六、朝帰りそりゃ始まると両隣

 “火事と喧嘩は江戸の華”と申します。火事の多い江戸において、火消しの活躍は華々しいものでありました。そして気の短い江戸っ子が巻き起こす派手な喧嘩もまた、華と称されたのです。「横丁へ喧嘩の声の殴りこみ」なんていう川柳もございまして、路上で始まった喧嘩がやがて横丁を曲がり、威勢の良い声が遠のいていく情景が浮かびますでしょうか。

 しかし、なにも喧嘩は往来だけで起こるものではありません。四畳半に住む家族、二人ないしは三人四人。ずっと顔を突き合わせていれば互いに言いたいことが募り、爆発してしまうこともありましょう。そんなものは犬も食わないわけですが。



 ――おおーい、旦那さまが帰ってきたぞぉ!

 朝日が顔を覗かせる頃、隣室からと思われる大声が与太郎の耳に飛び込んできました。明け方まで酒でも飲んでいたのか、これ以上ないくらい上機嫌な様子で喋る男の声。与太郎はその声に聞き覚えがありました。そうして眠気の残る目をショボショボさせながら、「あー……、こりゃ始まるな」と諦めて布団から身を起こすのです。

 ――こんな時間まで、いったいどこで何してたんだい!

 次いで響いてきたのは、まるで空を切り裂く雷のような怒声。またしてもよく聞き覚えのある声に、与太郎は溜息をつくほかないのです。しかし、始まってしまったのなら仕方がない。開き直って見物でもすることにいたしました。


 開け放った戸を閉める間もなく言い争いが始まったのでしょう。与太郎が戸口から部屋を覗き込むと、利介とお多喜が派手に夫婦喧嘩を繰り広げておりました。

「どこで何してたって俺の勝手だろうが!」

「勝手にしてもいいけどね、あたしにも人様にも迷惑かけるんじゃあないよ!」

 朝っぱらから騒がしい二人に呆れつつも、与太郎は「それいけ、やれいけ」と適当にヤジを飛ばし始めるのです。もしもこの場に清八が居合わせたら、どちらが勝つか賭け事でも始めそうだなんて呑気に考えながら。

「先日なんて厠の戸までぶっ壊してたじゃあないか。いい歳した大人が恥ずかしくないのかい!?」

「そ、それは与太郎もだろうが!」

「今はアンタの話をしてんだよ!」

 与太郎にとっては、どちらが勝とうが正直どうでもいい。特別どちらかの肩を持つ気もないのです。が、突然巻き込まれそうになったことには少しばかりムッとして、何か意趣返しをせねばと、下卑た笑みを浮かべてお多喜の味方をすることにいたしました。

「お多喜、お多喜。利介の野郎、こないだ居酒屋の娘を熱心に口説いてたぜ。高そうなかんざしまで贈ってな。あと賭場で壺振り師の女に首ったけだった、ってのは清八談だ。調子づいて借金こさえそうになったんだとか」

「テメェ、与太郎! 覚えてろよ……!」

 ザマァねえなとせせら笑う与太郎、胸倉を掴まれながら恨み言を漏らす利介、そして怒り心頭のお多喜。

 与太郎の後ろには、いつの間にか重兵衛もやってきておりました。しかし熊のような見た目に似合わず、ただオロオロと戸惑っているだけなのです。妻であるお慶の姿が見当たらないところをみるに、そちらは大家でも呼びに行っているのでしょう。

「あんたって奴は本当にどうしようもないね! 酒、女、博打。頭の隅の隅まで煩悩まみれのアンポンタンが!」

「俺が稼いだ銭だ! どう使ったっていいだろうが!」

「ああ? じゃあ、あんたはこの家を出てくのかい。あたしが針仕事して店賃たなちん払ってんだもんねェ?」

 今も昔も夫妻の仲は様々でしょう。まわりが羨むような仲睦まじいあら世帯ぜたい、年季の入った亭主関白、据わりが良いカカア天下。嫉妬をこじらせて不貞寝する妻もいれば、結婚を機に遊里通いをやめる夫もいるし、喧嘩の末に雨降って地固まる夫妻もいるのです。しかし夫に愛想を尽かした妻が「実家に帰らせていただきます」と出て行ってしまうこともありましょうか。けれども帰る宛てのない妻は、井戸端にきっちりと履物を揃えて身投げしてしまうこともあったとか、なかったとか。

 さて、喧嘩の火花は尚もバチバチと、怖いくらいに散っているわけですが。お多喜が優勢かというところで、利介が心にもないことを口走ってしまうのです。

「帰る里もないくせに!」

 しまった、と思っても後の祭り。わなわなと震えるお多喜はついに拳を振り上げ、これにはさすがに利介もビクッと身を縮こませました。

 そこに、やっと大家が到着いたしました。その後には心配顔のお慶も居ります。

「いけないよ、お多喜。それは駄目だ」

 と、大家に止められ、お多喜は思いとどまったかと思いきや――。

 ゴーン!

 思い切り頭突きをくらわせました。その音が、まるで除夜の鐘のように響き渡ったのです。あまりの衝撃にどしゃりと崩れ落ちる利介。さすがのお多喜もよろけて数歩たたらを踏みました。しかし白目をむく利介に向かって威勢よく吐き捨てるのです。

「こ、これで煩悩の一つも消えただろうさ!」

 夫婦喧嘩はこれにて終いでございます。

 大家は手当てをしてやりながら、二人の仲を取り持つことにいたしました。対して与太郎は部屋に帰って二度目を決めこんだのでございます。



 朝帰りそりゃ始まると両隣

 (朝帰りは夫婦喧嘩開始の合図、隣人にとっては迷惑な目覚まし)

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詩歌賤家に人の糞 十余一 @0hm1t0y01

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