愛の病とは

 村娘であるエレナにとって、冒険者とは話の中の憧れでしかなかった。

 同世代の男児と野を駆け回り、村の大人達から生きるために必要なことを学ぶ。それはどこにでもあるごく普通の光景。

 違ったとすれば、それは彼女が持っていた夢。

 女の身で冒険者に進んでなろうと志す者はあまり多くないであることは、彼女も両親やたまたま訪れた冒険者から聞いて何となく察しはしていた。


『んでよ? 俺も冒険中に恋をしてよ? あいつがいる間は、それはそれは滾る日々だったよ』


 きっかけは『とっくの昔に死んじまったがよ』と、酒を片手に懐かしげに笑う壮年の冒険者の言葉。

 幼き日、興味本位で突撃した際に話した冒険者の表情かお、そして嘘偽りなく楽しげな声色をエレナはただの一度も忘れることができなかった。


 死という悲痛で残酷な悲劇を経て、それでもなお心から良かったと断言できる生涯。

 エレナはそこで初めて、漠然としていた冒険者への想いに確たる渇望が宿っていく。


 自分もそれだけ幸せな出会いを。

 この身この心、その全てを費やしても後悔しない幸福を。

 そして片方が道半ばに倒れたとしても、残された方の心に永遠に残るような強固な繋がりが欲しいのだと。

 

 エレナは恋に恋する乙女、それよりたちの悪い純情を原動力に変えてしまえる少女であった。

 だからそれを自覚してからは、以前とは見違えるほどに鍛錬に力を入り、いつしか体力は村一番と自負できるほどにまで成長した。


 魔法は村に扱える者が僅かだったのでほとんど我流。だから使えるのは小さな火と風、後は村の人に聞いてもわからなかった淡い輝きのみ。

 得物である短剣と護身術は、村で一番強い腕を持つ狩人に教えを乞い、やがて三年で彼が敵わなくなるまで成長した。


 そんなこんなでもうすぐ十五。

 次の誕生日を迎えた後、すぐに旅立って念願の冒険者への足を踏み出すのだと、心の底からそう思っていた。


 ──だが現実は非情。

 夢を見る普通の彼女には、あまりにも厳しい天災が訪れた。


 あの忌々しい紫紺の皮膚に覆われた、自らが塵と思えてしまうほどに大きな蛇の怪物。

 村で一番賢い長が、充満する空気一つで生を放棄したような絶望を顔に貼り付けた絶望の具現。

 

 逃亡は不可能、抵抗などもってのほか。

 この村にあるあらゆる道具、すべての人材を用いろうが無意味だと、長は悲痛に満ちた表情で村人へそう告げたのだ。


 既に狩人や数人の男が死んでいたこともあり、村の誰もがその言葉でたちどころに恐怖を伝播し、やがて村中が失意と絶望に染まるだけの大きな屍と化してしまった。

 

 当然その流れの中で、エレナも例外になるわけがなく。

 村はもうおしまいだと。

 私の夢は叶うことの散るのだと。

 まだ姿すら目にしていない怪物を前に、恐怖よりも先に訪れた諦観に心を乗っ取られてしまっていた。


『エレナ、君に頼みがある』


 そんなときだ。私よりも二つ下、村で一番若く活気あった少年が村の中心に立ち、大きな声でそう唱えたのは。


 彼は言った。自分たちは救援を呼ばなくてはならないと。

 近くの町で実力ある冒険者に、或いは国の騎士団に救助を要請すれば助かるかもしれないと。

 そしてあの大蛇の支配域を抜け出せる可能性があるのは、今この村で一番動けるエレナだけなのだと。


 村一晩要した村での議論。

 結果はその声の通り、私が村から飛び出す役目を背負うことになった。

 

 喜べなんてしなかった。体の良い生け贄だと思った。

 何もしないのはあれだし、せめて抵抗したという納得が欲しいだけの打算に溢れた提案なのだと、私の意志を通り越して進んでいく決定にそうとしか思えなかった。


『君は何も考えず、ただ真っ直ぐ走って』


 村内からかき集められた金を持たされ、追い出されるよう囲まれた私に、彼は側で呟いた。

 

 どういうことだと、その真意を聞こうとした矢先。

 彼ともう二人の若者──村でよく遊んでいた三人の少年達が、それぞれ私の背中を叩いた後に駆け出し、最後の一人が背中を押して『走れッ!!』と声を張り上げたのだ。


『じゃあな姉ちゃん! こっちなんか振り向かずに、必ず生き残ってくれよっ!』


 転ばないよう必死に姿勢を保ち、彼の声に応えて走り出してしまう足。

 三人とも、歯が見えるほど大きな笑みを浮かべながら、言葉と同時に三方向に散っていく。

 

 どうして。何でこんな、意味のないことを。

 理由など容易に察しが付いたというのに、それでも言葉は溢れて仕方ない。

 何でそんなことを。だってそんな行動をしたらどうなるかなんて、どんな馬鹿だとしても想像がつくだろうに。

 

 止めて行かないで。

 私なんかのために、自分の命を無駄にしないで。


 どんなにそう叫び、死に行く彼らを止めようとしても、既に彼らは手の届く場所にはいなかった。

 

 彼らは次々に筒状の何かをを投げれば、それらが地に落ちて破裂し、次第に煙が一帯を埋め尽くす。

 

 直後に響く、立っているのもやっとだと錯覚する振動と音。

 必死に全身に力を込めながら、無我夢中で走り続ける。

 

 小さく耳に届き、頭を焼いて離れない悲鳴。

 それは聞き覚えのある友達の声。最期に笑顔と願いを残し、誰かのために自らの命を費やせる者達の最期。


 走る。走る。ただひたすらに足を動かす。

 足を止めずに全速で。目を瞑りながらも真っ直ぐと。

 

 ──ごめんなさい。私なんかのせいで、ごめんなさい。

 

 そして次に目を開けたのは木に激突してしまったとき。

 止まったときにはもう煙や村は影も形もなく、村に漂っていた死の気配すら微塵も感じることはない。

 

 逃げ切った。助かった。

 私は、私だけは、あの絶望から逃げ切ったのだ。


「──────っ!!」


 現実を理解した瞬間、溢れんばかりの慟哭が込み上げる。


 何で私が、どうして私なんだ。

 もっと他に、生き残るべき人間がいたはずだ。私のために命を落としたあの子だって、私よりも生きる価値はあったであろう彼らだって、それこそいくらでもいたはずだ。


 わかっている。わかっているとも。

 こんな無謀と愚かを詰め合わせた愚策。全員で逃げた方がまだ平等であろう絶望の状況で、私を飛び出させた理由が理解できないわけがない。

 

 私が贄なのではない。むしろその逆だ。

 彼らは、村の人達は私を生かすために、あの地響きを鳴らした化け物の餌になることを受け入れたのだ。

 

 大声を出せば、今にも獣に襲われる可能性がある。

 そんな当たり前のことは分かっていても、それでもこの激情が止まることがなかった。

 

 泣いた。泣いた。ただ泣きわめいた。

 誰の目などお構いなしに。自然の猛威など意識などせず。ただひたすらに涙と叫びを流し続けた。

 

 そして涙が涸れ、声も雫も出なくなった後。

 滲む視界のまま、私の足はたった一つの想いを糧としてふらふらと動き始める。

 

 そうだ助け、村のために助けを呼びに行かないと。

 それが私に課せられた使命。やらなきゃいけないこと。

 

 例え彼らの願いがそうでなくとも。私が再び危機の渦中に飛び込むなんて、そんなことを望んじゃいないとしても。

 それだけが今の私にとって、ただ一つの生きる意味。助けられた私が、命を賭してなお果たさなければならない義務なのだから。


 あの怪物に勝つ人間がいるとは思えない。村長の言葉通り、あの悪魔に対抗する術などないのかもしれない。


 けれどそれでも。

 例えこの願いが、掴めない聖光が如き儚く虚しいものだったとしても。

 

 誰か、誰か助けてください。

 私のことはどうしていいですから。だから、だから……!!

 

 そして奇跡にも山を越えて辿り着いた、どこかもわからない町の依頼所ギルドにて。

 私は出会った。誰よりも纏う黒が多く、誰よりも不気味な仮面を顔に付けたあの冒険者に。


 あの人は迷うことなく、私の手を取ってくれた。

 長がその名に思い当たるだけで恐怖に呑まれてしまった化け物グラトサーの名を聞いてなお、少しも臆することなく私の手を安心させるように優しく握ってくれた。

 

 そして見てしまった。この目に焼き付けてしまった。

 あの空に届くかとお前らほどの巨大である大蛇を、たったの一太刀で屠った尊き輝きを。そして彼が自嘲しながら隠している、仮面の裏に潜んだ素顔を。


 確かに世間一般では整っているとは言いがたいであろう顔。事実として、村の誰に聞いても格好良いとは誉められないであろう。

 けれどその顔は私にとって、どんな顔だけの男よりも勇ましく素敵だと思えた。そう刻みつけられてしまったのだ。

 

 だから大蛇が消え、村には安堵が訪れたというのに。

 

 私の心がざわついて仕方がなかった。

 彼の声を耳が捉える度、そして彼が私と会話してくれている時、心の臓は跳ねるように動いて止まらなかった。


 格好良い人。ちょっと不器用で、優しい人。

 この人に教えを乞いたい。この人とたくさんの冒険を共にして、数えきれないくらいの思い出を共有したい。

 そして彼が死んでしまっても、私が死ぬまでその名を胸に刻み続けたい。──ずっと側にいたい。


 だけどそれは叶わない。現実はまたしても非情。 

 私の力がないから。まだ駆け出しにも満たない未熟者だから、彼は困ったように私の願いを断った。


『いつか君が立派になって、もし再び巡り会えたなら。その時は一緒に冒険しよう、もちろん君が満足いくまでね』


 だけどあの人はそう言って、私の手に綺麗な宝石の首飾りを渡してきた。

 今は駄目でもいつかまた。例えその場しのぎの誤魔化しだったとしても、彼はそう未来を約束してくれた。

 

 何かが嵌まったような音が響く。自分の中で、決して抜けない柱が定まったような感覚に陥る。

 がっしりと、自らの生存意義を定める芯が、最も重要な部分たましいに埋め込まれた様な感覚がした。


 嗚呼。私は理解した。骨の髄まで納得した。

 私のこれまでは彼にこの想いを抱くためであり、私のこれからはこの想いを貫きその想いのままに生きるために生まれてきたのだと。


 ならば強くなろう。もっと己を磨いて美しくなろう。

 全ては大蛇すら容易く凌駕した、何十歩も先を歩くあの人に追いつくために。そのためなら私は自らが持つ能力と才、それ以上の熱と愛を捧げて費やそう。


 彼と別れた後、村の復興を手伝いながら、燃えるような恋を燃料に、セレナは自らの決意を強固に固めていく。

 これが後に聖女の再来と謳われることになる、一人の少女の生きる意味と根幹を定めた瞬間であった。

 






 ──愛の病という伝説がある。

 勇者達が元いた世界においてその言葉は、愛を語る一種の比喩として用いられている、いわゆるその程度の意味である。

 

 こちらの世界でも基本はそう。だがこの世界では発祥が、いやいやこの場では発症が違うと言い直すべきか。

 

 伝承の殆どはとうに失われ、愛の女神も消えてしまった現代。

 そんな時代で多くの者は知る由もないのだろうが、それでも愛の病は忘れられた恐るべき病として、明確に存在しているものである。

 

 盲目の愛などではまだ足りない。例えるとするなら、恋という奈落に落とされ、この世どんなものより甘美な快楽を永劫感じ続けると、そんなところだろうか。

 

 その人のためであれば、例え世界を敵に回そうと。

 或いは、自らを犠牲に尊厳や財産を捧げることさえ、心の底から本望と思えるくらいの狂信めいた純粋な愛。


 世界の核心に迫った大魔法使いだろうと。

 祈りのみであらゆる呪いを打ち払う聖女であろうと。

 女神の分け身や魔を束ねる王、そして世界の果てに小屋を建てて静かに世を眺める賢者でさえ。


 一度掛かれば関係ない。抗う術などなく、抗う気すら起きはしない。

 何故なら恋という泥沼に引き摺り込まれ、愛という深淵に呑み込まれるのと同義故。その愛に浸ることこそが、病に冒された者達の至上の幸福になるのだから。


 病原菌による症状ならどれほど楽だったか。魅了や洗脳による精神汚染であれば、どれほどましであっただろうか。

 治療は不可能。解除も不可能。そもそもこれは言ってしまえばただの愛、わざわざ治すものでもないわけだが。


 愛とは無限にして刹那。

 最も苛烈で最も尊い、まさに呪いのような祝福。

 

 当然だが、見分ける方法など限りなく皆無。

 だが当人同士であれば、その片鱗を見る方法は一つだけあると、ある賢者の文献には残されている。

 

 その現象を最初に理解したと自称する愛の女神曰く。

 その病に冒された者の瞳には、愛される当人にのみ見える愛の文様が目に宿るのだと。

 

 それがどんな形であるかまでは、残念ながら文献には記されてはいない。

 そもそもの話、そんな事例は一例すらも記録になく。

 その病の正体は、壮絶な女性関係で命を落としたとされる賢者本人しか知りえることはないのだと、この分野を研究する者達は鼻で笑いながらそう結論づけたのだから。


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読んでくださった方、ありがとうございます。

特に需要もなさそうなので、ここまでとさせていただきます。

最後にフォローや☆☆☆、感想などいただけると次作の参考になるので嬉しいです。

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仮面の勇者〜中身はただの不細工です〜 わさび醤油 @sa98

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