——わッ、わらッ、妾だってなぁッ! べつに好きで三百年も未通娘おぼこやっとるわけじゃな、なぁッハァッ、ヒグッ、フッ——アアァーーーッ!」


 たったそれだけの、しかも大体わかってた事実を説明するのにたっぷり数十分も使って(すぐ「わッ、わらヒッ、ヒグゥッ」としゃくり上げてはやり直してたので)、もちろん「なんかごめん」という気持ちも一応ないではないけど、でもそのおかげで必殺の紋章パワーがなにもしないうちに時間切れになった。どうすんの。ねえどうすんのこれ人類最後の切り札だったんですけどと、その全人類の総意の代弁のおかげで過呼吸まで起こす魔王。ハッ、カハッ、と胃液まみれの口元をぱくぱく、額にはぶわりと玉の汗が浮かんで、張り付いた前髪が子供みたいに細い。なによりその額の丸みというか、頭蓋の大きさ自体が僕よりひと回り小っちゃいんだなこの子——と、そんなことをしげしげ観察しちゃうくらいには気持ちが冷え込んでいた。


 ——なにこのめんどくさい処女。


 この際、さみしい処女であることは別にいい。気になるのは僕の「どうすんの」、全人類の命のかかった問いがトドメになったという事実そのもので、つまりそれは、

『待って? 妾がショックでこんなんなってんのに、いまそれ言うの貴様?』

 という意味に他ならない。つまりいくら勇者といえども全人類の命より目の前で泣いているかわいい妾への配慮が先であるという、そんな自分大好きそのものの価値判断がなければ、到底起こり得なかった過呼吸なわけだ。


「その甘ったれて腐れきったカスの性根が三百年も処女やることになった原因だと思うよ」


 とは、言わない。あえて黙る。言葉の刃というものはときに伝説の剣よりも鋭く、つまりそれをやったら今度こそ命まで届く。いやそうするためにここまで来たのだけど、でも拗らせた自己愛を持て余して胃液オエオエ吐いてるもうおしまいの処女を、言葉の刃でトドメ刺してはいハッピーエンドみたいな、そんな幕切れはさすがに夢見が悪い。

 勇者としての責務は果たす。力及ばずそれが叶わないなら、使命に殉じるのも覚悟の上だ。

 でも、この地獄のような旅の幕引き——すなわち、僕の死に方か魔王の殺し方だけは、この手を汚す僕個人の納得を優先させると決めていた。


 きっと、似た考えなんじゃないかなって思う。

 目の前の彼女、僕の宿敵たる魔王も、また。


「勇者よ。この救いなき世界にただひとり、妾と同等の力を持つ貴様だけは、同じ孤独を分かち合えると思うとったのに」


 それを三百年も待たせてこの仕打ちか——と彼女。そうだけど? とは言わずに黙る僕。思い知る。所詮は魔族の首魁と人類の代表、同じ程度の力を持ってはいても、決して相入れることはないのだと。

 魔王は言う。貴様はさぞかしモテたのじゃろうなと。ここまでの旅路、その力と端正な顔立ちに任せて、あっちゃこっちゃで女を抱きまくってきたんじゃろ、とも。まあ間違いではない。事実として起こった出来事だけを見れば、確かにそう表現できる旅路ではあった。


「生まれてまだ二十年と経たぬ貴様がそれで、なんで妾ばっかし三百年なんにもなしなのじゃ!」


 ずるい、さみしい、妾だって人並みの温もりが欲しい——と、もう理屈もクソもない。聞けば魔王というのも大変なもので、なんでも元は本当に人の子、それも公爵令嬢だったのだとか。意に沿わない政略結婚を堂々蹴って、報復回避のためにいろいろやって相手の国ごと潰して、そしてなんやかやしてるうちにすっかり魔王になってたとかなんとか。


「のう勇者よ。人間、なんでもできる力を持って生まれたからとて、なんでもやれば良いというものでもないのじゃな」


 しみじみぼやかれる悔恨の呟き。処女にしてはまあまあ説得力のある言葉だけれど、でもやるべきことから逃げた結果ですよねとも思う。


 華やかなりし令嬢時代も今は昔。地の果ての寂れた魔王城、誰もいない玉座に膝を抱えて過ごして、ようやく来た勇者に即処女とか童貞とか言われてゲロ吐いて泣いた魔王の気持ちがわかるかと、そんなこと言われても僕は知らない。どうでもいい。僕はお前の拗らせでなく人類を救いにきたんだという以前に、まず「ねえどうして嘘つくの」としか言いようがない。


「なんか、ずっと魔王城で待ってた、みたいな言い草だけど。でもきみ、ちょいちょい好きに出歩いてたよね」


「——待て。貴様、なぜそれを」


 なぜも何もあるものか。忘れもしない、それは十年と少し前のこと。

 こいつは、まだ幼かった僕の暮らす、あの小さな村を焼いたのだ。


「いやいや待て待て! あれはあくまで純然たる事故で、別に悪気は——というか、さすがに悪意がありすぎるじゃろその言い方は!」


 あんな干し草がちょこっと燃えた程度の小火ボヤを、まるで村ひとつ焼いたみたいに——と、それは確かにその通り。でも考えてみてほしい。小さな農村、謎の魔族が一体湧いただけでも十分な脅威で、これを恐れないのはぜいぜい勇者か、あとは小さな子供の群れくらいのものだ。


「それをなんじゃ、寄ってたかって魔王に石など投げつけよって——あっそうじゃ、貴様あのときガキどもを扇動しとったろうが! しかもしまいには妾に斬りかかって——それもあんな、あんな木の棒っきれの、しかも先っぽにう、うんこのッ! うんこの刺さったぁッ!」


 またぞろヒックヒックいい始める魔王。いい加減にしてほしい。いまさら何年前のうんこを持ち出そうっていうのか、そも不審者の放火犯が言えたことかって話だ。

 大体、あのときはこっちも必死だった。まだ幼いとはいえ勇者、子供たちを守れるのは僕だけだ。魔族とやり合うのは初めてのこと、でもこの格好、このやたらと露出した肌——こいつは絶対に放ってはおけない、子供の安全を脅かす真なる邪悪だ。


 ——〝しねっ、この痴女〟。


 それが魔王と勇者、ふたりの間で初めて交わされた言葉で、そして十数年越しに答えが返る。


「痴女じゃないもん! 妾、まだ処女じゃもぉぉぉん!」


 ギャン泣き。だよねごめんね、かわいそうなこと言っちゃったね——とは、でも思わない。だって本当にどうでもいい話、世界はお前の性体験の有無をなんら気にしていない。

 そも「処女である」という事実は「痴女でない」ことをまるで担保せず、ただ「処女にして痴女」というウルトラレアモンスターが誕生するだけだ。やっぱ斬っておけばよかったと思う。あのとき、あの魔王の心胆を寒からしめた唯一の武具、恐怖の魔剣うんこカリバーで。


 ——僕の中に、まだその勇気が残っていたうちに。


「いやな、違うのじゃ。あのボヤは、こう、余計なこと考えとったせいというか……『この小僧っこが妾の元に来る頃には、やっぱり立派な大人のオスになっとるんじゃろうか』と、そんなこと考えとったら、ぼーっとして」


 まあわかる。いや何もわからないけどとりあえず嘘ではなさそうというか、確かに別に襲撃のつもりはなかったんだろうとは思った。とはいえ事実としてボヤはボヤ、そも魔族が湧いただけでも事件としては十分で、それが原因で——というのはさすがに言い過ぎにしても。

 でも、あの後。


「死んだんだ。うちの、母さん」


「うむ。貴様のか——えっ?」


 急に何を、と言わんばかりの表情。別になんでもない、ただ彼女の生い立ちを聞いておいて、僕だけ隠してるのも不公平かと思っただけだ。


「きみさ。さっき、『さぞかしモテたろう』って言ったね。そうだよ。モテた。ここに来るまで世界各地を巡ってきたけど、ほとんどどこでも歓迎された」


 希少だからね、勇者の血って——なにしろ魔王に対抗できる唯一の手段だ。手違いで断絶でもしちゃったら事で、ある程度冗長性を持って確保しておく必要がある。それも可能な限り濃い、できれば勇者として覚醒した個人直系の。


「……待て。それはその、つまり、アレか? 貴様がここになかなか来んかったのは、おちこちに残しとったのか? その、なんだ。勇者の血脈、というか、貴様の——たッ、種ッ、的な」


 その通り。いや、一応主目的は『各地の祠で紋章をパワーアップ!』みたいな感じなのだけれど、でもその度に強化の儀式をタテに強請ゆすられた。性行為を。祠を護る巫女——とは名ばかりの、なんか各地の名士のご令嬢たちに。


「おい貴様。なんじゃ、自慢か結局? 『僕はお前みたいなちんちくりんの処女とは違う、世界各地の美女たちを何人も抱いたぞ』と」


 そして——いた。各地に、こういう、すけべ根性丸出しの下世話な野次を投げてくるセクハラおじさんたちも。

 僕が勇者と知るや否や、まるで薄汚い軽薄ナンパカス男みたいな扱いをして——つまりそれは翻って、それだけ〝勇者のおつとめ〟が広く知られている、ということ。

 となれば、当然、その帰結として。


「そういうやっかみの対象になるような、つまり〝いいご身分〟としてしか見てもらえないんだよね、勇者って」


 下世話な嫉妬。でなくば、もう少し切実な「僕が先に好きだったのに」という苦情。もっと酷いのになると「人の女を寝取りやがって」というのもあった。

 勇者の血脈を残す責務。祠の巫女だけで済むはずがなくて、もう次から次へと湧いて出た。逃げ回るのも限界があって、なんせこれだけ公に〝それも勇者の責務のうち〟と知られてしまっていると、彼女らもまるで手段を選んではくれない。

 騙し、罠にかけ、あの手この手で僕を強請って——。

 誰もが、僕を、欲望のままに犯した。


「いやいやいやいや待て待て待て待て! なあ、貴様、勇者じゃろう? この妾に並ぶ力があるのじゃよな? じゃったら、そんな連中なぞ、なんとでも」


 そんな力、どうして普通の人間を相手に振るえる? 人の世は魔族の社会とは違う。弱肉強食、つまり〝個の強さ〟への尊敬が礎にある魔族と違って、人の社会における強者にあるのは責務だけだ。

 秩序だった群れを作ることで強さを得たのがヒトなら、その社会における〝強い個体〟とは、ある意味ただの危険な存在でしかない。社会のために使い潰される、そう確約されてこそ存在が許される。要は奴隷だ。力なき普通の人々の、その投げかける望みがどんなに理不尽かつ横暴なものであろうと、勇者にそれを拒む権利はない。

 強いから。

 別に望んだわけでもない、力を持たされて生まれてきたから。


「誰も助けてくれなかった。僕の声に、誰ひとり耳を貸してはくれなかった。強き者として、ただ『助けて』のひとことを表明するだけでも相当勇気を振り絞ったのに、そんな僕を彼女たちは嗤ったんだ。それどころか、すわ好機とばかりに僕を犯して、もっともらしい愛の言葉を囁くくせに、結局そのうちの誰ひとり——」


「ゆ、勇者よ。その」


「誰もさ、〝僕〟のことなんか見ちゃいないんだ。どこか遠い、自分の中の〝勇者の種を得た〟という事実だけを見て勝手に気持ち良くなって、しかもそれを愛だなんだと僕に押し付けてくる。もっと酷いのになると、僕に男として『する』役割を強制するんだ。自分は『された』側って態度で、行為の責任すら僕の側に押し付けようと、その頃まだ男というよりは子供でしかなかった年齢の僕に」


「勇者! その、大丈夫! もう大丈夫じゃから!」


 すまんかった、何がすまんのかはともかくとして——と、魔王。あっこいつ適当に謝って話を流そうとしてんなと、そんなことはでも言えそうにない。

 震えていた。指先が、自分の意志とは関係なくブルブル震えて、あっまずいと思った瞬間にはもう吐いていた。胃液を。オエッと勢いよく吐き散らかして、それを真正面から浴びながらなお、必死で僕の肩をさすり続ける彼女。


「すまぬ。妾が悪い。この魔王は最悪の女じゃった」


 そんなことない——こともないかしれないけど、でもとりあえず今の話題にきみ何も関係ないよね、と、そのひとことがまるで声にならない。出るのはただ薄緑色の胃液ばかりで、なのに彼女は震える声で続ける。

 ——違うのじゃ、と。


「貴様が苦しんだことはわかる。絶対に許すことのできぬ非道がそこにあったと、魔王の名をもってそう断ずるになんの躊躇もない。じゃが、じゃがな、そうわかっていてなお、それでもまだ、やはり妾には一番大事な想像力が欠けておるというか——」


 それはきっと、人として決して手放してはならない何か。

 彼女の言う〝大事な想像力〟。それはつまり——。


「思って、しまう……! 結局、『いっぱいセックスをしました』という自慢じゃないか貴様、と——!」


 最低じゃ、妾は——悔恨の呻きと共にこぼれ落ちる涙。僕は思う。本当に最低だ、と。

 こんなんなってる僕を見てなお「お前ばっかエッチなこといっぱいできてずるい」と、一体どれだけ拗らせたら人はこんな怪物になるのか。なんならちょっと元気にすらなってるというか、僕の話からいろいろ具体的な画を想像して、膝とかもじもじ擦り合わせてるのさえ見える。


「勇者よ。どうやら、この三百年の孤独は、妾から大事な物を奪っていったらしい」


 妾の、心です——と彼女。それはどうだろう。だって政略結婚が嫌で国ごと潰すような女だ。それを「やったった、ざまあ」みたいなノリで武勇伝として語ってしまえるあたり、こいつは魔王になるべくしてなった女だと思う。


「——よかろう。勇者よ、殺せ。この魔王を討ち取るのだ。こんな最低の拗らせ女、もう生きておってもどうにもならん」


 なんか勝手に覚悟したっぽいこと言い出しちゃう魔王。たぶん「心を失くしてまで生きていとうない」的なことだと思うけど、でもこの人さっきの「大事なものを奪って」の後に、


「……一番奪って欲しいものはそっくり売れ残っとるのにの」


 とかぼそっと呟いて、おかげでせっかくの「殺せ」が「スベっちゃって居た堪れないからいっそ楽にして」の意に取れちゃって、もうお前やることなすこと全部ダメっていうかそもそも自分から逃してるよね卒業のチャンスを——なんて。


 そうやって、頭の中で延々と、丁度いい逃げ道を探してしまう時点で僕も同じだ。


「……やってるよ。そんなの、やれるものなら、とっくに」


 そのために来た。それが勇者の最終目標で、事実その機会は何度かあった。泣きながら吐いてたときもそうだし、なんなら言葉の刃でだってやれた。

 それでも、できない。

 あるいは、こうして直接対峙さえしちゃえば後は流れで、とも思った。実際最初の方はわりと戦えていて、でも一度立ち止まってしまえばもう無理だ。

 目の前の宿敵、十数年ぶりに再会したその痴女は、あまりにあの頃のままだったから。


 当時は年上のお姉さんに見えた。無駄に露出の多い変な服に、青くきめ細やかな肌と長い髪。整った目鼻立ちはなんだかお姫様のようで、不思議と甘い香りがしたのを覚えている。

 それはつまり、もはや、どうしようもなく——。

 女だ。

 僕に群がり、奪い、汚し、好き放題貪ってきた、あいつらと同じ生き物。


 殺さなくちゃ。そう覚悟してきたはずの手が、今や情けなく震えている。止まらない。全身の脂汗と胃の痛みが。それに逆らうこと。それの望みに抵抗し、敵対的な態度を示すこと。そんな自分を想像しただけで、とっくに吐き尽くした胃液がまた迫り上がってくる。全身の細胞ひとつひとつに、何度も繰り返し刷り込まれた恐怖が、僕の四肢を磔にして動けなくしているのがわかる。


 いやだ。怖い。どうしてあんな化け物と戦わなきゃいけない? 許して。もう逆らわないから、好きにしていいから、だからこれ以上ひどいことしないで——。


「おい、しっかりせぬか! 妾にうんこ棒で斬りかかってきたあの威勢はどうした! だいたい貴様、仇を討ちにきたのじゃろう! あのボヤのせいで亡くした、母さまの」


 違う。そうじゃない。確かにあの騒動が遠因となってあの人は死んで、でも魔王は知らないのだ。それが僕にとってどんな意味を持って、そしてその結果として僕が何を得たのか。

 あのとき、僕がきみに斬りかったのは、きみを痴女だと思ったから。

 それは、必ず殺されるべきものだったから。


 きみがさっき、急に童貞の話題をぶつけて、僕の性体験を探ろうとしたそのずっと前から。

 あの小さな村、燃える干し草のそば、初めて出会ったあのときには。

 本当の本当に、幼い子供だった、あの日には。

 もう。

 僕は勇者で、そう知られていて、そして。


 


 ——では、すでに、なかったんだ。


 こんなこと、それこそ誰にも言えないこの傷跡を、今この場で晒すことはできないけど。

 仇じゃない。むしろ逆。

 あの日、あの瞬間、あの人をきみが殺してくれたおかげで、僕は。


「自由になれた。勇者じゃない、『僕』が本当の意味で生まれたのは、きっとあの日だ」


 僕の言葉に、ただきょとんと目を丸くする魔王。まあわかる。だって彼女からすれば訳がわからなくて当然だ。それでもわからないなりにというか、何ひとつ理解してないのに「そうか?」と得意げにできるという、その神経の太さはなるほど王たる器だなって思う。


「じゃあ、あれじゃの。逆に妾が産んだようなものというか、なんなら『ママ』って呼んでいいんじゃぞー? なーんて」


「ウヴォエェェェ」


 吐く。軽口にしたって言っていいことと悪ことがあって、というか悪いにしたって一体どうしてこんな、一発で命まで届く〝悪い〟を引けるのだろう?

 思えば、彼女はずっとそう。初手から僕の抉られたくない心の柔らかいとこ全部無自覚に抉り尽くして、そんなだから三百年待ってもお前は誰からも抱いてもらえなかったんだよと、その事実こそがまさに彼女の信用できる部分。

 処女であること。

 もとより弱肉強食の世界にあって、しかしとっとと捨てたいそれを捨てるのに、その力を一切行使しなかったこと。

 誰にもできることじゃない。世界の端から端まで歩いて、そんなの誰ひとりいなかった。世界は彼女を魔王というし、それは事実であると勇者の僕が保証するけど、でもその中に残ったひとかけらの何か——見栄とも言い訳ともつかない何か人柄の核みたいなそれを、しかし気にするものがこの世にはたして何人いるのか?


 ——仕方ない。

 もとよりこうなる気は薄々してたし、なにより最初から決めていたこと。

 旅の幕引き、僕らのいずれかの死によりもたらされるそれは、しかし絶対に納得が先だ。


 魔王は言う。殺せ、と。あるいは、「……と、さっきは勢いそう言ったが」と。魔王たるものに二言はなく、だから前言を撤回しようというわけではなくてと、そうもじもじ頬染めながら魔王は言う。


「どうせ死ぬんじゃったらせめて最期にというか、アレかの? やっぱ、ダメかの? じゃってほら、もうそんなにいっぱいされちゃっとるわけじゃし、今更もう一回くらいは誤差の範囲というか、つまり貴様が妾の処ウワッすまぬウンそうじゃよな吐くよなごめん忘れて」


 卒倒する僕。言葉の刃はときに魔王の業火よりも強く、とてもじゃないけど勝てる気はしない。人は、あるいは元・人は、強くなる。抱いた女の数だけ、というのは残念ながらないけど、でも抱いてくれなかった男の数だけ強くなってしまったっぽい女ならどうやらいた。


 最終決戦前の口上。どうしてあんなことになっちゃったか、今ならなんとなく理解できる。


 世界の果て、玉座にひとり、誰もお前の性体験を気にするものはない。

 そこには誰も聞いてない自分語りと、それでもなお愛されるべき強者がいるのみだ。




〈お前にセックスの経験があるかどうかを世界はまったく気にしていない 了〉



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