ラナウェイ・ガール
日向むぎはズタボロのワンピースを身に纏い、五キロメートル程の道のりをとぼとぼ歩き、家に帰った。ほとんど半裸の格好に、すれ違う通行人は度肝を抜かれた。心配して声をかける者もいた。優しい言葉の裏にちらつく好奇心。むぎは見向きもしないで、真っ直ぐ帰路を進んだ。
三十階建ての高層マンションの十階に日向家の部屋はあった。十階でも見晴らしは良く、日当たり充分で、緊急時にははしご車のはしごもちゃんと届く。父親は出張中で、むぎは養子になってから三度しか会っていない。
むぎは先の大事故で鍵を無くしていたため、一階のエントランスからインターホンを鳴らした。もう日向家には受け入れて貰えないかもしれない。時計を盗んで、深夜に半裸で帰って来る赤の他人の子なんて、誰だって受け入れたく無い。
しかし、エントランスの鍵はインターホンを押した直後に開いた。間髪入れずに、一言の確認も無く。
エレベーターのドアのガラスに映る自分の姿。むぎは自身の顔を覗き込んだ。大事故の影響は何一つ残っておらず、毛穴一つに至るまで元通り再生している。怪物だ。私のような怪物が、このまま日向唯の元に帰っていいのだろうか。どう考えても良くない。きっと色んな迷惑を掛けてしまう。十階に着いたら、一階ボタンを押して、姿を消そう。むぎは自分の決断を受け入れつつも、先の見えない暗闇に溜息をついた。
ついに私は、本当の意味で野良猫になる。これが運命なんだ、とむぎは思った。数ヶ月だけでもお世話になった義母に言い忘れた事だけが心残りだ。ありがとうとか、ごめんなさいとか、時計はいつかお返ししますとか。
エレベーターが十階に着く。ドアが開くと、そこには日向唯が立っていた。唯は明らかに動揺しており、一階のボタンを押そうとしたむぎの手を掴むと、早歩きで義娘を自宅に連れ戻した。玄関に辿り着くと、彼女は改めてむぎの体を隅々まで確認し、外傷が無いらしいことにまず安心する。衣服の状態に反して、あまりにも無傷なむぎの体に違和感を感じて然るべきだが、今はただひたすら安心した。
「……怒ってる?」
と、むぎは言った。
「……それは、時計を盗んだ事? ワンピースをズタボロにして帰った事?」
唯の言葉に、むぎは「両方」と答えた。
唯は眉を潜めて何かを考えたが、はあ、と一つ溜息をつくと、そっとむぎの頬に手を当てた。
意外と温かい。こんなに温かい手をしていたなんて、知らなかった。
「“猫可愛がり”してる娘がやった事なら、前者は下らな過ぎるし、後者は心配過ぎる。その話は今度しましょう。むぎ、無事なの? 本当になんとも無いの?」
むぎが、なんとも無い、と答えると、唯はようやく安心し、一瞬迷ったあと、義娘をぎゅっと抱きしめた。小刻みな震えがむぎに伝わった。やがてしくしくと泣き声が聞こえる。それが唯の泣き声か、あるいはむぎの泣き声か、二人ともよく覚えていない。
二人ともが後悔をしていた。お互いが全く違う人種で、どちらも互いを受け入れていなかった。あからさまな亀裂を見てみぬ振りをして、家族ごっこに身を窶していた。
それでも、初めての娘で、初めての母親。本当は分かり合いたいと思っていたのに、断絶のようなすれ違いに、互いが面食らって何も出来ずにいたのだった。
数日が過ぎた。
ドレッサーの前に座るむぎ。三面鏡の中の顔に、笑顔は無い。ブラシで前髪を頭頂部から纏め、ふんわりとカールさせてピンで止める。続いてサイドは全て後ろに流し、こちらもピンで固定した。ヘアスプレーを満遍なく吹きかけて、ゆっくりとピンを外す。
ちらり、と視界に映る、ストレイ・キャッツのCDジャケット。むぎはなんとなく真似をして、リーゼント風に髪型を纏めてみた。別に趣味じゃないけれど、そもそも彼女に趣味なんて無い。これから探せばいい、と彼女は思った。
鏡の後ろに唯が映ると、二人は鏡越しに目があった。娘の髪型に視線が止まる。リーゼントはもちろん、唯の趣味でも無い。でも、むぎの猫目とどこかツンとした顔立ちに、この髪型はとても似合っているように思えた。
唯はずっとむぎに対してどう接すれば良いか分からなかった。自分が受けた厳格な教育を、彼女は義娘にそのままトレースした。それが正解とは思わなかったが、少なくとも無駄になるものでは無いと信じていた。ただの優しさなんて、優しさじゃない。彼女はそう信じて、厳しい教育を重んじたのだった。
トライ・アンド・エラーは彼女の信条だ。しかし、取り返しのつかないエラーもある。特に娘の事はそうだ。そうなる前に踏み止まれたなら、今回の事は二人にとって大きな幸運だ。もちろん、今後は別のトライをしなけらばならない。
むぎは振り返り、唯の顔を直接見る。
「そういうのが好きなの?」
唯の言葉に、むぎは頬を緩めた。気持ちと乖離していない自然な笑顔をしたのは、この家では初めての事だった。
「分かんない」
娘がそう言うと、母も少し笑った。
私が買ったワンピースには少なくとも似合わない。だったら、似合う
さて、とむぎは思った。
彼女は小姫の元に向かった。愛英学園がどういう組織で、小姫がこれからどうなってしまうか。それを聞いた上で本人がどう思うかは分からないが、たった一人の親友の望みを可能な限りサポートしたい。
――いや、それは少し嘘だ。可能な限りじゃない。
むぎは何が何でも、小姫を施設から引っ張り出したかった。
施設に侵入したとき、小姫は少し素っ気なかった。薬のせいだと思った。でも、むぎは考え直す。今思えばあれは、自分を慮っての態度だったのではないだろうか。施設を出たら二人はもう赤の他人だ。少なくとも社会的にはそうだ。別々の人生を歩んで行くのに、寂しいなんて言葉をかけたら、相手の新たな人生に水を差す。躊躇いを生む。それは小さな友達も望んでいない事だったのだろう。親友だったら、尚更だ。
進まなければ。むぎはそう思った。望むべき未来に向かって、戦わなければいけない。それは社会や他の誰かが選んだ道では無く、自分自身が決めた道を突っ走るためにだ。そうして、施設に押し殺されていた自分を蘇らせなければならない。生き返らなければならない。――だって、私は不死身なんだから。
まずはあの日のお礼だ。約束通りに例のありがたいショコラを鞄に入れて、むぎは玄関のドアを開けた。
早く行かなくちゃ。はやる気持ちを更に掻き立てる。
猫は三日で恩を忘れてしまうから。
ラナウェイ・ガール チェクメイト @kiiichi
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