Ⅱ 古書泥棒

 オズワルドがバレーヌ・エレで暇を持て余していたのと同じ時刻。

 港から遠く離れた都市の西側。古書通りの端にある「古書店・タルティーブ」に、珍しい回覧が届いていた。店の名を連ねているギルドからのそれを受け取ったのは、艶やかな長い黒髪と褐色の肌を持つ若い中東人の娘――店主たるラナーだった。


「……珍しいですね、こういうのが回るなんて」


 回覧を運んできた中年のふくよかな女は、カウンター越しに大きなため息をついた。


「嫌になるわよねぇ。私らって信頼が大事でしょ? ギルド直々に回すってことは、相当出てるってことだし」


「そうですね。どういう物が狙われ易いのか判りませんが……用心するしかないですね」


「ホント、嫌になるわねぇ。愛するあまりって奴もいるじゃない? そういうのが犯人だと、ちょっと憎めないのがまたねぇ」


 さらに身体を膨らませ、女が二度目のため息をついた。

 ラナー自身、本を読む行為は好きなほうだと思っている。見知らぬ異国への憧れを昇華するのに、本という媒体は何よりもありがたい。気が向いた時に気が済むまで。ラナーにとって本との距離は、その程度が心地良い。

 しかし目の前の女店主や、一番身近な兄は違っている。本という形その物も愛し、魅入られた人たち。所謂「愛書家ビブリオフィリア」たちは、独特な世界を見ているようにラナーは感じている。


「でも、早く捕まると良いですね」


 そういう気持ちもあって、女店主の言葉には曖昧な返事しかできなかった。

 その後、旦那とある児童書の版を巡り喧嘩をしているという長い愚痴話につき合い、満足げに帰る背を見送ったのは二十分も後のこと。

 再び手に持つ回覧文に目を落とし、しばし考える。


「……お兄ちゃーん、ギルドから回覧ー」


 店の奥へ続く廊下。その途中には階段が二つ存在している。ラナーはその一方、地下へと続く階段に向かって大声で呼びかけた。

 そこは店のもうひとつの顔である、本の修繕工房に繋がっている。そこは表へ出せない稀覯本の類も保管しているのだが、実態は寝食すらそこで行う自堕落な兄――アーレフの自室になっていた。

 薄暗さに目が慣れると、案の定、本と本の隙間に身を縮めて眠る兄の姿が見えた。もう一度大声で呼んでみると、今度は低い唸るような返事が返ってくる。


「もう昼過ぎてるんだから起きてよ、でないと晩御飯ラブラドア茶 ※①にするからね!」


「……それは、嫌だ」


 究極の偏食家故の弱点を突けば、作業机の近くで影がうっそりと起き上がった。方々に跳ねた寝癖を整えようともせず、薄暗い

階段をゆっくりと上がってくる。


「ギルドが、なんだって」


 如何にも不機嫌な声でアーレフが問う。


「泥棒が出てるんだって、警戒しろって連絡」


 有事の報を聞いて覚醒したのか、アーレフがギルドからの回覧を奪い取った。一変した別の理由による厳しい顔で凝視した後、苛立ちをごまかすかのように白い髪を掻いた。


「今、客は?」


「ちょうど居ない。閉めちゃう?」


 妹の提案に是と答え、アーレフは身支度のために今度は上階へと向かって行った。

 その間にラナーは駆け足で近隣店舗へ回覧を届け、店に戻るやドアに「CLOSED」の札を下げてカーテンを閉めた。その後、ショーウィンドウに置いてある中東の意匠が施されたランプに灯りを点す。

 これで特定の客以外、人の出入りはない。


「蔵書票どこだ」


 緩やかな癖毛をひとつに結び、着替えを済ませたアーレフがラナーに問う。


「カウンターの下、この間お兄ちゃんが赤い革貼ったやつ」


 言われるままカウンターの下を覗き込み、彼は表紙にフレンチ・モロッコ革が貼られた紙束を手に取った。そこそこ重量のあるそれをカウンターに乗せ、傍のインク瓶とペンを引き寄せる。


「最後に点検したのいつだっけ?」


「僕に聞いても無駄だぞ、覚えてるわけがない」


 兄の返事に然もありなんと、彼女は気にすることもなく仕度を続けた。彼の関心は本そのものであり、店の細やかなことに無頓着なのは承知の上だ。ラナー自身、答えに期待はしていなかった。

 二人は目も合わさず、阿吽の呼吸で作業を進めていく。ラナーが一冊一冊本を手に取りタイトルを読み上げては、アーレフが手書きの票から有無を見つけだす。票は本を入手した日に記載するため、棚の並びに沿っているということはまずない。

 そんな気の遠くなるような作業を、二人は根気よく続けていく。

 繰り返すことおよそ一時間後、票を捲るアーレフの手が止まった。


「……ラナー、今の本もう一度」


 名は聞いたことがあった、そこそこの知名度を持つタイトルだ。だが、そもそもタルティーブで扱うような品ではない。再度確認してもアーレフの記憶と同じく、蔵書票にその本の名はなかった。


「書き忘れしたかな、私」


 日頃店に立ち、蔵書票に記載するのはラナーの役目だ。人の手で行う以上、手違いがあってもおかしくはない。しかし、それをアーレフが否定した。


「僕が鑑定した覚えもない……ようするに、うちが買い取った品じゃないってことだ。避けておいてくれ、全部照合してから考えよう」


「りょうかーい」


 軽い妹の返事と共にカウンターに置かれた本。アーレフはそれを目の端で捉えた。

 黒い革に身を包んだ思想本。過多とも思えるロマンチック様式の装丁は、作業の間も妙な存在感を放つ。

 人生を古書に盗まれ、古書と共に生きてきた。別段書物に対して思い入れがあったわけでなく、物心つく頃には西洋宗教の写字生のような生活を強いられていた。己と妹の人生を翻弄した書物という存在を一時は憎みもしたが、自分は古書が無ければ物を食うこともできやしない。その事実を受け入れて付き合っていくうちに、何時の頃からか、書に残る人の念を感じるようになっていた。

 だからこそ、アーレフの第六感がざわめく。

 ――何か嫌なにおいを感じる。

 これを感じる時は常に古書探偵の姿があるのだが、彼は本業のため大陸から離れているはず。票の文字を追いながらも、胸騒ぎのせいで眉間にシワが寄っていく。


「そういえば今日じゃなかった? オズさんが帰ってくるの」


 突如妹の口から出た彼の名に、アーレフの持つペンがカウンターに黒い滴を溢した。


「なん、で! 今そいつの名前が出てくるんだ!!」


「どうせお兄ちゃんの事だから忘れてるんじゃないかと思って。この間貰ったジャスミン茶っていうの美味しかったなー、また輸入しないかな」


 無邪気に喜ぶラナーの顔を見ると、口にしたい悪態が喉に詰まった。

 悪縁といえるオズワルドの存在は、アーレフにとって頭痛の種に近い。しかし、その縁に助けられ、普段我慢を強いてる妹にせめてもの償いをと、オズワルドを頼っているところは確かにある。

 誰よりも世俗に疎く馴染めぬ自分では、妹が何で喜ぶのかも解らない。情けないという思いは薄いが、オズを慕うラナーを見ていると、何か複雑な思いを感じる。


「お前は本当に……あんな変人のどこが好きなんだ」


 兄の思いなど余所に、ラナーは反論の声を上げた。


「オズさんが変人だったらお兄ちゃんは偏屈よ」


「あんなの以下にされるのは心外だ」


「誰もそんな事言ってないでしょ。それに、オズさんは変人じゃなくて、し・ん・し!」


「あれは紳士じゃなくて詐欺師っていうんだ」


 あからさまな苦い声音に、ラナーは苦笑するしかなかった。

 ショーウィンドウに掛かる日が傾く。一日の終わりに向けて街の通りが家路に着く人で溢れる頃、棚に最後の一冊を戻し、ラナーが書棚梯子から飛び降りた。


「……はい、今ので終わり」


 蔵書票を捲るアーレフの顔は険しい。忙しなく左右へ動く黒い瞳は何か言いたげに、一度伏せられた。


「一冊、無いな」


「嘘っ! 何て本!?」


 言い切る兄の言葉が信じられないのか、カウンターを間に頭を突合せる形でラナーも蔵書票を覗き込んだ。

 タイプライターで打ったかのような兄の「F」ファインドの字が左隅、等間隔で縦に並んでいる。それ故に、紛失を意味する空白は目立ち、横に続く本のタイトルを読むのは非常に楽だった。


「……どうする、ギルドに報告するべきかな?」


 戸惑い問うラナーに対し、アーレフ押し黙って何か考え込んでしまう。

 タイトルの横に書き記してある買取価格や本の価値は、店の中でも下と分類されている。だからと言って、窃盗されても痛手なしと、決して言える物ではない。何よりギルドが注意喚起を行っている以上、加盟している店として報告の義務は生じるだろう。

 しかし、アーレフはあえて諦めの言葉を選んだ。


「運が悪かったと思おう。うちが他店に比べて買取も販売も特殊なのは周知されている。この程度の古書もので騒いだところで、ギルド中に恥を晒すようなものだ」


「そうかもしれないけど」


 不服げな声を出しても、品に関してはアーレフの方が精通している。店はあくまで兄を主体として成り立っており、最終的な決定権は彼に委ねると決めている。

 悪に屈する悔しさを追い出すよう、ラナーは深く息を吸い込み、共に吐き出した。悩んでも仕方が無い、事は既に起こった後だ。


「……じゃ、破棄扱いにしちゃうからね」


「あぁ、頼んだ」


 ラナーが溜息交じりに承諾をした時には、既にアーレフの意識は別へ移っていた。

 蔵書票にはなかった黒革の思想本。

 手に取ってみると随分と軽い――いや、軽すぎだ。革張り装丁というだけでも本来重量があるにも関わらず、厚みから察せられる重みと手に感じる重みは、アーレフの知るそれと一致しない。


「ラナー、お前この本手に取った時何か感じなかったか?」


 真剣な声音で問われ、彼女はその時を思い出すようにしばし目を閉じ唸る。


「少し、感じたかも」


 一瞬の間すら長く感じ、答えを待つ。


「思ってたより軽いなって」


「だよな」


 自分だけが感じた違和感ではなかった。ラナーが感じた以上、ただの思想本でないのは明白であり、何かしらの細工が施してあるのは確かだろう。中を見るため開こうとし、手を止めた。一見では本以外の何物でもない。しかし、それを彼女の前で確認して良いものか。

 憎らしいことに、判断に迷う脳裏に浮かんだのはオズワルドの後ろ姿だ。危機的状況に至った時、最良の方法を見出すのは必ずと言っていい、彼の方だ。

 アーレフは心の中で問う。

 ――オズワルド。お前は、こんな時どうする。

 その時、店のドアに取り付けられたベルが重い音を立て、客の来訪を告げた。「CLOSED」の札は今だ掲げられており、今の状態で訪れるのは『印』であるランプの火を知っている上位の顧客だけ。

 二人が揃って音の方へと顔を向けると、ドアから顔を覗かせたのは旧知であるオズワルドだった。


「オズワルドさん!」


 ラナーの声が部屋に舞い上がる。棚の整理もそこそこに、彼女は飛ぶようにドアへと向かう。


「おかえりなさい。いつ着いたんですか?」


「お久しぶりです。もう少し早くお伺いする予定だったのですが、港で捕まってしまって……こちら今月分の茶葉です、今年の新茶もありますので是非」


 オズワルドの手から紙包みを受け取ると、彼女はその重さに驚きを滲ませる。


「ありがとうございます! 重くなかったですか? すみません、取りに行くつもりだったのに」


「顔を見せるついでです。それに、商会内一のお客様ですから。これくらいのことは」


 この来訪は天啓なのか。あまりにも偶然が過ぎると思うが、他に策も思い浮かばない。アーレフは小さく舌打ちをしながら、思想本を手に立ち上がった。


「おい、オズ」


 旅の労いなど必要ないと、彼は仏頂面でオズワルドを呼ぶ。


「工房に来い」


「なんです急に」


「いいから来い。ラナー、店頼んだ」


 アーレフが二人を残して薄暗い地下への階段を下りて行った。白い後ろ頭に向かって、ラナーはこれ見よがしのため息を吐いた。


「まったく、マイペースなんだから」


「そこが彼の良いところでもありますよ」


「そうですか?」


 友人の帰郷を労わぬというのに、オズワルドの表情はどこか楽しそうにも見えた。最初こそ世の中にはこんな朗らかな人が存在するのかと驚き、彼に尋ねたことがある。「この笑顔はただの職業病ですよ」と否定されたが、自分に向けられる笑顔と、兄と共に秘密話をしている横顔は全く別物だと、ラナーは感じていた。

 そこに顔を覗かせているのは、決して落ち着いた西洋紳士だけではない。悪巧みをする子供と、迷える人を誑かす悪魔。それに、近年人気の顧問探偵も、きっと仮面を貸しているに違いない。


「では、お話の続きはまた後ほど。あまり待たせるとお兄さんに怒られてしまいますからね」


 こつりと杖が鳴る。握り直された第三の脚が、しっかりと主人を支えて店の地下へ下りていく。

 さっきのはどの顔だったかしら。

 点検の後片づけをしながら、頭に浮かんだ本の所在をラナーは考えた。

 戯曲集はあったはずだ、「大人になりたがらない少年」か「小さな白い鳥」を、今夜の友にしようと。



※①ラブラドア茶……一七七五年のボストン・ティーパーティ事件を発端にした「節茶運動」に際して生まれた代用品。草や木の根から製造する。

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