三、井戸端へ人の噂を汲みに行き

 長屋の部屋に入るとまず土間があり、かまど、流し台、水瓶などが置いてありました。つまりは一畳半ほどのささやかな台所です。しかし、もちろん現代のように蛇口を捻れば水が出てくるというものでもありません。外の井戸から水を汲んで来て水瓶に貯めておき、それを使うのです。

 もっとも水は重くて運ぶのが大変ですから、基本的に料理の下拵えや洗い物は井戸端でやっていたようです。そうして井戸端は、長屋に住む女性達の情報交換の場になったのでした。



「おフミちゃん! 徳松さんとこで何だか美味しいものをご馳走になったんだって?」

 おフミが井戸端へやってくると、既に数人の女性が水仕事をしておりました。その中で一等快活そうな女性が声をかけてきたのです。名をお多喜たきと申しまして、齢は三十ほどでありました。

 対しておフミは、まだ幼さの残る顔に笑顔を咲かせて答えます。

「そうなんですよぉ! 植木屋さんで特別に譲ってもらったとかで、珍しい赤い果実をいただきましたぁ」

 好奇心に満ち溢れた女性たちの前で、おフミは舶来の植物の珍しさや唐柿飯がどれほど美味であったかを語るのです。が、楽しそうに聞いていたはずのお多喜が、不意に溜息を漏らしました。

「はぁ。あたしも旦那の帰りなんか待たずに、お呼ばれしちゃえばよかったかしら」

利介りすけさん、……またなの?」

 隣で茶碗を洗っていたおけいが心配そうに尋ねると、お多喜は呆れやら怒りやらがい交ぜになった言葉を一気に吐き出すのです。

「またなのよ! 何処どこほっつき歩いてたんだか知らないけど、酒でベロンベロンになって帰ってきて、結局そのまま飯も食わずに寝ちまったよ! ふぅ……、お慶ちゃんとこは良いわねぇ。重兵衛じゅうべえさんは酒も博打も夜遊びもしないんでしょう」

 そう言われたお慶は、夫である重兵衛に思いを馳せてみました。豪快な見た目に似合わず、「お慶ちゃん、お慶ちゃん」と呼び慕う朗らかな笑顔。少々の頼りなさはあるものの真面目に勤め、夜遊びはせず、趣味の一つもなく、何よりも妻を大切に思っている。それが嬉しくもあり、しかし、よくよく考えてみると不安の種のようにも思えてくるのです。

「でも、夫婦でベッタリというのも考え物だと思うの。わたしに何かあったら、あの人どうなっちゃうのかしら」

「まだ若いんだからそんなこと言わないの!」

 お多喜に肘で小突かれても不安は止まらぬようで、お慶は滔々とうとうと続けるのでした。

「徳松さんみたいに、何か打ちこめるものがあると良いと思うのだけれど……。ああ、でも重兵衛さんは不器用だから――」

「でも、そんなところも好きなんでしょう?」

「そうなのよ。子熊みたいな図体で細々こまごまとした作業に四苦八苦してる姿が可愛いの……って、言わせないでちょうだい!」

 と、今度はお慶がお多喜を肘で小突く番。

 その後も井戸端会議は踊るのですが、最近米が値上がりしたというお金の話題になったとき、おフミが、「あっ」と思い出して徳松に聞いた話の続きを喋り出すのです。

「徳松さんが贔屓にしてる植木屋さんで、珍しい万年青 おもと が育ったらしいんですよぉ。それに付く値段が百両1000万とも二百両2000万とも言われてて」

 金額を聞いた途端、おフミの周りでは感嘆の溜息やら驚きの声やらがワァッと吹き上がりました。

 万年青という植物の歴史は古く、室町時代頃から観葉植物として栽培されておりました。それが江戸時代になると武家や大商人、長屋の職人に至るまで身分の隔てなく大流行したのです。趣味として葉を愛でるだけでなく、品種改良をして一攫千金を狙うこともありました。奇種には一芽百両という異常な高値がつくこともあったのです。

 さて、夢のある話に井戸端が湧くなかで、お多喜もまた、一つのことを思い出しておりました。

「そういえば、大家さんも万年青の鉢を持ってたね」

 その場にいる者たちは、大家の持つ鉢を思い起こしました。青と白がおりなす模様が美しい瑠璃るり鉢に、黒々とした石が敷き詰められ、そこからつややかな葉がすらりと伸びているのです。小ぶりながらもよく手入れされたそれは、いつ頃からか大家の手元にありました。

 普段から特別に植物を好んでいる様子は無いし、たった一鉢では珍しい品種を作ることもできない。それなら、あの万年青は、大家にとって何か思い入れのある品なのか……。

 そこで白羽の矢が立ったのは、大家と同年代のお竹でありました。

「ねぇ、お竹さん。お竹さんなら何か知っているんじゃない?」

 井戸端会議に時おり相づちを打ちつつも淡々と釜を洗っていた寡黙かもくな老女は、少しばかり悩む素振りを見せてから口を開きました。

「どうだったかねぇ。この年になると物忘れが酷くてねぇ」

 などと、あからさまにはぐらかすものですから、それを聞いた女性たちは余計に興味が湧いてしまうのです。

「大家さんって自分のこと、あまり語りたがらないのよね。あたしたちには凄く世話を焼いてくれるのに」

「わたしと重兵衛さんの仲人になってくれたし、お多喜さんと利介さんの夫婦喧嘩も止めてくれるし」

「わたしなんてこの世にオギャアと産まれた瞬間からお世話になりっぱなしですよぉ」

「与太郎や清八のことだって、何やかんや言うけど追い出したりしないし」

「そういえば、あの二人また店賃を滞納したとか。ほら、夜中に騒いでいたじゃない」

「ええ、あれってそういうことだったんですかぁ」


 さて、こうして噂話に花が咲いていくわけですが、井戸を使うのは女性たちばかりではありません。独り身ならば、当然男性も自分で水仕事をしなければならないでしょう。

 なんとなく気まずいやら尻の座りが悪いやらで、物陰から様子を伺っていた与太郎は一つ溜息をつきました。自分のことが話題に上がり、ますます井戸端へ行きづらくなってしまったのです。

「そろそろ水を汲ませてくれねえかなァ……」



 井戸端へ人の噂を汲みに行き

 (水仕事のついでに井戸端会議しがち)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る