第3話
雨の湿ったにおいがする。風が時々吹いて、雨粒と一緒に肌にあたる。
空はだんだん灰色の雲に覆われ始めた。空を反射する地面も、一緒に灰色に染まっている。
「ずっと、っていうか、癌になってから思ってたことなんだけどね。私、れんのこと考えてたんだ」
「僕のこと?」
「うん。私がいなくなったら、れんは一人になっちゃうでしょ? だから、独りでも大丈夫かなとか、今のうちに私を卒業して、友達を作らせた方がいいのかなとか。いっぱいおせっかいなこと考えてて」
恥ずかしかった。
「やっぱり、みかんらしいね」
バス停の屋根にあたって弾ける雨の音が頭上で鳴っている。
いつまでも静寂になりきれない中途半端な沈黙が、僕たちの心にやりきれなさを植え付けた。
「でもね、やっぱり、れんのことも考えてあげられなかったけど、あと一歩を踏み出せなくて。結局、れんと別れることもしなかったし。あ、別に別れたかったってわけじゃなくて……。とにかく、ごめん」
「謝らくていいよ、僕だって別れたくなかったから。もう、あんな思ってないことを言わないで欲しいな。みかんはもっと、自分のことを考えて欲しい」
みかんの微笑んだ音がした。
「うん。ありがと」
「どういたしまして」
「……は、はいっ、私のターン終わり! 次はれんの番だよ」
「僕、かぁ」
僕たちの沈黙を邪魔する雨音が今は心地よく感じた。
僕にはどうしても、怖いものがある。それはみかんに嫌われることだ。
大切な人に呆れられたり、失望されたり、気遣われたり。
それがどうしようもなく嫌で、でも汚い僕を隠したくもなくて、嘘なんかつきたくない。もっと正直に、素直に自分はくそみたいな人間なんだって、言いたいのに。
怖くて口が動かない。頭の中では言うべき言葉はいくらでも浮かんでいるんだ。だけど、その言葉を包み込んで本音を隠すオブラートが見つからないだ。
僕はいつまでも中途半端だ。あと一歩が決まって踏み出せない。みかんは僕のことを頭一杯に考えてくれているのに。僕だけが、僕のことを考えている。
申し訳ない。
謝りたいのは、僕の方なんだ。
「みかん」
僕は彼女の名前を呼ぶ。僕が、世界の誰よりも大好きな女の子の名前。
「僕は——」
ここに来たのは、自分に嘘を吐きたくなかったからだ。
腹をくくった。
みかんに嫌われてもいいと思った。嘘を吐きながら、みかんに好かれたくはなかったから。
「ちょっと、待ってくれないかな、れん」
「……え? あ、うん。どうしたの?」
僕の勢いに水を差された気がした。それと同時に、ほっと胸を撫でおろした。その感情が僕の汚い性根に咲いた感情だと思うと耐えられなくて、見て見ぬふりをした。
「私、ほんとはずっと生きてたかった」
「……うん」
「えっと、違くて。死にたくないっていうのとさ、生きたいっていうのって、違うと思うんだ」
「そうだね」
「死ぬのはあんまり怖くなかったんだよ、実は」
「……ごめん、よく違いがわからない」
みかんはとても小さな意味合いを気にする。きっと心が綺麗なんだ。小さなことを見て見ぬふりをできないから、正直に生きていられるんだ。
「ずっと言いたいことがあったけど、嘘ついてたの。いや、嘘なのかな。隠し事、の方が正しいかもしれない」
「ほんとに? みかんが?」
「れんは私のことを、過大評価しすぎだよ」
みかんの困ったような笑い声が雨音と一緒に聞こえた。
「れんと高校生活を堪能して、京都とか、北海道とかいって、旅行したかった」
「……うん」
「大学とかも同じところいって、ずっと一緒にいてさ。最終的には、結婚とかできたらなって」
そこまで聞いて、みかんが何を言いたいのかわかった気がした。
僕は心の中で、自嘲気味に笑う。
そんなの、嘘とか、隠し事とかじゃない。やっぱり、みかんらしい。
「もっと、生きたかった。死にたくないから、生きたいんじゃないんだよ。れんと一緒にいたいから、生きたかったんだよ」
みかんはどうしようもなく善人なんだ。
「それと、お見舞いに来たれんに、ひどいこと言ったのも、ごめんね」
僕は舌を噛んだ。
どうしてみかんばかり謝っているんだ。
僕がみかんに謝ったことがあったか? 僕がひどいことをしたって、ごまかすだけで、みかんの優しさにかまけて謝ることを放棄している。
嫌われたくないから。その間違い自体をなかったことにしようとしている。そんな僕が、みかんの隣にいてもいいのか?
みかんはすっと立ちあがって、屋根を捨てるように歩いた。その後ろ姿を、僕はじっと観測していた。
みかんの肩に、微妙に力が入っていた。みかんは濡れた髪を耳にかけた。
「生きたいって言ったら、れんが本当に悲しんじゃう気がして、怖かった」
みかんの嗚咽が、雨の音にかき消されながら僕の鼓膜に届く。
「なんか、れんに隠し事してるみたいで、嘘ついてるみたいでさ。なんか、信用してないみたいに感じて」
ほんとに、ごめんね。
みかんはそう消え入るような声で言った。まるで、この世界に落ちる雨の全部が、みかんの涙みたいだった。
僕はその時、羞恥心を抱いた。そんな小さなことで、みかんは罪悪感を覚えていたのか。そう思うと、僕と言う人間がどれくらい臆病で、醜い人間なのか、それが際立った。
やっぱり、みかんは綺麗なんだ。
雨に濡れて、きらきら輝く長い黒髪も、華奢な体つきも、些細なことにも罪悪感を抱いてしまう純粋さも。全部、僕の瞳に映すには眩しすぎる。
「みかん、違うんだ。君が謝る必要なんかないんだ」
だから、僕は言わないといけない。
「謝らないといけないのは、僕の方なんだ」
怯えた。今から僕が言うことは、確実に、何らかの形で僕とみかんの関係を変えてしまうだろう。
けど、今言わないと。みかんと一年ぶりに邂逅して。みかんはもうすでに死んでいて、本当は生きていなくて、それを忘れそうになるくらい、ここで過ごす時間が楽しくて。
だから、この時間を嘘にはしたくないじゃないか。
「僕はくそみたいな人間なんだ」
みかんは何も言わず、ただ雨に打たれている。僕の声は聞こえているだろうか。わからない。でもきっと届いていると信じて。僕は続けた。
「みかんといるとき、僕は君に何にもしてやれなかった。ただ、話を聞いて、それに大丈夫だよって相槌を打っていただけだったから。だからみかんに『別れたい』って言われた時、言葉では否定したけどさ。心のどっかでは、これが正しい結末だって、受け入れてしまっていたんだ」
雨脚が強くなり、角度をつけていた。バス停の屋根をすり抜けて、雨が僕にあたった。ほんの少しの安堵を感じた。みかんも、同じ気持ちなのだろうか。
「いつまでも僕は自分のことばっかり考えてて。ずっと、自分を疑って、この言葉が本心なのか、わかんなくて。自分は冷たい人間なんじゃないかとか、本当はみかんのこと好きじゃないのかもとか。そんな感情でさえ疑ってた」
本心かどうかわからなかった。口にすると、その感情が嘘になる気がして、どうしても言えなかったんだ。
「本当に、いつまでも僕は自分のことしか考えてなくて。ここに来たのだって、自分のためなんだ。ここに来たのは、どうしてもみかんに会いたくなったとか、そんなんじゃなくて。みかんに嘘をついてたこととか、隠してたこととか、みかんに何にもしてやれなかったこととか。そんなみかんへの罪悪感に耐えられなかったから、みかんに会いに来たんだ。みかんのためじゃないんだ」
みかんはじっと、雨に耐えている。片手に握るラムネ瓶にはもう、ビー玉は入っていなかった。雨粒の伝うラムネ瓶はまるで、魂を抜かれてしまったように、虚脱に、みかんに身を委ねているように見えた。
そして、僕はずっと言えなかったことを、叫ぶ。
「本当に、ごめん」
今この瞬間、死んでしまいたかった。
胸の中で煮えたぎる羞恥心と、焦りと不安で張り裂けそうだった。
体温がぶわっと上昇して、嫌な汗が噴き出した。雨の音が遠くなって、視界が狭窄した。
腹をくくったなんて、嘘だ。
ほんとはみかんに嫌われたくなんかない。さっきの言葉を冗談にしてしまいたい。
みかんは今、どんな気持ちで雨に打たれているのだろうか。
怖い。みかんに嫌われるのが、たまらく怖い。
しばらく、落ち着かない沈黙が僕たちの間を埋めた。
僕はみかんの反応を待っていた。
雨の音が慌ただしく、みかんの反応を急かしているように見えた。
みかんが今、どんな顔をしているのか想像するとぞっとした。
怒っているのだろうか。
悲しんでいるのだろうか。
泣いているのだろうか。
わからない。わからないから、怖い。
「れんも、ひどいやつだったんだね」
瞬間、息が詰まった。
「違う。くそみたいな人間は、僕だけだよ」
「でも、れんはいいやつだよ」
「違う。僕は、君の前で泣けなかった」
「確かにさ、私はれんの泣いているところが見たかったよ。でもそれってさ、れんが私のために悲しんでるところを見たかったんだよ」
ほらね、私も、私のことしか考えてないでしょ?
「れんはさ、私のことを過大評価しすぎだよ。いっつも私と比べてさ。それで勝手に落ち込んで。……本当に、れんらしいよ」
みかんの優しい言葉に、安心している自分を呪った。
「そんなことを言ったら、みかんだって僕のことを過大評価しすぎだ。僕は、自分のことしか考えられなくて」
「そんな小さなことで、悩まなくてもいいのに」
「……小さなこと?」
「そうだよ。私に比べれば、些細なことだよ」
「そんなわけない! みかんの方がよっぽど、小さなことだよ」
「うーん、そうかな? 私にはれんのことの方が些細なことだと思うけど……。うん、結局、私が言いたいのはさ」
空に青色が蘇った。灰色の雲はだんだん薄くなって、絵の具で描いたような真っ白い雲になって。ただ透明な雨が、地面に波紋を作った。
「言いたいことを、好きなように言ったらいいんじゃないかな」
その瞬間、僕に絡まっていた黒くぼやけた何かがするりと解けた。肌に張り付いていた鬱陶しい熱が、すーっと、波が引くみたいに体内に戻った。
さっきまで感じていた恥じらいも、焦りも、不安も憤りも全部、どこかに消えてしまったみたいだった。
僕の全部がその言葉に救われたような気がした。
みかんに、言いたいこと。言いたかったこと。
恥じらいを恐れ、嫌われることに怯え続けた僕の性根が、必死に喉元に括りつけていた言葉。
「なんで」
目の奥が焼けるように熱い。痛い。胸も苦しい。息ができなくなる。指先が震える。
「なんで、君は死んだんだよ」
どうして、君が。
「僕を置いていかないでよ」
君は背中を見せたまま肩を震わせている。雨に濡れて、肌に張り付いた制服から、みかんの肌が透けて見えた。
ずっと、これだけを言いたかった。どうして死んだんだって。君に怒りをぶつけたかった。とてもわがままに、君を叱りたかった。
しょうがないことなんてわかってる。
だけど、しょうがないなんて言葉で、はいそうですかって納得できるはずないだろ。なのに、みかんは「生きたい」って、言うことすらも堪えて、必死に我慢して。
静かに死んだ。
「どうして死んだんだ! だっておかしいじゃんか! なんでみかんみたいな、優しい人が死ななくちゃいけないんだ、なんで一人で何も言わずにいっちゃうんだよ!」
「私ももっと、生きたかったよ」
「そんなの知るか! 死なないでよ!」
「だってしょうがないじゃん! 癌なんだからっ!」
「僕は、みかんがいないと生きていけないんだよ!」
どうしようもなく、君のいない世界はつまらなくて、なんにも楽しくなくて、まるで味のしない飴玉をなめているみたいに、退屈すぎて死にそうになるんだ。過去の記憶に縋って、みかんとの思い出に浸って、虚しくなって、後悔が頭の中に蔓延って、拭っても拭っても離れてくれない。僕にとっての幸せは、みかんと一緒にいること以外に何もない。なのに、みかんはどうしようもなく静かに死んだ。
「……ごめん」
「謝らないでよ」
「わがままだなぁ、ほんと。僕は僕のことしか考えてないんだっけ」
「茶化さないで」
「あはは、ごめんごめん」
君は死んじゃったのに。
僕の大好きなみかんと、遊びに出かけたり、駄菓子を食べたり、蝉を捕まえたり、京都とか北海道とかにも旅行に行けないし、同じ大学にも行けないし、結婚もできないし。
初めて本音を伝えられた気がした。うれしいのと、申し訳なさで涙が込み上げてきた。わんわん子供みたいに、弱っちく、情けなく泣いた。
どうして君は死んだんだって。
なんで生きてないんだって。
僕もみかんも、悲しかった。
でも、悲しくても。楽しかった。
この時間がずっと続けばいいと思った。
「……顔が見たいよ」
「……私も、見たい」
「でも、見たら君にもう会えなくなる」
「結局れんはどっちがいいのさ」
「わかんない。顔も見たいし、みかんともっと話してたい」
僕たちは同じベンチに座って、寄り添うみたいにくっついていた。肩と肩が触れ合って、みかんの存在を確かめる。視界に、みかんの黒髪がちらりと映っていた。もう少しで、みかんの顔が見える。
「ねぇ、思ったこと言ってもいい?」
「なに?」
「れんはさ、自分のことしか考えてないって言ってたじゃん」
「うん」
「でも、最果テに行くには、『その人のことで頭一杯にする』必要があるわけだから、自分のことを考えてたわけじゃないのかもって」
「……たしかに」
じゃあ、僕はみかんのことをちゃんと考えることができてたってことなのか。
「ちょっとまってじゃあ、全部僕の勘違いってこと?」
「うーん、どうだろう……。自分のことも考えてたし、私のことも考えてたってことかな?」
「……つまり?」
「自分のことを考えることがつまり、私のことを考えることになってたってこと」
やば、自分で言ってて恥ずかしくなっちゃった。みかんの呟く声が聞こえた。よくわからなかった。でも、みかんのこともちゃんと考えることができてたって。そう思うと、なんだかうれしい。まるで、愛を証明できたみたいな。やばい、僕も結構恥ずかしいかも。心臓がばくばくいってる。
「はぁ、ずっとここにいようかな」
「それは、だめだよ」
「どうして?」
「れんには前に進んでいてほしいから」
いや、れんともう一緒に居たくないとか思ってるわけじゃなくて——。
「わかってるよ。心配性だなぁ」
「だって。言葉でさ、自分の思ってることを、間違ったふうに捉えられたら悲しいじゃん」
「やっぱり、みかんは人のことしか考えてないね」
「意外とれんもそうだけどね」
「そう?」
「そうですーっ、れんが罪悪感を抱くときは決まって自分の利害には関係ない事ですーっ」
「なんか照れる」
「私もなんか恥ずかしい」
終わりが近づいている。僕もみかんも気づいていた。楽しい時間ももう終わり。雨もやんだし、旅立つにはいい区切りかもしれない。でも、名残惜しくて仕方がない。積もり積もった愛惜が僕たちを縫い付けている。
「僕は、みかんがいなくても生きていけるのかな」
不安だった。ずっと。
みかんがいない世界に、どこに生きる理由があるんだろう。理由がなければ、何の価値があるのだろう。そもそもとして、僕に生きる気力は残されていたのだろうか?
みかんが死んでから、僕はずっとみかんのことを考えて生きてきたから。
「生きていけるよ。れんはかしこいし、昔からちゃんとする性格だったでしょ?」
「だって、僕は君がいるところまで、逃げてきたから」
当たり前に、みかんのいない現実が辛かった。
みかんがいない世界に、希望なんてないみたいだった。
「ずっと、自分の気持ちにも逃げ続けて、それで、みかんを傷つけて。……失って。みかんは僕にとっての居場所みたいなものだから、そうやって、逃げたから。帰る場所も、失くしちゃったんだよ」
紡ぐ言葉はたどたどしく、うまく言語化できない感情が、喉元に引っ付く。
「私は君に生きていてほしいよ」
「そういうことじゃなくて」
「そういうことだよ」
みかんは笑う。
「私が死んじゃった後でも、君は私に生きて欲しかったでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど」
「私だってそうだよ。近くに居なくてもいいから生きて欲しい。大切だから、生きていてほしいんだよ」
そりゃそうだ。帰る場所がなくなったからって、その変える場所への愛着を失くしたわけではない。今だって、こんなに好きなんだから。
「でも、僕は——」
喉に溜まった涙で、咽喉が攣る。
「れんは自己肯定感が低いなぁ」
みかんはいつも纏っている輝きをよりいっそう強くして笑う。顔なんか見えていないのに、眩しいと思ってしまう。
だから、もうみかんに会えなくなるって考えると、不安になるんだ。この先、ちゃんと生きていけるかって。
僕は僕に期待していないから。自信を持てないから。でも、この先は僕だけの物語になる。
「れんなら大丈夫。私が断言する」
浮足立った声だった。
「だって、僕はずっと逃げて——」
瞬間、頬に柔らかい何かが触れた。
みかんの柔らかい髪が首に触れて、くすぐったい。太陽の匂いがする。
いつのまにか、僕は泣いていた。
「れんなら、大丈夫」
囁くように、みかんが言う。
みかんの姿を、この目で、やっと、初めて捉える。
顔を離したみかんの頬は、瑞々しい赤色に染まっていた。
「顔、見ちゃったね」
「みかん……」
「もう、時間だから、お別れだね。よっ」
みかんがベンチから立ち上がって、ぱっと、長い髪が宙を舞う。
急すぎて、僕の目は君に釘付けになってしまった。
君のまっしろな首筋が見えた。
小さくて可愛い耳も見えた。
きらきら輝いている瞳が見えた。
その瞳からはとめどなく、澄んだ水滴が零れていた。
ちゃんと君の顔を見たいのに、視界が歪んでしまう。
顔を背けてしまおうかと思った。
でも、君の綺麗な回転に目を奪われてしまった。
君のあどけない輪郭も、幼気な声音も、小さな唇も。
飴玉みたいに、いつまでも甘く、僕の頭の中を埋め尽くした。
「大好きだよっ! れんっ! ちゃんと生きてね!」
こんなに悲しいのに。
君の笑顔と、その言葉に反応して、心臓が跳ねてしまう。
なんだか、負けたような気がした。
「僕も、みかんのことが大好きだよ」
僕も笑った。
最後に見たみかんの顔は、今までみたみかんよりも、もっとずっと眩しくて、かわいかった。
僕は気が付けば、駅のホームで横たわっていた。
蝉時雨が遠くから聞こえる。夏の匂いが肌を撫でる。頬にあたるごつごつした地面が痛い。まるで微睡を見ていたみたいだった。もしかすると、あれは夢だったのかもしれない。僕はほんの少し悲しくなって、上半身を起こした。遠くの方に、きらきら光る何かが落ちていた。僕は何かを見るために、それに歩み寄った。
ビー玉だった。
少しうれしくなった。
もう、これは飴玉みたいに溶けることはない。
結局、僕はみかんに会いたくて仕方がなかったんだ。その気持ちにずっと嘘をついて、自分は冷たい人間なんだとか、後悔がどうとか。そんなのは口実に過ぎなくて。
それでも、みかんは僕の背中を押してくれて。今はほんの少しだけ、世界が綺麗に見える。
僕の中に残る飴玉は今でも鮮明に、琥珀色に輝いている。
飴玉 人影 @hitokage2023
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