老人と柿

坂水

第1話

 東の果て遥野郷はるかのごうの最奥、安是の里では恋をした女は光る。

 これは比喩でもなんでもない。つきのものを迎えてしばらく、子を宿す準備が整った女は、意中の男を前にすると身の内から光を発するようになる。最初はぽっとかすかにおぼこく、身体が成熟するにつれて光り滴るほどに。

 そうして、すっかり準備がととのった女は、男の前で衿を掻き開いて囁くのだ──貴方が光らせたこの身体、貴方でなければ鎮められぬ、と。

 男は心ときめかす。恋心を膨らませ、こんなにも光り濡れた女を愛いやつと。

 女は心得ている。この甘く誘う光を、自尊心と支配欲から男が絶対に拒否できないと。

 こうして一対の幸福な夫婦が出来上がり、子が次々と誕生し、里は緩やかに営みを続ける。それが連綿と受け継がれてきた安是のことわりだった──とは、聞こえの良いお題目でさあ。


 お若いの。お若いのは安是女の光を見たことがおありになるか。

 緋色、牡丹、紫紺、浅葱、鬱金色――恋情を十人十色しとど燃やす。けんど、ありゃあ見るは目を灼き、触れるは指が爛れ、匂うは獣のような、沼のような、女のあれのような腐臭で鼻がひんまがる。決して近付いちゃあなんねえ。穢れそのものさあ。


 ……知り合いがいる? 自分が見た光情はこの世に二つとない素晴らしい現象だった?

 身から放たれる光は、幾千の靡く薄絹にも、万の翔ぶ蝶にも、無限に噴き上がる溶岩にも似て、光彩奪目の様であったと。まろい稜線に焔を這わせ、払暁も黄昏も心のまま。畏れ、敬い、崇めるべきものだ。


 こいつぁまいった、お若いの──いえ、若旦那とお呼びすべきか。お安是女の光情をご存知とは。

 申し訳ない、嘘を申し上げました。

 安是は隠れ里、面白半分に興味を持たれるわけにはいかないんでさあ。なんせ、謀反人として都を追われた落人が作ったもんでさあ。ゆめゆめ、口外されぬよう。

 

 ……隠れ里を作ったのは落人でない? 落人は受け入れられただけ? 元々、安是が裾野に位置する黒山は障りのある女を捨てる女捨山だった?

 いや、たまげた。若旦那、それをどこでお聞きなすったか。安是者でもごく一部しか知らん事実でさあ。くれぐれも内密に。安是者は気位が高く、血気盛ん。半分は武士の血が流れておりますからなあ。誰も彼も狂い女の血が流れていると知れたら、里は立ち行かなくなりまさあ。


 どこのどなたか訊ねはしますまいが、若旦那は余程の事情通とお見受けします。隠し事をしても無駄なこと。ならばいっそ、退屈な秋の夜長、わっしの身の上を聞いてもらえんでしょうか。


 この里は残酷でさあ。女子おなごは惚れた男にゃ光りくゆらすが、興味ねえ男にはちょっとの情も示さん。誰にも光られん安是男は、まあ、惨めさあ。

 わっしは見ての通り、小柄ななりの片端者かたわもの。右と左の脚の長さが違って、真っ直ぐ立ったつもりでも傾いちまう。安是女はわっしを、さも嫌そうに蔑むか、笑いの種にするか、あるいはまったくおらんように扱った。惨めなもんでさあ。

 光に焦がれ焦がれて、灼き炙られて、可愛さ余って憎さ百倍。女どもに狼藉を働こうとしたことも一度や二度じゃありやせん。

 攫って犯して山に埋めよか、だけんど、光らぬ女を犯したところで意味は無し。誰ぞ色男に化けて恋仲の女をだまくらかそうにも、この小柄ななりと傾いた脚じゃあすぐにばれちまう。

 まったく、安是女の光情は、男にかけられた呪いでさあ。それもそのはず、元々は山に捨てられた狂女たちが匿った落人を篭絡するため、黒山の主たる山姫にこいねがった鎖。そうそう解けるもんじゃねえ。


 ちょいと、一服させてもらいまさあ。若旦那も呑みますかい? 今のわっしの愉しみはこれくらい。若旦那ほどの色男なら、よりどりみどりでしょうな。今は妻の暗紫紅一筋? はあ、本物の色男は言うことが違いなさる。


 ……若旦那は、海をご覧になられたことはありなさるか?

 おありになる? 諸国を遊学していた? そりゃあいい。空と海との境が一直線に見えるとは本当ですかい? 船が下から消えるっているのも。

 いえ、唐突にすいません。実は若い頃、里を出ようと思ったことがありまして。


 ……ええ、里を出ようと決意したのは、海を見たいと思ったからでさあ。


 生まれてこの方、安是で暮らし、遠出といえば売り買いのために宮市へ下りるぐらい。でも宮市では幾度となく、商人や船乗りと行き逢い、海の話を聞きやした。

 珍しい魚、生き物、人、異国へ繋がる玄関口。何より、遮るものがない真っ青な大海原。

 見たこともない海を胸に思い描いて、なんもかんも捨ててやり直そうと準備を整えておりました。次男坊で継ぐ家も田も畑もなければ、嫁も子もいない。手先は器用だったんで、修繕や手仕事を請け負っておりましたが、未練はあらなんだ。


 なれど安是は隠れ里。準備が進み、次の新月に出立しようとしていたところ、安是の巫女たる〝おしらの方〟に呼び出されましてなあ。

 歳の頃は五十手前、里のもてなしの場である〈白木の屋形〉を取り仕切る、頭のいい女でした。実質、里を動かしていたのは彼女で、里長らはおしらの方にそうと気取られぬまま操られていたようなもの。

 安是男は下手をすりゃすぐ僻み根性を発揮するが、おだてりゃ働く。おしらの方はその性質を熟知していて、里長らよりもずっと上段に座し、安是を俯瞰し、掌握してなすった。

 そんな巫女様に呼ばれ、ちびるぐらいに緊張しましたさあ。企てがばれちまった、仕置きを受けるのだと恐々きょうきょうとしておりやした。


 それが出向くと、茶を出され、菓子を供され、最後にゃ柿を勧められた。


 ……ええ、柿でさあ。


 おひさんの光を煮詰めたような色をした熟柿でした。けんどちょいと熟れ過ぎていた。少し揺らせば、皮が破れ、汁が滴る。刃物で切ることはできねえ、むしゃぶりつくしかない。

 その柿にゃあ、見覚えがありました。それまですっかり忘れていやしたが、数年前、里の儀式で供えられた柿でさあ。

 随分な様変わりで驚いたもんです。あん時は実が硬くしまっていたはず。それがこんなだらしなくぶよぶよ水ぶくれしちまうとは。

 儀式っつうのは黒沼──黒山の中腹に黒い沼があるのはご存知か──の岸に、色付き始めた柿を五、六個並べて、ひとつずつ落とすんでさあ。

 ぼちゃん、ぼちゃん、ぼちゃん、と。

 すると不思議なことに一つだけ浮かび上がってくる。浮かんだ柿は見事に照り光り、〈白木の屋形〉の供物となる。


 ……浮かばなかった柿がどうなるか? 


 まあ、沼底に沈んで、腐って、くずれ、折り重なって、泥濘の層にでもなるんでしょうなあ。まあ、元々黒く濁っているから、柿の五、六個増えたって変わりゃしねえ。沈み柿を気になされるなんざ、若旦那は妙なお人だ。


 ああ、いけねえ、話が逸れちまった。


 おしらの方に柿を勧められたが、わっしは柔い柿はよう好まん。甘くねっとり酔わせるとうよりゃ、吐き気を催させるような濃い匂い。蝿なら喜んでたかって蛆をわかせたでしょうがな、お断りしやした。

 すると、おしらの方はせめて数日、柿の世話をしてくれんかと頼んでくる。自分は黒山裏の隣里に用事があって留守にする。その間、四、五日面倒を見てやってほしい、と。

 わっしは四、五日ならと承知した。まあ、里で一番の女に頭を下げられるのは悪い気はしねえ。それに供え柿だ、あんまりおろそかにすると山姫の怒りを買うやもしれん。不承不承、わっしは柿が供えてある〈白木の屋形〉に入りやした。

 まあ、おしらの方が隣里を訪れるなんざ嘘っぱちで、はなからわっしに柿を託すつもりだったんでしょうな。まったく頭の回る女だ。

 

 しかし、いやはや、参った。里で最も贅を尽くしたもてなしの屋形、それがあんなにも汚ねえとは。

 柿は自重で腐った実を支えきれず、ところかまわず汁をしたたらせておりました。屋形のあちこち染みが浮かび、腐り果て、異臭を放つ。

 わっしは修繕やら片付けやらも請け負っておりましたから、掃除は並みの安是男よりもできやした(というより、光り昇らされた安是男はなんもせん)。どちらかと言や、汚ねえのが我慢ならねぇ。

 そんでも柿はそちこち転げ回って、清めたそばから汚しちまう。腹が立って蹴れば、柿は怯えて逃げ隠れるが、莫迦なもんで汁がしたたって道筋を描く。わっしは逃げる柿を追う。かたわとはいえ、ぐずぐずの柿に遅れはとらん。柿は、汁だけだけでなく、喚いて涎やら涙やら鼻水やら糞までも撒き散らす。わっしは大仰に怒鳴って殴って蹴って、柿を怯えさせる。


 数日して、その繰り返しがだんだん面白うなってきましてなあ。里ではものの数に入らず、光り濡れる女も光り溺れる男も、生き呪い暮らしておった。そのわっしに踏みつけにできるもんができたのだから。蹴って殴ってぶよりとした肌に手足が沈むたんびに、震えるほどの愉悦が走り、血潮の満ち引きを感じたもんです。

 世話を頼まれた手前、朝昼晩と食事は用意しましたが、柿は喰い意地がはっていて、飯を出すとすぐにかっこみました。いや、ありゃあ飯をかっこむというより、頭をつっこむんで、犬のように喰らいよる。

 あんまりな勢いに、いたずら心が働いた。

 鍋一杯に葛煮を炊いてやりゃあ、案の定、煮え立つ鍋に飛び込んだ。柿は葛煮を浴びて、驚いて屋形を走り回った。

 その足の速いこと速いこと。猪の勢いさあ。見失って、屋形中を捜して見つけた時にゃあ、ぶつかったのか、庭の楓の大樹の下に倒れておりやした。


 ……まあ、さすがにやりすぎたと反省しましたさあ。


 柿はおしらの方様からの預かりもんだ、死なせるのはまずい。わっしは焦り、意識を失った柿を屋形に運び、看病しました。

 井戸から汲み立ての水で熱い葛を拭い、汚れた着物を脱がせ、優しく、丁寧に、隅々まで清めました。だけんど拭くそばから、汁が滴り汚れちまう。火傷で爛れた肌を汚しちゃなんねえと拭けども、拭けども、溢れ出す。手拭いだけじゃなく、屋形にあった着物で拭いても間に合わねえ。しようなしに口を付けて啜ってやりました。じゅうじゅう、じゅうじゅう、むせぶほどに吸ってやりました。

 一晩中、吸って、吸って、吸って、舐めて、啜って、呑んで、腹はもうはちきれんばかり。

 明け方、お天道様が橙色の指先を伸ばしてきた頃、柿は目を覚ましました。ちょうど柿の脚の付け根に顔を沈めて、一番汁がしたたるところに直接口を付けていた時でさあ。

 朝陽にさらされた柿は、まだ寝ぼけているのか、焦点の定まらん目でわっしを見る。

 と、どろりと甘ったるい汁がどっと溢れ出る。わっしは慌ててじゅうっと啜りました。汁を垂らして布団を汚したくない。舌をすぼめて奥まで差し込み、思い切り吸ったんでさあ。

 すると、奇妙なことに、射し入る朝陽が一段と濃くなり、寝所を橙色に染めた。そこで気付きやした。

 光は射し入っているんじゃねえ。

 柿が、身の内からしとど染み出させているのだと。あたたかで、あまく、とろける、おひさんのような光を。

 わっしは柿の顔を見ました。柿は初めて笑っておりやした。わっしにひどい火傷をおわされたこともなかったように。


 それから十年ほど柿を世話しました。

 ある日、用を済ませて宮市から帰ると、待たせていたはずの座敷で潰れておりやした。

 もう二十年近く前のことになりますなあ。橙色を通り越し、真っ赤に染まっておりやした。座敷を出ようと暴れた挙句でしょうよ。


 ……情があったかなかったか? わっしに? 柿に? 若旦那は酷なことをお訊きになる。

 光り昇らされ、世話を続けりゃ、情はわく。

 だけんど柿は狂い柿、どうして、あんな仕打ちをした男に光情をしたたらせようか、わっしにはわからんのです。


 いえ、もう、行かねえさあ。海には多少未練がありますが、小用ができちまいましてね。

 里に根を張る古木がありやして、斧で斬り倒しにいかねえとならねえ。


 ……では、お達者で。互いに生きていたなら、いつか里の外でお会いしやしょう。

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老人と柿 坂水 @sakamizu

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