真夏のセレナーデ

白江桔梗

真夏のセレナーデ

 家族が全員寝静まった深夜、雨戸をこっそりと開けて外に出る。物置きと化した旧客間から出入りしているなんて誰も考えないだろう、そんな浅はかな考えを抱きながら靴を履いた。

 本を握って外へ駆け出す。真夏の夜は昼と比べて幾分か気持ちが良い。えも言われぬ解放感、誰もいない道を歩く優越感に浸りながら目的地へと向かう。まあ、汗ばんだ肌に張り付くこのシャツは不快極まりないのだが。 

 段々と辺りは暗くなっていく。こんな不気味な道をわざわざ通る酔狂な人間は果たしているのだろうか。そんなことを考えながら、シャッター街の中を一歩、また一歩と暗闇へと進んでいく。

 

「(あともう少し、この狭い路地を抜ければ……)」

 

 路地を抜けた先には異世界のような空間が広がっていた。ボロボロの小屋の周りには草が生い茂り、小屋を被うように生える木々はまるで俗世からその小屋を隠しているようにも見えた。初めて見た時はなぜだか神秘的な印象を受けたことを今でもはっきり覚えている。

 正面には頼りなく灯った電球がポツポツ浮かんでおり、自分を誘っていた。どうやら、今日は当たりらしい。以前、自分が踏んでできた足跡を重ねるようにして扉の前へと歩く。言うなればこれは儀式のようなものだ。だが、こんな行為に意味がないことは頭では理解していた。

 頬を伝う汗を拭ってからドアノブを回す。少し甲高い音を響かせながら、ぎこちなく回るドアノブはこの建物の古さを実感させる。できるだけ静かにドアを引くと、頬杖を付いている物憂げな女性の姿が目に入った。本まみれの部屋の中にはカタカタ動く蓄音機の音だけが静かに響く。

 彼女はその深紅の唇を動かすこともなく、回るレコードを静かに見つめている。不純にもその姿が見たくてこっそり扉を開けたのだが、扉越しに吹き抜ける風で彼女はこちらの存在に気づいて微笑んだ。

 

「ん、いらっしゃいませ、お得意様」 

 

 漆黒のウルフカットを揺らし、花のような甘い香りを漂わせながら、彼女は静かにレコードの針を外した。

 

 ◆

 

「さて、どの名作が聴きたい? 今の気分を教えてくれれば、それにあったものを流すよ」

 

 彼女は奥の引き出しからレコードをいくつか取り出していた。元々ここは本屋のはずだが、彼女が趣味で置いているらしい。表で灯る豆電球は『本日はレコードを流します』の合図であることを最近知ったが、自分以外に聴きに来ている人は見たことはない。こんな深夜なら当たり前のような話ではあるが。

 

「そういえば、音とかは大丈夫なんですか? 結構響きそうなものですけど」

 

「あー……そうだね。まあ、今のところ苦情は来てないし大丈夫なんじゃないかな。それに、こんなオンボロ蓄音機から出る音量なんてたかが知れてるし、ここだって人里離れた秘境みたいなものだからね。気になる人はいないんじゃない?」 

 

 現に外に音は漏れていなかったが、少しくらいそういうことを気にしてもいいんじゃないかなんてことをぼんやり思う。と言っても、それを聴きに来ている時点で自分も同罪のようなものだが。


「それで? リクエストはないのかい?」

 

 彼女は取り出したレコードを机の上に広げる。ただでさえ小さな机の上に所狭しとレコードが並ぶ様は圧巻だった。

 だが、僕はそんなものには目もくれず、何の包装もないプラスチックのケースに入ったレコードを指さした。

 

「……僕はこれが聴きたいです」

 

 彼女は小さくため息を吐き、半ば呆れながらそのレコードに視線を落とす。

 

「はあ、これで何回目だい? まったく、こんなの聴いても面白くないだろうに」

 

 正直、そのレコードの曲は知っている訳ではない。音楽の授業でも、少し洒落たカフェでも聞いた試しがないのである。

 当然、それだけでは聴きたいとは思わなかっただろう。しかし、自分が扉を開くと彼女は決まってその曲を聴いているのだ。それも遠い誰かを想うかのようにどこか遠くを見つめながら……であれば、気になるのも当然であろう。

 

「いえ、いいんです。今日はそれを聴くまでは引き下がりませんから」

 

「……分かったよ。会う度毎回言われるようじゃ、私も断るのが面倒だ。それに――いや、なんでもない。セットするから少しだけ待っててくれ」

 

 彼女は蓄音機のハンドルを握り、回し始める。ギシリギシリという重たい音を聞きながら、僕は以前借りていた本を棚に戻した。

 便宜上、先ほどはこの店のことを『本屋』と称したが、実際には『図書館』に近い。彼女曰く、「本当に自分の物にしたいのであればお金を出して買ってくれ」とのことだが、今のところはまだそのような本に巡り会っていない。置いている本が難し過ぎるというのも一つの理由ではあるのだが。

 ただ、それよりもこの店が異質なのはここは深夜にしか開かないということだ。理由を聞いたこともあるが、適当にはぐらかされてしまったことは記憶に新しい。


「よし、こんなものでいいだろう。そしたら、その辺に座ってくれ。じゃあ、準備は良いかい?」


 僕は静かに頷く。その様子を見届けた彼女がゆっくりとレコードに針を落とすと、プツプツという雑音が混じりながらも滞りなくレコードは回り、音が流れ始めた。

 正直、僕に音楽なんて分からないけど、これが誰かのために奏でる曲なんだろうなということは素人ながらに分かった。荒波に揉まれるような激しいリズムではなく、追手から必死に逃げるような緊迫感溢れるメロディでもない。音楽の授業でこれに似た曲を聴いた覚えもあるが、どういったジャンルだったのかは忘れてしまった。ただ、聴いていて心地が良かったということだけは記憶に色濃く残っている。

 時の流れを曖昧に感じ始めた頃――ぶつりと、レコードの音が突然途切れた。極めて不自然な位置で音楽が切れたため、思わず驚きの声が漏れた。

 

「はい、このレコードはこれでおしまい。ほら、何も面白くなかったでしょ?」

 

 彼女は淡々と言葉を紡ぎ、レコードから針を離した。いつもなら他のレコードをべた褒めするからか、今日の彼女は凄く冷たく見える。……それなのになぜ、いつもそのレコードを聴いているのだろうか。そんな疑問が胸を燻った。

 

「珍しいですね、貴女が酷評するなんて。いつも聴いているくらいだからてっきりお気に入りなのかと思ってました」 

 

「なに、私だって駄作を求める時はあるよ。駄作があるから一層良作が引き立つというものだからね」

 

 僅かな違和感が僕の胸につっかえる。少なくとも、美味しい食べ物を引き立たせるために、わざわざ不味いものを添えたいとは思わないじゃないか。そんな子どもじみた理由で僕は口を開いた。

 

「何か思い入れがあるものなんですか?」

 

 ぴたりと彼女の動きが止まった。その後ろ姿から彼女の顔を見ることは叶わなかったが、それでも十分と言って良いほどには何かがあるということは察することができた。

 

「……まさか、ただの自己満足の塊だよ」

  

 生温い隙間風が部屋を通り抜ける。空に向かって伸びた彼女の長いまつげが僅かに風で揺れた。

 

「君はお得意だから話しておこうか。実はね、そろそろこの店は畳もうと思ってるんだ。元々は祖母の店だったから愛着はあるが維持も難しくてね。それを機に、このレコードにも別れを告げる予定さ」

 

 予想だにしなかった言葉に僕は思わず言葉を失う。だって、彼女との繋がりがこの店しかない僕にとっては、その言葉は彼女と恒久の別れを意味するのだから。人生経験も浅い、青くさい僕には彼女の心は計りしれない。けれど、彼女は発した言葉はまるで聞き分けの悪い子どもを諭すような口調だったせいで、「それで良いのか」と反射のように聞き返してしまった。

 しかし、彼女が返したのは形だけの肯定ではなく、力無い笑みであった。その苦しそうな笑顔を見て、僕は思わず立ち上がる。彼女の手を握ろうと伸ばそうとしたが、そんな度胸もない僕は虚しくも手に握りこぶしを作るだけで、その華奢な飴細工に触れることはなかった。

 

「それに、こんな人間に固執するなんて君も趣味が悪い。何度も言っているが、青春の無駄づかいなんてしてないで、もっと他の人間に心を砕きなよ」 

 

「い、いえ、でも!」 


「そもそも、君は『店主』としての私しか知らない訳だ。それなのにどうしてそこまで私のことを気にかけるんだ?」

   

 僕だってどうして彼女に関わろうとするのか、そして、僕が彼女に抱いている感情が何であるのかでさえ分かっていた。ただ、”それ”と認めてしまうのは――あのような凡庸な言葉で片付けてしまうのは、嫌だと思ってしまったのだ。

 数刻の間、その場を沈黙が支配する。一人俯く僕を見て、彼女はゆっくりと口を開いた。

  

「――私は。それだけで私に深入りしない方が良い理由になるんじゃないかな」

 

 妖艶な瞳はこちらを見つめる。その瞳は真夜中の海のような色をしており、それ以上の進行を良しとしなかった。

 

「え……?」


 じんわりと汗が滲む。悪夢にうなされ、目覚めた朝のような感覚。今、汗が僕の身体のどこを伝っているのか手に取るように分かった。

 

「つまりはそういうことさ。人殺しの女と関わるなんて、君に百害あって一利なしだ。さ、今日はもう店じまいだ、早く出てった出てった」 

 

「え、あの……!」 

 

 僕の肩をがっしり掴んだ彼女はそのまま僕を店の外へと押し出す。こちらに有無を言わせることなく、僕は店から追い出された。

 扉が閉まってから僕は扉の前で少し呆然していたが、ハッと我に返り、重い足取りで帰路についた。時刻は午前一時に差しかかるくらいであったが、高校生が出歩くにしては不自然な時間だ。いくらここが僻地とはいえ、路上にぽつんと立っている高校生がいれば補導されても文句は言えない。彼女に拒まれた僕は、何も聞けないままその場を去る他なかったのだ。

 胸中のざわめきを必死に誤魔化すようにして、僕は早足で家へと向かう。嗅ぎなれたはずの夜の街もその匂いでさえも全く別の何かのように感じた。今まで経験したことのないこの感情に名前を付けようと思考するが、頭も――心も、この現実に着いて来れないでいた。

 そうこう考えているうちに足がこの道を思い出したようで、気づけば家の前に立っていた。ひとまずこの身体にまとわりついた嫌な汗を流そうと思い、こっそりと雨戸を開ける。

 色々な考えがぐるぐると頭の中を駆け巡る。そのせいか、僕は警戒を怠っていたらしい。最早慣れた手口で犯行を遂行しようとしたところ、残念ながら僕の完全犯罪は失敗へと至った。

 

「こんな遅くにおかえり。気づいてないとでも思ってた?」


 そう、扉の先には今まで見たことないほどの満面の笑みを浮かべた姉が立っていたのだ。


 ◆


 自室の天井を見ながら、昨日の……いや、正確には数時間前のことを思い出す。


『――私は人を殺したことがある』


 僕も人の言うことをそのまま鵜呑みにするほどバカではない。だが、妙に生々しさを帯びたその言葉は僕の身体を這いずって止まなかった。それに、姉に見つかって自室へそそくさと逃げ込んだせいで、この身体を伝う不快さは依然としてそのままである。

 ついぞ満足に眠れなかった身体を起こす。辺りは既に明るく、昨晩の出来事がまるで嘘のように感じたが、自室の床に投げ捨てられた靴下の僅かな温もりが、『あれは紛れもない現実だ』と告げていた。


「……シャワー、浴びるか」


 一階に降りると朝食の準備をする母の姿があった。なんとなく気まずくて、母の視界に入らないようにこっそりと浴室に入る。

 鏡には顔色の悪い男が映っていた。小さくため息を吐いた後、冷水で顔をすすいで頭から水を被る。少しでもこの不快感を落とせれば良いと思っていたが、水ごときで流れるはずもなかった。


「お、いたいた」

 

 脱衣所で髪を乾かしている途中、ドライヤーの音に混じって、ガチャリと扉が開く音がしたと思ったら、後ろから父が顔を覗かせていた。


「おはよう、今日は休日なのにちゃんと朝起きてるの珍しいな。朝食の準備ができたから朝の身支度を終わり次第リビングにおいで」


「う、うん、ありがとう。でも今終わったからもう行くよ」


「そうか?」と言う父に着いてリビングへ向かう。リビングなんて見飽きるほど見慣れた景色なはずなのに、変な緊張感があった。


「お、来た来た。じゃあ食べよっか」


「はーい、いただきます!」


 リビングには母と姉が座っていた。傍から見ればただの一家団欒。されど、自分にとってはいつ爆弾が投下されるか定かではない絶体絶命の状況であった。いつものように朝食を頬張る姉は安全装置を外した銃を握っている。彼女はいつでも僕の眉間を撃ち抜けるように銃口をこちらへ向けているのだ。

 内心ビクビクとしながら、朝食を一口、また一口と食べ進める。「そういえば」という言葉が会話で飛び交う度に僕の心臓は口から飛び出てしまいそうだった。――しかし、その引き金はついぞ引かれることはなかったのである。


「よし、じゃあ、昨日も言った通り、父さんたちは明日に帰ってくるからな。飯代は置いておくから好きに使いなさい」


「やった〜! お土産も待ってるね〜」


 見送るために玄関まで出た姉は呑気そうな声をあげる。こちらは気が気じゃないのにと僕は後ろから姉を睨みつける。そんな挙動不審な息子のことを見て、母は心配そうに声をかけてきたが、僕は取り繕ったような笑顔を浮かべて「何でもないよ」とだけ答えた。

 

「二人とも喧嘩しないようにね」

 

「もう、心配いらないよ。アタシたちだって子どもじゃないんだよ?」

 

 そんなことを言い合う母と姉を玄関で見つめる。車のエンジンがかかり、車内で手を振る二人に手を振り返し、そのまま視界の隅の隅まで行くのを見送った。ひたすらに長く感じた三十分間から解放され、僕は大きくため息を吐く。


「なになに、どうしたの〜? まさかアタシが昨日のこと言うとでも思った?」


 こちらの心配をよそに姉はこの様子だ。明らかに狼狽していた弟の姿を見て、さぞ楽しかったであろう。


「……なんで言わなかったんだよ。いつもなら嬉々として弟の失態を報告するくせに」


「まあ、アンタにもアンタなりの事情があると思ってさ。それにウキウキ旅行気分のママたちの邪魔しちゃ悪いでしょ?」


 驚いた、どうやら僕は姉を見くびっていたらしい。そんな気を遣えるのならどうして昔からそうしてくれないのか。

 だが、それで気が緩んだのか、彼女のあの言葉に支配されていた僕の脳は主人の意思を鑑みることなく口から心の声を解放してしまった。

 

「……姉ちゃん、『人殺し』ってなんだと思う?」

 

 姉は大きな黒目をこちらに覗かせながら、大きく数回瞬きをした。そのまま肩を組む要領で、僕の首をグッとホールドする。そんな僕の口からは「ぐぇっ」という蛙に似た情けない声が出た。


「なにその面白そうな話。決めた、次のプロットはアンタの話で決定。このままアタシの部屋で会議な」

 

 そう言った脚本家あねは蛙を見つめる蛇のような鋭い眼光をこちらに向けていた。


 ◆

 

 姉は脚本家である。ただ、小説家などと違って、その本がどの程度売れたかといった指標はないため、姉がどれほどの実力者なのかは測れずに今まで過ごしていた。ただ最近となって、姉の雅号をよく見る機会が増えたため、それなりには売れてるのだと思う。

 

「んで、アンタの口からサスペンスチックな言葉が出てくるなんてどういう風の吹き回し?」 

 

 予期できた質問ではあるが、案の定言葉に詰まる。誰かに相談したい気持ちは元々あったが、先ほど考えもなしにぽっと口から飛び出した言葉は自分の首を絞めていた。時折感じる寒気は緊張によるものなのか、それとも姉がガンガンに効かせる冷房のせいなのか、それらが正しく判断できないほどには脳に酸素が行き渡っていなかった。

 

「え、えーっと……姉ちゃんなら人をいっぱい殺害してるし、なんか思うところとか、感じることとかあるんじゃないかなって」

 

「え、アタシ実の弟にそんな風に思われてたの? 人聞きが悪いってレベルじゃない発言なんだけど」

 

 明らかな失言をした。もしかしたら一番の相談相手を失ってしまうかもしれないと思い、慌てて取り繕うと口を開いた瞬間に姉は満足そうな笑みを浮かべていた。

 

「まーまー、アンタの言いたいことは分かってるって。アタシの作品見ないとか言ってたくせに、なんだかんだ言って見たことあんじゃん。まっ、今のアタシは気分が良いから特別に許してやろう」

 

 あまりにも言葉足らずであったが、姉はサスペンス系や愛憎劇を特に得意とする脚本家なのである。『人殺し』に対して特別な考えをもっているだろうという先入観が邪魔をして口走ってしまったが、なぜか上機嫌であったため、僕の心配は杞憂で終わった。

 

「あ、一応言っておくけど『作家は自分が経験したことがあることしか作品に書けない』ってやつ、あれ大体嘘だからね? 劇的な人生なんてそう訪れるもんじゃないんだから。てか、外でアタシのことをそんな風に言いふらしてないでしょうね……?」 

 

 首を横にブンブン振ると「なら良し」という声が聞こえた。

 

「んで、人殺し、人殺しねえ」 

 

 物騒な言葉を並べながら、姉は腕組みをし、「うーんうーん」と唸った。

 

「まあ、一言で言うなら『悪』そのものでしょ。到底許される行為ではないのだし」

 

 その言葉を聞きながら、僕は『悪人』の顔をぼんやりと思い出していた。しかし、あのしなやかな指先が、あの透き通った白い柔肌が血に塗れるところなんてまるで想像ができない。

 

「ま、私の世界ではそんなこと日常茶飯事だけどね。というか、なんでその話が出たの? もしかして国語の問題とかそういうやつ?」

 

「そ、そうそう」などという明らかに怪しい言葉を吐きながら、僕は必死に取り繕った。まあ、産まれてからずっと一緒にいる姉弟に対しては、あまり意味のない行動だったのだろうけど。

 

「ふーん、そういえば今夏期講習なんだっけか。なら、やっぱ『心情を読み取れ』的な問題ね。具体的にどういう方法だとか、凶器は何だとかまで書いてあるの?」

 

「え、方法?」

 

「そ、方法。メジャーどころはナイフとか鈍器とかを使った他殺だけど、法で裁いたら社会的に殺せるし、不運が重なって、自分が意図していない死を与えることだってある。広義で言えばこれらも『人殺し』と言うことだってあるし、なんならどっちも私の世界ではありがちな”殺害方法”だけどね」


「そ、そんなこと知ってどうするのさ?」 

 

「『そんなこと』とは何よ。結構大事よ〜、こういうのって。その場で起きた突発的なものなのか、それとも計画的なものなのかってだけでその人間の特徴が分かるし、使う”凶器”だってどれだけ理性的な人間なのか、恨みが深かったのかとかの判別に使えるんだから。で、どうなの?」

 

「い、いやあ、それは……」

 

 いっその事全て吐いてしまうか? そうだ、その方がきっと親身になって相談にのってくれるかもしれない。現に自分が気にも留めていなかったようなことまで考察できる姉であれば、この問いに対する正確な答えが返ってくるだろう。

 そして、意を決して開いた僕の口から出たのは――なんてことはない、ただの空白だった。


「……まあ良いわ。でも、こうやって改めてちゃんと考える機会はなかったから次のプロットに活かせそうかも。うっし! じゃあ今からプロット練るからアンタは出ていきなさい!」

 

「え、ちょ!?」

 

 魚屋に忍び込んだ野良猫のように、僕は姉の部屋から摘み出される。バランスを崩して廊下に倒れ込んだ僕は、無様な姿勢で姉を見上げていた。

 

「あ、そうそう……変なことしてママたちを困らせたら、アタシ怒るからね?」 


 姉はバタンッと勢いよく部屋の扉を閉める。有無も言わさず追い出す姿勢を見て、年上の女性というものは得てしてみんなこういうものなのかという疑問を抱く。

 

「……まあ、バレてるに決まってるよなあ」 

 

 頭を片手で掻きながら、僕はゆっくりと立ち上がる。今、姉に助けを求めることは簡単だが、ある種の誠実さを向けてくれた彼女に申し訳ない気がして――喉の奥に何かがつっかえたような息苦しさを感じながら、僕は自室に戻ることにした。

 

 ◆


 それから数日、僕は彼女の店に行くことはなかった。正直どうするのが正解かなんて僕には分からなかったが、少なくともこのまま彼女に会うのは失礼な気がしていたのだ。

 ――ただただ、人の心に土足で踏み込む覚悟ができてないと言えばそれに尽きるのだろうけど。

 

 夏休みと言えど、残念ながら数年前のような開放感はない。いつものように自転車に乗って学校へ向かい、夏期講習を受けて帰宅するという一連のルーティンをただ繰り返すだけだ。数日前までは深夜の脱走劇を繰り広げていたはずなのに、それも今や遠い過去の出来事のような気がしていた。

 来週に提出しろと言われた進路希望のプリントも、真っ白なまま鞄の奥で眠っており、何も進展しない現実に思わずため息をつきながら自転車を押していたら、正面から見覚えのある姿が見えた。後ろ姿だとはいえ、それでもこの目の色濃く焼き付いたそのシルエットは、小学校の時に教わった影送りを彷彿とさせる。

 すぐにでも追いつこうと勢いよく漕ぎ出したオンボロの自転車は、カラカラと音をたてながら彼女の元へ走り出した。次に会った時は何を話したら良いのだろうか。講習中ではそんなことを考えていたくせに、気づけば考えなしに自転車のペダルを回す。『恋は盲目』という言葉が今の僕にはよく似合っていた。

 悲鳴をあげながら進む自転車の声に気づいた彼女はこちらに振り返る。その瞳の中のブラックホールに僕は吸い込まれた。

 

「あれ、こんな所でまた会っちゃったね」

 

 胸が高鳴る。たかが偶然を運命と結びつけてしまうくらいに能天気な僕は、ひとまず大きく息を吸い込んだ。

 

「なんだか不思議な気分です。日中にお会いできるなんて」

 

 彼女は散歩と言うには大きく、買い物と言うには小さいトートバッグを肩にかけていた。吸血鬼かと勘違いするほどに白い彼女の肌は、いつもとは違う目元のメイクを際立たせている。

 その肌に反射する陽の光に目を眩ませながら、僕は次の言葉を必死に考える。こんなことなら、彼女の店から『会話を途切れさせないテクニック集』とかいう本を買っておくべきだった。

 

「ふふ、何をそんなに焦っているんだい?」

 

 目まぐるしく動く僕の瞳を見て、彼女はくすりと笑う。太陽よりも眩しい彼女の笑顔は僕の心臓をドクンと拍動させた。

 

「じゃ、そろそろ失礼するね。この後、そこのカフェに行こうかなって思っているんだ」

 

 彼女が指差した先にあるのはキラキラと煌びやかな光を放つオシャレなカフェではなく、ダークブラウンを基調とした落ち着いた店であった。彼女は「じゃあ、バイバイ」と手ひらをひらひらさせてみせたが、折角手に入れたチャンスをみすみす逃してなるものかと僕は勇気を振り絞った。

 

「あ、あの!」

 

 きょとんとした顔の彼女は大声をあげた僕の次の言葉を待つ。

 

「ぼ、僕もちょうどそのお店に行こうと思ってて。ご、ご一緒してもいいですか……?」

 

 恐る恐る彼女の顔を伺うと、彼女は狐につままれたような顔をしていた。しかしそれも束の間で、すぐにいつもの表情に戻った。

 

「分かった、良いよ。けど、お店ではさっきみたいな大声は出しちゃダメだよ?」

 

 少し呆れたような笑みを見せた彼女はそのまま振り返り、炎天下の道を歩いた。その跡を追いかけるように僕は自転車を押す。

 そのカフェは目と鼻の先にあり、向かう途中で何を話そうか考える暇もないほど、あっという間に到着した。彼女が店内を確認している間にささっと自転車を止める。どうやら中は空いているようで、カフェのドアからひょいと顔を覗かせた彼女がちょいちょいと手をこまねいていた。

 店内に入ると、涼しい風が僕の身体を通り過ぎる。席に着くと、間もなくしてウエイトレスが水を運んで来た。彼女はメニューを確認することもなく、手慣れた様子でアイスコーヒーを頼む。僕は「私は先に頼むけど、君は決まってからで大丈夫だよ」という彼女の言葉を無視して、彼女と同じものを――あの苦くて堪らないコーヒーを頼んだ。

 

「……ここにはよく来られるんですか?」 

 

「うーん、正確にはかな。それこそ、まだ祖母が元気にあの店を切り盛りしていた頃はよく連れて来てくれたものだよ」 


 彼女は懐かしそうに机を撫でる。細めた彼女の目には果たしていつの記憶が映っているのだろうか。

 

「……それにしても、君も本当に物好きだね。普通、あんなことを言うような人間なんかと関わろうとしないものじゃない?」

 

 脳裏にあの三文字が浮かぶ。直接言葉にして発さないのは周囲の目があるからだろうか。

 

「ははっ……そう、ですね。僕もなんでかは分かりません」

 

 なんとなく、彼女の眼を見たら全てを見透かされそうな気がしたため、伏せ目がちに僕はそう答えた。

 

「お待たせしました、アイスコーヒーになります」

 

 ウエイトレスに一礼した彼女は手渡されたストローの包装を破き、アイスコーヒーをストローでかき混ぜた。その軽快な音は僕の頭に際限なく響くようだった。それに合わせて僕も冷えたコップにストローを挿し込んで口をつける。だが、背伸びをしていた僕は顔を歪ませ、それを見た彼女は顔を背けて笑っていた。

 

「くっ……くく……あー、おかしい! 飲めないなら無理しなくても良いのに」 

 

 彼女の笑顔が見れたのは幸運だが、このような形で見たくはなかったなんて思いながら、僕は水を口にして、話題を逸らそうとした。

 

「あのお店、本当に畳んじゃうんですか?」

 

 数刻間があった後、アイスコーヒーを飲んだ彼女は口を開いた。

 

「うん、確かに私の意思で継いだとはいえ、元々は取り壊しが決まっていた店だったからね。私が駄々をこねていても、どうしようもない問題ではあったのさ。片付けも終わったし、店の中も随分と風通しが良くなったものだよ」

  

「……あのレコードはどうされたんですか?」

  

 彼女の動きが一瞬だけ止まる。彼女は散々誤魔化しているが、やはりあのレコードには何かがある。そんな確信がこの胸中を騒がせてやまなかった。


「はあ、君もしつこいね。あのレコードには君が思っているような秘密は――」

 

「あのレコードとあなたの言う『人殺し』が関係している、そうですよね?」

 

 先ほどまでコーヒーの海にぷかぷかと浮いていた氷はカランと大きな音を立てて崩れ落ちる。

  

「はは、何を言い出すかと思えば。探偵気取りで優越感に浸っているのかい? 他人が土足で自分の心を荒らすことほど、気に触ることはないんだよ」

 

 心臓が痛いほどバクバクと鳴り響く。手足の先端に血が通っていない感覚がする。彼女の冷ややかな眼差しは明らかなボーダーラインを示しており、これ以上先に踏み込めば、元の関係性に戻れないのは明白だった。

 だが、たとえそれが彼女の心を素手で触る行為だとしても僕は一歩を踏み出した。だって――誰かを理解するというのは、きっとそういうことだから。

 

「あなたのことが知りたいんです。だって僕は、あなたのことが――」

 

 彼女は周囲を見渡す。先ほどまでおしゃべりに夢中だったマダムたちは時折こちらのことを伺っていた。どうやら、意図せず声が大きくなってしまっていたようだ。つい白熱して立ち上がってしまった自分をなだめながら席につく。

   

「ご、ごめんなさい、つい……」

 

「別に大丈夫だよ。幸い、話の内容までは聞こえていないようだからね。まあ、ここから先は私も話していて楽しい内容じゃない。いつもの時間、いつもの場所で鑑賞会を、それでも構わないかい?」

 

 僕は彼女の深海のような瞳をじっと見て、静かに頷いた。

 

 ◆

 

 両親が寝静まった深夜、雨戸をこっそりと開けて外に出る。物置きと化した旧客間から出入りしているなんて誰も考えないだろう、そんな安易な考えを抱いていた自分を嘲けながら靴を履いた。

 

「行ってらっしゃい、あんま遅くなんなよ」

 

 姉に手を振って、外へ駆け出す。真夏の夜は昼と比べて幾分か気持ちが良かった。えも言われぬ解放感、誰もいない道を歩く優越感に別れを告げながら、月夜鴉だった自分を懐かしんだ。

 段々と辺りは暗くなっていく。こんな不気味な道をわざわざ通る酔狂な人間は一歩、また一歩と暗闇へと進んでいく。


「(これが最後、か)」 

 

 路地を抜けた先には見慣れた空間が広がっていた。初めて見た時はなぜだか神秘的な印象を受けたが、今やもう慣れ親しんだ光景だと言っても過言ではない。

 頼りなく灯った電球はいつものように僕を誘う。僕が歩んできた足跡に重ねるように扉の前へと向かう。結局のところ、やはりこんな儀式に意味などはなかったのだ。

 一息呼吸を置いた後、ぎこちなく回るドアノブと最後の握手を交わす。いつものルーティン、いつもの場所のはずなのに、なぜか僕の心臓には落ち着きがなかった。風に揺れる笹の葉のように、胸の中はざわざわと音をたてていた。だが、明確な”終演”を前に冷静となれる人間などいるのだろうか。そんなことを考えながら、僕はドアを開けると、彼女が立っていた。


「うん、時間通りだね。閉店セールにいらっしゃい、お得意様。どうぞ適当な所に腰掛けてくれ。今日はリクエストを聞くことはできないけど、それでも良いかな?」


「……はい、お願いします」

 

 机を挟んで、彼女と向かい合わせになるように腰掛ける。真夏の夜風に髪を揺らしながら、彼女は静かに微笑んで机の上の蓄音機にレコードを乗せる。そしてゆっくりと終止符に針を落とした。

 

 ◇

 

 思い返せば、あの日も暑い夏だった。それでも、蝉の声は今よりずっと多かったような覚えがある。

 喧しいほどの蝉の声は今だって慣れやしない。いや、未来永劫慣れることなんてないんだとも思っている。あの暑く煩い夏は、冷たく動かなくなってしまった弟とは対照的だったから。

 

 私には双子の弟がいた。うん、そう、。弟は幼い頃から持病を抱えていてね、治らない病気という訳ではなく、別段命に関わるようなものではなかったから、当の本人はあっけらかんとしていたのをよく覚えているよ。症状といっても、咳が出る程度で、酷い時はうずくまったりもしていたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 まあ、本格的な治療が始まれば入院しなくてはいけなくなるし、当時付き合っていた恋人に余計な心配をかけたくなかったのだろうということは理解していた。家族が心配する中、気丈に振る舞う弟を見て、思うところはない訳ではなかったが、そんな弟に流されて、私たちもどこかのほほんと暮らしていたのかもしれない。 

 持病のせいもあって、弟は外で活発に遊ぶような人間ではなかったんだ。その代わり絵や音楽の才能に至っては、ずば抜けて高く、正直その才能を羨んだこともあった。ただ、「彼女に贈る曲を書いてるんだ」と言われた時は、生意気な奴だとも思ったこともある。まあ、それ以上に私のことを何かと気にかけてくれるから、憎めない奴でもあったけどね。

 中でも弟はレコードが好きだった。「レトロなものにはロマンがある」だなんて、よく分からない持論を展開していたけど、回るレコードを穴が空くほど見つめたところで未だにその気持ちはさっぱり理解できない。

 

 ただ、そんな日常も崩れ落ちる時は呆気なかった。いつものようにコンビニに行って、双子のアイスを頬張りながら二人で歩いた帰り道。信号が点滅して走る私、振り返って「危なかったね」なんてほざいた私の後ろには弟はいなかった。その代わり、弟は赤い横断歩道機に冷たい視線を浴びせられながら、横断歩道の真ん中で一人うずくまっていたんだ。発作が起きたんだ、それも最悪のタイミングで。

 ――そこからは全てが一瞬の出来事だった。止まりきれなかったトラックの甲高いブレーキ音と、何かがぶつかったような鈍い音が響いて、真っ赤な鮮血が道路に滲んだ。誰かの悲鳴が耳を劈いて、どこか夢だと錯覚していた私を現実へと引き戻した。走り始めた私の手からこぼれ落ちたアイスは地面に落ちて静かに溶けていった。駆け寄っても弟の反応はなく、叫んでもその声は届かない。間もなくその場はサイレンの音で満たされて、泣き喚く私は引き剥がされた。

 あの時、もっと弟のことを見ていれば、彼は死ぬことなんてなかったのに。病気のことを軽視せず、弟の反対を押し切って入院させていれば、もっと生きれたかもしれないのに。今だってその後悔がこの身を焼き続けている。

 

 私のせいで、弟は死んだんだ。

 

 その日からはまるで長い夢を見ているようだった。大切な人がいなくなっても、ただ無情に時が過ぎていった。それでも、時が何かを解決することなんてなかったんだ。そして、私の涙が枯れることも。

 目を真っ赤に腫らしながら、弟の追憶に身を委ねていたある日、私はとあることを思い出すこととなる。

 弟の生前、何度か曲を作らないかと誘われたことがあってね。当時はどう頑張っても弟に勝てる気がしなかったから、わざわざ負け戦を仕掛けるなんて馬鹿な真似はしなかったんだが、それがせめてもの手向けになるのなら――そう思い、生まれたのが、今流れている駄作さ。

 ろくに音楽の勉強もしてこなかった私が書ける精一杯がこの程度だった。どれだけ頑張っても、私にはこれしか作れなかったのさ。弟が好きだった小夜曲にも、彼に捧げる鎮魂歌にもなれない中途半端なこのレコードは彼への手向けになるはずもない。

 もしかしたら私は体の良い建前を掲げて、どこかで弟に許し乞うていたのかもしれない。そんな自分の浅ましい願いが込められた罪滅ぼしレコードに、いつの日か吐き気を覚えるようにもなった。

 改めて凄いと思ったよ、弟の才能が。でも、私の手がその輝かしい未来を奪ってしまったんだ。どれだけ月日が経とうとも、どれだけ季節を重ねても、私は――救われるべき人間ではないんだ。 

 

 ◇


「誰が何と言おうと、私が人殺しであることには変わりない。人と関われば、また誰かを不幸にしてしまう気がして、私は必要最低限の人間とのみ関わることを決めていた。そんな時、君が現れた。参ったよ、『恋多き季節』とは困ったものだね」


「こっ……!?」 


「あはは、私だってそのくらいは分かるさ。でも、ごめんね。私はその気持ちには応えることはできないんだ。それに――」

 

 外では雨がパチンパチンとトタン屋根に当たって弾ける音がしていた。それはまるで僕の心象そのものだった。『当たって砕けろ』なんて言葉があるけれど、本当に砕けたい人はいないだろうに。

 

「それに、今の君を見ていると苦しいんだ。弟によく似ていて」

 

 彼女は雫が滴り落ちる窓ガラスを見つめていた。もしかしたら、彼女の瞳には最初から僕なんか映っていなかったのかもしれない。僕の知らない人間にこの姿を重ね合わせ、過去に想いを馳せていたのかもしれない。そんなことを考えると、この胸が酷く痛んだ。


「大人である私が君を初めから拒んでいれば、私が淡い夢に心を奪われていなければ、そんな甘い幻想を抱かせずに済んだのかもしれないね」


 彼女はそう言いながらレコードを取り外し、ケースにしまう。その音に混じって、雨音が次第に強くなっていくのがこの耳に届いていた。

 先ほどまでにこやかに笑っていたにもかかわらず、少し目を離すと泣き喚き始める赤子のように、夏というのは天気が安定しない。空を赤ん坊に例えるのは聞いたことがないが、泣き始めると手に負えないという意味では同じであろう。

 

「さあ、話はこれで終わりだ。そして、この関係も、だ。どうか私のことはすぐに忘れてくれ。君を良いように利用した悪い大人は、純粋無垢な少年の青春の栞には相応しくない」 


 この胸の煙が漏れ出ぬように、僕は唇を強く噛んでいた。もしかしたら、僕はどこかで悔しさを感じていたのかもしれない。僕が生きたたかが十余年では、彼女にかける言葉を思いつかなかったことが。

 彼女は立ち上がり、コツリコツリと足音を響かせながら、出入口付近の窓に足を運んだ。

 

「雨、かなり降っているね。見たところ君は傘を持っていないようだけど大丈夫かい? ビニール傘なら渡せるけど――」

 

「『君』じゃなくて『アオイ』です。最後くらい、名前で呼んでください」


 僕の中で蠢いた僅かな反抗心が一瞬だけ部屋を無音とさせる。そして、大きく見開いた彼女の瞳が煌めき始め、僕の名を復唱するように彼女の唇がゆっくりと動いた。

 

「そっか。アオイ、アオイくんかあ……」

   

 彼女の顔が少しずつ赤みを帯び始めたと思えば、ぽろぽろと大粒の雫が流れていった。今までそんな素振りを一度も見せなかった彼女の強情さが崩壊し、何かが溢れていく――そんな瞬間だった。  

 そのまま彼女はしゃがみこんで膝を抱える。こちらからその顔は見えなかったが、すんすんという泣き声と震える肩は彼女の情緒を物語っていた。けれど、僕は彼女の背をさすることも、抱き締めることもしなかった。いや、できなかったのだ。きっと、彼女の涙の理由も分からぬ今の僕では何をしても彼女を苦しめてしまうような、そんな気がしていたから。


「……最後にもう一つだけ、お願いがあります」 


 彼女の涙が落ち着いた頃、僕は彼女に声をかけた。

 

「ふふ、欲張りだね、君は。先に言っておくが、『お姉さんの泣き顔を見せてください』なんてお願いは聞けないからね」

 

 未だに顔を伏せたままではあるが、いつもの調子に戻りつつある彼女の様子に安堵しながら、僕はとあるレコードに手を伸ばした。

 

「このレコード、頂いてもいいですか? 前に聴いた時に気に入ってしまって」


「え? あー……うん、いいよ。ここにあるレコードは量産品ばかりだしね。気に入ったのがあるなら持って行くといいさ」 

 

「……はい、ありがとうございます」 

 

 僕はそう言って、小脇に抱えて立ち上がる。だが、依然として彼女は顔を上げる素振りを見せない。

 どうせ捨てられてしまうのなら、自分のものにしてしまいたいという願望があった僕は小賢しくも、そこにつけ込んだのだ。きっと、彼女を救うにはこの選択しかないだろうから。

 

「お姉さんはそのままにしていてください。僕は……勝手に出て行くので」

 

「ありがとう。優しいね、君は」

 

 今までの道のりを思い出すように、彼女への想いを確かめるように、僕は一歩一歩を踏みしめて歩く。この感情が溢れないように、この声が震えぬように、拳を握りしめて歩く。そして僕は、扉の前に立ち、酷く冷たいドアノブを握った。

 

「それでは……」 

 

「うん、それじゃあ――」

 

「さようなら」と最後の挨拶を交わす。その声に背を向けて店から出ると、間もなくして鍵がかかった音がした。

 そしてそのまま雨の中を進もうとすると、すすり泣くような声が扉の奥から聞こえた。後ろめたさもありながら、僕はこっそり耳を扉につける。

 

「あーあ、弟と同じ名前だなんて知りたくなかったなあ……」

 

 彼女の前でその言葉を聴かなくて良かったと思ったのが、一番最初に思いついた感想だった。現に今、僕もどんな顔をしているのか分からない。ただ、なんてことのないありふれた偶然は、彼女にとどめを刺してしまったのではないかと強い後悔の念に駆られていたのは確かだった。

 

 本当に、偶然うんめいとは、残酷なものだ。

  

 僕がもっと大人であれば、この不出来な感情に名前を付けてあげられただろうか。今の彼女に救いの手を差し伸べることができたのだろうか。涙か雨か分からない水滴が僕の頬を伝い、僕は思わず走り出した。

 息をしても、息をしても、ただひたすらに苦しかった。深海に沈んだこの街は、彼女に溺れたあの日々は、僕を溺死させるには十分すぎた。言葉と呼ぶにはあまりに出来の悪いガラクタを外へ吐き出しても、この胸の内のぐちゃぐちゃな感情は消えなかった。そして、彼女への想いも。

 滲んだ街灯がぽつりぽつりと増え始め、通い慣れた道へと戻ってくる。遠くの方ではぽつんと一人、傘をさした誰かがいた。記憶が間違っていなければ、あれは僕の家の前付近だ。少し警戒しながら近づくと、それは見慣れた人物だった。

 

「おかえり。さっさと家に入んな、風邪ひくぞ」 

 

 家の前には立っていたのは姉だった。たかだか数メートルとはいえ、姉は家の外で僕を待っていたらしい。ぶっきらぼうな優しさは、今の僕の心に際限なく染みていくようだった。

 

「……姉ちゃん、俺やりたいことが見つかったよ」


 びしょ濡れの腕でプラスチックのケースをギュッと抱き締める。姉は何か追及することもなく「そう、なら、頑張んな」とだけ呟いて、僕の頭にタオルをかけたのだった。

   

 ◆◆◆ 

 

「では、私から最後のご質問です! お二人は脚本家と作曲家であり、ご姉弟でもあるとのことで、このような場でのご共演されたこと、そして今のお気持ちをお聞かせください!」

 

「はい、このような素敵な舞台でお仕事をさせていただけて大変光栄です。弟ともども、まだ未熟ではありますが、皆さんに満足していただけるような作品をこれからも創っていきたいと思いますので、ご期待いただけると幸いです」

 

「くぅ〜! ありがとうございます! 私もファンの一人としてこれからも応援しております!」

 

 事務所の一室にて、フラッシュの海に飲まれながら、相も変わらず外面が良い姉に呆れ半分感心半分で見ていると、インタビュアーの矛先がこちらに向いた。

 

「この舞台がきっかけで、レコードブームが再熱しておりますが、レコードと出会ったきっかけなどがございましたらお聞かせください!」

 

「あっ……えっと、あの……」

 

 僕が返答にまごついていると、姉が僕の脇腹を小突く。「いい加減慣れなさい」と言わんばかりの瞳で姉は僕を睨んでいた。

 確かに、これまで何人かのインタビューを受けてきたが、それでも慣れないのだからしょうがないじゃないかという目で僕は姉を見返す。

 

「ふふふ、なんだか懐かしいですね。先生に初めてインタビューした時を思い出します」

 

「え、アタ……じゃなくて、私こんな頼りない感じでした……?」

 

「それはもう、ガチガチに緊張されてましたよ?」


「いやいやいや、絶対弟よりはまだマシでしたって!」


 姉が詰められている横で僕は一人、あの人のことを思い出していた。微かに感じた香水の甘い匂いを、ついぞ触れることのなかったあの白肌を、風鈴のような心地の良いあの声を、僕は反芻するように思い出していたのだ。

 

「憧れの人がいたんです。”恩師”とでも言えばいいでしょうか。その人がいなければ、僕は今この道にいなかったと思います」

 

 その瞬間、インタビュアーの目がキラリと輝く。たった今、僕が垂涎の的となったことは手に取るように分かった。

 

「その話、詳しくお聞かせいただいても――」

 

 その瞬間、横に立っていたマネージャーの付けていた腕時計がけたたましい鳴き声をあげた。

 

「あー……延長戦といきたいところですが、約束の時間になってしまったので今回はこの辺で終了いたします。お二人ともご多忙の身ですし、その先は次回の楽しみにさせていただきますね!」

 

「はい、その時はまたお願いします」

 

 僕らは立ち上がって一礼し、部屋から退場する。曇りガラスのドア越しにぞろぞろと帰り始める記者たちを見送った後、僕らは大きく伸びをした。ようやくカレンダーに隙間なく組まれた最後インタビューが終わり、姉とほっと一息つく。

 

「……さっきの、あれで良かったの? アンタの”恩師”の目にも留まるかもしれないのに」

 

 僕は静かにこくりと頷いた。きっと多くを語るべきものではないし、あの思い出を独占したいという浅ましい感情もあったのだ。

  

「そ、なら兎や角言わないわよ。んで、今日この後どうする? 今日はアンタの祝賀会みたいなもんだから、このお姉様が何でも奢ってあげる」 


「……なら、あそこのアイスコーヒーが飲みたい、かな」 

 

「あそこのって……ああ、実家近く喫茶店の? 折角”何でも”って言ってるのにアンタも欲が無いわね。まあ、良いわ。あ、言っとくけど、もう撤回はできないからね? そしたら、アタシはマネージャーに用事があるから、先に向かってて」

 

 姉と一時別れ、事務所を後にする。自動ドアが開くと外からの熱風と室内の冷気が混ざり合ったなんとも言えない気持ち悪さがこの身を包み、今が夏であることを否が応でも自覚させた。目が眩むような陽射しの中、行き交う人を横目で見ながら、僕は駅へと歩き出す。

 もうあれから何年も経っているはずなのに、未だに更新されることのない彼女の輪郭をなぞるようにして、僕は見ず知らずの誰かの姿に後ろ髪を引かれる。淡い期待を胸に振り返っても、そこにいるのは過去に囚われた愚かな自分しかいないというのに。

 未完成で中途半端な想いを綴った円盤はいつものように回り続け、歪な音を奏でるレコードは今日も貴女のために歌い続ける。途切れてもなお、追憶に心奪われながら歌い続けるのだ。


 終わりが来ることを願った――報われることのない僕の、偽りの小夜曲を。

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