第5話「悪夢の森」

 久しぶりに休み。仕事で関わっていたプロジェクトが一段落し、この機会に有給をまとめて消化することにした。

 日頃の書類仕事から解放され、こうして自然の中を歩いていると、のびのびとしたいい気分になってくる。

 最近は、AIが進化すると仕事をとられるのではないかと心配する人がいるらしいが、私の仕事などはコンピュータどころか、ちょっと気の利いた機械仕掛けがあればとっくに自動化できるようなものだった。

 それを考えると私はこれから訪ねようとしている友人、石樹孝柾いしきたかまさが羨ましかった。彼は考古学者で、自分の説を立証するためにここ埼玉県鳥川市で単身、調査をつづけている。

 石樹は、将来有望な秀才として大学院に進んだが、彼の研究がその独自性を明らかにするにしたがって周囲には受け入れられなくなり、ついには追放同然に大学を去らねばならなかった。

 その彼の学説とは、縄文以前の古代日本では、ある種の宇宙意思との交感が行なわれていたとするもので、大学を離れて後、彼はそれを『星から来た神々』という著書にまとめていた。

 日本ではほとんど無視されている石樹の研究だが、意外に海外では支持されていた。米国ミスカトニック大学のパトリック《チョーチョー》・フラー博士もその一人である。このフラー博士の仲介でとある国際的な学術機関がスポンサーにつき、石樹は今も研究をつづけていられるのだった。

 目的地にもだいぶ近づいたと思い、私は石樹に電話をかけてみた。だがやはり通じなかった。メールの返信もない。昨日からずっとこの状態だった。だがべつに心配はしていなかった。たぶん研究に夢中になって携帯の充電を切らしてしまったのだろう。そうしたことには無頓着な男なのだ。数日前に話した時は元気そうだったし、今日の訪問はその時に伝えてある。

 それにしてもいい天気だ。穏やかな日差しに、爽やかな風。五月のいい気候だった。


 市の北東に位置する犬捨山、その麓に広がる忘蛾森の奥に石樹はキャンプを張っていた。木洩れ日の射す道を進んでゆくと前方に車が止められているのが見えた。白と黒の車体に赤い回転灯、側面には《埼玉県警》の文字。森の中で見るパトカーは不穏な気配をかきたてていた。制服の警官に私は止められた。まだ若く長身の警官だった。

「どちらまで?」

「友人を訪ねるところです。森の中でキャンプをしてるんで」

「友人というのは?」

「石樹孝柾、考古学者なんです」

「ああ、石樹さんの友人、ちょっと待ってくださいね」

 警官はパトカーの中の人物と小声で話し始めた。車中の人物は無線機でどこかへ報告している様子であった。やがて警官が戻ってきて言った。

「すみませんね、お待たせしてしまって」

 さらにもう一人の警官がパトカーから降りてこちらへ来た。皮膚の浅黒い中年で目つきが悪かった。

「あなた名前は?」

「野口広哉です」

「ちょっと、所持品の検査させてもらうよ」中年警官は有無を言わさず私のショルダーバッグを取り上げ、若手警官に調べさせ、私にはポケットの中のものを出させた。

 そのうえで警官は私の全身を執拗に撫でまわすようにして調べた。もとより見られて困るようなものなど持っていない。

「何なんですか、いったい?」

 バッグの中も問題ないことを確認すると中年警官は言った。

「いや、じつは、今朝ほどこの先の崖で石樹孝柾さんね、亡くなっているところを発見されたんですよ」

 亡くなっているところ……その意味をすぐには理解できなかった。

「えっ……、石樹が、死んだということですか?」

「そうです。お気の毒です。遺体の確認にご協力をお願いしたいのですが」

「え、ええ」

 警官に案内され森の奥へと入っていった。険しい道をしばらく歩き、やがて木々の開けた場所に出た。鑑識課員らしき人たちが行き来していた。

「警部、被害者のの友人をお連れしました」と警官は、鑑識作業を見守っていたコート姿の男に声をかけた。

 振り返ったその男は、青白い顔で眼鏡の奥の眼をするどく細めて私を見た。まるで容疑者と決めてかかっているように。

「県警捜査課の内田です」男はぶっきらぼうに自己紹介をした。

 私も自分の名を告げた。

「あなたも学者ですか?」

「いえ、ただの会社員です。石樹とは高校が一緒で」

「ふむ」と内田はしばらく黙ってこちらを見てから、唐突に言った。「石樹さんはこの先の崖から転落したようです」

「崖……、どうしてそんな……?」

「ご覧になられますか、あそこです」

 私は指さされた方へ歩みを進めた。崖の淵に立って見下ろす。さほど高さはないが、下は岩場だった。ここで石樹が死んだ、そう思うと足がすくむ。引き返そうとすると、いつの間にかすぐ背後に内田が立っていて、鋭い眼光をこちらへ向けていた。驚いて後ずさると崖っぷちに追い詰められる形になった。

「あなた、石樹さんが死んだ原因に心当たりは?」

「そんなものありませんよ」

「本当に?」

「えっ、ええ」

 そう答えると内田はいきなり私の腕をつかんで引き戻した。「ではテントを見に行きましょう」

 石樹のテントはそこからすぐ近くにあった。そしてその横に担架に乗せられた死体が横たえられていた。額に裂傷がある。

「この人は石樹孝柾さんで間違いありませんね」

「はい……」

 いまひとつ確信が持てないまま私は答えた。だが、死者の顔を見つめているうちに、涙のにじむ思いとともに、これが私の友人なのだという実感が湧いてきた。

「なぜ、崖から落ちたりなんか……?」私は思わず問いかけていた。

 内田はそんな言葉など聞こえなかったかのように、私の目の前にファスナー付きのプラスチックバックをかざして見せた。中には銀色のケースがあった。

「このケースに見覚えは?」

「いいえ」

「そうですか。中には注射器が入っていた」

「注射器?」

「どうやら彼はある種の幻覚剤を打っていたらしい。それで錯乱状態になり闇夜の中を走り出し、崖から転落した。そんなところだろう」

「彼は薬物なんかに手を出すような人じゃなかった」

「親しい友人の間でも秘密はある。ましてやこんな山奥で一人きりのキャンプでは、そうしたものの誘惑に負けることもあるのではないかね」

「そんな……」

 内田が合図すると、死体は運び出された。私も「町まで送るから」とパトカーに同乗させられた。なんとなくこのまま警察署へ連れていかれ厳しい取り調べを受けるような気がしたが、そんなこともなく連絡先を聞かれただけで解放された。別れ際、内田警部からひとつだけ質問された。

「きみは宗教団体の信者だったりするのかな?」

「いえ、なぜそんなことを?」

「いや、深い意味はないんだ。このあたりはそういう人が多いらしくてね。ま、気をつけて帰りたまえ」


 警察署の前でパトカーを降ろされた私は国道沿いに駅へ向かって歩いていた。頭の中にあるのは石樹が死んだという一事だけだった。信じられないことだが、現実は受け入れなければならない。いや、信じられないのは、その原因だ。幻覚剤を使用して錯乱し、崖から落ちた――そんなことがあり得るだろうか、あの石樹が。彼にはもともと孤独を好むところがあった。森の奥で一人きりだからといって薬物に手を出すなどとは思えなかった。研究のため必要なら、自分の身体を実験台にすることぐらいはやりかねない奴だった。だが彼は考古学者だ、なぜ薬物などが関わってくるのか?

 駅が近づき周囲には商店が増えてきた。ふと「きみは宗教団体の信者か」と内田警部に問われたことを思い出した。このあたりにはそういう人が多いからだという。その辺を見回しても宗教に関連したものは見当たらなかった。やたらと目につくのは、ここ鳥川市の市長だという剣持轟太郎なる人物のポスターばかりだった。ブルーのスーツを着た丸顔の男。「市民の皆様とともに」というキャッチコピー。これが町中に貼り出されていた。

 そうこうするうちに玉急線の森下駅に着いた。しかしこのまま帰る気にもなれず、しばらくぶらついていると《稲田屋》という定食屋を見つけた。もう昼食時はとうに過ぎていて、店内はすいていた。奥のテーブルに食事もせずに居眠りをしている男が一人いるだけだった。私はカウンター席に着いた。店員は不愛想な痩せたオバサンで、焼きサバ定食を注文すると黙って作り始めた。

 出された料理は悪くなかったが、すぐに思考は友人の死へと引き戻され、味わう余裕はなくなった。

「あんちゃんよぉ、見かけねえ顔だな」背後から声をかけられた。

 振り返ると、赤ら顔の初老の男が立っていた。さっきまで居眠りをしていた客だ。息が猛烈に酒臭かった。

「オメエもあれか、森の黒ヤギか?」

「は?」

「教団の信者だろう?」

「教団……いえ、宗教団体とは関係ありませんよ」

「ああ」男はまだ何か文句を言いたそうにこちらを睨んでいた。

「ちょっとポンさん、お客さんにからまないでよ」と店の人がたしなめた。

 その男は「ふん、世間話もさせねえのか」と言い捨て店を出ていった。

「すみませんねえ」と店員。

「いえ、森の黒ヤギって何のことですか?」

「知りませんよ、そんなこと」オバサンは慌てて話を打ち切るように手を振った。

「そうですか……ごちそうさまでした」私は勘定をすませ席を立った。

 店を出て左右を見渡した。男は気分でも悪いのか片手を電柱について下を向いていた。それで吐くわけでもなく、やがてとぼとぼと歩き出した。私は速足で追いついて声をかけた。

「あの……」

「んあ、何だあんたか」

「先ほど教団がどうとかと言ってましたね。そのことで話を聞かせてくれませんか」

「何だよ、あんた信者じゃねえのかよ」

「違いますよ。ぼくは友人を訪ねて来たもので」

「だったらそいつのとこへ行きゃいいだろ」

「いや、それが、事故がありまして……」

「事故……」男は何かを察したように言葉をつづけた。「あんたの友人ってのはあれか、森でテント暮らししてた……」

「そうです。考古学者の石樹ですが、ご存じだったんですか?」

「ああ、いろいろ話をしたよ。この辺のこと知りたいっていうんでな。しかし事故だって……?」

「何か幻覚剤のようなものを使ったせいで崖から落ちたんです。それで亡くなりました」

「はん、そりゃあ……奴らの手口だぜ……」

「えっ……、奴らって?」

「だから教団よ」

「そ、その話、詳しく聞かせてくれませんか」

「ああ、いいけど。来な」

 歩きだした男のあとを私はついていった。商店街の外れあたりまで来て立ち止まった。

「あんちゃん、あの角に酒屋があるだろ」

「はい」

「ちょっと酒買ってきてくれねえか。俺はツケが溜まってて行けねえのよ。ウイスキーの小瓶で千円ぐらいのやつ、いま金わたすからよ」

 男はそう言ってポケットを探っていたが、なかなか手を出そうとはしなかった。

「あ、お金はぼくが出しますよ」

「そうか、悪いな」

 酒屋に行って小瓶のウイスキーとついでにつまみのさきイカを買って戻った。近くにあった雑草に覆われた公園ともいえないような空き地のベンチに並んで座った。

 男は美味そうに酒をあおると、ぼんやりと空を見つめていた。私はさきイカの袋を開けて差し出した。

「ポンさんと呼ばれてましたね」

「ん、ああ、むかし本屋をやってたのよ。古本屋だけど。それで本屋のポンさんてね」

 ポンさんはさきイカを一本かじった。

「で……、石樹とはどんな話を?」

「あの学者さんはモドロ岩を探してたのよ」

「モドロ岩?」

「このあたりの昔からの言い伝えでね、忘蛾森のどこかにそう呼ばれてる岩があって、近づくと幻を見る。そんな伝説、今となっては知ってるものも少ないが。あの学者さんは『須波流外三星誌すばるそとさんせいし』とかいう古文書で読んだと言っていた」

「近づくと幻を見る岩ですか。それがどこにあるかは誰も知らないと……」

「ああ、誰も知らんだろうね、俺以外は」

「えっ、ポンさんは知ってるんですか?」

「ああ、若いころは俺も民俗学なんかに興味があってね。あの森を調べて回ってた。もう三十年以上も前だがね。あそこには他にもいろんな言い伝えや遺跡らしいものもあるんだ。そしてある時、大木の根に腰かけて休んでいると、不意にね、目の前に奇妙な光が見えだしたんだ。それはやがてこの世のものとも思えない異様な景色になった。ずいぶん長い時間その幻を見ていたような気がしたが、じっさいはほんの数分程度の短い時間の出来事だった。はじめは何が起こったのかわからなかった。夢でも見たのかとね。でもその時、目の前に苔むした岩があることに気づいたんだ。これが伝説のモドロ岩かと。直径一メートルほど球体にちかい形の岩だ。それから俺は毎日のようにその場所に通うようになった。だけどはじめの何日かは幻を見ることはなかった。どうも精神を集中しすぎるとダメらしいんだ。最初の時は疲れてぼんやりしていたからな。そのことに気づいて俺は、なるべく頭を空っぽにして何も考えずに石に近づくことにした。そうするとまた幻を見ることができた。何度も見ているうちに、自然とその場所の名前なんかもわかるようになってきた。カルコサ、ハリ、カダス、そんな名前だ。時には恐るべき存在をかいま見ることもあった。生物というよりは神に近い何かだ。とくに恐ろしいのが、あれだ……そう、よぐ=そとーす……あれは恐ろしい……そうしたものを見た後はひどく疲れていた。精神を吸いとられているかのように。危険を感じて俺は、あの場所へ行くのをやめた。その後もしばらくは、あの岩に呼ばれている気がした。引き寄せられているような感じだ。しかしそれでも恐ろしさの方が勝って、あそこへ行くことはなかった。そのうちに引き寄せられる感覚もなくなった。呪縛が解けたみたいに……今でも時々夢に見る、ひどい悪夢だ」

「その話を石樹にもしたんですね」

「ああ、モドロ岩の場所も教えてやった。俺は近づきたくないが。まあ一、二度あれを見るぐらいなら害はないだろう。それで学者先生も岩を見に行ったようだが、幻は見られなかったそうだ。コツは教えてやったが上手くいかないようだった。人を選ぶのかねえ」

「しかし、そのことと石樹の死とは関係があるんですか?」

「モドロ岩を探してる奴らは他にもいる。それが、《森の黒山羊教》って、まあカルト教団だな。こいつらは森の奥で何か怪しげな儀式をやってる。その時に何か薬物を使ってるんだ、たぶん幻覚剤の類だろう」

「幻覚剤……それが石樹の……」

「だから奴らの手口だって言ったのさ。教団の奴ら、何か強大な力を与えてくれるものを召喚したいらしいが、幻覚剤なんかに頼ってるようじゃ上手くいくはずがない。モドロ岩が見せる幻とはまったく桁違いだぜ」

「その話、警察にもしてくれませんか。石樹の死がただの事故じゃないってことを」

「いや、学者先生にゃ悪いが、俺は警察にはちょっとね。あんたもあまり深入りはしねえほうがいい《森の黒山羊教》の教祖は陣野仰じんのあおぎって男だがこいつは市長ともつながってる」

「市長って、あの剣持轟太郎とかいう」私は町中に貼ってあったポスターの顔を思い出した。

「そうよ。俺は剣持が森の奥での教団の集会に顔を出してるのを見たんだ。あの市長、表向きは教団の進出に反対する市民にもいい顔をしているが、裏じゃあずぶずぶってわけよ。この男、保守系の大物とも親戚だし、よほど確かな証拠でもなけりゃあ警察は動かんだろう」

「そんな……」

 私は、石樹の死がこのまま違法薬物に手を出したための事故死として処理されていくのではと、やりきれない思いがした。

「あんたもモドロ岩へ行ってみるかね?」ポンさんは言った。「あの岩も時にはいいことも教えてくれる」


 ポンさんは私が持っていたメモ帳に地図を書いてくれた。それはまるで子供の落書きのようで役に立つのか不安だったが、現地に行ってみると目印の書き方が的確で、意外と迷わず進むことができた。そのうちにまともに歩ける道がなくなり下生えをかき分け、岩山をよじ登り、一時間以上かかってどうやら目的の場所へ着いた。

 近くに泉があるらしくかすかに水の流れる音が聞こえた。空気がひんやりとしている。大木があり、腰かけるのにちょうどいい根も張り出していた。その向かいに球体型の岩らしきものがあった。苔に覆われているので、一見わかりづらい。これが《モドロ岩》だろうか。ここで幻を見るためには、頭を空っぽにしておくとよいらしい。今日は一日歩き回ってへとへとに疲れていた。木の根に腰かけると自然と何も考える気力がなくなった。

 しばらくぼんやりしていると、岩のまわりを小さな蛾が飛んでいるのが目についた。薄い紫の翅をはばたかせ、まき散らされた鱗粉がきらきらと輝いていた。とてもきれいだ、そう思って見つめているうちに、視界が異様な光に包まれていった。一瞬、森の奥からこちらを見ている石樹孝柾の姿が見えた気がした。

 そして私は幻の世界を見ていた。といってもそれは幻想の異世界というわけではなく最近の出来事のようだ。黒いジャンパー姿の二人の男に石樹孝柾が押さえつけられていた。背後には見覚えのあるテントが見えた。石樹がキャンプしていた場所だ。男は無理やりに石樹の袖をまくって腕をむき出しにした。そこへ三人目の男があらわれ、その腕に注射器の針を突き刺した。男は耳元に何かを囁きかけていた。地面に膝をつく石樹。しばらくすると彼は頭を抱え叫び出した。幻覚を見ているのだ。私の脳内に彼の幻覚が流れ込んでくる。赤く染まった空の下、闇に包まれた森。黒い木々の間から巨体をもつ怪物が姿を見せる。絡み合った木の根のような胴体、無数の触手と大きな口。蹄のついた四本の足で迫ってくる。石樹は狂ったように走り出した。崖をめがけて。そして転落。それを見届けた男たちは、使用済みの注射器を銀のケースに収めテントの中へ投げ込んで、立ち去った。

 なぜだ。なぜ石樹は殺されたのか――その疑問に答えるように幻はさらに過去の情景を見せる。森の奥。地面上のわずかな痕跡を求め一人で調査をつづける石樹。彼はふと顔を上げる。風に乗ってかすかに声が聞こえた。複数の人々が唱和しているような。耳をすますと、それはこんなふうに言っていた。


  ……いあ、シュブ=ニグラス……大いなる森の黒山羊よ、われは汝を招喚するものなり……汝のしもべの叫びに応えたまえ、力ある言葉を知るものよ……眠りから目覚め、千匹の仔を率いてあらわれたまえ……われは印を結び、言葉を発して、扉を開ける者なり……あらわれたまえ、われは鍵をまわしたり、再び地上を歩みたまえ……


 彼は声のする方へ歩き出した。どうやら環状列石を思わせる遺跡のあるあたりのようだ。木々の向こうに黒いマント姿の人影が見えた。八人ほどが輪になっている。フードを目深にかぶっていて顔はわからないが、声からするとほとんど男性で、何人かは女性も混じっているようだ。呪文の詠唱はさらに熱を帯びて、異界の言葉となってつづいていた。


  ……ザリアトナトミクス、ヤンナ、エティナムス、ハイラス、ファベレロン、フベントロンティ、ブラゾ、タブラソル、ニサ……ウァルフ=シュブ=ニグラス。ダボツ・メムブロト……


 石樹は茂みの陰から慎重に様子をうかがっていた。儀式の参加者の中で一人だけマントの装飾が豪華な者がいた。フードの下から蝋のように白い顎と痩せこけた首が見えた。その人物こそが《森の黒山羊教》の教祖である陣野仰だ。そのとなりの恰幅のいい男。この男だけは呪文を暗記していないらしく、メモを見ながら詠唱に加わっていた。メモをよく見るために男はフードをずり上げた。そのため石樹はこの人物の顔が見えた。鳥川市の市長、剣持轟太郎だった。現役の市長が怪しげなカルト教団の儀式に参加してるとは。石樹は思わず息をのんだ。その時、背後から忍び寄った男に肩をつかまれた。黒いジャンパーの男だった。

 剣持市長の儀式への参加を目撃したこと、それが石樹が殺されることになった原因だった。しかし、彼らの行っている儀式とは何なのか。それはシュブ=ニグラスの招喚だった。教団はまだその試みに成功していない。もし成功すれば強大な力を得ることだろう。それは旧支配者の力だ。人類誕生以前に地球に到来した神々の。私は幻の中で旧支配者の世界をめぐった。かれらの力の起源はアザトースの深淵にある。恐るべき窮極の混沌に潜む白痴の魔皇アザトース、その存在は神々さえもかすかに気配をうかがうことしか叶わない。そして永遠の秘密の守護者ヨグ=ソトース。門にして鍵、鍵にして門。その秘密が明かされるとき新たなる神々の時代が訪れる。さらに、這いよる混沌ニャルラトホテプは、人類史の暗黒面を司るすべての陰謀の黒幕である。またさらに、夢魔の王クトゥルーは、太平洋に沈むムーあるいはレムリアの遺跡ルルイエで眠りにつきつつ悪夢と狂気によって人間精神をコントロールしている。そしてまた、千の仔を孕みし森の黒山羊シュブ=ニグラス、魔女の集う森の領主でありサバトと乱交の祭司である。こうしたものたちが言語を超越した強烈なイメージとなって私の脳内を吹き荒れた。私はほとんど正気を失いかけていた。それでも何とか自我を保って現実に戻った。

 しばらくは茫然と苔むした石球を見つめて大木の根に腰かけていた。長い時間が経過しているように思ったが、時計を見るとここへ来てからニ十分も経っていなかった。それだけ圧倒的な幻に晒されていたのだ。精神的な疲労を感じるのも無理はない。

 私は何とか立ち上がり、町へ戻るルートをたどり始めた。森の中をしばらく進むと、近くで人の気配を感じた。私はほとんど反射的に素早く身を隠した。幹の陰から見ると、黒いジャンパーの男が二人、周囲を警戒しながら歩いてきていた。幻の中で見た石樹を捕えて殺した男たちだ。私は茂みの陰に身を伏せ、彼らが通り過ぎるのを待った。二人の男がじゅうぶん遠ざかった頃、身を起こそうとすると突然、頭の中にあるイメージが広がった。モドロ岩が見せる幻がまだつづいているかのようだ。白い皮膚に目だけを赤く光らせた痩せこけた男の姿だった。《森の黒山羊教》の教祖、陣野仰だ。彼はその超能力により森の秘密を知ったものがいることを察知し追手を放ったのだ。秘密を知ったものは殺せ。殺されるのはこの私だ。全身にいやな汗が湧き出してきた。私は焦って走り出した。

 走ると言っても森の中、道なき道なので焦れば焦るほど速くは進めない。その上、方向が正しいのかも確信が持てなくなってくる。ポンさんの地図を確認したい気持ちもあったが、それ以上に足を止める時間が惜しかった。そのうちに犬の吠える声が聞こえてきた。初めは遠かったがどんどん近づいてる。それも二方向から迫ってきていた。どうしよう、逃げきれるだろうか。

 私は捕まった。待ち伏せていた黒いジャンパーの男たちに簡単に囲まれ取り押さえられた。獰猛そうなドーベルマンを連れた男もいた。あれをけしかけられなかっただけまだしもだ。木々の開けた場所へ連れ出された。携帯電話で指示を受けていたリーダーらしい男が、こちらへ近づいてきた。手には注射器を持っていた。手下が私の服の袖をまくる。

「や……やめろ!」

 抵抗もむなしく、肘の内側に針が刺された。まもなく強烈な目眩に襲われる。男が耳元で囁いた。

「お前はあの石樹とかいう考古学者の友人だな」

「そ、そうだ」

「友人が死んでさぞ悲しいだろう」暗示をかけるような囁きがつづく。「お前は絶望的な気分だ。このまままっすぐ駅へ行く。ホームの端で帰りの電車が来るのを待つ。そして電車が来たら、お前は線路に飛び込む。いいな、電車がやって来たら線路へ飛び込むのだ」

「電車がやって来たら線路へ飛び込む……」私は我知らずそのフレーズを繰り返していた。

 彼らは私を車で運び、玉急線の森下駅前で降ろした。私は茫然自失のまま改札を抜け、ホームの端に立った。電車がやって来た。

 ……


 結局、私は線路に飛び込みはしなかった。何かが私を引き止めていた。いったい何が。たぶんモドロ岩が見せた幻のせいだろう。そのイメージの力強さが、幻覚剤による暗示に勝ったのだ。旧支配者のイメージによって。だがそのことは、私を、モドロ岩を経由して旧支配者の世界と何らかの形で結びつかせることになったのではないか。そしてそれは、いずれ、より恐るべき世界へとこの私をいざなうことになるのではなかろうか。そんな予感がする。



*(本文中のシュブ=ニグラス招喚の呪文はジョージ・ヘイ編『魔道書ネクロノミコン』所収のロバート・ターナー再構成による「『ネクロノミコン』断章」(大瀧啓裕訳)から引用しています。)

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