窮鼠猫を噛む

 事務室の鍵を開け、音も無く忍び込む。事務机と数々の書類、棚が狭苦しく部屋を圧迫している。無機質で乾燥した匂い。目標は重要な書類が保管されている、鍵付きロッカーだった。

 むぎは鍵束から鍵穴に合いそうなものを探すが、どれも合いそうになかった。机の中にあるだろうか。順番に引き出しを開けてみるが、文房具や日々の業務書類以外に何もない。鍵の掛かっていない棚を調べてみる。ボールペンやマジックの換え、プリンター用紙、断裁機、のり、布テープ、等等。

 次の棚を開けてみると、どっさりと過去の書類がファイルホルダーに纏められていた。備品に関する納品書、支出伺書、子供たちの個人記録、カウンセリング内容、栄養士による日々の献立、児童相談所との連携書類。

 もたもたしている暇はない。小姫があとどれだけゆみ姉を引き止められるか分からない。十分? 五分? 目ぼしい場所は他に無く、もしかするとこの事務所に目的の鍵が無いのかもしれない。むぎの頭の中は焦燥感で掻き乱された。お父さんはどこ? お母さんは?

 彼女は『子供たちの個人記録』と書かれたファイルホルダーに手を伸ばした。ただの好奇心だが、自分に対して職員たちに一体どんな事が書かれているのか、少しだけ見てみたかった。本来の目的では無いものにかまけている場合では無いが、それでもむぎは自分の好奇心に抗えなかった。

 ゆみ姉は笑顔の向こうで、何を考えていたのだろう。いつも彼女は完璧な笑顔を崩さず、私達をどんな目で見ていたのだろう、と。

 ファイルホルダー一冊には数百枚のファイルが綴じられており、それが五巻に渡って棚に並んでいた。むぎは最新巻を手に取り、パラパラとページを捲る。

 一ページあたり一日。入所している児童の名前が五十音順にならんでいる。

 相沢奈保。

 鵜飼翔太。

 宇和浩二。

 貝塚ちとせ。

 工藤英。

 田井中雫。

 高宮小姫。

 むぎは小姫の名前に目を止める。小さな友達についての所感に、自分の名前があったからだ。


 高宮小姫(9)。

 診察内容:日向(旧姓、宮家)むぎの出所による高宮小姫の不安定さは日に日に悪化の一途を辿り、投薬によって制御せざるを得ない状況。しかし、過去一年間に渡る継続的な摂取による耐性と、依存症による心身への悪影響を鑑みて、より集中的なカウンセリングと治療が可能な施設への移籍も検討中。

 処方:ベンゾジアゼピン系抗不安薬10mg、及びゾルピデム酒石酸塩系睡眠導入剤5mg。

 再診察:2022/3/21予定。


 どきん、とむぎの心臓が高鳴る。日向むぎの出所による症状の悪化? 私のせい? しかし、むぎが感じたのは、罪悪感ではなくなんとなくの違和感だ。

 確かに小姫は夜泣き姫だった。PTSDが原因で、二ヶ月程は彼女の夜の“爆弾”に施設中が怯えていた日々があった。むぎが夜遊びの相手となり、その症状は改善されていたはずだった。

 むぎが居なくなった事で症状がぶり返した。確かに、有り得る話かもしれない。幼く脆い心を支えていた柱が無くなり、再び弱い心が軋みを上げ始めたのかも。でも、先程の小姫の表情からはそんな様子は伺えなかった。むぎの顔を見ても反応は薄く、どこかぼんやりとしていた。涙を流して再開を喜べとは言わないまでも、むぎが居なくなって不安定になっているなら、本人との突然の再開にもう少し“らしい”反応があっても良い気がする。

 小姫の無反応は照れ隠しだった? それなら良い。大人びた少女のプライドが、素直に尻尾を振る事を許さない。まだ幼いけど、小姫にはそういう所がある。でも、それよりむぎが気になったのは『処方』の項目だ。小姫がずっとぼんやりとしていたのは、薬漬けの悪影響じゃないだろうか?

 ショコラを持ってこなければ怒るよ、と小姫は寂しげな顔で言った。朦朧とした意識とプライドを掻い潜って、彼女がほんの少しだけ出したSOSだというのは、考えすぎだろうか。

 次々にページを遡る。小姫の処方欄には来る日も来る日も同じ薬剤とグラム数が書かれている。やがて二ヶ月分のページを遡った時、ついにむぎは自分の名前を見つけた。

 宮家むぎ。

 診察内容:幼少期に見られた突発的な異常行動は近年見られず。やや他人とのコミュニケーションに対しぎこちない素振りがあったが、こちらも最近は改善し、違和感無し。カウンセリングの結果、出所に問題なしとの判定。一年間は本人からの月次報告を義務付け、要観察。

 ……コミュニケーションに違和感なし。

 それはただのスキルだ、とむぎは思った。

 気持ちの上では、今でも色々な事に違和感を感じている。カウンセラーの人は沢山の人を見てきたのだろう。色んな患者に出会った経験がライブラリに蓄積されて、それを大きく分けているのだ。出会う患者に対して、こいつはこういうタイプだ、こいつはこうだ、と付箋を貼る。そして、付箋に沿った通りの処方をする。

 カウンセラーは、私の事をOKだと診断した。OKとは一体? 私の何がOKなのだろう? 家から時計盗んで、施設に不法侵入し、重要書類を盗み見る悪党の、何がOKなのだろうか? 私なんかがOKなのに、小姫はどうして薬漬けなのだろう?

 むぎはぐるぐると考えているうちに、自分の置かれた状況をすっかり忘れてしまっていた。好奇心は猫を殺す。油断していた彼女の虚をついて、凛とした声が事務室に響いた。

「OK。そこまでよ。私は武器を持っている。両手を上げて、ゆっくり立ってこっちを向きなさい」

 ゆみ姉だ。むぎの心臓は危うく止まってしまうところだった。二階に上がってまだほんのニ、三分しか経っていないはず。あまりにも早すぎるゆみ姉の登場に、むぎは舌打ちしたい気分になった。

 言われた通りに両手を上げて、むぎはゆっくりと立ち上がる。彼女が振り返ると、今度はゆみ姉が驚く。

「むぎちゃん……!?」

 ゆみ姉の手に握られたスタンガンに、むぎはほっと胸を撫で下ろした。か弱い女性が遭遇した、強盗という非日常。とは言え、まさかスタンガンが出てくるとは。

 泥棒猫は危うく窮鼠に噛みつかれるところだった。

 ――窮鼠と言うには、あまりに冷静で強気なゆみ姉。彼女の普段とのギャップにむぎは驚いたのだが。

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