Ⅳ 見えない敵

 大西洋の沿岸に接した都市はアルファベット「C」のような形をしており、税関を設けた外壁が街を囲んでいる。湾曲した街の中心に公共施設が集中しており、その中でひときわ目を引くのが時計塔だ。グリニッジ天文台を模したと言われる小さな塔で、日々鐘楼の音が街中に時を告げていた。

 その時計塔の下には警察署が鎮座している。建設当時は美しかった赤レンガの壁も経年によって汚れ、ほとんどの窓は清掃の甲斐もなく、煤で曇っている。薄汚れた建物ながらその威圧感は、数多くの現場を渡り歩いてきた老刑事を彷彿とさせた。

 港とは違う怒声と人々の足音。視界を邪魔する安草の紫煙を避けながら、オズワルドは警察署の奥へ歩みを進める。入り口に立つ若い二人に、呼び止められたが、一寸たりとも耳を貸すことはしなかった。


Bonadiaこんにちは、Mrロバートをお願いします」


 ドア代わりに叩いた壁が高く鳴る。

 いくつかの鋭い眼光がオズワルドを刺したが、彼は意に返さず目的の人物を探した。くすんだ世界に赤毛は見つからず、代わりに少し背の高い影が近寄り、室内を隠すように立ちはだかる。


「オズワルド伯! 勝手に入られては困ります!!」


 声の主はアンドリューだった。作法に則とった黒い制服姿に隙はない。糊の利いたワイシャツと喉元まで締められたブリティッシュカラーのネクタイ。シャツから覗く鍛えられた身体は、彼の警察という肩書きへの誠実さが垣間見える。


「正義が服を着て歩いている」と揶揄されているだろう彼に対し、オズワルドは外国での交渉時に用いる親愛の笑みを浮かべた。実直な人物には小細工よりも、ほんの少しの真実と共に説き伏せ、その正義感を揺さぶるほうが効果的と心得ている。


「アンドリュー殿、でしたね」


 アンドリューが警戒げにオズワルドを見返してきた。


「Mrロバートが不在であれば、あなたにお伺いしたいことがあります。お時間いただけますか?」


「申し訳ありませんが、たとえロバート警部と懇意になさっているとしても、あなたは一般の方です。私からは何もお話できません」


 予想通りの返答に、オズワルドは心中で笑みを深める。ジャケットの裏ポケットから薄い革張りの手帳を取り出し、挟んでいたネイビーブルーの封筒をアンドリューへ手渡した。封緘はわざとしていない。


「では、こちらをロバート警部にお渡しいただけないでしょうか。私からの言伝として」


「……中を拝見しても?」


「結構です。貴方宛でもありますので」


 もの問いたげに封筒を開けたアンドリューの表情が一瞬で強ばる。経験の浅い正義感はそれを上手く隠すことができなかった。動揺に乗せられて驚愕の声と共に詰め寄らなかっただけでも上出来ではある。アンドリューの唇が言葉を探す動きを見せたが、それが発せられることはない。


「先日警部からのせっかくのお誘いをお断りしてしまったので、是非アフタヌーンティーにご招待させていただければと思いまして。もちろん貴方もご一緒に」


 困惑に空を泳ぎ続けていたアンドリューの瞳が気を取り戻す。慌てた様子で封筒を懐にしまったのと同タイミングで、無遠慮な視線と共に名も知らぬ刑事が通り過ぎていった。

 遠ざかる足音に注意し、オズワルドはわずかに声量を抑えて今一度問う。


「出所は確かと言い切れません、偶然入手したものです。後ほど警部にお時間の打診をお願いしても?」


 アンドリューの視線がまた泳いだ。彼の中で彼の正義心が試されている。オズワルドは追随せず、静かに答えを待った。

 今は十九世紀、変貌と暗黒の時代とも仇名される現代の流れは早い。

 犯人に繋がるならば手段を選ばないか、倫理を盾に自らの力だけで捕まえるか。その選択はこれからアンドリューが刑事を全うしようとする限り付いて回るものだ。特に悪意に満ちた事件は簡単に真実を屠られてしまう。事件解決のために多少の悪事は働いてきた自覚があるからこそ、渦中で正義として生きたければそれ相応の覚悟と倫理観を持ち合わせるしかないと、オズワルドは考えている。まぁ、巨悪な犯罪の前では検分目的の不法侵入や金を握らせるなど「ほんのちょっとした手違い」程度の悪事でしかないが。


「……わかりました、警部にお渡しします」


 絞り出された選択の言葉。

 オズワルドは相好を崩しかけた己を心の中で叱責した。仕掛けた悪戯が上手くいった子供じゃあるまいに、どうにも我慢が利かない時があるのは趣味の悪い癖だと思う。

 ひとまず通すべき義理は果たしたとオズワルドが辞するため挨拶を述べようとした時、アンドリューが顔を上げ、決意の目をして逆に問う。


「非礼を承知で、オズワルド伯にひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」


「かまいませんが……」


「あれを、あなたが使用したり、というようなことは?」


 表情から、彼がその質問を冗談で尋ねていないことがわかる。彼はいたって真面目に自分の職務を遂行しているにすぎない。上司の旧知という立場であっても、こんな物を手に入れるオズワルドに対して疑惑の念を抱くのは仕方のないことだ。

 理解はしていても、あり得ぬ疑いをかけられ、笑いを堪えるのは難しかった。


「……っふふ、そうですね。疑われるのも無理はないかと思います。ですが、ご心配なく」


 オズワルドは口元にだけ笑みを浮かべて言い放った。


「そんな子供だましなんかより、私を酔心させてくれるもっと素敵な物がありますので」


 まだ何か言いたげな青年警官を説き伏せると、杖の音高くオズワルドは警察署を後にした。


 * * *


 主要な通り全てがぶつかる都市の中心は大きなマーケット広場となっている。まだ名もない交易地として存在した頃から、ここには多くの露天商と品々が集った。それは産業革命を迎えて排ガスを撒く自動車が行き交うようになった今でも変わらず、幅広く作られた歩道は、その半分を荷と商いに奪われている。

 観光客向けの土産や朝露の水気を残した艶良い果実、永遠の夢を見始めたばかりの海産物などなど。品と共に飛び交う世事と噂を調達するために、人々の声は一段と活気づいていた。雑多で狭く、どんな詭弁家ですら上品と形容しがたい場ではあるが、己の品と目利きに自信を持つ者ばかりが集う市場を、オズワルドは幾分気に入っていた。

 これからまた兄を介して迷惑をかけるだろうラナーへ――それから相変わらず自堕落な生活をする虫の主に何か手土産をと、オズワルドは朝市へ足を踏み入れる。顔なじみの露天に帰郷の挨拶がてら立ち寄っては、船旅の話と今後の卸にしばし端を咲かせた。

 タルティーブへの訪問は数日ほど間を開けてはいたが、アーレフ側に進展があるとはオズワルドも思っていなかった。なにせ職人気質で頑固者マイスターも多い古書ギルドと、一際偏屈な移民であるアーレフの仲は、気立ての良い義理の妹という存在に助けられているところが大きい――というのが、その妹自身から聞いた話だ。古書ギルドの長とオズワルドも面識はあったが、ギルドにも面子がある。古書が密輸に使われている可能性が高いならば、ギルド員アーレフを通して探りを入れたほうが互いのためでもあるだろう。

 その時、見知った男の姿がオズワルドの目の端に留まった。ゆるい癖のある黒髪と、彫りの深い横顔――カルロだ、朝市に居るとは珍しい。

 そう考えたが、彼はオズワルド以上に己の目を信じる商人だ。たとえ使用人を雇う身だとしても、自ら買い物に出るのはなんら珍しいことではないのだろう。

 交渉が終わったのか、カルロが店主から小ぶりの紙袋を受け取った。店先には、異国の黄金スパイスが並んでいた。


Holaやぁ、カルロ。奇遇ですね」


「オズワルド伯! なんと、こんな場所でお会いするとは」


 店先に出たところで声をかけると、カルロが至極驚いた様子を見せた。


「お近くに執事殿が?」


「グスタフには別に仕事を頼んでいます。しばらく船上でしたからね、悪い物とて手入れは必要ですから」


 軽い冗談に乗せて付き合いの長い右の太股を軽く叩く。カルロは気遣わしげに目を向けたが、それ以上何か言ってくる様子はなかった。


「そうです。貴方さえよろしければ、途中までご一緒していただけませんか?」


「こちらこそ願ったりかなったりです。先日は私がオークションの話題に夢中で、伯爵のお話を聞きそびれましたから」


 突然の申し出とは思ったが、オズワルドの提案にカルロは困る様子もなく快諾し、人の多い場所から道の端へ誘導してきた。あからさまではないエスコートは初心な乙女であったならば、あっという間も無くカルロの腕中に収まっていたのだろう。交渉術のひとつとして参考にと思いはしたが、オズワルドは一旦思考を止めた。

 渋い色合いの乗馬用コートルダンゴートは、体格の良いカルロによく似合っている。窮屈なのか前はボタン留めしておらず、それがかえって彼の男らしさを体言しているようにも思えた。

 相手の身体を思いやるエスコートとは、健常な男らしい男がするからこそ引き立つものだと気づく。身体的弱者の立場である自分が使うものではないなと、オズワルドは自責した。眉を潜めるまでもなかった。


「ところで、オルター商会のご意見を伺いたいのですが、先日の警察の行動についていかが思いますか」


 外商の話で盛り上がっている途中、カルロからそんな質問をされた。

 商会の、と言われはしたが、聞きたいのは「古書探偵」としての見解だろう。あまりにも陳腐な探り方は、カルロ自身その裏を隠す気がないと伺える。情報を聞き出す上では話に乗るのが得策なのだろうが、事は想像以上に大きな可能性がある。無用な他者を巻き込みたくはなかった。

 知らぬ存ぜぬを通すが吉と、オズワルドは言葉通りの返答をした。


「国際オークションも近いことですし、その警戒ゆえだと思いますよ」


「それにしては大仰だったではないですか。伯爵は何か伺っているのでしょう?」


「いいえ、なにも」


「まさか! オズワルド伯爵ともあろう方が、過剰とも言える警察の行動に疑問をお持ちにはならないなんて」


 あからさまな煽り方に挑発されているのは明白だったが、さてどう返したものかとオズワルドは考える。陳腐に陳腐で返すべくひと芝居打っても良いが、それはそれで「知っていること」を隠しているのとなんら変わりないだろう。長考も、宝を隠すそれと同じである。ひとつ疑念を持ったが最後、自分のひと呼吸すらヒントになる――その事実を自ら知る以上、適当にあしらえばよいと決められない。杞憂にすぎないとしても、ほんの一瞬で考慮に考慮を重ねた後、オズワルドは閃いた。


「ならばカルロ、貴方の意見を伺いましょう」


 挑発し返すように目を細め、片方の口角を上げる。


「貴方はどのようにお考えなんです? 私に聞くからには、何か思うところがあってのことでしょう?」


 問えば、カルロが苦微笑を浮かべて両手を上げた。


「……質問に質問を返すとは、伯爵もお人が悪い」


「貴方がしつこいからですよ。知らないものは答えられません、悪魔にでも聞くんですね」


 証明の行方を彼方に投げると、カルロは「非礼はお詫びします」と謝罪の言葉を口にした。


「失礼、執拗に聴きすぎたようです。どうにもオークションの開催が危ぶまれるのではと気になりまして」


「会期前に入港審査が厳しくなるのは例年のことでしょう。どこで手に入れたか知りませんが、旧ロシア帝姫の品も出品されているみたいじゃないですか」


 カルロが驚嘆の相槌を打ってきた。

 彼の趣向から離れた品と思っていただけに、意外な反応と感じる。その品を話題にしたのはオズワルドも無意識のことであった。美術品の類に興味がないこともあって印象に残っていた――おそらくその程度の理由。思わずカルロのほうを見たが、相づちとは裏腹に普段の親しげな笑みを浮かべていた。


「オズワルド伯爵は、あの品がお気になられましたか」


「何かおかしなことでも?」


 言葉尻に含みを感じて問い返す。


「歴史と呼ぶには幼いお姫様の手紙では、伯爵の知的好奇心を満たせないとのでは、と。そう思った次第で」


「興味を持ったのは私じゃありませんよ。それに、解くための謎を探すほど馬鹿げたことはありませんね」


 渾名に対する推測を言葉にされ本音を素直に話せば、肩を竦められる。お互い様だと、オズワルドは心の中で呟いた。


「そういう貴方はどうなんです。以前話していた品が帝姫のものと?」


「まさか!」


 返しに、カルロが声を上げた。


「今回の目玉はなんと言ってもヨハネス・フェルメールですよ! 一度は忘れ去られた復興の名画――衰退してなお盛り返す縁起担ぎも相まって、今回のメインデッシュに間違いありません。もちろんシャルル王も名実共に人気の品であることに変わりないが、永続性も視野に入れるとフェルメールに軍配があがります」


 息継ぎも忘れているのではと思うほど語る彼の姿を見て、オズワルドは肩の力を抜くように息をついた。

 情報を探られる行為には敏感にならざるをえない。美術コレクターの側面も持つカルロにとってオークションの開催はたしかに死活問題――だが、警察としてはオークションなど中止になってくれたほうがありがたいはず。

 密輸もオークションも大金が動く。そして金が動くとき、人の良くも大きく動き乱れる。

 なにやら今年のオークションは荒れそうだと、高揚感とも疲労感とも言いきれない混ざりきらぬ感情に、オズワルドはわずかに眉をひそめた。

 カルロの語りは途中から話半分にしてはいたが、今回のオークションにかける熱意は並々ならぬものではないようだった。あげる品数のなんと多いこと。語る物全てを手に入れる気は無いだろうが、絵画だけでなく貴金属や宝飾品の類にも目が無い彼のことだ。その品ひとつひとつの値段は推して知るべしだろう。


「……二兎三兎と追いかけるあまり、足元の穴に気づかないなんて間抜けな様にならないようにするんですね」


 忠告を皮肉交じりに伝えると、カルロは「赤いバラを用意しておきますよ」と切り返してきた。いじわる気に笑う様子から、皮肉自体は伝わっているが、通じて、、、はいないようだ。

 都市の最南に位置するオレンジ色の尖塔が見え、二人はほぼ同時には足を止めた。港に隣接する倉庫街からは、荷や人を乗せた大小色形様々な馬車が、外洋へ向かう魚群のごとく門から外へと出て行った。


「私はこのあと港の方に用がありますので、ここで失礼させていただきます。結局またオークションについて語ってしまいましたね」


 苦笑交じりに話すカルロは、言葉こそ申し訳なさそうではあったが満足げな表情をしていた。

 旅の思い出話をしたところで盛り上がる事件もなかったオズワルドとしては、不満を感じることはない。むしろ、出品される品々の話を聞けたのだ。オークションに熱意をかける価値観の持ち主が語るのは、それだけでも書物に匹敵する娯楽と言えるだろう。

 オズワルドは首を振った。


「とんでもない。忙しい中付き合っていただきありがとうございました。貴方の話良い参考になります」


「ははっ、敵に塩を贈ってしまったようだ。伯爵の商会とて文化保存への貢献に何かしらご検討されているでしょうが、私は個人としての戦いです。負けるつもりはありませんよ」


 快闊の良い笑いと共に差し出された手にオズワルドが応えると、心持強く握り返された。商人らしからぬ厚みのある手のひらと、指先から伝わる皮膚の固さ。その手こそ、船乗りから叩き上げたと話していたカルロ自身の勲章であった。

 密輸に古書泥棒と、思えば暗い話題が続いている。警察と古書ギルドを騒がせるそれらが、願わくば国際オークションに暗雲を呼び込まなければ良いと、オズワルドは心から思う。

 カルロの背を見送った後、街の中心地に続く大通りを歩き始めて間もなく、身なりの汚い男とのすれ違いざまに強く肩をぶつけた。距離感を互いに見誤ったのだろう。この通りではよくあることで、幸いにもオズワルドは小さくたたらを踏むだけで済んだが、男は手荷物を落とした。


「待って! これを」


 足の痛みを庇いながらオズワルドが急ぎしゃがんで拾ったものは、古びた一冊の本だった。使い込まれた茶色の革装丁で小ぶりなそれを手にした瞬間、妙な違和感を感じる。

 どこかで既知のある違和感だった。

 男はオズワルドの声掛けにも気づかず、そのまま人の流れに逆らうよう倉庫街の方へと向かっていく。

 その背を見失う前に、オズワルドは本を懐にしまって男の後を追い始めた。

 もう少し先を行けば古書通りに入るということも、タルティーブへ行くという目的も横に置き、妙な胸騒ぎを追いかけるように男を追って行った。

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古書探偵たちの暗号帳 -アナスタシアの卵 雪本歩 @ayumu_snnb

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