比翼連理

伊予葛

「海に行こう」と彼は言った。

輝兄てるにぃが海に行こうと言い出したのは、八月にしては風が冷たい日のことだった。差し出された電車の切符と彼の顔を交互に見る。


「わざわざこんな寒い日に行かなくても……。」

「今日行きたいんだよ。」


ㅤ輝兄ぃ一人で行って来なよ。そんな言葉が喉元まで出かかるが、真剣そのものな表情にてられたのか、切符を受け取ってしまった。嬉しそうに笑いながら「準備して!」と言う輝兄ぃの姿に溜息を吐く。まぁ、たまには外に出るのも悪くは無い。こんな寒い日に海、それも一緒に行く相手がこの人でなければの話だが。頷いてしまったものは仕方がない。最低限必要なものをポシェットに詰めた。財布とスマートフォンがあれば十分だろう。


ㅤ駅はガランとしていた。平日真っ只中の昼間なら、こんなものなのかもしれない。間延びしたアナウンスを聞きながら、改札に向かう。


入梅ついりくんは何飲む?」


ㅤホームに設置された自動販売機の前で輝兄ぃが首を傾げる。


「お茶。」

「渋いね。」

「普通でしょ。」

「まぁね。俺はカフェオレにしよう。」


ㅤガランゴロンとペットボトルが落ちてきて、片方を渡される。


「……お茶じゃないんだけど。」

「カフェオレ美味しいよ。」


ㅤこういうところが嫌なのだ。リクエストとは違うカフェオレ、しかもホットを渡されても嬉しくはない。いくら肌寒いとはいえ夏だ。自動販売機にホットの飲料が残っていることが驚きだ。渡されてしまったものは仕方が無いので、パーカーのポケットに無理矢理詰める。半ば飛び出しているが、仕方ない。


「それにしても、なんで急に海?」


ㅤ問えば、彼は微かに首を傾げて「夏だから」と笑った。


「去年は行ってないじゃん。」

「忙しかったからね。」


ㅤふと、彼の視線が逸らされる。視線を追えば、電車の影が見えてきていた。



ㅤ乗り込んだ車内はひんやりとしている。こんなに涼しい日でも冷房を入れているのかと驚いていると、ボックス席に座った輝兄ぃが、こっちこっちと隣を叩いているのが見えた。無視して向かい側に座る。彼はそんなおれの態度を気にした様子もなく、リュックの中に手を入れガサゴソとやっている。


ㅤ何だろうと思いながら見ていると、取り出されたのはカメラだった。撮った写真がその場で出てくるタイプのものだ。インスタントカメラのレンズを覗きながら「買っちゃった」とはにかむ。少しくすんだ水色のカメラは、どこか見覚えがあるような気がした。


ㅤそうこうしているうちに電車が走り出す。しばらくの間、輝兄ぃは、飽きずに車窓にレンズを向けていた。どうやらシャッターは押していないらしい。ただただレンズ越しに風景を眺めている。そんな姿を手持ち無沙汰に眺めながら、スマートフォンのカメラを起動した。カメラを構える輝兄ぃをレンズに収め、撮影ボタンを押す。カシャ、と音がして、輝兄ぃがこちらを向いた。


「カメラマンは俺なんだけど。」

「全然撮ってないじゃん。」

「決定的瞬間を狙ってるの!」


ㅤ不服そうな彼をスマートフォン越しに見ながら二度、三度撮影ボタンを押す。仕返しのようにカメラを向けられたので、両手を前に出して拒否した。輝兄ぃがカラカラと笑う。


「これ、フィルム一枚しか残ってないんだよ。」

「新しいの買ったらいいじゃん。」


ㅤ輝兄ぃは少し困ったように笑った。

ㅤそこでおれはようやく思い出したのだ。このカメラは彼のものでは無い。

「嘘つき」喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。おれの記憶の中のカメラは彼のものでは無いが、しかし、このカメラはたしかに彼が買ったものかもしれないと思い当たったからだ。あのカメラがこんなに綺麗な状態で残っているはずがないのだ。


ㅤ電車は橋に差し掛かる。陽の光を受けて光る水面で何かが跳ねた。魚かと思うが、水辺に少年達の姿が見える。一人の少年が腕を後ろに引き、勢いよく前へと何かを投げる。水切りをしているのだ、と気付いたのは、水面が弾んだからだ。ポンポンと跳ねる石と、得意げな様子で飛び跳ねる少年。新記録でも出たのだろうか。


「輝兄ぃは、ああいうの得意そうだね。」

「教えてあげようか?」

「別にいい。」


ㅤせっかく海まで行くのに二人で石を投げていたって、なんにも楽しくない。輝兄ぃはまだカメラを構えている。レンズ越しに少年達を見つめる横顔には、どこか羨望が浮かんでいるように見えた。ああやって無邪気に遊んだ記憶を思い出しているのか、それともそんなものは無いのだろうか。輝兄ぃが一緒に水切りをしたいのは、おれじゃない。


「海に行こう」

ㅤそう言われたときに、本当はすでにわかっていた。この小旅行の目的は、追悼だ。ともすると、墓参りなのかもしれない。崖から海に飛び降りて、そこから帰ってこないあの人の。あのカメラの本来の持ち主の。それにしては呑気すぎる気もするし、花の一つも買っていない。それを指摘する間も無く、電車は駅に着いた。



「海の家に行こう!」


ㅤ海に行こうと言ったときと同じ唐突さで彼は言った。袖を引っ張られるので「伸びる!」と抗議すれば、手を繋がれ、事態は悪化した。輝兄ぃはいつまでもおれのことを子ども扱いしているふしがある。

海の家で頼んだ焼きそばは、とくに変わったところもない普通の焼きそばだった。それもそうだ。「遠路はるばるよく来たね、名物だよ」と海の色をした焼きそばなどを出されても反応に困る。強いて言うなら量がそこそこ多いだけの何の変哲もない焼きそばを、輝兄ぃはまじまじと見つめている。


「撮れば?」


ㅤと言えば、「これじゃない」と首を振った。まぁ、あの人がこんなところでわざわざ休憩をしたとも思えない。多分、輝兄ぃはあの人と一緒に海に来て、海の家で焼きそばとかかき氷を食べて、少し泳いだりなんかして、泳がなくたって潮風を感じながら波打ち際に足をつけて歩いたりして、そんなことをしたかったのだ。ただそれだけのことをしたかったのだ。「海に行こう」だなんて、そんな一言すら言えなかったけれど。あの人は一人で勝手にいってしまったけれど。


「輝兄ぃは、センスが無いね。」


ㅤ今日は肌寒いからか、浜辺に人は少なかった。波打ち際から少し離れたところで砂をかき集める輝兄ぃの足元にある物は、歪な泥の山だ。本人曰く、砂の城であるらしい。どう頑張って見ても、噴火したばかりの火山にしか見えない。


ㅤ輝兄ぃが拾った貝殻の中には、ヤドカリが入っていた。


「他人の家を奪おうだなをんて、人でなし。」

「先客がいるなら、仕方ないなぁ。」


ㅤ渋々といった様子でヤドカリを砂の上に離す輝兄ぃは、先客がいなかったとしたらどうやって貝殻を持ち帰るつもりだったのだろう。リュックに直に入れるつもりだったのだろうか。


ㅤ輝兄ぃは、探している。あの人の痕跡がどこかに残っていやしないだろうかと、探している。あの人が、まだどこかにいやしないだろうかと、探しているのだ。どんどん人の気配から遠ざかっていく輝兄ぃの後を追う。


ㅤ立ち入り禁止の柵を乗り消えて辿り着いたのは、崖の上だった。崖の端に沿うように杜若が咲いている。人の手が入った様子は無いので、どこからか種が飛んできたのだろうか。もしかしたら、輝兄ぃは知っていたのかもしれない。花が好きだったあの人は、居なくなってからも花に愛されているようだ。


「ここだよ。」


ㅤ凪いだ声が聞こえて、シャッターを切る音がした。


ㅤそこでようやくおれは思い出したのだ。

ㅤ今日は輝兄ぃの命日だ。

ㅤあの人が崖から飛び降りた翌日、輝兄ぃは帰ってこなかった。

ㅤそのまた翌日に、おれは輝兄ぃとお揃いの、このカメラを買ったのだ。


ㅤ色褪せた水色のカメラが俺の手の中で写真を吐き出している。


「馬鹿みたい。」


ㅤ写真には、誰も写っていない。杜若に覆われた紫色の地面が見えるだけだ。指を離せば、写真は風にさらわれて、そのまま崖の下に消えた。二人の人間を飲み込んだ水面は、陽の光を反射して静かに輝いていた。

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比翼連理 伊予葛 @utubokazura

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