四、雪隠へ行けば両方咳払い
当然、長屋にも厠はありました。が、もちろん共用です。屋外に二つか三つ、個室が連なっていたのです。家の中に設置するというのは、ある程度裕福でないと出来ないことでした。
水洗ではなく汲み取り式で、排泄物は良質な肥料になるので近在の農家に売り払います。他に現代との大きな違いといえば、個室の扉が下半分しかないということでしょうか。用を足している人の頭が見えてしまう大胆な作りだったのです。
――まだか、まだか、まだか……!
与太郎は、人生最大ともいえる危機に瀕しておりました。ぎゅるると鳴り、限界を訴えてくる己の腹。しかし、目の前にある厠の扉は、片や固く閉ざされ、片や木っ端みじんに壊れているのです。
昨晩、いつもの事といえばいつもの事ですが、与太郎は大いに酔っぱらって帰宅いたしました。そして同じく出来上がっていた隣室の利介と、何故か長屋の狭い敷地で相撲をとり始める始末。酩酊の解放感により、傍から見れば滑稽ともいえる言動をしてしまうのは、酔っ払いの
壊れた扉は、大家が修理の手配をしたので今日中には直りましょう。ですが危機は目前、否、門前に迫っており、与太郎は残る一つの個室に希望を託すほかないのです。しかし待てど暮らせど先に厠へ入った人物は出てまいりません。
しびれを切らした与太郎が、
「ンッン!」
と、咳払いすると、やや間を置いて返事がきました。
「……ンッン」
我未だ用便を終えず……とでも言いたげな渋い咳払いに、与太郎はただ待つほかないのです。まさか厠で相席するわけにもいかないでしょう。
幸いにも腹痛は収まり小康状態。そうして若干の暇を持て余した与太郎は下駄の歯で地面をトントンと突いてみたり、腹を
ところで、当時の
さて、長屋の厠では相変わらずの膠着状態が続いております。開かずの扉と、扉が開くのを待ち望む青年。きっと扉の向こうでは己の腹との熾烈な戦いが繰り広げられているのでしょう。しかし、それは与太郎とて同じこと。再び、腹痛の波が襲い掛かるのです。
苛立ちと焦りと募らせた与太郎が、急かすように、
「ンンッン!!」
と、咳払いをすると、またしても、やや間を置いて返事がきました。
「……ンッン」
先ほどと全く同じ淡々とした咳払いに、やはり与太郎はただ待つほかないのです。
諦めきれずにダメ押しの咳払いをしても――。
「ンンッンン!!」
「……ンッン」
無慈悲なるかな堂々巡りの状況は変わらないのです。
――もう、咳払いなどしている場合ではない……!
そろそろ本当に限界を迎えそうな与太郎は、いっそ殴り込んでやろうかとも思うのです。一歩踏み出すと、薄くなった髪をかろうじて結った細い
そうして思案を巡らせつつもジッとしていられない与太郎は、グッと尻に力を入れたまま、裸の足を突っ込んだ下駄でヨタヨタ、モジモジと足踏みをするのです。
偶然、そこに清八が通りかかりました。そうして、あわれにも扉を隔てた戦いの火の粉が降りかかるのでした。
「やあ、与太郎。そんな千鳥足で、まだ昨晩の酒が抜けてないのかい」
「とっくに抜けてるわ! お前の足に糞をぶちまけてやろうかァ!」
雪隠へ行けば両方咳払い
(厠の扉を一枚隔ててノック代わりの咳払い合戦)
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