『詩とは』とインターネットで検索すると

『詩とは』とインターネットで検索すると。


『文学の様式の一つ。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの』


 という風に出てきます。

 なんかよく分からないけれど難しいです。

 けれど、私なりにこの詩の定義について考えてみたいと思います。


 文学の様式の一つというのは何となく分かる気がします。

 例えば俳句。

 俳句も多分文学の一つだと思います。

 そして、俳句は日本の詩と言えば短歌と並んで出てくる物ではと思います。

 俳句や短歌は詩である。そして詩とは文学の一つである。

 また、外国で言うとソネットがあると思います。

 ソネットは身も蓋もなく、簡単な説明をすると、14行で書かれた詩の事です。


 ソネットと俳句と短歌。

 共通点とは何でしょうか?

 大雑把に言ってしまうと、どの形態であっても、必ず作品を作る上でのルールがある事だと思います。


 例えば俳句。

 これは季語をできるだけ入れるようにする。

 音を五七五にする。

 こんな制限があります。


 短歌は季語を入れる必要はないです。

 そして音の制限も緩和されて、五七五七七になり合計三十一音を使うことが出来ます。


 そしてソネット。

 ルールが多いので、簡単にだけ書きます。

 まずは十四行で書くこと。

 区分を作る事。例えば四行四行三行三行とするのが多いみたいです。私は四行四行四行二行にしてますけど。

 区分ごとに決められた語尾は発音を合わせる事。例えばトレインとレインみたいな関係にする事。日本語はこれが難しいです。

 決められた区分で話をターンさせること。起承転結の転を入れる事だと思います。


 このように、どの形態をとっても何かしら制限が発生します。

 制限の中で、文章を作るのです。

 この制限に従って文章作ると何が起こるのでしょうか?

 結論、インターネットの言葉の通りになると思います。


 それを説明しやすそうなのが俳句です。

 俳句には季語が入ります。

 この季語というのが俳句の中枢であり、俳句を詩としている最大の要因ではないかと思います。

 どういうことかと言うと。

 季語。例えば夏休みってどうですか?


 夏休み。これで何を想像しますか?

 友達と遊んだ楽しい日々?

 山で昆虫採取なんてしました?

 何処か旅行に行った思い出?


 多くの場合楽しい思い出が沸いてきます。

 じゃあ、これで、こんな俳句を作ってみたとします。


『午後三時独りぼっちの夏休み』


 俳句って不思議で見ると感情が思い出がよみがえるんです。

 心が揺れるんです。

 上の俳句についてですが、上手、下手は一回置いといて欲しいです。上の俳句でどのように詩になっているかを持論を用いてここに書きます。



 おやつの時間。友達と遊ぶわけでもなく家にいる。

 それは今日だけなのか? いつもなのか?

 家族も忙しく共働き? もしかして片親?

 最後に季語は夏休み。楽しい思い出が多くあり、幸せ色に染まっていそうな季語の筈なのに。何だか寂しげな夏の様子が見えるような?

 もっと発想が飛んで行くと、中にはお盆の夏休み。社会人が一人寂しく過ごしている。そんな風に考える方もいるかもしれません。

 なんだか少し暗くて苦い事を色々想像して、心が揺れると思います。


 とても無粋な言い方をすると、『今は夏休みです。おやつの時間の午後三時に家にいるのは私一人だけです』と言っているだけです。ふーんそれで、と終わります。

 この文章だけでは感動しません。心は動きません。

 小説ならここで状況説明を丁寧にすることで、主人公の心に感情移入させてくれると思います。

 でも、俳句は詩です。

 作者が作者のために作った芸術です。

 表現したいことはあるけれど、細かいことは言いません。

 受け取る想いは、感情は、読者次第。

 好きに心を動かしてよいのです。


 俳句とは、何も細かい描写をしていないにも関わらず夏休みという季語が読者に季節感を与えて、思い出や感情のような感動を思い出させるはず。そして与える感動は十人十色。その方の体験や過去によって若干変動します。

 そして、以後に引っ付いたワンフレーズが、季語を作者色に変えて、読者へ届けます。



 小説なら、細かい描写をもって主人公の思いや過去の出来事などを書くと思います。

 そこで、主人公に感情移入することあると思うのですけれど、自分の過去の感動よりも主人公の今後の行動や今後の展開に意識が行くため、心が揺れて感動する瞬間は、ここでは起こりにくいと思います。小説で心が揺れるとすれば、クライマックスだと思います。

 明確な結果を受け取り、多くの方が理解したうえで感動します。


 詩というのは、一瞬の日常の光景からも、感動を与えることが出来る可能性を持ったものだと私は思います。感動のために、特別なクライマックスを用意しなくても良いのです。

 このように、身近にある、自然や人事などから受ける感興や感動を表現する事が出来る。

 こういうのが詩の特徴だと思います。


 後リズム感。

 夏休みだけでは、詩にはなりません。

 主役を引き立てる脇役がいるのです。

 それを引き立てるリズムある脇役。それが今回の俳句でいう所の上五中七のフレーズです。

 これによって、夏の苦い思い出がちょっとネガティブな感動になって読者に響いていくはずです。俳句として成功していれば……。


 話がそれますけれど、今回の俳句って、リズム感は、上五で切れて中七下五のフレーズになってるんですよね。

 夏休みを最初に持ってくると、今度はリズムが変わって、季語上五に単独。カットが切れて後半にワンフレーズとなって与える印象が変わるんです。語順で雰囲気変わるのも詩の特徴だと思います。リズム大事ですから。でも、夏休みには景色が漠然とした季語だから、先に状況説明した方が夏休みの寂しさを強調できる気もする……。かなり悩ましいです。

 いっそ、破調句やら字余りやらにして、俳句の黄金律を壊して、寂しさ、ほの暗さをさらに際立たせてみた方が良いのではないか……。

 でも、それはやりすぎ?


 たかが夏休み一人で過ごしてます。の表現に対してかなり色々考えます。

 詩は結構悩みます。でも、この悩む時間も楽しいのです。自分にとって最高のアートを作るのです。


 夏休みの楽しいというイメージを上手に隠して、ちょっとほろ苦い味が表現されるかもしれません。

 でも、思い出になると、苦い事も温かみのあるものに変わります。そこから続いて、あの時はこのような事があったなーと過去に想いを馳せることもできます。

 だからこそ、何気ないワンシーンで、詩は人を感動させられるのだと思います。

 これは小説にできない事だと思います。


 詩は小説とは作り方が異なります。注意してつくらないと詩ではなく、ただの文章になってしまいます。でも、誰でも簡単に詩を作る方法があるのです。それが型を使うという事。

 ソネットにしても短歌にしても俳句にしても、型という名の規制があります。

 この規制は、表現をする上ではかなり不自由です。

 でも、この規制があるからこそ。

 詩が作りやすいのだと思います。

 もっと言えば、勝手に詩になります。


 プロの詩人にそれをすると、これは詩ではないと、怒られるかもしれませんけど。ただの文章であっても型に当てはめると、それだけで詩っぽくなります。型のすごい特徴です。


 その理由は、型に当てはめようとすると、勝手にリズムが整い、美しい音が出るようになっていて、そこに自身の感動を織り込んで読みこみます。そうすると勝手にインターネットの詩の定義になります。


 でもね。

 じゃあ型に当てはまっていない物は詩ではないの?

 そんな事が考えられてきます。

 でも、そんなことは決してないと私は思います。

 それについて、次回は好き勝手書かせて欲しいと思います。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。





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詩って何でしょうね 雲下うさぎ @kumosita

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