第75話 おかえり
「え、姉さん?」
レイフは平手打ちの覚悟は決めていても、サラがこんな反応をするとは思っていなかった。何度も「本当にごめん」「もうしない」と謝りながら狼狽えるばかりだった。
「なんだか姉さんも、年相応に丸くなったんだね」
その一言でサラの感情は怒りの方向に振り切れた。先ほどの平手打ちとは違う本気の蹴りをレイフの脇腹に叩き込む。横薙ぎに吹っ飛ぶレイフは背中を壁に打ちつけて、ずるりと尻餅をついた。サラが拳を鳴らしながらレイフの前に立つ。
「なあレイフ?三年会わないうちに、忘れちゃった?ほら立てよ、久々に組み手しようぜ」
レイフは口の端から血を垂らしながら「さすがに今はちょっと」と抵抗するが、サラは微塵もやめる気がない。そこへ今まで静観していたレイフの連れがサラの前に立ちはだかった。
「これ以上レイフを傷つけるなら、たとえあなたでも許しません」
アニスはフードを取り、サラの前にさらりとした赤毛を晒す。
「お前あのときレイフと逃げた襲撃犯だろ。なんでまだレイフと一緒に居るんだよ。三年だぞ三年」
レイフに言いたい事があり過ぎて二の次にしていたが、サラはアニスの事もしっかり覚えていた。質問に対してアニスは胸をはって答える。
「当然です。私は今やレイフの婚約者ですから」
一瞬、部屋の時が止まった。
「はぁ!?」
レイフだけが照れながら頭をかいていた。サラは説明を求める視線をレイフに向ける。
「いやぁ、アニスとはあれから色々あってさ。実は今回カルミアに密入国したのも、姉さんに結婚報告をしたかったからで。けど地震もあったしどう言おうかと思ったんだけど......」
「あの、レイフ、まだ言わない方が良かったですか?私つい」
「ううん、大丈夫だよアニス。代わりに言ってくれてありがとう」
二人が醸す空気は完全に恋人のそれだと、鈍いサラでも理解させられた。
つっこみどころは山ほどあるが、一応めでたい事なのか?いやその前に私の話は終わってねーし、だいたいお前ら結婚って。
「あーーなんだこれめんどくせえ!」
サラが急に叫んだのと同時に、みしっと木材が歪む音がした。
加えて「わっちょっと押さないで」「足踏んでる!」「え、嘘」と複数人の声と共に、仮説隊舎の薄いドアが内側に向けて倒れてきた。そこにはサラの部下たち、スイ、コルル、ラピス、リンといった面々に加え、一歩引いたところにヒルダまで居る。エーデルやユウリといった大人組は居ない事にサラは少なからず安堵を覚えた。
「何やってんだよお前ら」
予想外の出来事が続き、もう素のテンションで訪ねるサラに、コルルが馬鹿正直に「隊長のオトコが訪ねてきたって聞いたから見にきたにゃー」と答えた。ヒルダは我関せずの態度で外で成り行きを見守っている。一番年少のラピスが慌てて取り繕おうと口を開いた。
「立ち聞きしてたのはごめんなさい...!でもでもこの人があの有名な弟さんなんですね。私”繋ぎ手”のファンだから嬉しい、です」
「初めまして弟君。捕まえたりしないから安心してな。私らみーんな隊長の味方だから」
「隊長にはいつもお世話になっています」
思い思いに話しかける隊員たちにレイフは呆気にとられてしまう。サラは説明も億劫になり「私の部下たちだよ」と十把一絡げに雑な紹介で済ませた。レイフもいい加減に立ち上がり、隊員たちに丁寧なお辞儀をした。
「レイフ・クロエです。いつも姉がお世話になってます」
隊員達がめいめいに挨拶する中、ラピスが感極まったという声色で呟いた。
「まさか繋ぎ手が二人揃ったところを見られるなんて...!」
ラピスの勢いに押されて苦笑しているレイフをサラは懐かしい気持ちで眺めていた。そういえばあいつはいつも困ったような笑い方をしてたっけ。
ラピスの質問攻めの隙をぬって、レイフはなんとか会話の舵を切ろうと話を逸らす。
「でももう、僕らだけが”繋ぎ手”って訳じゃないですから。ネットが普及した今、一人一人が良い繋がりを次の世代に手渡していく。世界はそういう段階に来てると思います。世界樹の秘密を見つけた僕の役目は、終わったんですよ」
その一言で、サラは弟から憑きものが落ちたのを悟った。院長先生との別れから始まった、運命と呼べるほど強固で刃のような危うさを秘めた信念の道。レイフはついに、その果てへと至ったのだろう。
辿りついたその場所で何を感じたのか、考えたのか、私にはわからない。
けれど。
サラはアニスをちらりと見やる。レイフに向けられる彼女のまなざしの柔らかさ、優しさは桜色のように温かで甘やかだ。
きっと弟はこのまなざしを裏切るような、自身を蔑ろにするような生き方はもうしないだろう。
サラの胸中に一迅の風が吹き抜け、あとには少しの寂しさと晴天の朝を思わせる爽やかさが残った。
レイフがラピスに話す声が聞こえてくる。
「今後はネットで繋がった知り合いと一緒に無国籍の医療団を作ろうと思ってます。知識はネットに溢れていても、最後に誰かを救うのはやっぱり人の手だから。ずっと目の前の人を守ってきた姉さんみたいに、今度は僕もこの手を使っていきたくて」
レイフは照れくさそうにサラの方に振り向いた。まだ生意気な言葉を覚える前の、小さな頃の弟をサラは思い出す。
まったく、大人になったのか知らないけれど、素直になりやがって。まだまだ言いたい事は山ほどあるし、聞きたい事ばかりだけれど仕方がない。私は姉だからな。
「なあ、レイフ。そういやまだ言ってなかったよな」
改まった物言いに、レイフだけでなく隊員もアニスもサラに注目する。
「お前はよくやった!さすが私の弟だ!」
サラはお日様のような笑顔で、レイフのこれまでを明るく照らす。
「おかえり」
その言葉に、レイフの視界がじわりと滲む。
「......ただいま、姉さん」
姉弟の旅路の果てに、世界は一つに繋がった。
《繋がりこそが僕らを生かす》
その信念が正しかったのか、どんな結果を招くのか、それはまだ誰にもわからない。人が人である限り、答えは出ないかもしれない。
ネットワークで運ばれるのは純粋な情報や知識だけではない。善意や悪意、個々人のうちに秘めたささやかな感情まで共有された時、この世界にどんな変化が起こるのか......。
”繋がった世界”はまだ始まったばかりなのだ。
だが忙しない人の営みには関わりなく、世界樹はこの先も大地に根を張り、彼らを見守り続けるだろう。その内側にあらゆる情報をため込みながら。
しかしここに人の社会とは別の、ひとつの変化が起こりつつあった。兆しと言い換えても良いだろう。
ネットワークの構築によって、世界樹に内包された情報自体が、まるで母なる海のような広さと深さを獲得し始めた。
原初の生命が海から産まれたように、”それ”はまだネットワークの中にたゆたうだけの、極めて小さな可能性に過ぎない。その可能性が花開くには、時間に加えて奇跡のような確率が必要になるだろう。
ただし奇跡は、起こってみれば事実でしかない。この世界もそうやって産まれたのだから。
いずれ新しい産声と人々がどのような繋がりを築いていくのか、それもまた誰にもわからない。
けれどそれが語られる日もこの偉大な樹はここに在り、天へと伸ばした梢を風で揺らしているのだろう。
World Tree.Network. 了
異世界ではじめる通信革命 〜 World Tree Network. 〜 朝海拓歩 @takuho
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