飴玉
人影
第1話
いたいけな口づけを、まだ小学生だった僕たちは交わした。なめ終わったソーダ味のアイス棒を持ったまま、ラムネはベンチに置いたまま。駄菓子屋のベンチの脇にランドセルが捨てられていて、口づけが作った、息を飲むような静寂を蝉の声が奪っていた。
君の顔が急に眼前に迫って来て、驚いたのを覚えている。
息を止めていたから、匂いはわからなかった。けれど、心臓が大きく高鳴って、頭の中に君が飽和して。ぶわっと身体の中から何かがこみあげて、震えた。
しばらく、唇に柔らかな感触が残っていた。
顔を離した君は、染まった頬をごまかすように口角を上げた。その時に細くなった目が、今まで見たこともないような輝き方をしていた。
「私、れんのこと大好きなんだ」
風鈴の音が鳴った。
その風で、君の前髪がひらひらと揺れた。
ぴたりと風がやんで、時間が止まったんじゃないかと思うくらい、静かになった気がした。汗が気持ち悪いとか、夏の日差しが暑いとか、蝉がうるさいとか。そんな陰鬱な感情は、君の告白によって全部吹き飛んでしまって、心の中には現実味のない純情だけが取り残されてしまった。けれど、君の綻んだ顔を見ているとそれが段々形になっていって、返すべき言葉も自然に浮かんできた。幼かった僕でも思いつくような、単純で遠回りのとの字も知らないような言葉だったけれど。
でも、いきなりそんなことを言えって言われても。
もう一度風鈴がなったら、返事をしようと思った。
けど、風が吹く前に君の口が開いた。
「へ、返事は?」
「え、あ、ぼ、ぼくも」
「ぼくも?」
君は首を傾げる。
「え?」
「言わないの?」
「うー」
言いたい。でも覚悟ができていないし、恥ずかしいし、なんか怖いし。
「いくじなし~」
君はいつもみたいに僕の頬をつねった。痛い。けど、柔らかい指先に優しさを感じる力加減だ。これも僕への愛情なのだろうか。そう考えると、頬が緩んだ。
「なににやついてんだよ~」
「好きだよ」
「え? 今言っちゃうの?」
「言ったからいいじゃんか」
「誰が好きか入ってないからやり直し」
「うー」
両方の頬をつねられて、左右に引っ張られる。僕の悲鳴が「いー」に変わる頃に、僕は君に目を合わせた。
君はその瞬間手を離して、右下に視線を彷徨わせた後、姿勢を整えて、あと前髪も整えてって、なんか色々顔をいじり始めた。
僕はそれが終わるまでじっと君を見続けて、最終的にやっと目が合った。
君は真剣と言うより、一生懸命な顔で、僕の瞳を射抜いた。
風鈴の音が鳴った。
「僕も、みかんのこと大好きだよ」
その日、僕たちは初めて互いの気持ちを言葉にして確かめ合った。
前々から両想いだってことはわかっていた。目が合う頻度が増えたり、互いに男女としての距離感を意識していることは、みかんのちょっとしたしぐさや表情で気づいていたから。
だけど、言葉にしてしまうと関係が変わる気がして、今ある幸せが消えてしまうような気がして中々言い出せなかった。
でも、言葉にしても関係はあまり変わらなかった。変わったことと言えば、かわいいって、堂々と言えるようになったくらいだ。
*
周りには色々な音があることを、君と話していたから忘れていた。
小鳥のさえずり、
風鈴の音は、道路の脇にひっそりと佇んでいる駄菓子屋から鳴っていた。木の下に置かれたベンチに、飴色の木漏れ日が落ちている。
日照りが僕の肌を焼いていた。ぴったりと肌に張り付いたワイシャツが気持ち悪くて、襟をひらひら仰いだ。
小さい金魚鉢を逆さにしたような、ガラスの風鈴は生ぬるい薫風に揺られて涼しい音を奏でていた。駄菓子屋の中を覗くと、店内は静まり返っていた。今の子供はどうやら駄菓子屋にはいかなくなってしまったらしい。
僕はその駄菓子屋でラムネ瓶を二本買った。
今日、みかんに会いに行く。
ただ道を歩いた。うだるような暑さの中、孤独に足を動かした。
その間、みかんのことを思い出した。
初めて見たみかんは小さくて、でも綺麗な女の子だった。外でよく遊んでいるのだろう。肌が程よく焼けていて、お日様のにおいがする。みかんの顔立ちはこのころから整っていて、ビー玉のような瞳は澄み渡っていて、その目を通せば何でも綺麗に見えるんだろうと思った。ほかにも、照れたり、落ち着きがなくなったりすると、長くまっすぐな黒髪を、視線を右下にそらしながら耳にかける癖もあった。
そんなみかんに引っ張られて、色々なところに連れまわされて、誰よりも仲良くなった。みかんは僕といるとき、本当に幸せそうに笑っていた。夏になるといつも虫かごいっぱいになるまで蝉を集めて、それは高校一年生まで続いた。僕たちの伝統行事だった。
時々、初めて想いを伝え合ったときみたいに、真剣に見つめ合って互いの気持ちを確かめ合った。あの時の心臓の動き方とか、恥ずかしくて顔に熱が集中する感覚とか、みかんも僕と同じように染まっていく様子がたまらなく愛おしかった。
高校一年生までは、
僕は住宅街の二つの道に裂ける分岐点で、ふと足を止める。いつもここまで一緒に下校して別れていた。道路反射鏡で、去っていく背中を見ていた。そこに映るみかんの横顔には笑顔が張り付いていて、心臓から滲み出る愛情とか幸福感に浸っていた。
あの時の名残惜しさと、高揚していた気持ちがしんと凪いで行く感覚を思い出す。
僕は、過去のみかんを追いかけるように、道を歩いた。
*
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない……!」
みかんはブランコだけがある狭い公園で、僕の胸に顔を埋めている。
曇天から今にも雨が降り出しそうな、繊細な空気が壊れてしまいそうな不安が、僕の胸に渦巻いていた。街全体の物質が、雲の黒色に染まっていく。
僕の胸に収まるみかんの頭は小さく、きめ細かな黒髪を僕は撫でていた。
君の声以外なんにも聞こえなくて、その公園の鋭利な静寂のせいで、いっそう痛切に聞こえた。
「もっと生きたいよ、死にたくないよ、やだやだやだ」
「まだ死なないから大丈夫だよ」
「いつか死んじゃうじゃん!」
「大丈夫、大丈夫だよ」
みかんは声を上げて泣いて、震えていた。まるで寒さに凍えているみたいだった。でも手に触れるみかんの頭は温かくて、擦る背中は熱くて。細くて。ぽっきりと折れてしまいそうな儚さがあって。飴玉みたいに、溶けてしまいそうで。
心配で、悲しくて、でも何かのはずみに僕がみかんを傷つけてしまいそうで、それが怖くて。僕はただ為されるままに、みかんが涙を流した分だけ背中をさすって、言葉をかけた。
でも、そんなことをしたって何にもならないじゃんか。
しばらく、みかんの嗚咽が僕たちの沈黙を奪った。
いつの間にか、黒く染まった雲が雨を落としていた。それは僕の手に触れて、体温を奪っていく。みかんの背中に、雨粒が落ちて、服に染み込んでいく。まるで絡みつくみたいに、みかんを襲っているみたいに見えた。その雨で、みかんの体温が、火が消えるみたいになくなってしまうんじゃないかと思った。
「……帰ろうか」
と、僕は言った。
「ごめん」
と、みかんは言った。
喉に、何かが突っかかったようなわだかまりが残った。
その飴玉はまだ、溶けることはなく、僕の喉に引っかかったまま残っている。
*
みかんの家についた。みかんの家は二階建てで、ドアの前に白い車がある。
僕は一度、呼吸を整えた。
深呼吸をすると、肺に夏が満たされて、体の中が緑になるんだと、みかんが言っていたような気がする。
緑ってなんだよって思ったけれど、今ではわかる。きっと、爽やかだということだ。
あの子は自分の感覚が名前になる前に口に出すから、言葉にみかんの感性が宿っている。そういう拙い部分も、僕は好きだった。
僕はふぅっと、音と一緒に緑を吹いた。
「あら蓮君じゃない。久しぶりね~、どうしたの?」
ドアから半身をのぞかせる彼女が、僕の心の中にあった埃の被った感情を動かした。
丸みを帯びた輪郭、きゅっと小さく結ばれた口元、大きくてきらきら輝いている黒い瞳。時を超えて、僕を迎えに来た海幻に見えた。
「……久しぶりに、みかんに会おうと思って」
僕はみかんのお母さんに言った。
すると彼女は侘しい笑顔を浮かべた。
「ありがとね。わざわざ足を運んでくれて。きっとみかんも喜ぶわ」
中に入ると、みかんの匂いがした。口の中にいつまでも残る飴玉のような、甘い香り。玄関で靴を脱いで、一階のリビングを通って和室に向かう。
そこに、みかんがいた。
「みかん、久しぶり」
みかんの前で、正座を作る。
「いつぶりだったかな、あれからずいぶん時間が経ったよね。高校では結局友達はできなさそうでさ。このままうまく言えば高校を卒業できるね。やっぱり、結局僕にはみかんしかいなかった」
写真の中のみかんは、幸せそうに笑っている。線香のにおいが鼻腔を劈いた。仏壇は埃なんて一つとしてついていなくて。綺麗すぎて。
でも、線香の香りをかいで改めて実感する。
みかんはもう、この世には存在しない。
窓越しに聞こえる霞んだ蝉の声のせいで、今僕がいるこの場所が現実とはまた別の、遠くの場所にあるような錯覚を覚えていた。
「みかん。今日、君に会いに行くから。……あそこで、待っててよ」
ちいん。
仏壇りんの、風鈴に似た音が、長く、空気に留まった。
正座を解いて、立ち上がる。
「今日は、これで。急に来てしまったのに、ありがとうございました」
「ねぇ、蓮君」
「はい」
「蓮君は、今からどこに行くつもりなの?」
彼女はひどく心配そうな声音で尋ねた。
僕は諦めて笑った。
「『最果テ』に行きます」
ここら辺の地域には、とある噂がある。
それは、会えなくなった人のことを想いながら××駅の線路を辿っていくと、『最果テ』という場所に辿り着くというものだ。そして、その場所には会えなくなった人がいると言われている。
みかんは膵臓癌で死んだ。高校一年生の夏から入院していた。高校二年生の夏に息を引き取った。
気が付けばみかんの葬式があがっていた。
みかんと過ごした日々のことを、時折思い出す。そのたびに、口の中に甘美な記憶が広がって、まるで飴玉みたいにとろけていく。
笑う時に細くなる瞳も,煌びやかな虹彩も、短くなった黒髪も、華奢な体つきも。全部僕の中に残っていて、でもそれがいつか溶けてなくなってしまいそうで怖い。
みかんが死んだことなんて、信じられない。
一年間待った。
何かの間違いだって、誰かに言って欲しかった。
びっくりさせようと思ってとか言って、ふらっと戻ってくるかもしれないと、僅かながら期待していた。
でも、戻ってくることなんてない。
だから今日、最果テに行く。
きっとみかんはそこに咲いている。
××駅の線路は海に沿うように伸びている。田舎の電車は四十分に一本くらいしか止まらない。立派な駅のホームはあるけれど、ほとんど無人だ。僕はフェンスをよじ登って線路の上に立つと、罪悪感に似た緊張が僕の喉を締めつけた。蝉時雨も遠ざかった気がした。空は雲一つなく、太陽の熱線が降り注いでいる。視線を落とすと線路の先で蜃気楼が揺れていた。地面から熱気が上がり肌を不快に撫で、そのせいで全身から汗が噴き出して、目に入って浸みた。僕は二本のラムネを握りしめて、足を踏み出す。
本当に、最果テは存在するのだろうか。
口の中が粘っこくなり、唇も少し痺れている。軽度の脱水症状が体に現れ始めてきた。馬鹿なことをしているのはわかっている。けど、ここまで来たら簡単に終わらせられる話でもなくなる。このまま
汗が頬を伝って、ぽたぽたと落ちる。そのたびに体の熱さが増していく気がする。湿った肌が服に張り付いて気持ち悪い。
『その人のことで頭一杯にして、そこで××駅の線路を辿っていくと、最果テにいける』
風鈴の音を思い出しながら、みかんのことを思い出していた。
口の中にいつまでも残り続ける、飴玉みたいなみかんの記憶。
駄菓子屋の朽ちた木の香り、凛々しい風鈴の音、降り注ぐ蝉のサイレン。口の中で弾ける炭酸。鼻を抜ける薫風の匂い。
小学生の、一生懸命なみかん。
中学生の、いつまでも変わらないみかん。
高校生の弱ったみかん。
死にたくないと叫ぶみかん。
痛いと嘆くみかん。
声が枯れるまで咽び泣いて、次の日には目が赤く腫れているだけで、少し大人び様子のみかん。
病室にいる、焼けた肌も真っ白になってしまったみかん。
みかん。
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