5-7 月と魂とに誓う

「しかし今時、トリモチなんて何処で売っているのかね。

 捨てる方も捨てる方だけど近寄る方も近寄る方だよね。

 しかも全身くまなく満遍なくって、いったい何をどうすればそうなるの。

 トリモチの入った缶の中にでも落っこちた?」


 キコカは衣服にネバネバが着かないように身体から離し、提灯でも下げるような案配でデコピンをつまんだままアパートへと戻って行った。


 もがき疲れたのか、それとも再び某かが貼り付くことに嫌気が差しているのか。

 いずれにしろずっとされるがままだった。

 ふて腐れている様が手に取るかのように判る。


「君子危うきに近寄らずという言葉を知っているかね、デコピンくん。好奇心旺盛なのは結構だけど、真に賢き者は危険というものも熟知しているものなのだよ」


 微かに首が動き、金色の眼差しがジト目になって見返してきた。


 そしてアパートの駐車場まで帰って来ると、「さて」とキコカは改まるのである。

 足元には四角い鉄蓋があって、その中には放水用の蛇口が収まっている。

 これから何をされるのかは彼の猫でなくとも分かった。


「きみは今世界でも比類無き、ねーばねばな猫であります。

 到底このまま部屋に上げることは出来ません、さあ困った。

 でもしかし心配ご無用、安心召されい。

 ちょうど昨日、総務の眼鏡女史さまから洗剤と新品のバケツその他清掃用具一式が届いているのです。

 漬け置き用の洗剤らしいんで、五分ほどドブンと漬けた後はブラシでごしごし丸洗い。

 試供品なので量は少ないけれど猫一匹洗濯するくらいは訳無いわ。

 ラッキー、デコピンくん」


 つまみ上げられたまま猫は、にぎゃあ~と鳴きながら軟体動物のようにもがいた。

 だが心なしか力なく、断末魔の足掻きのように見えたのは気のせいだったのかどうか。


「逃げるかね、このままねーばねばのまま路地裏を徘徊するかね。

 今度は何がくっついて誰が助けてくれるだろうかねぇ。

 砂でも被ればネバネバは無くなるだろうけれど、その後はどうするのかねぇ。

 やがて乾いて固まってカチカチになったら、全身毛を刈るしかないだろうね。

 丸洗いか、丸刈りか、あたしはきみの意思を尊重するよ。さあどっちだ」


 ふはははっと勝ち誇った声が駐車場に響いた。

 力なく弱々しい鳴き声も後に続いていたが、余りにもか細かったので気にする者は何処にも居なかった。




 彼は孤高であり夜の支配者であった。


 脳天に突き刺さる刺激臭の液体に頭の毛の先まで浸されようと、ハリネズミの如き清掃用具で傍若無人に腹の裏側までなぶられようと、その魂までをもけがされることは在り得なかった。


 己を支配しうるは己のみ。

 その蒼空よりも高く、冷徹な黒金よりも堅い矜持こそが彼の真髄だった。

 強固な自分自身を保持しうる自我と、へりくだらぬ崇高な意思こそがこの宇宙でもっとも尊ぶべき真理なのである。


 だというのに、何故あの相方はそれを理解し得ぬのか。




 雑木林の中で円筒形の野太い容器を見かけ、探究心が刺激されたのは確かだ。


 ヒトと自称する生き物が作った「ドラム缶」と呼ばれる容器だ。

 以前精査したことがあるのでよく知っている。

 一度見聞きしたことは忘れない、探索者の必須要項である。


 あの家主はよく事の子細をころころとよく忘れるが、よくあれで生きてゆけているものだ。

 少しは我を見習えと彼は常々思っていた。

 だがわざわざ教えてやるほど無粋では無い。

 己の短所を己で見つけ出すのも猫生、いやきゃつはヒトであるから人生か、それの意義なのだと彼は強く信じていた。


 ドラム缶の周囲を一周しても何も分からなかった。

 果たしてコレは空なのかそれとも何かが詰められているのか。

 後者ならばいったい何が入っているのか。

 一度生じた疑問は解明せねばならない。

 それが探索者に課せられた使命なのである。


 ぴょんと上に飛び乗ってみた。

 やはり行動してみねば分からぬモノである。

 これはオープンドラムと呼ばれる型式のドラム缶で、缶の片方が全面丸蓋になって完全に開口するものだった。

 これでまた世界の謎が一つ解けた。


 ただ飛び乗ったせいで、密閉されず中途半端に乗っていただけの丸蓋はどんでん返しの様にひっくり返り、彼の身体は呆気なくその中に転落していった。

 そしてその中には、類い希なる粘着性の物質が満ち満ちていたのである。


 失敗からの生還は成功の何倍も意義のある出来事である。


 成功体験が残すのは自信の獲得だけだが、失敗体験は己の至らぬ箇所への開眼と更なる未来への指標、かけがえのない教訓となってその者の更なる高みへと押し上げるからだ。




 ひきしっ


 彼は屋根の上でくしゃみをした。

 全身の毛をこさぎ落とされるのではと思しき尋常ならざる暴虐と、猫という存在そのものすら否定しかねない叩き付けられる冷水にただひたすら辛抱強く耐え、ようやく手にした自由であった。


 あの温情の欠片も無い同居人には言いたいことは山ほどあった。


 だが非難を口にし、弾劾する愚は犯さなかった。此度の不覚は確かに己の責任において処されるべき事案。

 屈辱は甘んじて受け容れよう。

 その程度の意地と理性はあった。

 探求者が己の失態とその原因を、他者に転化するなどあってはならないからだ。


 見よこの潔さを、と彼は思った。


 あの四角いガラス板に唯々諾々と媚びへつらい、声が途切れた途端不細工な臭いの腐った麦汁を喉に流し込み、不平不満を吐き続ける愚かな輩とは雲泥の差である。

 己を律し矜持に従い禁欲的にして真摯、不撓不屈の探索に生きる意義と崇高さを知れ。


「にゃおーん」


 彼は夜空に鳴いた。


 猫の遠吠えが微かに夜気を震わせ染み通ってゆく。

 細い爪のような月が空に浮かんでいた。


 負けぬ、これしきのことで我は折れぬ。

 麻のごとく千々に乱れ荒れ果てた毛並みも、次の春が訪れる頃には元通りになるだろう。

 同じように傷つきねじ伏せられた自尊心もやがて時間に洗われて、荒れ野に草木が芽生えるように癒しの森へと埋没するに違いない。


 故に、何も失ってはいないのだと己に言い聞かせる。

 切られたヒゲが生え替わるように、一旦塞がってしまえば傷は無かったことと同じなのである。


 そして彼はこれより生涯の全てにおいて、如何なる困難に直面しようとも二度と決してドラム缶の上には飛び乗るまい。


 そう固く、月と魂とに誓うのであった。

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えげつない夜のために 第五話 日常殺風景 九木十郎 @kuki10ro

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