太陽の音を忘れない

尾八原ジュージ

日の出時計の話

 父の仕事で海沿いの■■■というのどかな田舎町に引っ越したとき、わたしは十三歳だった。青い海に臨む白亜の街はそれ自体が観光名所になっているほど美しかったが、わたしは都会の賑やかな街並みや大きな美術館が恋しかった。

 高低差の大きな階段状の街は車や自転車には不便で、その代わりに馬や、郵便夫と呼ばれる人々が活躍していた。大きなリュックサックを背負って生身の脚で町中を駆け回り、郵便物や新聞を配達したり、時には人間を運搬することすらあったのだ。

 ■■■に引っ越して二月ほど経ったある日、事故に遭ったわたしは目に怪我を負ってしまった。幸い視力は失われずに済んだが、その事故から一ヶ月ほどは目の上に包帯を巻いた状態で、ほぼ一日中を過ごさねばならなかった。

 町で唯一の病院に入院し、毎日経過を診てもらいつつただただ何もしない日を過ごすのは、わたしにとっては耐え難いものだった。それというのも当時のわたしは絵を描いたり、画集を観たりすることが何よりも好きだったので、視力を奪われるということは人生の楽しみを封じられるようなものだったのだ。それに暗闇を怖がるたちでもあったから、まっくらな状態が一月続くと言われたときにはショックのあまり気が遠くなった。

 だから、その時の記憶はおおむね曖昧だ。眠ったり起きたりしながら、とにかく時間をやり過ごそうとしていた。しかし時計を見ることができないから、時間がどれくらい経ったのかがわからない。今は朝なのか? それとも夜なのか? いちいち看護婦(当時は看護師という言葉がなかった)を呼び出して聞くこともできず、ただ悶々とベッドの上で過ごし、眠くなればうつらうつらと船を漕いだ。夢の中でだけは鮮やかな色の景色を見ることができた。


 その音に気づいたのは、入院から七日ほど経ったころだったと思う。窓の外でなにやら「カチン」という金属の涼し気な音が鳴るのだ。それはどうやら日に一回、朝、太陽が昇り切った頃に鳴るものらしかった。明らかに人工的な音だったから気になった。

「あれね、郵便夫の男の子が置いていったのよ」

 ある日、看護婦が音の正体を教えてくれた。彼はわたしと年が近く、家が貧しいために学校へ行く前に郵便夫として働いているという。まだ夜のうちから家々を回って新聞を配るのだ。その道すがら、わたしがいる病室の窓辺に、小さなシーソーのようなものを置いていくのだという。

 シーソーの片方には金属の重り、もう片方には氷がくっついている。最初は氷の方が重いが、太陽が昇って氷が解けると今度は重りの方が重くなり、やがて完全に下に落ちる。その際、下に置かれた金属板に当たってカチンと音を立てるのだ。彼は夜毎窓辺にやってきては、新しい氷をシーソーの一端につけてくれるのだという。このような仕組みを「日の出時計」といって、この辺りでは小学校で習うのだそうだ。太陽が出ている時間とそうでない時間の寒暖差が激しい今の時期は、かなり正確に日の出を告げてくれるのだという。

「つまり、音がしたら朝が来たということね」

 なんと不器用な思いやりだろう、とわたしは思った。その仕事ぶりや風体からして、その少年というのは加害者の息子なのだ。そもそもわたしが目に怪我をしたのは、町中で制御を失った馬に引っかけられたことが原因だったのだ。むろんその件については大人の間で賠償が済んだらしいのだけど、郵便夫の少年は自分の手で何かひっそりと償いをしようと考えたらしい。

 それからわたしは「カチン」を待つようになった。その音がすると、ああ今太陽は空へ昇ったのだと思いをはせた。今日の空は青いだろうか。海は凪いでいるだろうか。芍薬の花は咲いただろうか、等々。

 音は一日も欠かさず鳴った。少年は毎日、本当に毎日窓辺に来ては、日の出時計を設置し直しているのだ。幼かったためだろうか、わたしには、加害者を憎む気持ちはさほどなかった。ましてその息子というに過ぎない郵便夫の少年などは、ただただ優しいだけの存在だった。わたしは、この包帯が外れたら彼の顔をひとめ見たいと思った。

 カチン。硬質で高く澄んだ金属の音は、この暗闇ばかりの期間におけるわたしの貴重な思い出で、年をとった今もまだ鮮明に記憶している。その音を数えながら日々を過ごすうち、ようやく包帯を外すときがきた。その時の眩しかったことといったら、もうあんなに世界が明るく見えることはないだろう。

 退院の日、看護婦がわたしの病室に、ひとりの少年を案内してきた。痩せて背の高い、よく日に焼けた男の子だった。真っ黒い瞳がいかにも実直そうに見えた。わたしは日の出時計の礼を述べ、彼は身内の罪を改めて謝罪した。この子が謝ることなど何ひとつないのに、と思いながら、わたしは彼のことを好ましく思った。この少年が十二年後に自分の夫となることを、このときのわたしはまだ知るよしもなかった。

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