三、井戸端へ人の噂を汲みに行き
長屋の部屋に入るとまず土間があり、
もっとも水は重くて運ぶのが大変ですから、基本的に料理の下拵えや洗い物は井戸端でやっていたようです。そうして井戸端は、長屋に住む女性達の情報交換の場になったのでした。
「おフミちゃん! 徳松さんとこで何だか美味しいものをご馳走になったんだって?」
おフミが井戸端へやってくると、既に数人の女性が水仕事をしておりました。その中で一等快活そうな女性が声をかけてきたのです。名をお
対しておフミは、まだ幼さの残る顔に笑顔を咲かせて答えます。
「そうなんですよぉ! 植木屋さんで特別に譲ってもらったとかで、珍しい赤い果実をいただきましたぁ」
好奇心に満ち溢れた女性たちの前で、おフミは舶来の植物の珍しさや唐柿飯がどれほど美味であったかを語るのです。が、楽しそうに聞いていたはずのお多喜が、不意に溜息を漏らしました。
「はぁ。あたしも旦那の帰りなんか待たずに、お呼ばれしちゃえばよかったかしら」
「
隣で茶碗を洗っていたお
「またなのよ!
そう言われたお慶は、夫である重兵衛に思いを馳せてみました。豪快な見た目に似合わず、「お慶ちゃん、お慶ちゃん」と呼び慕う朗らかな笑顔。少々の頼りなさはあるものの真面目に勤め、夜遊びはせず、趣味の一つもなく、何よりも妻を大切に思っている。それが嬉しくもあり、しかし、よくよく考えてみると不安の種のようにも思えてくるのです。
「でも、夫婦でベッタリというのも考え物だと思うの。わたしに何かあったら、あの人どうなっちゃうのかしら」
「まだ若いんだからそんなこと言わないの!」
お多喜に肘で小突かれても不安は止まらぬようで、お慶は
「徳松さんみたいに、何か打ちこめるものがあると良いと思うのだけれど……。ああ、でも重兵衛さんは不器用だから――」
「でも、そんなところも好きなんでしょう?」
「そうなのよ。子熊みたいな図体で
と、今度はお慶がお多喜を肘で小突く番。
その後も井戸端会議は踊るのですが、最近米が値上がりしたというお金の話題になったとき、おフミが、「あっ」と思い出して徳松に聞いた話の続きを喋り出すのです。
「徳松さんが贔屓にしてる植木屋さんで、珍しい
金額を聞いた途端、おフミの周りでは感嘆の溜息やら驚きの声やらがワァッと吹き上がりました。
万年青という植物の歴史は古く、室町時代頃から観葉植物として栽培されておりました。それが江戸時代になると武家や大商人、長屋の職人に至るまで身分の隔てなく大流行したのです。趣味として葉を愛でるだけでなく、品種改良をして一攫千金を狙うこともありました。奇種には一芽百両という異常な高値がつくこともあったのです。
さて、夢のある話に井戸端が湧くなかで、お多喜もまた、一つのことを思い出しておりました。
「そういえば、大家さんも万年青の鉢を持ってたね」
その場にいる者たちは、大家の持つ鉢を思い起こしました。青と白がおりなす模様が美しい
普段から特別に植物を好んでいる様子は無いし、たった一鉢では珍しい品種を作ることもできない。それなら、あの万年青は、大家にとって何か思い入れのある品なのか……。
そこで白羽の矢が立ったのは、大家と同年代のお竹でありました。
「ねぇ、お竹さん。お竹さんなら何か知っているんじゃない?」
井戸端会議に時おり相づちを打ちつつも淡々と釜を洗っていた
「どうだったかねぇ。この年になると物忘れが酷くてねぇ」
などと、あからさまにはぐらかすものですから、それを聞いた女性たちは余計に興味が湧いてしまうのです。
「大家さんって自分のこと、あまり語りたがらないのよね。あたしたちには凄く世話を焼いてくれるのに」
「わたしと重兵衛さんの仲人になってくれたし、お多喜さんと利介さんの夫婦喧嘩も止めてくれるし」
「わたしなんてこの世にオギャアと産まれた瞬間からお世話になりっぱなしですよぉ」
「与太郎や清八のことだって、何やかんや言うけど追い出したりしないし」
「そういえば、あの二人また店賃を滞納したとか。ほら、夜中に騒いでいたじゃない」
「ええ、あれってそういうことだったんですかぁ」
さて、こうして噂話に花が咲いていくわけですが、井戸を使うのは女性たちばかりではありません。独り身ならば、当然男性も自分で水仕事をしなければならないでしょう。
なんとなく気まずいやら尻の座りが悪いやらで、物陰から様子を伺っていた与太郎は一つ溜息をつきました。自分のことが話題に上がり、ますます井戸端へ行きづらくなってしまったのです。
「そろそろ水を汲ませてくれねえかなァ……」
井戸端へ人の噂を汲みに行き
(水仕事のついでに井戸端会議しがち)
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