猫足立ち

 この施設の事なら誰よりも知っている。むぎにはその自信があった。この建物に入所してから十年間、隅から隅まで探検して、観察をした。どこにどの部屋があるかはもちろん、誰が寝泊まりしているか、何時に誰がどこに居るか、職員のルーチンや癖まで何もかも把握している。施設から出てしばらく経つが、基本はそう変わらないだろう。

 今日の宿直は吉川弓。即ち、ゆみ姉だ。よりによってゆみ姉を騙す事になるとは。むぎはこれから行う自身の計画に罪悪感を感じた。でも、誰よりも知っている相手だし、何よりゆみ姉は純粋だ。生真面目で基本ルーチンからも逸脱しないゆみ姉だからこそ、皮肉にもプランAの成功率は高まる。

 夜。皆が寝静まった後、むぎは小姫の部屋を抜け出し、慎重に一階の宿直室脇の廊下に忍び込む。軋みやすい床を避け、猫足立ちでそろりそろりと、慎重に。

 続いて小姫が動き出した。彼女はわざわざ慎重に歩く必要は無い。むしろ、彼女の仕事の性質を考えれば、自分の存在をアピールするようにわざと音を立てて歩く方が良い。

 みしり、と一階の天井が軋む。小姫の歩くルートが、むぎにははっきりと感じられる。自室を出て、廊下を歩き、女子用便所のドアを開ける。

 むぎは、ちらり、と宿直室に目をやった。僅かに開いたドアの隙間から灯りが漏れている。ゆみ姉が宿直日誌を書く時間だ。彼女が宿直の時はいつも夜の十時で、多分に漏れず今日もそうだ。

 二階のトイレのドアが閉まる音。やがて、聞こえるか聞こえないか、静寂に染み渡る様にすすり泣きが響き始めた。

 始まったな、とむぎは思った。

 徐々にすすり泣きは嗚咽を混ぜ、デシベルを高めていく。むぎは息を潜め、じっと宿直室を睨んでいた。

 宿直室のドアが開く。まだそれほど大きな泣き声では無いが、二階から聞こえる少女の泣き声は、ゆみ姉を始めとした職員全員に特別な意味を持っていた。

 即ち、数ヶ月の間職員も子供も問わず、施設中の人間を不眠症にして、この愛英学園の崩壊を招きかけた小姫の泣き声だ。

 ヤバイヤバイヤバイヤバイ……! ゆみ姉の顔は真っ青だった。また夜泣きあれが始まってしまう。ゆみ姉は慌てて二階に駆け上がった――何故かペットボトルの紅茶を持ちながら。鎮静剤を飲ませるための飲み物だろうか。あるいは、ただのパニックだろうか。

 上手くいった、とむぎは思った。ちゃんと“ほどほど”だ。クソデカ絶叫で泣かれて施設中がお祭り騒ぎになれば、自身の仕事が果たせなくなる。ゆみ姉だけを宿直室から誘い出す、絶妙なボリュームですすり泣く事が小姫の仕事だった。

 後は簡単だ。もぬけの殻になった宿直室にむぎが忍び込み、施設の鍵の束をくすねる。時間はかからない。鍵を掛けるためのフックが宿直室の奥にあり、どの職員もそこに掛けている事をむぎは知っている。

 フックを覗き込む。あった。当然の事だ。飲んだくれて大事な鍵束をその辺に放ったらかすのは、ザリガニぐらいのものだ。

 そそくさと事務室へ向う。鍵束が無くなっていたら、ゆみ姉は当然勘づくだろう。小姫がどのぐらい時間を稼げるかが問題だが、十分か十五分なら多分なんとかなる。鎮静剤を飲まされそうになるぎりぎりまで粘って欲しい。でも、飲む前にすすり泣きをやめて欲しい。鎮静剤なら、むぎも飲んだ事はある。次の日にボーッとするし、足元もフラフラになる。そのせいで木から落っこちた。小姫はまだ子供だし、体に良い訳がない。あんな薬飲まないで済むなら、飲まずに済ませるべきだ。

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