二、椀と箸持って来やれと壁をぶち

 長屋にも色々と種類がありまして、広さや間取りは様々でした。押入れ付きの少しばかり広い部屋、入口の反対側に障子戸があり庭へ出られる部屋、二階建てで露台ベランダが付いている部屋などなど。

 ですが棟割むねわり長屋の四畳半ともなると、そうもいきません。ただでさえ狭い部屋が並ぶ長屋を、更に棟の前後で仕切っているので、入口以外の三方を壁に囲まれています。そのうえ安普請やすぶしんですから、壁は薄い。互いの生活は筒抜けだったことでしょう。

 私生活の無さを嘆くか、あけっぴろげな生活を楽しむか。どうも江戸っ子は後者だったようです。



 ――与太郎よたろう! 与太郎! 椀と箸を持って来な!

 ドンドンドンと壁を叩く音と共に、部屋の主を呼ぶ声がしてまいりました。寝転がっていた与太郎は待ってましたと言わんばかりに起き上がり、嬉々として出かけていくのです。

 薄い壁一枚で仕切られた長屋では、下手くそな端唄はうたやら駄々をこねる子どもの声やら、何から何まで丸聞こえだったことでしょう。時には昼間から賑やかな新婚夫婦へ向けて壁をつこともあったとか、なかったとか。しかしそこは人情味に溢れた長屋の住人たち。筒抜けならばいっその事と、お隣さんを誘うときにも構わず壁を打つ。飯でも食わないかと気楽に声を掛け、椀と箸を持って気軽にお呼ばれをするということも、そう珍しくはなかったようです。

 さて、どうせならと清八せいはちにも声を掛けた与太郎。二人揃って隣人の徳松へ会いに行く途中、同じ長屋に住む吉平きっぺいという少年に出会いました。年の頃は四つか五つでしょうか。

「こんなとこで何やってんだ、吉坊」

 しゃがみ込んで視線を合わせた青年二人に、吉平はたった今起きた出来事を話すのです。

「なにかうまいものが食べたくて、おトナリのおたけさんちに行ったんだ。そしたら『うちでもイワシだよ』って」

「ははぁ、それで反対側のお隣、徳松とくまつさんとこにも行ってみようってか」

「うん。でも、やっぱりこわいからやめた」

 その言葉を聞いて、清八と与太郎は過去に振舞われた料理の数々を思い出すのです。香ばしい芝海老のから炒り、ピリッと辛いきんぴらごぼう、じんわりと沁みる昆布と油揚げの煮物、江戸の定番八杯豆腐。そして、美味しかったそれらとは一線を画す、珍しい舶来はくらいの食材。

「徳松さんは珍しいものにも目がないからねぇ……。和蘭オランダからきたらしい、雉隠しに似た緑の茎は、何というか独特で……」

「林食ってるみたいだったな」

花椰菜はなやさいとかいうのは、白くて、モリャモリャとした何ともいえない食感で……」

「森食ってるみたいだったな」

「まぁ……、俺は博打みたいで楽しいと思っているけれどね。当たりは食道楽、外れは悪食」

 奇妙奇天烈な野菜を思い出し微妙な顔する与太郎と、微妙な顔をしつつもどこか楽しげな清八。その二人に「うまいものが出たらおいらも呼んでおくれよ」と言い残し、吉平は焼き鰯の待つ我が家へ帰っていったのでした。

 ちなみに、和蘭オランダ雉隠しキジカクシはアスパラガスのこと、花椰菜はなやさいはカリフラワーのこと。どちらも江戸時代に伝来し、国内で栽培していた記録なども残っております。もっとも、食用として広く普及はしなかったようですが。

 果たして食道楽が出るか、悪食が出るか。徳松の元へ向かう二人の運命や如何に。


「おお、来たね。与太郎、清八。一人呼べばもう一人もくっついて来るから手間いらずだ」

 快く出迎えた徳松の目尻には、何とも優しそうな皴が刻まれておりました。そうして期待半分不安半分で椀を持つ与太郎たちの前に、一つの鉢を出すのです。

 鉢に植えられたその植物は見慣れぬ姿をしておりました。ギザギザとした深い切れ込みのある葉が茂り、その緑とは対照的な、真っ赤に染まる実がなっているのです。あまりにも毒々しい赤色に、与太郎たちは「今回は悪食のほうだったか……」と内心覚悟を決めたのでした。

「これはね、唐柿トウガキ。馴染みの植木屋から特別に譲ってもらったんだ」

 嬉しそうに語る徳松を前に、与太郎は訝しげに引き、清八は前のめりになって物珍しそうに「柿、ということは甘いんですか」と聞くのでした。そして「まずは一つ食べてみな」と言われるがまま、二人はプチリともいだ果実を口に放り込んでみます。実が口の中で弾けると――。

「オエッ! すっぺぇ!」

「これは何とも……、酸味が強くて……うっ」

 真っ赤な果実の正体は、現代の食卓ではお馴染みのトマト。十七世紀頃には伝来し、唐ナスビや唐ガキと呼ばれておりました。当時のものは今よりもずっと酸味が強く、毒々しい見た目もあってか、食用ではなく観賞用として珍重されていたようです。

 さて、薄皮をペッと吐き出し文句の一つでも垂れようかと思った与太郎を、徳松が片手で制します。そして小ぢんまりとした台所へ行くと、おもむろに調理を始めるのでした。慣れた手つきで赤い実を湯剥きし、米や魚、調味料などを次々と用意していくのです。

「米と鰹だし、みりん、醤油。そこに皮を剥いた唐柿、占地茸しめじたけ、鯵のほぐし身を乗せて炊く」

「今から炊くのか!?」

「炊きあがったものが此処にある!」

「さすが徳松さんだ!」

「最後に黒胡椒と青じそを散らして完成だ。さあ、お上がりよ!」

 あっという間に出来上がった、否、出来上がっていた料理を前に、やはり期待と不安が半々な二人。しかし一口食べるやいなや、「こりゃあ絶品だ!」「いよっ! 天下の料理人!」と囃し立てるのです。

 加熱したことで酸味が抑えられ、甘味と旨味が増したトマト。旬の鯵はふっくらと脂が乗り、占地茸の歯ごたえが食感に強弱を生む。それらが甘めに炊かれた米と合わさり、滋味溢れる味わいを醸し出しているのです。そしてピリリと刺激のある黒胡椒と爽やかな青じそが全て引きたてました。これには舌鼓を打たずにはいられないでしょう。

 調理した当の徳松もこれには大満足でした。美味しそうに頬張る二人を見ながら、自身も至高の唐柿飯を味わうのです。

 ふと、清八が箸を置きました。

「今回の博打は当たりだったね」

「えっ、博打?」

 そして口元に米粒をつけた与太郎が、清八に同意するのです。

「そうだなァ。当たりも当たり、大当たりだ。さて、吉坊も呼んでやるか」

「ねぇ、博打って言った?」

「双六なら上がり、富籤とみくじなら突留つきどめだねぇ。せっかくだから、おフミさんも呼ぼうじゃあないか」

 戸惑う徳松を余所に、清八と与太郎はそれぞれ別方向の壁を打つのでした。

「おれの料理、博打だと思われてたの……?」



 椀と箸持って来やれと壁をぶち

 (一緒に飯でもどうかと壁を叩き気楽に声をかける)

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