5-6 みな微妙な表情になって

 彼の者は猫であった。


 デコピンなどと些か不本意な名前で呼ばれているが、取り敢えず食事と寝床を用意し散歩の自由があるから勘弁してやっていた。


 そして代金替わりに同居人の手伝い何ぞをやっている。その程度の義理は弁えていた。だがそれはあくまでボランティア。彼本来の目的はこの周囲に満ち満ちる全世界の掌握であった。


 この世界の全てを我が手に収めねばならない。それは夢や幻想などでは無く義務や権利でもなく、彼がこの世界に出現した意味そのものであった。異論反論は無用であり意味を為さない。そう決まっているからそうなのである。


 掴み取るためには知らなければならなかった。だから日々ありとあらゆる場所を巡回し視察し、この崇高な思惑を司る頭蓋の奥底にその全てを刻み込んで行くのであった。


 まだ喧噪も少ない早朝の屋根の上を徘徊しながら、彼は朝日でぼやけた白い月を見上げて「にゃあ」と鳴いた。世界は広い。広すぎて目眩がしそうだった。しかし彼の欲求を妨げるには役不足だった。むしろかき立てる燃料だった。魂のこの奥底から湧き出るモノがこの世の全てを見聞せよと叫んでいるからだ。


 自分が同種の連中よりも、些か知恵が回るという自覚はある。だがそのような些細な優位など、何の保証にも為らないことはよく知っていた。あの同居人が良い凡例だった。


 アレは他の人間よりも遙かに身軽で、力も強ければ老いて弱ることもない。しかも他の有象無象よりも幾分マシな、小賢しい知恵と知識まで携えている。


 にも拘わらずどうだ。薄くて平べったいガラスと金属で出来た板を終始顔の横に貼り付けて、其処から漏れ出る声に唯々諾々と従うばかりだ。


 嬉々とするなら筋も通るが、声が途切れれば愚痴ばかりを口にする。不満があるなら恭順などせねば良いモノを。全く以て独立独歩の気概に欠ける凡俗である。己が持っている資質を何故ソレに生かそうとしないのか。


 とは云え、漏れ聞こえる言葉尻を捉えてみれば何某かの弱みを握られているのは明らかで、いささか他者より秀でていようが、尻尾を踏んづけられていれば身動きなど叶わぬという良い見本である。


 愚かと笑うのは容易い。だが以て他山の石とすべきであろうと彼は考えるのだ。


 ものの長短ことの優劣は、その身が自由であってこそ初めて意味を為すのである。我が身を束縛するものや絡め取られる状況こそ、生涯全てにおいて敵と見なし、闘わねばならぬ相手であろう。


 故に彼は常に自由であることを歓び、そして何よりも尊ぶのである。




「あんたは一体なにやってんの」


 キコカは呆れた声で自分の相棒を見上げていた。木の上からぶら下がっているほぼ真っ黒な白黒のブチ猫である。


 一本の紐で釣り下がっている猫の身体には、ロープだの洗濯ばさみだの木の枝だのスナックの空き袋だの、そこら道端の茂みの中からおおよそ思いつき探し出せそうな多種多様のものが絡みつき、ものの見事にこんがらがって絡み付いていた。一種拘束プレイ中の猫とも評せそうな、野趣漂う前衛的なオブジェと化している。


 題名は「猫的な蓑虫」だろうか。


 当の本人は極めて不本意な表情で「にい」と鳴いていた。


 鳴くだけで下りてくる気配も無い。いや訂正しよう、下りたくともこんがらがったロープに縛りあげられて、アクロバティックな体勢のまま身動きすら出来ずにいるのである。


 新興住宅地は、雑木林ばかりの山を切り崩したその際まで宅地化が進んでいて、キコカが住んでいるアパートの直ぐ裏にまでうっそうとした木々が迫っていた。だからその一角で小学生どもが集まり、何やらわいわいと騒いでいるともなれば、ふと気になったりもするのである。


 で、来てみたらコレだった。


「この猫、ねーちゃんのか」


 やたら甲高い声の男の子が駆け寄ってきた。


「そうよ。あんたらがこんなコトしたの?」


 三白眼で睨まれた少年たちが一斉に首を左右に振った。もの凄い勢いだった。みんな顔が引きつっていた。


 ともあれ、このアホ猫を下ろしてやらねばなるまい。


 飛び上がって鉈で紐か枝を切り落とすのは簡単だが、例え子供の前でも目立つことはしたくなかった。面倒だったが手がかり足がかりに為りそうな枝を使い木に登り、梱包用の大型カッターで紐を切って落とした。


 どすんという音と共に、「ぎゅっ」と奇妙な鳴き声が聞こえた。まぁ受け身が取れないのだから仕方が無い。


 デコピンの紐を解きながら、何故にと小学生どもにコトの経緯を詰問した。最初のガン付けが効いたのか、皆しどろもどろではあったがそれでも口々に説明を始めた。話の順序が滅茶苦茶で、要領を得るのにかなりの労力を要した。


 まず少年の一人が、この雑木林の中で枝葉や空き缶やスナックの空袋の塊が蠢くのを発見したらしい。何事かと思って覗いて見れば、この猫が体中に様々なモノを貼り付けて草むらの中から這い出てきた。


 発見した少年は面白い猫だと思ったようだ。咄嗟に「ゴミを取ってやろうと思ったんだよ」と如何にも後付けの言い訳が添えられていた。が、興味本位だったのは間違いあるまい。それで皆を呼んで追いかけた。追ったら逃げた。逃げたのでまた追った。


 そりゃあ複数の小学生に追いかけられたら逃げるだろう。掴まったら何をされるか分かったもんじゃない。


 猫は雑木林のアチコチを逃げ回った。逃げ回る内にその身体に纏わり付くモノがどんどん増えていった。木の枝や木の葉ばかりじゃない、この雑木林の中は不法投棄のゴミの山だった。狭いところを選んで通るものだから取れる付属物も少なくなかったが、貼り付くものの方が断然多かったらしい。


「で、その内にいい加減走ることも出来なくなって、木に登ったはいいが、くっついて絡んだロープに足を取られて落っこちて宙吊りになってしまった、と。つまりはそういう訳ね」


 連中のわやくちゃな説明を翻訳し終えて要約すると、男の子達は一斉に頷いた。


 なんという阿呆な状況であることか。


 キコカは、デコピンのネバネバな身体から四苦八苦して空き缶だのロープだの木の枝だのを引っぺがしながら、「よく分かったわ」と溜息をついた。


「俺たちは悪くないよね」


 勢い込んではいるものの、にじみ出る不安はあからさまだった。


「うん悪くない。でもこの雑木林には入らない方がいいわね。コイツの二の舞になんて成りたくないでしょ」


 粗方ゴミを剥ぎ取った猫をつまみ上げ、ネバつくそれを少年どもの目の前に突き出すと、みな微妙な表情になって互いに顔を見合わせていた。

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