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性欲は人並みにあるのだと彼は思う。自慰はそれなりに行うし、その際にAVなどを観るが嘔吐はしない。裸体の女優は相応に艶かしいし、綺麗だ。汗ばんで光を跳ね返す肌の色に滞りなく劣情を催した。
それからほとんど気配の消えている男優の陰茎を眺めつつ、この人は吐かないのだなと彼はいつも憧れる。そう憧れ。憧れが生じる。セックスというより、しっかりとコミュニケーションを行える状態であることに憧れる。
恐らくそうだと彼は思う。
その話を夜、可愛い女の子とマックに行ったと話す直己に彼は聞かせた。自分の部屋の中だった。後は寝るだけの気楽な身分で、修学旅行の夜のようなテンションが、彼の中にはぼんやりあった。直己もそうだった。彼には推し量れない話だが、都会で生まれた直己にとっては建物よりも緑の多い田舎に来ただけで、非日常の高揚が訪れていた。
「男優にその角度で憧れるってのもすげえ話だけどな」
直己は敷かれた布団の上であぐらをかきながら、ベッドに座る彼を見上げる。直己と目を合わせつつ、彼は縋るように口を開く。童貞ではなくなりたい。吐くことをやめたい。でもどうすればいいかわからない。AVはなぜ平気なのかもわからない。わからへん。おれインポでもないし急に気持ち悪なって吐くけどそんなん相手の子も可哀想やん、別にいいよって言うてくれた子もおったけど、ようないやん。直己。セックスできんかったらずっと子供のような気がすんねん。
「俺ヤリチンだけど子供だぜ、子供」
直己は伸ばした手で彼の膝をトントン叩く。
「チンコ勃つし相手いるから入れるけど、まー結構、そんだけの話なんだよな。彼女できてヤリまくってもそのうち飽きたり、なんつーか、セックスって言うほどコミュニケーションに適してねえよ。それはもっと、可愛いねーとかそういうところ好きだなーとか、口でやるやつの話。構造の話だよ。物理の話。目に見えるもんだから、ヤレば多少は気持ちよくてわかりやすいから、ヤッてればなんとなく伝わってるように思うんだって。でもそんなことねえんだよ、信頼して繋がりてえって奴がいるのもわかりはするけど、そればっかになれば終わるに決まってんだよな」
くくっ、と喉の奥で直己は笑う。それかふと思い付いたような目を向ける。なあお前、手コキだけとかフェラだけとかはしてもらったことねえのか。聞かれて彼はまごついて、今までの嘔吐、ではなく、嘔吐までの時間を思い出す。
してもらったことない。彼が答えると直己は考えるように視線を動かし、
「絞り込めるんじゃね? 試すか」
あっさりとした口調で言ってから、嫌ならやめとくけどと付け足した。彼は初めなんの話かわからなかった。嫌ならやめとく、が、本当にやめるのだろうということは分かった。直己はヤリチンで色んな女の子と遊び回っているが、無理矢理致すような遊び方はしなかった。
直己を嫌だと思ったことはない。彼は答えた。直己はニヤッという擬音がつきそうな笑みを浮かべてから彼のジャージに手をかけた。男も偶に抱くから気にすんな。直己はしれっと、彼が知らなかった情報を開示した。何人もの女性の胸や太腿を撫でた指先がトランクスのゴムを引っ張った。下腹部が一度、びくりと跳ねた。舐めるか扱くかどっちがいい。直己の問いに彼はおおいに困り果て、良さそうな方、とアバウト極まりなく返した。赤い舌がゆっくり覗いた。
結果だけ話す。彼は直己にしゃぶられ吐かなかった。いや精液は吐いたが胃液は吐かなかった。相手が男だからかもしれないと彼は思った。そうであれば直己はしゃぶり損である。
床で寝息を立ててぐっすり眠る直己を彼はベッドの上から見下ろした。相変わらずモテそうな顔立ちだった。でも顔だけじゃないのだと彼はもう知った。コミュニケーション。確かにそうだったし、気持ちよかったし、このまま最後まで致してしまってもいいかもしれないと思うほど雰囲気に飲まれていたが直己は彼が限界を迎えた後にあっさり離れた。そして寝転がった。
「できそうじゃん、じゃー次紹介する女の子には手コキかフェラからしてやってって言っとくわ」
どうしてそこまでしてくれるんだと彼は聞いた。直己はちょっと面倒くさそうに彼を見てから、
「お前が俺に童貞卒業した! って報告に来るとこ見てえんだよな。そうなれば俺も、ヤリチンやってる意味あるじゃん」
そう言って目を閉じた。彼はごめんと言うべきなのかなんだそれと言うべきなのかありがとうと言うべきなのかわからなかった。結局何も口には出さず、腕を伸ばしてずり落ちている掛け布団を直してやった。そして寝て、起きて、現在だった。
まだ眠る直己を起こさないよう、彼はそっと部屋を出た。リビングには母親がいて、朝ごはん用のトーストを焼いていた。三人分あった。母親は起きてきた彼を見て、なんか飲む? とコーヒーを片手に聞いた。彼は頷き冷蔵庫に歩み寄る。中には牛乳しかなかった。彼はがっかりした。牛乳が昔から好きじゃなく、ほとんど飲むことがなかった。冷蔵庫を閉める彼の後ろを母親が通り過ぎていく。そしてふはは、と悪役のように笑った。彼は顔を上げる。100パーセントのオレンジジュースが差し出されていた。
「あんた、まだミルクあかんねんなあ」
母親はふっ、ふふっ、と笑いを堪えながらダイニングテーブルまで歩いて行って、コーヒーを啜りながら腰を下ろした。彼はオレンジを片手に冷蔵庫前に突っ立っていた。母親は頬杖をついて遠くを見るように首を擡げた。
「難病やったいうたやろ。関係あんのか知らんけど、あんた母乳飲ませたら絶対吐くねん。そらもう、盛大にだばーっと。人の乳に真っ白いゲボ吐きまくってなあ、流石に嫌になって乳あげんのやめたんよ。赤子の魂百まで言うやつ? せやけどオレンジやったら飲めるやろ、ふふ、ははは、赤ちゃんは天使や言うけども、かわええとこが昔のまんまやねんなあ」
三つ子の魂やで、と彼は言えなかった。棒立ちのまま母親の斜め後ろ姿を見つめていた。一つに縛った髪には白髪が多かった。視線は生まれたばかりの彼を眺めているのだとわかるほどに懐かしさが滲んでいた。彼は息を吸い込んだ。少し震えていて、ヒュッ、と変な音が鳴った。泣きそうだった、おかんおれ、まで口に出したがその続きが思い付かなかった。誤魔化そうとオレンジを口に含んだが母親は顔を上げて現在の彼を見た。なんやねん、やっぱ直己くんて彼氏なん? 的外れで間の外れた問い掛けに彼は口のオレンジを吐きかけた。咳き込んで、咽せて、涙が滲んだ。100パーセントの酸味が嘔吐の変わりにぽたぽた落ちた。
実はまだ童貞なんだよねと言ってみたとして許されるのは何歳までか、彼はよく考える。今は二十六歳。フリーター。そして童貞だ。でも童貞で一向に構わないのかもしれない。
君はやっとそう思うのだと私は勝手に信じているのだ。
天使の胃袋 草森ゆき @kusakuitai
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