詩歌賤家に人の糞

十余一

一、店賃が済んだか路地の叩きよう

 江戸の町に溢れていたものを俗に“伊勢屋いせや稲荷いなりに犬の糞”と申します。伊勢国から続々とやってきて商いに勤しんだケチんぼ達、開運を招くありがたいお稲荷さま、そして野犬の落とし物。

 そうした町の七割にお武家様が居を構え、残りのたった三割に町人がひしめき合っておりました。通りに面した立派な表店おもてだなに住み、商売をするのは比較的豊かな層。それ以外の大半は、表店の裏手にある狭苦しい長屋で暮らしを営んでいたのです。

 九尺二間にけんに土間と簡素な台所、そして板敷きの四畳半一間ひとま。便所は共用、風呂は無し。家財道具もろくに無い。あるのは人情と与太話くらいでしょうか。



「いやぁ、それにしても良い負けっぷりだったねぇ、与太郎よたろう

「にまにまとムカつくつらしやがって……。清八せいはちィ! お前が絶対に勝てるっていうから賭けたんだぞ!」

 満月が照らす表通りを二人の青年が歩いておりました。つい先ほどまで賭け事に興じていたのでしょう。懐が軽くなり足取りも軽く……とはいかないようで、夜も更けた往来でじゃれ合うように言い争っているのです。ひょろりとした長身に清々しい笑顔をくっつけている清八とは対照的に、隣を歩く与太郎は見下ろされながらのしかめ面。

「いいかい、与太郎。博打ばくちで絶対に勝つ方法は、勝つまで続けることだ。いつかは勝てる!」

「その前に銭が無くなるわ! もうお前の博打には付き合わないからな! 二度と焚きつけるんじゃねえぞ」

「つれない事を言うなよ。負けが込めば込むほどに、勝ったときのよろこびも一入ひとしおなんだ」

「勝てればな、勝てれば。お前も今日は早々に文無しになって、あとはもう隣で煽り散らかしてただけじゃねえか」

 自身の負け博打に対する妙な照れがあるのか、「てへへ」と言わんばかりの笑みを浮かべる清八。その爽やかでわざとらしい笑顔が乗っかっている胴に、与太郎は肘鉄でも食らわせてやらねば気が済まないのです。が、ひらりと避けられ、あとはもう駆け回る犬のような戯れ。

 そうこうしているうちに長屋のある通りまでやってまいりました。

 長屋へ続く小道には路地ろじ木戸きどという戸が設けてありまして、防犯のために暮れ六つ18時くらい頃には閉め、翌明け六つ6時くらいに開けるのです。大抵の場合、開閉は大家の役目でありました。

 さて、時刻は夜四つ22時くらいになろうかという頃。とうの昔に木戸は閉じております。こうなると内側から誰かに開けてもらわねばなりません。しかし清八が木戸を叩こうとすると――。

「待て待て待て!」

 与太郎が大慌てで止めるのです。

「まぁ待て。聞け。俺ァまだ……、店賃たなちんを払ってねえんだ」

「奇遇だね、俺もだ」

 神妙な顔つきで話す与太郎に、あっけらかんと返す清八。

 店賃というのは、今でいう家賃のこと。広さや間取り、築年数、立地等にもよりますが、四畳半なら三百文9750円から五百文16,250円ほどでしょうか。博打で擦らなければ充分に支払える額でありましょう。

「店賃も払ってねえのに堂々と戸を叩くやつがあるか。大家が化けて出るぞ」

「大家さんはピンピンしてるよ。しかし木戸を開けてもらわないことには部屋に帰れないじゃあないか」

重兵衛じゅうべえでも徳松とくまつさんでも誰でも、起こして連れてくりゃいいんだよ」

「どうやって」

「そりゃあ、アレだよ……、何かこう、アレ……待て待て待て木戸を叩こうとするな」

 再びの制止を振り切って尚も戸を叩こうとする清八は、「俺に妙案がある」と、したり顔で言うのです。

「まずは堂々と木戸を叩いて大家さんを呼び出す。そして与太郎が叱られている隙に、俺が無事に部屋に辿り着く。よし、これで行こう」

「嫌に決まってんだろ!」

「お前の犠牲を無駄にはしないよ。南無阿弥陀仏!」

「やめろ弔うな!」

「行ってきなよ極楽へ!」

「地獄だろが!」

「それじゃあ六文銭を供えてあげるよ! だから安心して逝ってくれ!」

「六文どころか一文無しじゃねえか、この博打狂い! 素寒貧すかんぴん!」

「素寒貧はそっちもだろう!」

「うるせぇ! お前が賭場になんか誘わなきゃなァ、あの銭は酒に化けてたんだよ!」

「どっちにしろ消えてたじゃあないか!」

 言い争いから押し合い引き合い、そして取っ組み合いの喧嘩が始まろうかという頃、二人の目の前でガタタ……と木戸が開きました。そして提灯の薄明かりに照らされた老婆の顔がぬぅっと現れたのです。

「ゲッ! 出やがったな大家!」

「人を妖怪みたいに言うんじゃあないよ! 出やがったも何も、あたしの部屋は木戸のすぐ傍なのを忘れたのかい。こうして夜更けに帰って来る阿呆あほう共を出迎えるためにね!」

 大家の登場に先程の喧々けんけん諤々がくがくはどこへやら。変わり身の早い清八と与太郎はさっさと木戸を通り、早々にこの場を後にしようとするのです。

「夜分遅くにどうもすみませんねぇ。それでは、おやすみなさい」

「そうだそうだ、大家も糞して寝ろ!」

 が、それを大家が許すはずもなく。

「待ちな。賭け事を楽しむたぁ、随分と懐に余裕があるようだね。滞ってる店賃四百文13,000円、忘れたとは言わせないよ」

 引き止められたところで無い袖は振れませんから、あとはもう開き直ってふんぞり返るしかありません。仁王立ちになった与太郎はフンと鼻を鳴らしてのたまいました。

「聞いてたんなら話は早い。こちとら素寒貧すかんぴんだ!」

「胸張って言うんじゃあないよ!」

「まぁまぁ、二人とも落ち着いて」

「お前は何で他人事みたいに仲裁してんだ」

「清八、あんたも滞納してんだから大人しく払いな」

 ずずいと言い寄る与太郎と大家に、清八は慌てる様子もなく真っ直ぐに夜空を指差すのです。

「それよりも、ほら、今夜はお月さんが綺麗だよ」

 なるほど見上げた先には満月が煌々と輝いておりました。しかし与太郎と大家が視線を地上に戻すと、清八の姿はどこにもありません。向かい合って建つ長屋と五尺1.5mばかりの狭い路地が静かに佇んでいるのです。

 そこに清八がピシャリと自室の戸を閉める音だけが響いたのでした。



 店賃たなちんが済んだか路地ろじの叩きよう

 (家賃を払っているかどうかで路地木戸の叩き方も変わる)


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