古書探偵たちの暗号帳 -アナスタシアの卵

雪本歩

Ⅰ 鯨の聞く噂

 さながら絵画の如く、窓枠に切り取られた空の中をカモメが横切るように飛んでいく。

 白いカップに残る茶染みから目を逸らし、オズワルド=ファウラーは懐中時計の蓋を開いた。忙しなく動く歯車の手前、装飾された時計の針がほんの僅か傾く。港に足止めされそろそろ二時間になるだろうか、数ヶ月ぶりの家路に未だ着く事ができない。

 コーヒー店「バレーヌ・エレくじらのたびてい」は昼時近くという事もあってか、港で働く者とオズワルドと同じ交易商人たちでごった返していた。運よく窓近くのカウンター席に座れたが、紙煙草で汚れた空気と静かとは言えぬ空間に、疲弊は募る。

 眼鏡グラス越しの目を細め、オズワルドは懐中時計の蓋を閉めた。この動作を行うのも何度目かわからない。溜まっていく疲労を誤魔化すために、彼は長いため息をついた。


「失礼、オズワルド伯爵では?」


 形式ばった呼び名に視線を上げると、体格の良い東亜顔の男が覗き込むように己を見ていた。白いシャツに映える健康的な浅黒い肌と、並びの良い歯を見せる笑い方。


「やはりオズワルド伯爵だ、お久しぶりです」


 覚えのある人物に、オズワルドの表情は自然と明るくなった。


「カルロ! 貴方も今日お帰りに?」


「最近は船員に任せ都市に駐留していました、今日船が戻ってくるんですよ。しかし、こんな時に帰郷とは災難ですね。しばしご同伴しても?」


 オズワルドの了承を得て、カルロ=ベルティーニがカウンターに背を向ける形で寄り掛かった。辺りを見回すが、あいにく近くに空きの椅子はない。


「しかし、こちらでは貴方が座ることは」


「構いませんよ、私のことなぞ気になさらず。席を変えたところで座れると限りません。そうなれば、伯爵の脚によろしくないでしょう」


 言いながら、カルロは高々と手を振り店員を呼んだ。酒に強い彼はまだ日が高い事など気にもせず、白ワインの銘柄を伝えている。

 カウンターに運ばれたグラスを勧められ、オズワルドも口直しにありがたく受け取った。


「助かります、貴方が現れなかったら退屈と渇きで死んでいた所です。陸地で満足に喉も潤せないなど、商人として情けない」


 店に対する言外の批判にか、カルロが笑いを堪えるように喉を鳴らす。


「言いなさるな。オルター商会に敵う茶を扱っていたなら、この店にコーヒーは存在しない。元より、そのコーヒーすら飲まれやしない店なんですから」


「貴方も相変わらずのようで」


 気兼ねなく軽口を叩ける相手はさほど多くなく、常に気を張る必要のあった海上からの解放をようやく感じる。勧められた白ワインは安価なものであったが、見立てに間違いはなく申し訳程度だったオズワルドの喉に安らぎをもたらしてくれた。


「そうです、お聞きしたいのですが」


 頃合いを見、カルロに問う。


「港の騒ぎの元は何です? ずいぶんと大掛かりの様ですが」


 港の騒がしさは、オズワルドの知っているそれとは違っている。

 問いにカルロが肩を竦めてみせ、申し訳なさそうに苦い笑みを浮かべて言った。


「明確な理由は私も知らないんです。ここ一週間でしょうか、入港審査が厳しくなったのは」


「警察が何か言っては?」


「事前にも何も。荷の全てを確認してからでなければ荷を都市に卸せないとだけ。ただの脅しかと思っていれば、本当に調べ始めるんです。きっと彼らはネズミの巣の奥まで調べたに違いない」


 カルロの皮肉もただの冗談と笑い飛ばせはしない。元々ミグラテールは他諸外国に比べ入国審査は厳しい方だが、比較的積み荷の少ないオズワルドの船ですら数時間も要している。今回は異常と言わざるを得ず、何かあったと考えるのが普通だ。

 人の多い場所で数時間、ただ時計と向き合う彫刻を模していたわけではない。耳を峙て、時に直接声を掛け、オズワルドは都市の情勢を追いかけた。

 だが、それらしい話は誰からも聞くことはなかった。だとすれば、まだ事件として表沙汰になっていないのか、あるいは厳密にならざるを得ない何かがこれから起きようとしているのか……。


「そういえば伯爵、今度のオークションに参加のご予定は?」


 一人思考の海に沈みかけたオズワルドの意識をカルロの言葉が連れ戻した。

 言われた内容を心中で反復したが、これと思い当たるものが閃かない。

 鈍い反応にか、カルロが笑って助け船を出してくる。


「お忘れですか? この時期といえば、『国際オークション』以外あり得ないでしょう」


「忘れていました、もうそんな時期に」


「長旅で記憶も波に浚われましたか」


 渋い顔をするオズワルドを物珍しく感じたのか、カルロが堪え切れず喉を鳴らして笑い続けた。

 ――国際オークション。

 国主催で年に一度行われる、美術品メインの競売会を示す。

 過去の戦争で押収した植民地の宝や、商人個人から差し押さえた曰くありげな品々を我が物に出来る、世界随一にして唯一の祭典。選ばれた者しか参加することのできないそれには、他国の重鎮がお忍びで来訪しているとの噂もある。

 そんな大事な日が近いとあっては、事情はどうあれ入念な積み荷の検品を行うわけだと、了得した面もちでオズワルドはグラスを空にした。


「――目録すら手にしてませんので、これから検討いたしますよ」


 オズワルドは元々美術品の類にあまり興味がない。仕事や身分柄関わることがあるため、教養としての知識はあるが、それ以上にもそれ以下にもならない。

 空のグラスにボトルが傾けられる。


「やはりお目当ては稀覯本きこうぼんなどに?」


「興味を惹くものであれば、ですが」


 どこか気のない雰囲気を感じ取ったのか、カルロは理解できないと言いたげに肩を軽く竦めた。


「相変わらず酔狂な方ですね、伯爵。歴史や美術価値があるならまだしも、貴方のお好みは私の理解を逸脱する」


「お言葉ですが、貴方が美術品に覚える価値観とさほど変わりないと思いますよ」

 否定も咎めもしない、ただ往なすだけのオズワルドの返答に、きょうじのため息をカルロが漏らした。


 貧民街に程近い古書店通り――その中でも一際異彩を放つ店をオズワルドは好みとしている。本が関わる事件が起きれば知的探求の赴くままに、まるでチェスでも楽しむが如く自ら首を突っ込んでいく。祖父の代から交易商として国に貢献し、自らも爵位を賜ったオズワルドだが、その「趣味」故に、一部の貴族や同業者たちからは忌避されていた。

 そしていつの頃からか「古書探偵」ビブリオディックという渾名が、侮蔑と嘲笑と共に彼の影で一人歩きし始めた。当の本人は、怒るどころか皮肉も込めて二つ名とも言える呼び名を喜んでいた。

 その事実を知るカルロは、オズワルドの言葉に苦笑するしかなかい。


「貴方はどうなんです、カルロ」


 空になったグラスを置き、オズワルドは揶揄するような笑みを口元に浮かべる。


「美術コレクターの大舞台ではありませんか。その様子だと、目録に目を通したのでしょう?」


 問いにカルロの目の色が変わったのが判る。もちろん新たに傾けられたボトルのせいでないのは明白だ。


「実は今回、なんとしても手に入れたい物がありまして」


「それはどのような?」


「他に比べれば地味な物ですが、私の中では今回の目玉と言っても良い。知った時は鳥肌が立ちましたよ」


 生まれの筋もあり血気盛んな方だとは思っていたが、ここまで熱く語るカルロの姿を見たのはオズワルドも初めてだった。

 カルロはと若くして商会を持っているやり手がいる、そんな噂を互いが耳にして出会った。偶然にも二人の趣味は部分的ながら重なると知り、発展していった関係だ。顔を合わせた時の話題は仕事に関する情報と、それぞれの趣味に関わるものだけ。

 付き合い自体は多少長いが、結局は仕事上の付き合いに過ぎない。それでも多少なりともオズワルドは好意を感じており、これまでの付き合いから多少話題に踏み入ることに何ら疑問を感じなかかった。


「貴方がそれほど興奮するのも珍しい。どういう品なのですか、それは」


 ――彼をここまで熱くする理由は何か。

 純粋な興味で尋ねたつもりだが、突如カルロが口を止めた。そのまま言葉を濁し、なんとも曖昧な苦笑を浮かべ、謝罪する。


「申し訳ありません……美術品に関するとつい熱くなってしまうのが、私の悪い癖だ」


「それは、構いませんが」


 聞いてくれるなと、雰囲気が物語る。重くなった口をそれ以上開くことなく、まるで天を仰ぐように、カルロが再びグラスを傾ける。

 興味を持たれては困る品ということか。

 互いの美術品に対する価値観に差があることはカルロも知ってのはずだが、らしくない濁し言葉を使うほどだ、よほどオズワルドに知られたくないのだろう。

 追随してまで他人の秘を暴く趣味はさすがになかった。


「失礼ですが、オルター商会の関係者はこちらいらっしゃいませんか!」


 喧騒に負けじとした大きな声が店の入り口から響く。

 呼応しようと入り口の方へ身体を向けた拍子、椅子の背に掛けておいた杖の柄が肘を打つ。真鍮と木のそれは床を鳴らして倒れてしまった。

 片手で身体を支え、ハイチェアから腕を伸ばし拾おうと試みるも、あと寸でで届かない。オズワルドの片脚を助ける大事な物だ、椅子から折り膝をつく行為は、彼にとって容易ではない。


「取りましょう、お待ちを」


 グラスを置き、カルロが素早く身を屈めた。その拍子にか、パイロットコートから何かが零れ落ちた。

 思わず視線が音を追い、床へ落ちた。

 そこにあったのは掌に収まる大きさの一冊の聖書だった。夜に似た青の革に包まれてはいるが、随分と使い込まれている。小口の角がくたびれにか、反るように折れていた。


「カルロ、コートから落ちましたよ」


 一度立ち上がりかけ、カルロは改めて腰を下ろし、聖書にも手を伸ばした。大きな彼の手に救われた本が元の場所へと帰っていく。

 こちらが助けられたというのに、カルロのほうが恥ずかしげに眉尻を下げ先に礼を述べてきた。


「ありがとう、気が付きませんでした」


「こちらこそ、お手を煩わせ申し訳ありません……随分と読み込んでいますね、熱心な信者だったとは」


 杖を受け取りながら、オズワルドは問う。

 一寸不思議そうに眉を顰められる。その後すぐに聖書の話だと気づいたのか、カルロはコートの上から軽くそれを叩いて肩を竦める。


「熱心、とは言えないでしょう。商人とて船乗り、旅の無事を祈るお守りのようなもので」


 言葉では否を述べるも、その笑顔からは聖書に対する親しみが感じられた。

 カルロ率いるスエニョ・ベレタ商会は、都市内では中堅とそこそこの規模を成している。オーナーであるカルロ自身が足を運び、彼がこれはと思った酒と香辛料だけを輸入販売している。商会内のレベルを上げるにはそれ相応の品を用意せねばならないが、彼の味覚と嗅覚は優れているのか、値以上の高級品が並ぶと中層を主流に名を上げていた。

 必然的に船での生活はオズワルドよりも多いだろう。意外にも信心深い海の男たちに合わせ、彼が聖書を持ち歩くのは何らおかしな話ではない。


「そうでしたか。私は船でも室内に籠りきりですから、危険への自覚が足りていないかもしれませんね」


 率先して人の波を掻き分け、カルロが出口までの道を開けて行く。自ら付き添いを買って出てくれたのは、オズワルドにとってありがたい。

 塩の香交じりの新鮮な空気に包まれたところで、二人は別れを告げた。


「私も船の様子を見に行きますので、ここで」


「助かりました、また時間のある時に」


 人付きの良い爽やかな笑みと快諾の返事を残し、カルロが背を向ける。社交ダンスのステップを踏むような軽さで、優々と人波を渡り去って行った。

 その背を見送り、オズワルドも店から離れた。

 先ほどの声の主だろう、人を探すように辺りを見回す若い治安官の姿が在った。ここが探索場として最後なのか、悩みあぐねる顔をして通りの隅で立ち止まっている。


「失礼、オルター商会の者です」


 声をかけると、青年は一瞬驚きの表情を浮かべた。

 オズワルドが率いるオルター商会は、都市でも屈指の規模を持つ趣向品の交易会社だ。その頭取とも言える人物が、己とさほど年の代わらぬ者だと想像していなかったのだろう。

 だが青年はすぐに姿勢を正し、心地良いはっきりとした声と共に敬礼を行った。くすんだブロンドと鼻に浮かぶそばかすのせいか、顔立ちは幼く見えた。


「大変お待たせいたしました。全ての荷が確認できましたので、一度ご同行願います」


「申し訳ありません、脚が悪いので少々ゆっくりとお願いできますか」


「もちろんです、むしろご足労をかけ恐縮です」


 好感の持てる笑みを浮かべてから、青年は気遣うように少し前を歩き始めた。縦横無尽に行きかう港の人々を上手く避け、時折気遣うように背後に視線を配る。その心遣いもあって、店ほどの苦労も無く紋の旗を掲げる船の前に着いた。

 知恵の主たる梟を両側に配した紋。見間違える事のないそれは、確かにオズワルドの物だ。


「ロバート警部、オルター商会の方をお連れしました!」


「ご苦労、アンディ」


 船の前に立っていた四十半ばの背の低い紳士が帽子を軽く上げた。白髪交じりの赤い癖毛が目を覚ましたように一瞬跳ね起き、また収まる。


「お久しぶりですな、ファウラー殿。長旅でお疲れのところを足止めし、申し訳ありませんでした」


「やはり何か事件が?」


 ストレートなオズワルドの物言いに、ロバート警部は苦笑を浮かべながら是と答えた。


「詳細はお答え出来かねますが、やっかいな物が都市に出回っているようでして」


「密輸……ですか」


 僅かに声を抑えてオズワルドが言った。

 ロバート警部は小さく首を横に振る。


「まだそうだと言う訳ではありません。それをはっきりさせるため……と、ここから先は伯爵殿にもお話しかねます」


「まったく……貴方のように優秀な方もこのような事に駆り出すなど、相変わらず上の判断は理解できませんね。他にもっと人を割く事がおありでしょうに」


 治安警察上層部に対するオズワルドの皮肉。

 それをロバートは咎める気になれなかった、同じように思うところがあるからだ。自分が雑用をする事自体はさして気にしていない。しかしオークション開催の為だけに注力するのはいかがなものだろう。安全に隙ができ、市民に何か危険が差し迫っているのでは。

 ――結局、自分は現場に立つのが一番性に合っているのだ。

 やれ次の署長候補だ出世だと人間の嫌なところが悪目立ちする上層部に辟易しているロバートは、オズワルドのこうした着眼点に敬服していた。自分よりも歳半分若くしながら、大商会を束ねる事だけある。なにより、彼を信頼する理由はそれだけではない。

 幾分気を良くしたロバートは、自分の口がすらりと動くのを止められなかった。


「一応のため、全ての荷が確認対象になっているんですよ。品をどういう形で隠しているのか判りませんので……物が大きければ、我々の労力も多少は少なくて済んだのですがね」


「警部、そのような話を一般の方にするのはいかがかと」


 若い治安官の尖った声が飛んでくる。オズワルドを案内してから側を離れていたが、話の終わりが聞こえていたのだろう、しかめっ面でロバートの隣に立つ。


「失礼ながら、警部のお知り合いで?」


 若い交易商人と中年を過ぎた治安官幹部が友のように親しげなのだ。不思議に思っても仕方のないことだろう。

 その青年治安官の問いには、ロバート警部が答えた。


「この方はオルター商会の主で我が友人オズワルド=ファウラー伯爵。ファウラー殿、こちら新人のアンディです。先日から私の下に就いております」


「貴方がファウラー氏でしたか! アンドリュー=マクミランと申します、以後お見知りおきを」


 鍛えられた力強い握手を返される。

 先の案内といい、まさに好青年と呼ぶにふさわしい男だ。数多くの事件を解決してきたロバート警部の下に就いたという事は、それだけ本部からも期待を寄せられている証である。

 オズワルドがよく知る青年とまるで対するような存在だ。思わず零れそうになる笑いを堪えながら、彼の言葉に応えた。


「ロバート警部には何かとお世話になっております、貴方にもこれからご迷惑を」


「私に出来ることがありましたら」


 小気味良い再びの敬礼でもって、アンドリューは快諾を示した。


「さて、ファウラー殿。こちらが許可証になります、受け取りのサインを」


 ロバート警部に差し出された書面挟みを受け取り、オズワルドは胸ポケットから取り出した万年筆を走らせる。その再確認を待って、ようやく港からの解放を許された。

 主の姿を見つけてか、乗組員たちがオズワルドの下に対応を乞いに走り寄って来た。

 矢継ぎ早に指示を出す姿を眺めながら見計らっていたのだろう、ロバート警部が再び話しかけてきた。


「この後ご予定はございますか? もう昼は済まされたでしょうが、久しぶりに旅の話でもお聞かせ願えれば」


「申し訳ありません」


 逡巡の間も無く、オズワルドは断りを口にする。


「虫に食事を運ばなければ。急いでやらねば、涸れて死んでいるかもしれません」


 皮肉めいた笑みと言葉の綾。

 それが彼なりの冗談だと知っているロバート警部は、微笑みと共に素直に引き下がった。

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