寝子
ゆみ姉の運転する軽自動車は、この上なく安全運転で、アクセルもブレーキもほとんど重力を感じなかった。静かな夜に、静かな運転。まるで何もなかったかのように、全てが静寂に包まれている。
むぎは彼女に自宅へと送って貰っていた。本当なら通報されて彼女の人生は終わるだけだが、ゆみ姉は何故かそうしなかった。彼女は優しい。でも、ルールには厳しいはず。むぎはほっと胸を撫で下ろしつつ、彼女の行動を疑問に思うのだった。
「どうして私を黙って帰してくれるの」
むぎは訊いた。ゆみ姉は進行方向を真っ直ぐ見据えたまま、何も答えない。
「……そこのドリンクホルダーの紅茶、飲んでいいよ」
ゆみ姉はむぎがまだ冷静では無いと感じているのだろう。理由を語る前に一息つけと、そういう事だ。
紅茶なんて飲みたくなかったが、逆らえるような立場じゃない。むぎはペットボトルのキャップを開けると、ぐい、と一口飲み込んだ。
ごくり。
食道に冷たい感触が伝わり、思ったよりも喉が乾いていた事に気づく。確かに冷静では無かったのかもしれない。気持ちはずっと散り散りに乱れていて、猜疑心や罪悪感や後悔に塗れていた。紅茶もいつもより苦い味がした。
「子供たちを見てるとね」
と、ゆみ姉は静かに語り始める。口調は穏やかだったがどこか寂しげで、いつもの笑顔はほんの少し曇っていた。
「時折ゾッとする何かが顔を出すのに気づくの。ちゃんとした家庭でちゃんとした愛情を注がれなかった子たちの、荒れ果てた心に棲み着いた怪物のような何かが。ふとした拍子に傷ついた自分を守ろうと、自分以外の誰かに牙を向く。そして、怪物には言葉が通じない。思いやりも、愛情も、優しさも。なんとか寄り添おうとしても、そもそも私達とは生きている世界が違うのよ」
「だから小姫ちゃんを薬漬けにするの?」
むぎはそう言った。罪悪感を誤魔化すように、少しぶっきらぼうに、もっともらしい事を。
「否定しないわ。むぎちゃん、あなたにも飲ませてた。施設に住むみんなの為にね」
トンネルに入る。連立する電灯の側を通るたび、何度も何度も規則的に、黒い影がゆみ姉の横顔を這った。視界に映る規則的な運動は催眠的で、むぎの思考を急速に鈍らせ始める。
「……みんなの為にって。私、何か悪い事した?」
むぎはそう言いつつも、重い瞼を開くのに必死だった。急に疲れが出たのかもしれない。むぎは半分閉じた目で薄く愛想笑いするのが精一杯だった。
「昔、木登りで失敗して頭から落っこちたでしょ。あれからあなたには処方が必要だと分かったの」
「……それは違うよ……薬のせいで私は落っこちた」
うつらうつら、必死に思考を保とうとするむぎ。しかし、眠気は抗えない程の重さで瞼を閉じさせようとする。
「そうだったかしら。とにかく、あなたはもう少し無気力でいるべきだった。そうすれば、危険視されなかった。あなたを怪物と思っている連中に」
「連中……? カウンセラー……とか……?」
ゆみ姉は何も答えず、アクセルを踏み続ける。暗くて長いトンネルを抜けると、むぎの住む町の名前が書かれた看板が現れた。
しばらくは疎らに民家が建つだけだが、次第に近代的な建物が増え始め、やがてむぎのよく見知った町並みが現れる。
一際大きな交差点を、青信号そのままに突っ切るゆみ姉。
あれ? と、むぎは思った。日向家に行くには、さっきの交差点を曲がる必要がある。ナビもそう言ってる。しかし、ゆみ姉は何食わぬ顔をして、ひたすら真っ直ぐ突き進むのだった。ナビは外れたルートを必死に修正してドライバーに伝え直すが、もう用済みだと言わんばかりに、ゆみ姉はカーナビの目的地を消去した。
「道……逸れてるよ……」
ほとんどうわ言のようにむぎは呟く。が、ゆみ姉は答えない。表情を変えず、吸い込まれるような真っ黒な瞳で、ただひたすら車を真っ直ぐ走らせ続ける。
これは夢だろうか。むぎはそう思った。いつの間にか眠ってしまい、現実の延長線のような夢が始まっているのかも知れない。そして、なんだか酷い悪夢の予感がする。
いや、悪夢はもう少し前から始まっていたのだ。よく見ると、紅茶のペットボトルの蓋の切り離し部分には、接着剤で巧妙に再封印された跡があった。誰かが一度開けたのだ。どうしてそんな事を? 紅茶の中に誰かが何かを入れたのだろうか? ――例えば、睡眠薬とか。そう言えばこの紅茶、妙に苦くなかっただろうか?
どうして二階に行ったはずのゆみ姉に、あんなに早く見つかったのか。なぜ小姫があっさりと嘘泣きをやめてしまったのか。鎮静剤や睡眠薬なら、小姫ももう少しごねたり抵抗したりできるだろう。でも、渡されたのがただの紅茶なら? 紅茶ぐらいと油断した小姫がそれを飲んでしまったとしたら? そしてその紅茶の中には何が入っていた?
状況が憶測を加速する。否定しようにも、点と点は悪い方向に繋がっていく。
「逸れてるよ……道……ゆみ姉……ゆみ姉ってば……」
必死に手を伸ばし、むぎはゆみ姉の肩を掴む。が、その手は一度ぎゅっと握られたあと、優しく元の位置に戻された。
「道を逸れたのは、むぎちゃん。あなただよ」
言葉とは裏腹に、あまりに優しい笑顔だった。むぎはゾッとした。悪夢の様相が深刻化する。ただならぬ予感が彼女を急き立てる。
むぎはバラバラになりそうな意識を必死に保ち、シートベルトを外した。時速五十km超の物体から飛び降りる訳には行かないが、車だってずっと止まらない訳にはいかない。それまで意識を保てれば、外に出て大騒ぎをしてやる。なんなら、完全に停車してなくても飛び降りてやる。ここにいちゃいけない。とにかく、誰かに助けを求めなければ。
「駄目だよむぎちゃん。助手席はシートベルトしなきゃ」
ゆみ姉はそう言うとポケットから何かを取り出した。
そもそもスタンガンなんて、どうしてゆみ姉が持っているのだろう? もっと怪しむべきだった。児童養護施設の職員がスタンガンを日常的に所持しているなんて、どう考えても普通じゃない。それはコソ泥相手のパフォーマンスで、それを使ってゆみ姉が自分に危害を加えるなんてあり得ないと、むぎはそう信じていた。――そして、その信頼は裏切られた。いつから裏切られていたのか。始めから?
むぎはドアロックを解除しようとする。が、ドアロックを制御するノブはびくともしない。壊れているのか、壊しているのか。ドアのインナーハンドルを引いても、当然なにも起こらない。むぎはとっくに閉じ込められていたのだ。
「大人しくしてて」
ゆみ姉は一体、何者なんだ?
私の知っているゆみ姉は、ゆみ姉じゃなかった?
怯えるむぎにゆみ姉がスタンガンを振りかぶった瞬間……。
車内に炸裂する稲妻のような光。
対向車のヘッドライトが視界を支配する。
「えっ?」
どちらが言ったか分からない。
何かとてつもない事が起きる予感が、電気信号として脳神経から発せられるか否かの刹那。
得も言われぬ爆音が耳を劈く。
正面衝突だった。
一トンの鉄の塊が猛スピードで激突し、その圧倒的な衝撃がバンパーを歪ませる。少しも衰えない凶悪な運動エネルギーに、車体の前半分が押しつぶされた。同時に、運転席のエアバッグが膨らんだ。ゆみ姉の顔面はガスがパンパンに詰まったナイロン66繊布に叩きつけられ、眼鏡がグチャグチャに歪んだ。鼻骨及び眼底の骨折と頸椎の捻挫により、全治六ヶ月間の怪我を負ったのだが、彼女はまだその事に気づきもしていなかった。脳は状況を把握しておらず、真っ白な一瞬に無抵抗にハンドルを握り続けるのだった。
とは言え、彼女はそれで済んだ。
むぎはそうもいかなかった。
彼女は不運にもシートベルトを着用していなかったし、ゆみ姉の薄給で買った型落ちの中古車には、助手席のエアバッグなんて贅沢品は搭載されていなかった。
衝撃と同時にむぎの体はフロントガラスを突き破り、車外に勢い良く飛び出した。鋭利なガラスの破片と尋常ではない運動エネルギーが、彼女の右大腿部から下をすっぱりと切断した。続いて対向車に顔面から突っ込み、顎の下半分が頭部とは別の部品になった。勢いそのままにガードレールに頭を叩きつけると、むぎの小ぶりな頭蓋骨は粉々に砕け、左脳は豆腐のようにグチャグチャに地面にぶちまけられた。全身がずたずたに引き裂かれ、血塗れになりながら三メートルほど転がったあと、ようやく彼女の動きは止まるのだった。
むぎはミンチになって死んだ。痛みを感じる暇も無く、我が身に何が起こったかも気づかず。
必死に眠気に耐えていた彼女だが、不慮の事故によって、あっさりと永遠の眠りについたのだった。
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