第6話「谷へつづく道」

 パソコンのモニターに複数のウィンドウが開いていた。何かシステムの異常を知らせる警報らしい。だが、そこに表示された警告は文字化けを起こしていて読みとることはできなかった。

 どうしたものかと思いつつ、ふと窓を見ると赤紫の光に覆われている。不吉な予感がする。わけのわからない恐怖……、いや、夕暮れ時には空がこんな色に染まることも時にはある。茜色の夕焼けというやつだ。

 気を取りなおして部屋の中を見渡す。本棚に見慣れない本がささっている。タイトルが読めない。なぜだ。なぜ俺の部屋に俺が知らない本があるんだ。やはりおかしい。何かが起こっている。

 だめだ、コーヒーでも飲んで落ち着こう。部屋を出てキッチンに向かう。何かの気配を感じる。かすかな臭い。薄暗いキッチンの隅に影がわだかまっている。あれはなんだ。何かがいる。何だかわからないが、ただただ猛烈な恐怖感がこみあげてくる。たしかにそこに蠢く影のようなものがあるのだが、恐ろしすぎてまともに目を向けることができなかった。

 廊下へ戻る。先刻は気づかなかったが、いつの間にか壁がひどく汚れていた。一面、泥ののようなものがこびりついていた。床を見ると足もとも泥まみれだ。何なんだこれは。

 先へ進んでゆくと、壁の一部が崩れているところがあった。ここから泥が流れ込んでいるらしい。壁の穴からは洞窟のような空洞がつづいていた。その中は暗いが奥に光源があるらしくかすかな明かりが見えた。照り返しで泥がぬらぬら光っていた。黄色い光、なぜか懐かしいような気がする。

 足を泥に取られながら洞窟の奥へと進んで行った。おぼろげな光が明滅している。時おり完全な闇に包まれ不安になった。もう引き返せない場所へ来ている気がした。少し待っているとかすかな明かりが差した。やがて光の発している場所へ着いた。黄色い半透明な結晶のような岩塊が光の源だった。

 不規則に明滅するその光を見つめていると、不思議と体が軽くなって来た。眩暈がする。足もとがおぼつかない。闇の中を落下していくような感覚。気がつけばそこは宇宙空間だった。輝く星雲と星の海。

 ああ、何かが近づいてくる。あれは何だ。恐ろしい。ああ、あれは……、これは夢だ……これは夢だ……


 仲吾星なかごせいは電話の音で目を覚ました。ひどい悪夢を見ていた気がするが、とりあえず電話に出た。

「よう吾星、元気でやってるか?」

 低音の濁声、その声で相手がわかった。ジャズバー《ウォーターメロン》のマスター大井九道おおいくどうだ。

「元気なんかない」

「そうか、ラッパの方はどうだ、吹いてるか?」

「いや……、何の用なんだ?」

「うん、それがな、昨日ウチの店にある女が来てな、おまえに会いたいって言うんだ」

「女……何者だ?」

「さあね、あんたのアルバムを聞いて会いたくなったんだと、それも『エーテル』をな。けっこうイイ女だったぜ、ちょっとお堅いイメージだが」

「おれは会う気はないね」

「まあ、そう言うな。ただのファンってわけでもなさそうだぜ、何か仕事を頼みたいんじゃないか」

「いや断る」

「そうか、まあ女の件はどうでもいいんだ。たまには店に顔出せよ。また演奏を聞かせてくれ」

「ダメだ。知ってるだろう」

「だったら、飲みに来るだけでもいい。今日はどうだ。お前のために三時から店にいることにしよう」

「ああ、考えておく」そう言って仲は電話を切った。

 時計を見るともう午後一時すぎだった。シャワーを浴びて、軽く飯でも食ってから《ウォーターメロン》のある渋谷へ行けば、だいたい三時ごろだ。

 開店時間は本来なら午後六時のはず。それを三時から待ってるというのは、人のいない時間の方がこちらも来やすいだろうと気を遣ったのか。行かねば悪いような気がする。どのみちいつまでも無職というわけにもいかないのだし。

 しかし仲は、自分と会いたがっているという女の話が気になった。「『エーテル』を聞いてだと……」

 『エーテル』とは、ジャズ・トランペッター仲吾星のサード・アルバムである。それは一部では呪われたアルバムなどとも呼ばれていた。

 ファースト・アルバム『囁く影』で注目され、次の『迷宮組曲』は新人ジャズマンのアルバムとしては異例の大ヒットとなった。その余勢をかって仲は多くのイベントに出演した。ジャズ系のみならずクラブDJやロックバンドなどとも共演した。そして次のサード・アルバムはジャズファン以外にもアピールするポップなものに、というレコード会社からのオファーに仲は乗った。売れっ子のプロデューサーを起用し、ダンスチューンやメロウな女性ヴォーカルなども取り入れて順調にレコーディングを進めていた。

 だがある日、不意に仲の脳内にシンプルな五音からなるメロディが浮かんだ。地味だがいいメロディだ。あるいは五音からの組み合わせで和音にしてもいい。しかしいま製作しているアルバムにはそぐわなかった。使えない、そう思いつつもその五つの音が頭から離れなかった。そのせいで現在かかわっている楽曲がひどくばかげたものに思えてきた。

 仲は決意した。進行中のポップに寄せたアルバムのレコーディングは中止し、頭にとり憑いているこの五音を中心にした本格的なジャズアルバムをつくると。当然、プロデューサーやレコード会社は猛反対だった。それでも絶対に必要なのだと押し切った。そして昔なじみのベースとドラムを呼び、このトリオ編成のみでスタジオに籠った。まず五音による主題を示し、あとは全篇アドリブ。それでニ十分程度の曲を何度も繰り返し録音した。気に入ったテイクを三つ選び、全体を『エーテル』と名付けた。各曲に曲名はなくただナンバーだけ、そんなアルバムだった。

 もとよりヒットするとは誰も思っていなかった。そして実際の売れ行きは、その予想すら下回った。たとえ少数でも理解してくれる人がいればいい、仲はそう思っていた。だが、それすらも叶わなかった。リスナーの大半は否定的な感想を持った。聞くだけで不快な気分になると言う者も少なくなかった。「おまえのアルバムを聞いたら悪夢を見るようになった」という男にからまれたこともあった。

 そんな中、ほとんど唯一、半ば肯定的ともいえる批評があった。古参のジャズ評論家竹谷光紀たけたにこうきが書いたものだ。竹谷は『エーテル』について「邪悪な悪魔的ともいうべき負のパワーを感じる。しかしそれは斬新な未知の可能性でもある。この道を進んで行けば何か驚くべき出来事が待っているという予感がある」と評した。これを読んで仲は希望を持った。理解されるまでに長い時間を要する表現もあるのだと。だが、その希望もまもなく打ち砕かれた。雑誌で批評が発表された一週間後、竹谷光紀は首を吊って自殺してしまったのだ。動機は不明だった。周辺の人物からは『エーテル』を聞きこむうちにおかしくなった、とする証言もあった。さらには『エーテル』を聞いて自殺したジャズファンが他にもいるという噂がまでがいつしか広まっていた。

 仲は酒に溺れた。夜ごとひどい悪夢を見るようになった。レコード会社との関係も悪くなり、契約は打ち切られてしまった。それから二年、彼は何ひとつまともに仕事もできないまま過ごしていた。


 午後三時すぎ、仲は《ウォーターメロン》へやってきた。入口には準備中の札が出ていたが、鍵はかかっていなかった。

 ライブもできる広い店内は薄暗く、奥にあるバーカウンターの内側だけ照明が灯っていた。そこで頭の禿げあがった背の高い男がグラスを磨いていた。これがこの店のマスター大井九道である。

「よう、来たな」

「ああ」仲は言葉少なにスツールに腰かけた。

「何を飲む?」

「コークハイ」

 手早く作って差し出された飲み物を、仲は口に運んだ。

「うまいか?」

「ああ」

「じつはな、うちのコークハイには秘密がある」

「んん?」

「それ、自家製クラフト・コーラで作ってるんだ」

「は、そんなもんコークハイとは呼べんぜ」

「だが、おまえはうまいと認めた」

「クソっ、ひどい店だ」

 そんなことを言って偽コークハイを呷っていると、背後に足音が聞こえた。ハイヒールの音だった。仲は顔をしかめてマスターを見た。

「飲みにきただけのはずだが」

「まあ、そう言うな。いやなら追い返してもいい」

「いいさ、気になってはいた」

 仲はスツールごと後ろへふりかえった。そこに立っていたのは、黒髪を日本人形のように切りそろえた色白の女だった。グレーのショートジャケットにタイトスカートという出で立ちだった。

 仲は身振りで隣の席を勧めた。「飲み物は?」

「同じものを」

「こちらにはモノホンのコークハイをお出しして」

 飲み物が出されてから仲は聞いた。「『エーテル』を聞いたって?」

「ええ、でも正直に言って私、ああいう音楽の良し悪しについてはよくわからないんです」

「じゃあ、なぜおれに会いたいと?」

「私の名は南常亜弓なんじょうあゆみといいます。興味があるのはあなたの使っていたあの五音音階です。あの組み合わせの五音、どこで知ったのですか?」

「いや、あれはただ、ある時突然に頭の中に降って湧いたというか……とにかくただ思いついたんだ」

「それはいつのことです?」

「さあね、忘れちまったよ」

「二〇二二年十一月八日では?」

 仲は正確な日付までは記憶していなかったが、レコーディングの時期からある程度は推測できた。「だいたいそこらへんかな。だが、なんでそんな日付がわかるんだ?」

「惑星の配置です。水星と土星それにユッグッ、いえ冥王星のつくる角度の問題です」

「は……アンタ占星術の先生か何か?」

「いえ、私は……」南常はしばらく言い淀んでからつづけた。「今、あるセレモニイ……いえ、イベントのための準備を進めていて、そこで、あなたの音楽をBGMとして使用したいんですが」

「おれの……『エーテル』をか?」

「できれば新しく録音しなおして欲しいのです。「エーテル」と同じ五音音階で」

「なぜあの五音にこだわるんだ?」

「あの五つの音階は、ある地域で秘かに伝えられてきた古い音楽と同じものなのです。今はこれ以上の説明はできませんが」

「それで、おれにその曲の新しいバージョンを吹けと」

「そうです。メロディーは変更してもかまいません。こちらで用意するバックトラック、少しコーラスの入ったものですが、それに合わせて演奏してもらいたいのです。引き受けていただけますか?」

「いや、断る」仲は迷う様子もなく即答した。「あの曲にはもう関わりたくないんだ」

「報酬は、通常よりも高額を用意できますが」

「金の問題じゃない」

 彼女は仲の顔をじっと見つめていた。切れ長な眼差し、長いまつ毛に大きな瞳だった。やがて女は言った。

「あなた、悪夢を見ますね」

「ああ……」

「悪夢があなたの生活を侵しているのですね。このままでは悪くなる一方でしょう」

「放っておいてくれ」

「立ち直るためには、しっかりと悪夢の原因と向き合うことです」

「あの曲が、悪夢の原因だと?」

「そのはずです」

 仲は黙って席を立ち、ふらつく足取りで店を出ていこうとした。

「気が変わったら連絡を」と、南常は名刺を差し出したが、仲は受け取ろうともせず立ち去った。


 その夜、仲が見た悪夢はいつにも増してひどいものだった。内容はいつも同じようなものだが、恐怖感だけが重くのしかかってきた。はじめは日常の中のちょっとした違和感、気がつくと窓の外が赤紫の光に覆われている。そして、家の中に得体の知れない恐ろしいものが侵入していて、家の構造自体が変化している、そんな夢だった。

 結局、彼は女の依頼を引き受けることにした。電話番号は大井九道が知っていた。

 まだ「エーテル」に関わりたくないという気持ちも強かったが、この悪夢から逃れるためには何か行動を起こさなければと思ったのである。

 南常亜弓は、レコーディングは地方にあるスタジオで行うと言った。翌日に迎えをよこすとのことだった。

 当日になってあらわれたのは坊主頭の若い男で、がっしりした体格で目つきが鋭かった。仲は楽器だけを持って車に乗った。車は三菱アウトランダーだった。空は良く晴れていた。

 席に着くと男はあらたまって言った。

「えー本日はドライバーを担当させていただきます。田坂宗一たさかそういちです。途中、ご要望がおありでしたら何なりとお申し付けください」

 仲が軽くうなづくと、田坂は車を出した。

「遠いのか?」仲は聞いた。

「ええ、まあ、那須塩原って温泉地があるでしょう。栃木県ですがね。だいたいその近くです」

 話してみると人懐こい感じもあるので、仲は探りを入れてみることにした。

「きみはあの南常って人の下で働いてるの?」

「そうですよ。といっても雇われたのは三か月前ぐらいっすね。その前は陸自にいました」

「陸自って、自衛隊?」

「そっす。その頃から車両専門で」

「あの南常って人だけど、あれは何者?」

「さあ、自分もよけいな質問はするなって言われてるんで。まあ学者か何からしいですけどね。あちこち調査して回ってて。富士山のまわりとか、埼玉県の鳥川とかいう辺りとか、あとは東北とか、四国とか」

「調査って?」

「さあねえ、自分は目的地に着いたら、基本、車で待機ですから。そう言えば四国に行ったときは変なことがあったなあ。何か山奥の方で調べるものがあるっていうんで自分は車の中で待ってたんすけどね、しばらくしたらあの先生、青ざめた顔で戻って来たんだけど、よく見ると後ろの方に黒い影みたいなものがついてきてて、「気にしないで早く行って」て言われたんで車出したんすけどね。それでも後をついてくる。けっこうな大きさで、小型車ぐらいかな。黒い影の塊りですよ。スピードも三十キロぐらいは出てたんじゃないかな。こっちはそれ以上のスピードで飛ばしましたから何とか引き離してね、麓に着くころにはいなくなってましたけど」

「で、結局何だったんだ、その影って?」

「わかりませんねえ。一人なら気のせいだったって思うところですが、先生も焦ってたようですしねえ。でも、よけいな質問はしないって決まりなんで、どうしようもないんす」

 この後もいくつか質問をしてみたが、中身のある情報は引き出せなかった。

 車は高速に乗った。仲はあの女の正体について考えてみた。あの南常亜弓とは何者なのか。何かイベントのための音楽が必要だとか言っていた。はじめセレモニーと言いかけてイベントと言い直したのが気になる。イベントなら〈催し物〉だが、セレモニーとなると〈儀式〉を意味する。それに冥王星と言う時も不穏な発音をしかけていた。惑星の配置……五音を思いついた日付……。仲はあの後、家で何気なくメモを見返したところ、例の五音がコードネームで記されたページにはたしかに〈22/11/8〉と日付が書きこまれていたのだった。

 どうもこの話にはオカルトじみたところがある。あるいは宗教がらみだろうか。まさか殺人カルトなどということはあるまいが……。ともかく今さら引き返すこともできない。こうなったら行き着くところまで行くまでだ。栃木方面へ向かう道は空いていて、アウトランダーは軽快に飛ばしていた。


「この先、道が悪くなるんで、少し揺れます」高速を降り、しばらく進んだところでドライバーは言った。

 車は未舗装の小道に入り、前方には森が見えた。

「こんな道で温泉地に着くのか?」

「いや、温泉じゃあないんです。その近くってだけで。目的地は《那須の谷》って呼ばれてるところです」

 森が近づいてきた。いつの間にか上空には異様なほど大量のカラスが飛び交っていた。

 日差しがさえぎられて暗くなった。水溜まりをはね散らしながら進まねばならないところもあった。腐った果実が落ちて来てフロントガラスに染みをつくったが、田坂は慣れた様子でワイパーを作動させた。道は複雑に曲がりくねって森の奥へとつづいていた。

 鬱蒼とした木々がどこまでもつづいているような景色だったが、しばらく行くと、不意に人工物が目にとまった。ツタに覆われた給水塔らしきものがあった。何のためのものかは知らないが、今では使われていない様子だ。その少し先でトンネルに入った。レンガ造りで苔むしていた。水が漏っているらしく路面がギラギラと光を反射していた。

 トンネルを抜けるとそこは、黄色やオレンジ、紫の花が一面に咲いていてその上を蝶が舞っているという楽園のような眺めだった。だがそんな風景も一瞬のこと、車はすぐに暗い森の道へと入っていった。曲がりくねった道、そしてまた水溜まりを越えて、腐った果実を踏みつぶして進んだ。何となく見憶えのある風景だなと仲が思っていると、ツタに覆われた給水塔が見えた。そしてその先にはレンガ造りのトンネルが。

「おい、ここさっきも通ってんじゃないか?」

「すみません、この森、抜けるのにコツがいるんすよ。つぎは大丈夫ですから」と田坂は言った。

 その先もしばらくは同じ道をたどっているようだったが、やがて無事森を抜けたようで、上りの道になった。少し行くと今度は九十九折りの長い下りになった。谷へと降下していくのだ。底の方にわずかばかり建物が点在するのが見えた。


 そこは過疎化によって放棄された集落のようだった。廃屋となった古い民家がいくつもあった。

 車はひとつだけきれいに整備された寺院のような建物の前で止まった。

「先生は中にいると思うんで、勝手に入っちゃって下さい」

 そう言って田坂は車を降りて後部ハッチを開け、荷物の運びだしにかかった。仲は自分のトランペットだけ持って建物の中へ入った。内部は能楽堂を思わせる板張りの広いフロアで、その中央で南常亜弓が、ベージュのワンピースの下に白いズボンという身なりで座禅を組んでいた。異様な形の濃緑色の石を首飾りにして下げていた。周囲には録音機材がすでにセッティングされていた。

 彼が正面に立つと女は目を開いた。

「来たのね。録音の準備はできています」

 仲はペットボトルの水を一本もらって、用意された曲を聞くことにした。彼女は「コーラスが少し」と言っていたが、少しどころではなかった。コーラスというより呪文のような音声がずっと流れていた。だが、リズムは悪くない。聞いているとあの五音のメロディーが自然と湧いてくるようだった。

 録音がはじめられた。南常がパソコンで機材をコントロールした。トラックはおよそ十分。好きなタイミングで、好きなように吹けばいいということだった。

 ファースト・テイクを吹き終えた。手応えはあった。すぐにテイク2、そしてテイク3。調子が出てくる。一時間ほど演奏をつづけて休憩した。食事を用意してあると言われたが断って水だけ飲んで再開した。

 繰り返し曲を聞いてるうちに、呪文のようなコーラスが自然と耳に入って来た。それはこう言っているのだ。


 イーウーグオース イアール グゴール

 イーウーゴウース イアール ゴウール

 ヘルメルギドス マガドラギオヌ

 ヤッキ ドードル ハッギ

 エイレヌリナン ヘラテテエーア

 マオ マイラエユン アクロ ハ アクロ


 どこにどの音を合わせればよいかもわかって来た。何か大いなる力によって導かれているかのように。五音の意味すらも理解できるかのようだ。五音の意味、しかしそれは言葉では表せない。音の配置が意味をかたちづくるのだ。

 仲は五つの音を吹きつづけた。それは歪んだ五芒星のように配置され、角度を変えながら回転した。

 数時間後、彼は納得のいく演奏ができたと思った。南常も想像以上の成果だと言って満足したようだった。

 田坂の運転で自宅に送り返されたころにはもう真夜中だった。仲は心地よい疲労に包まれて眠りについた。悪夢も見ずにぐっすり眠ったのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


 数日後《ウォーターメロン》の大井から電話があった。店に来いという。仲はこの数日、悪夢も見ず、酒も断っていて、健康と自信を取り戻していた。「酒は飲まないが、自家製コーラなら飲んでやろう」と告げた。

 営業前の早めの時間に渋谷の店に顔を出した。自家製コーラは妙に甘ったるい味がした。

「で、どうだったんだレコーディングは?」

「まあ上手くいったよ。おかげで心身ともに健康になった気がする」

「そりゃよかったじゃないか。それで、あの女の正体だが、興味あるだろ」

「わざわざ調べたのか?」

「調べたってほどでもない。うちの常連客に物知りなやつがいてな、そいつに聞いてみたら、同じ名字の学者を知ってたんだ」

「学者?」

南常古門なんじょうこもんって考古学者だ。亜弓はその娘らしい」

「考古学者の娘ね。言われてみればそんな雰囲気もあった。レコーディングは栃木の山奥まで連れていかれた」

「栃木か……地名は?」

「たしか那須の谷だとか。人のいない廃村みたいだったが」

「ふむ、やはりな。南常古門はかなりの変人で、一冊だけ出した著書も異端の学説で問題視されたらしい。と言っても、まともな学者なら取り合わんようなもので、注目したのはもっぱらオカルトマニアとかそんなやつらさ。その本のタイトルが『那須年代記』だ」

「何だそれ?」

「いや、正確に言うと……」大井は手元の紙を見ながら言った。「『〈那須年代記〉その隠された深層』というんだ。つまり『那須年代記』というのはその地方で伝えられてきた謎めいた古文書で、南常古門はその研究者だったというわけだ」

「もう亡くなってるの、その人?」

「ああ、死に方もちょっと怪奇めいてる。那須町で、古代遺跡の調査中に突然死したらしい。外傷はなかったため警察では心不全ということで処理された。その時のニュースに亜弓のコメントが出てる――『父は立派な学者でした。志半ばで倒れて、さぞ無念だったことでしょう。父が遺した資料と草稿は、いずれ私がまとめて発表するつもりです』ということだ」

「その彼女が、なぜ今になって音楽を……?」

「さあなあ、わざわざ那須の谷なんてところでレコーディングをしてるわけだしな……。この記事によると亜弓は東京の出版社勤務とある」

「見せてくれ」 

 仲はネットニュースが印刷された紙を受け取った。目を通したが、すでに聞いた以上の情報はなかった。だが、最後にそのニュースの日付を見て彼の心に不吉な影が差すのを感じた。二〇二三年二月、その日付は彼の『エーテル』に注目した評論家竹谷光紀の自殺とほぼ同時期だった。


 暗い気分を抱えたまま仲吾星は自宅へ戻った。パソコンにメールが届いていた。発信者は南常亜弓。レコーディングした曲の各種調整を済ませた音源が完成したので聞いて欲しいということだった。仲は添付されたデータを再生してみる。

 呪文のようなコーラスをバックに「エーテル」が流れはじめた。いい演奏だ。この録音のおかげで俺は自信を取り戻した、しかし……

 仲は曲をエンドレスで流しながらベッドに横たわった。思考は南常亜弓という女の謎をめぐって回転した。

 あの女は惑星の配置がどうとかと言って、俺が五音の組み合わせを思いついた日付を言い当てた……イベントあるいはセレモニーで使われるという音楽……無人の廃村で行われたレコーディング……那須の谷……古文書『那須年代記』の研究者であるという父……その死、時期を同じくして死んだ竹谷光紀……悪夢とアルコールに溺れた日々……

 仲はふと浅い眠りから目覚めた。音楽は流れつづけていた。あの曲が……、いや、ちがう、これは俺の演奏じゃない、と彼は思った。呪文のようなコーラスとともに鳴っているのは、トランペットではなかった。どんな楽器ともちがう異様な音。

 いつの間にか部屋は、赤紫の光に包まれていた。この感覚……この気配は……これは夢ではない。

 ああ、何かが、何かが近づいてくる!

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悪夢の忘却回路――あるいは、ラヴクラフト的連続体 小倉蛇 @tada7ka

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