第2話

「私たち、もう終わりにしてもいいと思うんだ」

「え?」

 消毒液の匂いがする、純白な病室でみかんは言った。みかんのばっさり切り落とされた髪の毛が遮光カーテンと一緒に、窓から吹く風に揺れていた。春の香りがした。

 心臓に癒着していた重要な何かが、引きちぎれる音がした。せきを切ったように体温が上がって、冷汗が肌を伝った。その温度を冷ますように、風が吹いていた。まるで、なにか悪い夢でも見ているみたいだ。みかんは窓の外を眺めるばかりだった。

「私、もうすぐ死んじゃうからさ。もう、いいかなって」

「そんなわけないでしょ」

「将来さ。……結婚とか、さ。そんなのもできずに、いつか終わっちゃうんだよ?」

「それでもいいよ」

「……私はよくない」

 みかんの瞳孔が、水面みたいに揺れた。

「だって、れんにとって私はお荷物みたいになっちゃったからさ。もう、迷惑かけたくないよ」

「迷惑なんて思ってない」

「じゃあ、れんにとって私はなに?」

「そんなの、決まってるじゃんか。僕にとってみかんは、かけがえのない大好きな人だよ。そんなの、当たり前じゃんか」

「私はそう思えない」

 みかんの声は涙で湿っていた。

「私は、れんがもう生きられないってなっちゃったら、耐えられない。だけど、れんが悲しんでるように見えない」

「それは、僕が」

「私はれんがどんな気持ちで私のそばにいるのかわかんないの!」

 みかんの悲鳴にも似た叫び声が、真っ白な部屋の中に響いた。

「れんはさ、私のこと大好きっていうけどさ、それって本当なの? ……人に、いい人って思われたくて、私に優しくしてるんじゃないの……?」

 みかんは何かに怯えながら続ける。

「れんって、いっつも受け身だからさ。慰めてくれる時も、『大丈夫』しか言わないし、ほんとは私と一緒にいるのが嫌なんじゃないのかなって。正直、いい人ぶって私に接してるようにしか見えない。私は、れんのこと、なんにもわかんなくなっちゃった……」

 みかんの目からはとうとう涙があふれて、頬に線が流れた。

 言われて初めて気づいた。

 僕は、一度も泣いていない。みかんを悲しませないために泣いていないのなら、誰もいないところで涙を流していてもいいはずだ。でも、みかんの前はおろか、誰にも見られていない場所でさえも、涙は一滴も流れなかった。

 僕は、みかんがいなくなってしまうことが悲しくない?

 そんなはずはない。

「僕が、みかんと一緒にいるのは、みかんのことがどうしようもなく好きだからだよ」

 そう言うことしかできなかった。嘘をついていないはずなのに、ついてしまったような気がして怖かった。みかんを騙しているような気がして、本当はみかんのことをどうも思っていないんじゃないかと考えてしまって、喉につまった何かが大きくなったような気がした。

 息が詰まるような、苦しさを感じた。

 でも、涙は流れなかった。

 みかんは僕の言葉に、悲し気に目を大きくしていた。目が沈んで、ほろりと涙が伝った。鼻を啜る音が、妙なほど大きく聞こえた。

 顔をしかめるように、みかんは歯を食いしばって、口を強く噤んだ。

 もうやだ、辛い。

 みかんの消え入るような声が鼓膜を揺らした。

「明日にはもっと状態が悪くなるんじゃないかって、思いながら眠るのもやだ、れんが何考えてるのかわかんなくて、れんが嫌なこと考えてるんじゃないかって、私のことも嫌いになっちゃったんじゃないかって、考えたくないのに、疑っちゃうのもやだ、れんにひどいこと言っちゃうのもやだ……、全部全部もう、やだよ……」

 ごめん、ごめん。

 みかんはそう震える声で続けた。

 どうして、みかんが謝るんだ。

 全部僕が悪いのに。僕がみかんの病気のことをもっと真剣に、悩んで、悲しんで、寄り添っていれば、みかんがこんな感情を抱くことだってなかったのに。


 僕は、みかんがこれから死んでしまうってわかってて、それでも悲しむことができない、冷たい人間なんじゃないか?


 実は、みかんのことが好きだっていうのも昔の話だけで。実は好きじゃないんじゃないか?


 『大丈夫』としか言えないのは、動揺しているだけじゃなくて、みかんが何を望んでいるかわからないからなんじゃないか?


 みかんと一緒にいたのは、みかんしかいなかったからじゃないのか?


 みかんと一緒にいるのは、そんな自分を信じたくなかったからじゃないのか?


 考えると、動悸が走った。

 僕がくそみたいな人間だって、自覚してしまって。

 みかんに何もしてやれないことも、何をしたって嘘みたいになることも、申し訳なくなった。

「れん、やっぱり、別れるのは、やだ……」

 吃音きつおんの混じったみかんの声は、昔みたいな、感情をそのまま口にするみかんの声だった。

 病気になったみかんが大人びて見えたのは、感情をそのまま口にしなくなったからだと気づいた。

 そんなことにも気づけなかった自分が嫌になった。

「れん、大好き」

 みかんはそう、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、笑った。

「僕も、みかんのこと大好きだよ」

 僕も笑って言った。罪悪感がズキリと僕の胸を刺した。


 その日、みかんが本音を漏らしたのにもかかわらず、なんにも自分はしてやれなかったと気づいたのは、病院を出た後だった。

 結局、自分のことしか考えていなかった。


        *


 みかんの葬式が上がった時、僕は泣いた。

 これでもかってくらい、涙も声も枯らして、枯れても咽び泣いて。

 悲しみに明け暮れていたときは、懊悩(おうのう)なんかなかった。

 その自分から滲みでた涙に救われた。

 大切なものは、失って初めて気づく。間違っていないと思う。けど、そんなの遅すぎる。遅すぎるんだ。今気づいたって、僕がみかんにしてやれることなんて、何一つとしてないじゃないか。

 あの時、みかんが何を望んでいたのか僕にはわからなかったけど、今ならわかる。

 きっと、みかんは僕に悲しんでほしかっただけだ。

 一緒に泣いて欲しかっただけだ。

 辛いって言ったのは、僕に大丈夫って言われるためじゃなくて。僕も、みかんがいなくなると思うと辛いって、言って欲しかったからだ。

 だから、僕は最果テに行く。

 そして、もう一度みかんに会うことができたら、僕は——。


 いつの間にか目を閉じていた。

 きっと、目に汗が入るのが嫌だったのだろう。

 蝉時雨が耳鳴りのように鳴っていた。

 地面からくる熱気が肌に纏わりついていた。

 足は地面を踏みしめるたびに軋んだ。


 ふっと、軽くなった。

 蝉時雨が消えて、ぴちゃりと足元で水たまりを踏んだような涼しい音がした。

 僕は目を開く。

 鮮烈なスカイブルーが、水平線の向こうまで広がっていた。地面に逆さになった空が映っている。まるで大きな鏡の上に立っているみたいだ。

 ここが、最果テか。

 空気が濁りなく澄み渡り、視界がクリアだ。空に立体的に積みあがる入道雲が、青空に浮かんでいる。息を吸い込むと、清純な空気が肺にたまって、疲れが浄化されていくような感覚を覚えた。

 僕は周りを見渡す。それらしい人影は見られなかった。だから、僕は探すことにした。足を踏み出すたびに、ぴちゃぴちゃと音が跳ねた。時々吹く風がひんやりと冷たくて、気持ちよかった。

 しばらく歩いて、バス停の看板が見えた。そこにはバス停の屋根の下に、金属製のベンチがあった。歩き疲れて、ベンチにもたれかかるように座った。

 しばらく、そのベンチに座ってみかんのことを考えていた。みかんに会ったら、何を話そうか。楽しい思い出を語り合ったり、一緒にラムネを飲んだり。今君はどこにいるの? とか、どんなふうに過ごしているかとか、幽霊になってるのとか。訊きたいことがたくさんあるんだ。

 そして、みかんに———。

「もしかして、泣いてるの?」

 囁くような、甘くあどけない声。

 その声のせいで、今まで感じていた全部の感覚を忘れた。大切にしまわれていた感情に被っていた埃が舞った。

 かすかに感じるお日様の匂いとか、繊細な髪が首にあたってくすぐったい感触とか、それで感じる体温が、僕の中にある感傷に染み込んでいった。

 みかん隣に座って、僕の肩に頭に載せている。みかんの息遣いを僅かに感じた。

 ずっと、もう一度会いたいと思っていた。けど、こんなにいきなり会えるとは思わなくて。

「……ッ! みかん……!」

 僕は背後に座ったみかんに、思い切り振り返ろうとした。

 すると、頬に冷たい何かが当たった。一瞬の逡巡の後、それがみかんの両手だということに気づいた。

「れん、ここでは相手の顔をみちゃうと、現実に戻されちゃうんだ」

「ど、どうして」

「どうしてもなにも、ルールだからなあ。だから、見るときは現実に戻るときにしよう? 私まだ、れんが現実に戻っちゃったらやだよ」

 そんなルールがあったなんて、知らなかった。でも、みかんは嘘をつかない。

「……そっか」

 少し残念だけど、信じるしかない。

「それにしても、私のことで頭一杯だったんだね? れんは私のこと大好きだからねぇ」

「もう、そうやって茶化すのよくないと思うなぁ。せっかくまた会ったのに」

「えへへ、ごめんってば」

 こうやってすぐにおどけるところも、昔のみかんのままで安心する。

「そういえば、ラムネ持ってきたんだ。みかんこれ好きだったでしょ」

 最初にまず何を話せばいいのかわからなかったから、これを渡すことを決めていた。

「おー! さっすが愛するれんくん! 気が利くねぇ」

「素直にありがとうって言えないの?」

「えへへ、ありがと、大好き」

「軽いなぁ」

 どうしようもなく、うれしくなってしまうけれど。

 僕はみかんにラムネを一本渡す。

 まずはラベルを剥がして、凸型になっている蓋を取り出す。

 そして飲み口に思いっきり押し込むと、中のサイダーが溢れて手についた。「あちゃー」と悲鳴を上げるみかんの声が聞こえた。

 僕たちは多分同時に、一口ラムネを飲んだ。

「ぬるい!」

「でも炭酸は残ってるよ」

「ぬるいよ!」

「しょうがないでしょ夏なんだから」

 ちぇー。

 みかんはそう難癖をつけながらも「おいしいー、懐かしいね」と口ずさみながらラムネを飲んでいた。

 しばらくして、中のビー玉がカラカラと涼し気な音を立て始めた。

 その頃には僕のほてった肌も冷えていて、額に残る汗が冷たかった。

 透き通る、水面みたいな地面と、澄明な青空を眺めながら口を動かす。

「ほんと、夢みたいだ。また、みかんと会えるなんて」

「ほんとにねぇ。それにしても、れんはまた身長伸びた?」

「……どうだろう。身長とかあんまり気にしたことないから」

「男でしょ、少しは気にしなよー」

「だって、みかんはそんなこと気にしないじゃん。ほら、中学のときみかんの方が慎重高くなってた時も黙っててくれてた」

「あ、気づいてたんだ。まぁ、身長とかあんまり気にしないけどさぁ。でも、身長抜かせてたのも一瞬だったよ? すぐに追い越された」

「僕もびっくりした。気づいたらみかんが小さくなってたから」

「なにそれ煽りか? このー」

「違う違う、誤解だって」

 残りのラムネを喉に流し込む。風鈴みたいな、爽やかな音が鳴る。ビー玉が飲み口に引っかかってなかなか最後の一滴まで飲み切れない。もどかしい。

 今ビー玉を取り出してもいいけど、この心地よい音が鳴らなくなるのも、それはそれで寂しい。

「小学生の時も、こうやってラムネ飲んでたよね」

「そうだねぇ」

「みかんは一回瓶を割って怒られてた」

「だってビー玉の取り出し方わからなかったんだもん」

「あと中村先生にもよく怒られてたよね。みかんはすぐボール失くすから。そのたびにわんわん泣いて——」

 思い出話が尽きるまで僕たちは話し続けた。

 久しぶりに感じるみかんの全部が愛しくて。声も、こっそり繋いだ手から感じる体温も、甘い匂いも。

 カラカラとラムネの奏でる風鈴に、淡く、飴色の感情が溢れる。

 まるで病気なんかなかったみたいに、僕たちは笑い合いながら語り合った。

 けど、全部語り尽くしてしまって。

 雨が降り始めた。

「晴れてるのに、雨が降ってる」

 澄んだ青空から、透明な水滴が落ち、地面に波紋を作っていた。地面に浮かぶ白い入道雲が歪んでみえた。

「……ずっと、みかんに言いたいことがあったんだ」

「私もれんに言いたいこと、いっぱいあるよ」

「……どっちから言う?」

 雨の落ちる音が、僕たちの沈黙を奪う。透き通るような音のせいで、世界の解像度が上がったような気がした。

「私から言うよ」

 みかんのまっすぐな声が雨音を消した。

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