Ⅲ 疑惑の書

 地下へと続く壁沿いに設えられた階段は、急で常に暗い。足場も狭く、オズワルドでなくとも危険を伴うのだが、階段はもちろん室内も、必要最低限の灯りしかない。風通しの為の小さな窓しか無い地下そこは、全て本のためという、いわゆる店の宝物庫とも呼べる場所。

 その一角。うず高く積まれた本の山の間に、アーレフの塒――もとい工房は存在する。

 埃と糊、そこに混じる老いたインクの吐息。深い眠りにつく本たちの夢が漂うこの空間は、海向こうとはまた違う異世界のようだと、オズワルドは常に感じていた。


「それで、話はなんです。彼女に聞かれては困るのでしょう?」


 勝手知る場所に居住まいを落ち着け、率直に問うた。

 一冊の本を差し出しながら、いつも以上に険しい表情でアーレフが言う。


「君の意見が聞きたい。この本を持って、違和感は」


 それは、近年出たばかりの思想本だった。

 お互いの繋がりとも言える書物という媒体。だが、今差し出されているそれを「古書」と呼ぶかは意見が分かれるものだろう。昨今出版されたばかりの、あちこちで見かける黒革のそれ――オズワルドはもちろんのこと、アーレフの感心を掻き立てる物とは思えなかった。書物に関する知識と直感については、己よりも信頼している。

 しかしだ、そのアーレフが発するよからぬ雰囲気が、オズワルドに本を取れという。書物のこととなると饒舌になる彼が無言で佇む様は、僅かながら怒りすら感じられた

 本が、手から手へ渡る。


「違和感は」


 オズワルドは答えず、しばし無言で本を見つめた。かえし、時に背を見、検視していく。手のひらに余る大きさと、数百頁ほどの厚み。本を守る黒革には押し型による装飾が施されたものは、元の持ち主の趣味の良さが感じられた。


「……これに似た大きさの本を貸してください」


 乱雑に積まれた本の山から一冊が的確に抜き出される。オズワルドは二冊の本をそれぞれの手で持ち、重さを比べた。手の感覚を研ぎ澄まさせ、持つ手も変えて。次に表紙を開き、本文を頭から流れるように捲る途中、束となり固められた部分がいくつかあることに気づく。束になった頁の小口を撫でると、少しだけ親指の腹にざらつきを感じた。


「……ページが圧着されている、中は?」


「あいつが居る前だ、中身までは確認していない」


「なるほど。この蔵書票エクス・リブリスに、見覚えは?」


 指された奥付部分には、黒い印が押されていた。海に囲まれた島の上に風見鶏が建っているという、随分珍しい票柄だ。肥えた身体と長めの首を持つが、鶏冠はない。鳥の中でも駝鳥に近い。

 オズワルドから本を受け取り、アーレフが蔵書印の部分を指の腹でなぞる。それから顔を近づけ、匂いを嗅いだ。


「さほど古くはないな。どの年代様式にも当てはまらない上に、紋章的な意匠でもない。かといって、ウォルター・クレイン※②の作品と仮定するには書物の状態が綺麗すぎる」


「違いますよ。この図柄、何か意味があると思いませんか」


 おかしな質問をするなと言葉にはしなかったが、アーレフが訝しさを隠さず答える。


「意味はあるに決まってるだろう。票主か画家に聞かなきゃ判らないが」


「その『意味』ではありませんよ」


 オズワルドが呆れたように言う。


「図の鳥、私の推測ですが、ドードー鳥ではないかと……票主が蔵書票に何かを隠している、とも考えられませんか」


 細く形の良い指が蔵書票の鳥を指す。

 何かを察したのか、アーレフが声音を落とし、脅すように呟いた。


「……暗号の女王に付き合う気はないぞ」


「私がいつ、暗号、と言いました?」


 浮かべられたオズワルド十八番の笑顔。

 それに苦虫を噛んだような顔をして、アーレフが渦中の本を乱暴に返してきた。


「それで、本当の質問は何です?」


 オズワルドが挑発の笑みを浮かべ、見つめてくる。好奇心と不適さがむき出しになった表情は、知の狩人などと呼ばれるような生易しいものではない。

 この本の出所を、オズワルドは聞かなかった。薄々何かあったのだろうとは、悪友の様子を見ていれば歴然としていた。ただ「本」が絡んでいる以上、簡単に話してくれるとも思っていなかったが。

 アーレフが背を向けた。心を落ち着けるためにか力強く息を吐くと、覚悟を決めたように言を紡いだ。


「……近頃、ギルド内で窃盗が相次いでいるらしい」


 思わず驚嘆を口にしようとしたが、感情は寸でのところで胸の奥にしまった。アーレフの本似たいする信念を知っているからこそ、彼の苦渋に満ちた想いを察する。


「相当な被害が出ているのか、ギルド直々に警告を発している。確認したら、うちも一冊盗られていた」


「――しかし被害自体は、大きくはなかった」


 指摘にアーレフが素直に頷く。


「無くなっていたのはかなり若く、タルティーブとしてはほとんど価値無しと判断するものだ。そして同時に、この思想本が見つかっている。うちの所蔵票には無かった」


「偶然、という可能性は?」


「それも考えた。だが、他に事件もない。ギルドからの通達は『本泥棒が出た』の一言だけだ。盗まれた品名、店名は信用に関わるため明かされないのが慣例……けど、僕の推測では他の店も高価な本は盗まれてない、もしそうならもっと大事になってるはずだ。通達の内容を見るに、ギルド側も、犯人の目星どころか目的すら判ってないだろうな」


 オズワルドが件の本に目を落とす。沈黙を続けるスモーキーグリーンの瞳は、思慮と共に色濃くなっていく。

 相槌も瞬きもせず、話を聞いているのか一見では判りにくい。しかし、唇に人差し指を当てる仕草は、オズワルドが考え事をする時の癖のひとつだ。

 この時彼は、誰も入ることのできない思考の書斎で情報の精査と推測を繰り返してるのだろう。培ってきた経験と膨大な知識の宝庫を持つ事実を、アーレフは時にうらやましく、時に妬ましくも思う。


「……犯人の目的は本や盗みという行為ではなく、細工の奥に隠された中身。人目に触れてはならない、しかし持ち運ばなければいけない物」


 オズワルドがごく小さな声で呟いた。


「そんな物があるのか?」


「中を見れば、はっきりします」


 そう言って、件の本を鼻先に突きつけてきた。アーレフは苦い気持ちを抱きながらオズワルドを見る。暗緑色の瞳の奥には、野心にも似た好奇心が渦巻いている。

 同じ感情が、己の内に無いとは言えない。

 面倒に巻き込まれるのは確かにごめんだ。しかし、心のどこかでは安穏とした平和な日々に、退屈しているのだ。


KHARAくそっ!!」


 悪態を隠さず乱暴に本を奪い、アーレフは鋭い目つきで睨んだ。怯むどころ挑発の笑みを浮かべるオズワルドに向かって、脅しの声音で釘を刺す。


「言っておくが、僕の腕は安くないからな」


「ご安心を。そのような心眼は持ち合わせておりませんので」


「お前のは詐欺師のものだ」


「褒め言葉として頂いておきますね」


 皮肉すらあっさりと往され面白くないと、アーレフは聞こえるように舌打ちをしてから背を向けた。




 鎮座していたオイルランプが命を吹き返し、闇を焼く香りが漂い始める。黒ずんだインクの染みが点在する卓上。そこに件の本を置くと、アーレフは瞳を静かに閉じた。手掛けた多くの職人たちへ、己の仕事の前には必ず祈りを捧げる事にしている。

 その仕事へ敬意と、謝辞を。

 本に刃を入れる行為は、人殺しに似ている。

 糸や糊、遊び紙。本にとっては骨や血肉とも呼べるそれらを切り離す。一度解体バラしてしまうと、たとえ見た目は変わらなくとも、全く同じに戻す事はほぼ不可能だ。修復ならまだしも、細工されてしまったこの本はもはや知識の塒としては機能しない。最終的に廃棄するしかないだろう。丁寧に解体してやるのが、この本へ贈れる葬送に思えた。

 大きく息を吸い、身体中のから絞り出すよう吐いた。散漫としていた気を目の前一点に絞ると、見返しと扉紙の間から本の背へナイフを刺し入れる。慎重に、要らぬ傷はつけないよう。

 工房中が静まり返る。眠る本も、ランプの灯すらも、息を潜めてアーレフの仕事を見守っている。彼の耳に届くのは時折聞こえる紙擦れと、道具が一寸の暇に着く音だけ。

 手元の細かい作業に没頭し始めると、アーレフは外部からの刺激には反応しない。己の精魂が尽き果てるかその作業を終えるまで、たとえ戦が起きようとも仕事の手を止めることはきっとないだろう。並外れた集中力は、妹の声すら遮断していた。

 薄暗く、夜ほどの静けさを保つ工房は、お世辞にも片づいているとは言えない。しかし、居心地の書斎にも思えるのは不思議なものだと、休むことなく際動かす友の背を眺めた後、オズワルドは再度深い思考の席へと降り立つ。


(さて、こちらも役目を果たしましょうか)


 彼の知る中、本を盗む人間はいくつかのタイプに分けられる、と言われている。

 ただ盗まずにいられない窃盗狂タイプ。

 金欲しさ故の貧困タイプ。

 怒りにまかせた衝動タイプ。

 出来心で盗む感情タイプ。

 そして、自分の為という自己愛タイプ。

 古本屋を騒がせる盗難事件はまだ情報不足な点はあれど、窃盗狂もしくは感情、自己愛タイプの可能性を秘めている。しかし、盗まれた物と入れ替わる形で残されていた「細工された本」は、そのどれにも属しない歪なピースだ。

 偶然が生んだ、何の関わりも無い誰かの悪戯である可能性――片時考えたひとつの仮定であったが、それならば本に細工を施す意味が無い。なにより古書の価値を見極める知識は一昼夜にして手に入れられるものではなく、素人は時間も金も損をするだけだ。現に、タルティーブで盗まれた本は、この店が扱う中では価値が無いに等しい品であったという。それと件の本の価値を比べたところで、犯人は危険な橋を無意味に渡っただけにすぎない。

 古書そのものを目当てとした窃盗ではない、ということは断定して良いだろう。答えに繋がる何かが、あの細工された中に隠されている。

 あとは、アーレフの作業が終わるのを待つしかなかった。


「――終わったぞ」


 しばしの時を待ち、長い安息を吐きながらアーレフが全ての道具を置いた。恍々と灯っていた蝋燭は半分ほどその身を削り、時の流れを知らせている。


「腹が立つな、本好きの癖を理解した嫌な細工だ」


「どういうことです」


 一切隠すこと無い憤りを見えるアーレフに問いかけると、彼は作業机の上が見えるように体を脇に避けた。

 淡い灯りに照らされた元思想本。表紙は外され、分厚かった本文はいくつかの束に分けられ鎮座している。破損した箇所はほぼ無く見え、見事としか言いようがない仕事だと、オズワルドは内心感心した。生きることには大ざっぱだが、本に対しては繊細という言葉がこれほどまで似合うのも、おかしな話だ。


「お前、中身に興味のある本を手に取った時、どこから開く」


 アーレフのその一言で、オズワルドはおおよそを把握する。


「万が一、関係のない人間が手に取ったとしても、『本』だと思い開くのは最初の方……ですね」


「そう、だからこの本にはちゃんと本文が読めるところがある。本としての機能を残した上で、一部のページを圧着させていた……中はこれだ」


 投げるように寄越された物は蝋引きの小さな封筒だった。押印の無いワックスで簡素に閉じられた封の中には、少量の白い粉。

 見るや、オズワルドは眉を顰めた。日中に交わしたロバートとのやりとりを思い出す。


 ――品をどういう形で隠してるのか判らない。物が大きければ。


 警察を総動員させてまで捜している物と、こんなところで相対するとは。

 窃盗にしては特殊ではあったが、まさか大規模な事件に繋がっているなど、古書ギルドだけでは誰も推測できるはずがない。そしてそれは、警察も同じだろう。


「なんだって砥の粉なんか隠してたんだ?」


 複数隠されていたのか、同じ物を手にアーレフがごちた。彼らしいとはいえ見当違いな発想を、オズワルドは呆れ半分訂正する。


「砥の粉なんか仰々しく隠すはずないでしょう。人の目をはばかる物……おそらく、密売の品でしょうね」


「密売?」


「近年条約で禁止されたアヘンあたりでしょうか。これなら警察も必死になるわけですよ。最悪、国際問題にもなりかねません」


 品の名を聞き、アーレフが荒い鼻息をたてた。憤慨を抑え込んでいる、そんな素振りに思える。その感情が彼の正義感からか、また別の理由なのかは判りかねた。

 とかく見つけてしまった以上、タルティーブに置いておくのは危険だと判断し、オズワルドは封筒を内ポケットへしまった。


「出てきたものは私が預かります。この品が出てしまった以上は警察にも手を回した方が良いでしょう、それは私が。貴方はギルド内で窃盗された本のリストをできるだけ集めてください」


「簡単に言ってくれるな。他の店だって面目があるんだぞ、そう易々と」


 小さく喚く口を、細いオズワルドの人指し指が止める。


「文句を言ってきたらこう言えば良いんです。『己の面子を守るために目の前の本全てを焚書にされるのと、悪事の片棒を担がされる本を救うため汚名を被るのとどちらが好みか』ってね」


 本好きからすれば、到底考えられぬ脅しの文句。

 それを聞いてアーレフが絶句する。人道に反する人間を見るような目でようやく「ペテン師め」と呟いたが、その程度の悪態など可愛いものだとオズワルドは鼻で笑った。


「とにかく、そちらは任せますよ。いくら私の顔が効くからとはいえ――」


「お二人ともー、だいぶ時間経ったけど喉乾いてません?」


 階上から降ってきた明るい声音に、二人は一寸で口を閉ざした。逆光を背に顔を覗かせたラナーに気取られぬよう、アーレフはそのままにしていた作業机を埃避けの布で覆い隠す。状況はどうあれ、彼女を関わらせるべきでないと二人は瞬時に視線を交わした。


「日も暮れたし工房は冷えるでしょ? お兄ちゃんなんかご飯も食べないで何やってるのよ」


 薄暗い足下をなんとか目を凝らし降りてくる妹。その両手に支えられた銀の盆を見て、アーレフが素早く階段を駆け上った。


「本に水物が掛かったらどうするんだ、気をつけろ」


 盆を受け取り適当な空き椅子の上に持ち運ぶ。冷えた薄暗い工房の中に広がる僅かな白湯気と茶の気配。清涼感のある滓かな香りは、オズワルドが持ち込んだ新葉のものだ。

 兄の愛想の無い顔と声に気分を害したでもなく、ラナーがその後に付いて工房へと下り立った。


「……おい」


 微笑ましい兄妹のやり取りを眺めていたオズワルドに怪訝な声が飛んでくる。


「その胡散臭い笑みをやめろ」


「おや失礼な。これが地顔ですよ?」


 僅かに肩を竦めて非難を交わすと、潜められた眉の影がより深くなる。そんな顔をするからからかいたくなるというのに、オズワルドの心事に気づく様子の無いアーレフは、納得いかぬと言いたげな顔をしながら盆の上に手を伸ばしていた。


「何二人で悪巧みしてたんです? オークションで何かすごい商品でもあったとか」


 兄の寝床からクッションをひとつ取り出しつつ、ラナーが微かに含んだ物言いで探りを入れてきたが、オズワルドは紅茶を飲む手を止め、笑みと共に話題に乗った。


「その様子だと、もうこちらには目録が届いているようで」


「そうなんですよ。お兄ちゃんなんか、すっごい真剣な顔で見始めちゃって、昨日晩御飯食べさせるの大変だったんですよ!」


 僅かな嫌味交じりの報告を聞けば、その状況は想像に容易い。何てことのない兄妹の日常だが、ふと片鱗に疑惑を覚え、オズワルドは友に尋ねる。


「アーレフ、何か気になる物がありましたか?」


 小皿に盛られていた紅茶葉を食む手を止め、咀嚼の後にアーレフが言う。


「店の品として興味があるものは無かったな。僕個人としては『アナスタシアの手紙』が気になった。王朝の書簡が出回ることが今後無いに等しい可能性もあるし、検分だけでもしてみたい」


 品の名に、オズワルドは僅かに驚きを顕わに問い返す。


「あの、ロマノフ王朝第四大公女の、ですか?」


「他にアナスタシアなんてそうそう居ないだろ」


「……すみませんラナー嬢、今年の目録を持ってきてくれませんか?」


 間延びした返事と共に、ラナーが軽やかな足取りで階段を駆け上って行った。その後ろ姿が簾の向こうに消えたのを見届けてから、アーレフが声を潜め問う。


「オークションが何か関係あるのか?」


「基本的に密売の裏では多額の利権や金が動きます……時期を考えると何かしら目玉商品が出ている可能性も」


「僕が見た限りではそれらしい物は無かったが……」


「貴方の価値観が一般的だと誰が言ったんです?」


 真剣な雰囲気から一転、さらりと言われた皮肉だが、自覚しているだけに反論できず、アーレフは己の口に茶葉を放り込んだ。オズワルドのこういう点が気に食わない。そうは思うも、残念ながら負かせた試しは一度も無い。憎らしいとも悔しいとも言い切れぬ曖昧な想いを葉にぶつけるように、噛み砕き嚥下していく。

 濃く独特な燻製のような薫りが口中に広がり、その薫りの強さにオズワルドの店から買い入れた葉だと気づくと、胸中に違う苦味が広がった。


「お待たせしました」


 厚みと大きさのある冊子を手に、軽やかな足取りでラナーが工房へ戻ってきた。礼を伝えて受け取ると、オズワルドは目録の頭からページを繰っていく。手と、送られていくページ、左右を行き来する目の早さにラナーが小さく感嘆の声を上げた。

 宝石、動物の剥製、時には城の権利書まで売られる上質の紙の会場には、日常ではお目にかかることのできない品々が数多く並ぶ。価格の大小はあれど、そのほとんどが一般的には手に入れることのできないシロモノである。目玉商品はシャルル七世の戴冠式の様子が描かれたジャンヌ・ダルクの絵画あたりか。政治や思想に携わる者たちが挙って競りに加わるだろう一品だ。

 そんな華々しい品々とは裏腹に、件のページは簡素にすら感じた。

 ――アナスタシアの手紙

 アナスタシアはとは、ロマノフ朝最後の皇帝であるニコライ二世の娘にであり、第四大公女である。ロシア革命の折に一族は臨時政府に処刑されたとも、ニコライの妻と息子は安全な場所に送られたとも表されている。その出来事はまだまだ歴史と呼ぶには若いながら、王朝滅亡という、地図から国の歴史が消滅した、近年でも大きな世界的に変動だ。

『曰く付き』という点でいえば申し分ない品ではあったが、他の品々と比べればなんとも見劣りのするものであった。アーレフの興味の矛先は、今後消えゆく王朝が使用していた印やインクに対してだろう。言ってしまえばこれは、一人の少女が書いたただの手紙でしかない。競りに出たとて興味を持つのは、せいぜい歴史家と一部の変わり者だけ。

 ――自分もその変わり者の一人ではないか?

 ふと浮かんだ自嘲の言葉に少し笑みを浮かべ、オズワルドはずれた思慮を元へと戻した。

 今年の国際オークションは世界恐慌の煽りも受けてか、めぼしい物は他に見られない。ジャンヌ・ダルクの絵画は確かに今回の目玉となりえるが、犯人にとって危険を犯してまで手に入れたい品なのだろうか。


「贋作家に描かせたほうが、まだ危険も少ないだろうに……」


 呟いたとて、犯人に届くわけもない。

 そもそもオークションに向けての資金稼ぎというのもオズワルドの推測に過ぎず、見当違いであることも否めなかった。何か別に目的があるのか……

 オズワルドが思考の底に降り立つ直前、店側からドアベルの音がした。その後聞こえてきたのは、呼び声というには低く小さい。

 ラナーが弾けるように階段を上って行く。艶やかなふた結びの黒髪が、彼女の足取りを辿るように揺れていた。

 周囲を置き去りに自己の内側へ潜っていたことを恥じる。思考のパズルから一度離れ、オズワルドはアーレフに告げた。


「……貴方はギルドの件、お願いしますよ。私はロバート警部にも少し話を聞いてみます」


 たしなめるように伝えはしたが、アーレフがあからさまな舌打ちと共に顔をしかめ、悪態をつく。


「あいつらに頼ることがまず無駄だろ。他人を見れば疑うような奴らだぞ」


「物が物です、何かあってこちらが疑われては面倒でしょう。話を通すだけでもしておかねば」


 納得がいかないと言いたげなアーレフが不満げに小さく舌打ちをする。彼の警察嫌いは今に始まったことではない、窘める意味もなかった。


「オズさん」


 上階の簾から顔を出し、ラナーの声が呼ぶ。


「お迎えが来てますけど、裏口に回ってもらいます?」


「グスタフが?」


 言われ、オズワルドは時計を取り出す。港から解放された時間も早くはなかった。現に、短針は既に夕刻を過ぎていた。


「ああ、ずいぶんと話し込んでいたんですね。申し訳ない、そう伝えてもらいますか」


「はーい」


 再び彼女の顔が暖簾の向こうに消えた。

 オズワルドは杖を手に立ち上がると、念を押すようにアーレフへ向き直った。


「わかっていると思いますが」


「気を付けろだろ? 僕よりは妹に言って欲しいものだな。あいつ時々抜けているから」


 ため息と共に吐露された言葉に兄妹の仲睦まじさを感じ、オズワルドはただ苦笑を浮かべるしかなかった。




 薄暗い工房の外は暮れに染まり、表通りは仕事帰りや飲みにへと足早に向かう人々で道が塞がれることも珍しくはなかった。

 執事を乗せ寄越された小型の馬車から通りを眺め、オズワルドは現在の状況と情報を整理する。

 古書ギルドが手を焼く盗人。

 細工された書物、その中に厳重に隠されていた白い粉。

 そして警察を煩わせている密輸事件。

 おそらく全て同じパズルの為に揃えられたピースなのだ。完成図の見えないそれを思い描けば、自然と口元が弧を描くのを止められなかった。


「なにやら良いことでもございましたか、旦那様」


 向かいで静かに座っていた男――グスタフがこちらを見ていた。主人よりも歳のいった彼は下に就いて長く、信頼も厚い。もちろんオズワルドがこれまで解決に助力した数々の事件の裏、私生活を支えてくれている大事なパートナーとも呼べた。


「そう見えるかい?」


「アーレフ様たちの所からお帰りの時はたいがいご機嫌なご様子ですが、本日は特に」


 問えば、従順な執事は頷き答える。

 犯人はおろか、全容すら見えていない事件と呼ぶにも満たない事柄。あまりにも雑然とし過ぎたパズルのピースだが、それぞれが枠の中にピタリとはめ込まれていくのを想像するだけで、オズワルドの胸中は期待に震え続ける。

 グスタフの質問に答えはせず、オズワルドは視線を窓の外へと移した。


「しばらくの間、急を要するもの以外は私抜きで回してください。それと……貴方はアナスタシア大公女について何か覚えていることは?」


「ロマノフ家の、でしょうか」


 老齢のグスタフが低く骨の目立つ鼻を指先で叩く、彼が考えごとをする時の癖だ。


「事件としてはまだほんの十数年前と記憶しておりますが……なにぶん、革命の混乱もあり、旦那様がお求めになられる情報が、ありますでしょうか」


 歯切れの悪い言葉だが、その言葉が偽りでないのはオズワルドも解っていた。ソビエト連邦による情報規制が敷かれているのか、未だにその多くは語られていない。


「噂程度でも構いません、関連する事柄も含めて調べてください。当時の新聞記事も見つかれば尚良し」


 喜びにか弾む声を抑えきれない主人を見やり、また悪い癖が出てきたのかと、承諾の言葉と共に執事は小さくため息を吐いた。

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