猫に九生有り

 スクラップ同然の鉄塊から這い出したゆみ姉は、自分のバッグから武器を取り出した。彼女はすぐに冷静になった。対向車は明らかに“敵勢力”による襲撃だろう。

 今度はスタンガンでは無い。彼女はロシア極東より密輸したマカロフのスライドを引き、薬室に弾薬を装填した。相手が“学習塾”の連中で、日向むぎ奪還が目的なら、重火器の武装は十分考えられる。スタンガンなどでお茶を濁している暇は無い。

 砕けてだらしなく顔にぶら下がっていた眼鏡をかなぐり捨てて、ゆみ姉は対向車の死角になる位置に素早く身を潜めた。顔面と首に燃えるような痛み。視界がぼやけ、焦点が定まらない。正確な射撃は困難だ。体を動かすと首の痛みが悪化し、手足に痺れを感じる。頸椎が損傷しているのだろう。満足な戦闘行動はとてもじゃないが期待出来ない。

 襲撃は恐らく計画的なものではない。自動車同士の正面衝突なんていう、自身の危険さえ顧みない荒っぽい方法は、とても計画とは言えない。満足な人員や装備を用意出来ていないはずだ。不幸中の幸いと言うべきか、事故の規模の割にはゆみ姉のダメージは比較的軽かったとも言える。相手は戦闘不能か、いっそもう死んでいるかも知れない――そこで挽肉になっている日向むぎのように。

 ちらり、とゆみ姉はむぎの死体を眺める。転がる足、ぐちゃぐちゃの頭、血まみれで臓物と肋骨がむき出しの胴体。そこにあったのはあのかわいいむぎちゃんでは無く、もはや肉と骨の残骸だ。

 ゆみ姉は悲しんだ。結局この子達は、こうなる運命なのだと。ちゃんと普通の人間として自立出来るのはごく僅かで、人としてあるべき姿を伝えようした気の遠くなるような努力は、施設を一歩出ると途端に灰燼と化す。

 やはり、投薬しかない。ゆみ姉は思った。猫だって、人と共生するためにキンタマを抜き取られる。猫にとってはこんな不条理、とてもじゃないが許せないだろう。だが、これは共生の為に必要な“措置”だ。彼らだって、措置入所として施設にやって来た。投薬だって立派な措置の一環だ。共生の為に、自分と他人の笑顔を守る為に。

 頭痛が酷い。冷静な思考力が奪われつつある。ゆみ姉は対向車から敵が現れないのを確認すると、もう一度だけむぎの残骸を見下ろし、速やかにその場から立ち去った。

 むぎとの思い出はいいものだった。基本的にはいい子だったし、笑顔が上手で、とても素直だった。この子なら施設を出ても、人らしく生きられるんじゃないか……と彼女は思っていた。――その分、彼女の胸に去来する失望感は計り知れないが。

 人の心は誰にも変えられない。できる事はただ起こりうる現象に対して、科学的に解決するのみ。

 ゆみ姉はマカロフをズボンのベルトに引っ掛けて、ふらふらと歩き続けた。帰って本部に報告だ。そして、今日の業務日誌を書かなければ。

 負傷した体で現場に残り続けるような愚行を、ゆみ姉は決して冒さない。逃げられるなら逃げろ。少なからず敵勢力との接触を経験した上での、正しい判断だ。しかし、それでも彼女は少し甘かった。

 彼女はむぎの“能力”を過小評価していたのだった。


 まず最初に、むぎの撒き散らされた脳漿が少しずつ砕けた頭蓋骨に逆流していった。逆再生の映像のように、正確に、しかしゆっくりと。意思を持った液体のように、脳室を満たすべく彼女の元へと帰って行った。続いて粉々になったタンパク質やら脂質やらが同じように逆流し、数分前と全く同じ形状を作り出す。彼女の脳味噌は、割れた頭蓋骨を器として、彼女の頭部にすっぽりと収まる。脳神経細胞も、死の直後とほぼ同じネットワークを構築していた。記憶の欠落も、人格の損傷もない。

 やがて頭蓋骨も修復され、潰れた眼球に硝子体が満たされる。千切れた咬筋と皮膚組織が修復され、擦り潰れた鼻が少女らしい小ぶりな形を整えると、ようやく人の顔らしき面影が蘇った。

 ゆみ姉の車に正面衝突した対向車から、ゆっくりと這い出る男の姿。ザリガニだった。彼はポケットからタバコを取り出すと、難儀そうにそれを咥えた。左手は骨折していたので、右手だけでタバコを咥えて、同じく右手だけでライターの火を点ける。肺に満たされた紫煙をゆっくりと吐き出すと、再生中のむぎの胴体を跨ぎ、ふらふらと彼女の千切れた足の方へと歩いた。

 どさり、と千切れた足をむぎの足元――足があった場所――に放ると、大腿部の切断面がピッタリとくっつき、みるみるうちに傷口が消えていく。

 ザリガニは原型を取り戻したむぎを背中に抱え、全身の打撲の痛みに脂汗をかきながら、近くに見える公園へと向かった。


 むぎが目を覚ましたのは公園に着いてしばらくしてからだった。彼女はベンチに座っていた。隣には左腕を庇いながら、辛そうに息をしているザリガニが居た。彼はむぎが目覚めた事に気がつくと、途端に乾いた笑みを浮かべ、信じられない、と言った様子で首を横に振った。

「……ったく、マジに殺っちまったかと思ったぜ。あんなミンチになっても再生するのか……施設の連中に警戒される訳だ」

 と、ザリガニは皮肉っぽい口調でそう言った。しかし、むぎには何の事かさっぱり分からなかった。最後の瞬間を捉えた記憶の断片が、現実かどうかも分からないあの刹那が、脳裏を駆け巡る。

 ザリガニは言葉を続けた。

「いいか。お前は三度死んでいる。一度目は施設に来るきっかけになった交通事故だ。両親もろとも死んで、お前だけが生き返った。お前が助かったのはチャイルドシートのお陰なんかじゃない。お前自身の能力のお陰だ。二度目は施設で木登りをしていた時に、頭から落ちて首の骨を折って死んだ。木登りが禁止になった例の事件だ。そして、今回は三度目になる。お前は車から弾き飛んで、バラバラになって、元に戻って、ここに座っている」

 ザリガニの言葉の意味を考えるにつれ、むぎは「ああ、なるほど」という奇妙な実感を得た。自分の境遇や体験に感じた違和感が、長年を経てようやく繋がりつつある感覚。

「どうして私、生きてるの」

 むぎは言った。

猫に九生有りナインライブス。それがお前の通り名だ。最も、たった十四年の人生で三度目も死ぬなんて、こんなドジな猫は居ないだろうが」

「ねえ、私、どうして生きてるの?」

「知らんよ。生き返る体なんだろ」

 ザリガニはぶっきらぼうにそう言うと、辛そうにタバコを取り出し、火を点ける。

「あの施設は、お前らみたいな連中を保護し、真っ当な人生を歩ませるための特別な施設だ。能力を封印する事に成功し、社会性を身に着ければ、普通の人生を歩める。そうでなければ研究所送りになって一生行方不明。で、お前は一線を跨ぎ、後者にカテゴライズされた」

「小姫ちゃんは?」

泣き虫バンシーか。あいつが連中のラインを超えるのは、時間の問題だ。あいつの声は殺人兵器なんだ。施設に来る前、狂ったように泣き叫んで、自分を虐待した父親を殺している。正当防衛と言えば聞こえはいいが、施設の連中はそうは思わない。何とかしてやりたいが……施設の中に居る以上、俺にもあいつは救えない」

 バンシー。ザリガニは小姫の事をそう言った。小姫の壮絶な過去にショックを受けつつも、今の彼女の心は色んな事で一杯だった。

「……ザリガニは、どうして私を助けてくれたの」

 ザリガニはポケットから時計を取り出し、嫌らしい笑みを浮かべた。むぎが義母からネコババした、例の時計だ。むぎが気を失っているうちに、彼はちゃっかりとむぎの鞄から盗んでいた。

「契約だろ。お前のルーツについて教えるっていう。伝え方は想定と違ったが、一応貰っとくぜ」

 むぎが時計を取り返そうとすると、ザリガニはひょいっと手を遠くに伸ばし、身を躱した。

「返して。人の物だから、返さなきゃいけないの」

「施設で学んだろ? 約束は守れって。俺はお前との約束を守る為に大事な車と左腕をお釈迦にしたんだぞ」

 ちらり、とむぎはザリガニの左腕を見る。動かさないように、肩からベルトをかけて固定されていた。

「私が聞きたかったのは両親の事で、私が不死身の化物って事じゃない」

「両親の事なら、もっと身近に教えられる人間がいる。本人がその気になるまで待ってろよ」

「誰のこと」

 ザリガニは答えなかった。

「……とにかく、あんまりのんびりはしていられない。スパゲッティのゲロみたいになったお前を見て、流石の吉川弓ゆみ姉もお前が生きているとは思わなかったようだ。でも、連中はすぐにお前が生きている事に気がつく。連中がどういう行動を取るか分からないが、社会から逸脱した行動を取るお前とその能力を、相当なレベルで警戒するだろう」

「ザリガニは何者なの。施設の職員なら、ゆみ姉と同じじゃないの」

「想像に任せる。何かあればここに連絡しろ」

 と、ザリガニが一枚の名刺を差し出す。

 石丸学習塾、能力開発センター。

 むぎは名刺を見て、続いてザリガニの顔を見た。ザリガニの顔には、ゆみ姉のような優しい微笑みはない。無精髭が生えて、タバコ臭く、おっさん臭い。むぎは彼の事が好きじゃなかった。だが、ゆみ姉に裏切られた今、誰を信じればいいのか分からなかった。ザリガニはだらしない見た目だが、少なくとも嘘をついてはいないように見える。

「……信じていいの?」

 むぎは訊ねた。捨てられた子猫のような気持ちで。

「駄目だ。誰も信じるな。いや、信じすぎないのも駄目だが……信じる人間は、もっと慎重に選べ。お前の人生は、この先もっと難しい」

 ザリガニはそう言ってベンチから立ち上がり、負傷した体を庇いながら、よろよろと公園を後にした。

 むぎはしばらく、ぽつん、とベンチに座っていた。

 収まりの利かない混乱の渦に支配されながら、やがて帰巣本能か何かの呼び声に従って、彼女は自身が帰るべき道を辿るのだった。


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