泥棒猫
その日の夜。
むぎは腕時計をネコババした瞬間を、不運にも義母に見つかってしまった。
借りるだけ、綺麗だから見ていた、時間が知りたかった、うっかり間違えた。言い訳ならいくらでも思いつく。でも、むぎは言い訳をしなかった。代わりに全力で逃げ出した。義母の仰天と落胆がブレンドされた表情が脳裏に焼き付き、むぎは走りながらほんの少し泣いた。
都合の良い涙だ。行動と気持ちがちぐはぐだ。気まぐれに物を盗み、気まぐれに罪悪感を感じる。他人に失望されるのが怖いのに、他人を疎んじる。
私は私が嫌いだ。だからみんなに嫌われないよう、必死に猫を被っている。誰かに暴かれなくても、結局自分が一番分かっている。時計を盗んだら、急に何もかもがどうでも良くなった。あるいは、何もかもがどうでも良くなってしまっていたから、この時計を盗んだのかもしれない。鶏が先か、卵が先か。どっちでも良い。もはやただの盗人なのだから。罪人なのだから。散漫な考えがむぎの小さな頭の中に、浮かんでは消え、浮かんでは消え。
ザリガニは電話に出なかった。そのまま家に戻る事も出来ずに、むぎは愛英学園にやってきた。昔得意だった木登りをして、二階の窓に手を伸ばす。コンコココンコン、コンコン。秘密の合図をノックすると、既に消灯時間が過ぎている部屋の主が、瞼を擦りながら窓を開けた。
「……むぎちゃん? 何をやっとるん?」
小さな友達に向かって、むぎは口元に人差し指を立てる。高宮小姫。ロングヘアを真ん中で分けて覗くおでこがチャームポイントの、小等部の女の子だ。
むぎより五つも歳が下だが、小姫とは一番仲が良かった。ここに入所した数ヶ月、小姫はいつも泣いていた。部屋が暗いと、入所前に受けた虐待を思い出すからだ。つんざくような泣き声に、施設中が耳を塞いだ。職員達に鎮静剤を飲まされ、無理矢理寝かされ続ける毎日。薬の副作用で、小姫はどんどん元気を無くしていった。
そこで、むぎは夜にこっそりと彼女の部屋に忍び込むようになった。小等部の消灯時間は午後九時で、中等部より一時間早い。だから、一時間ぐらいなら大丈夫だとむぎは思った。小姫が寝付くまでの軽いお話だ。しかし、大体は予定より二時間ほどお話は長引いて、施設の職員に見つかって怒られる。そのうち夜になると小姫の部屋に見張りが付くようになり、むぎは外窓から忍び込むようになった。今日のように、木登りをして、秘密の合図を送って。気づけば彼女の夜泣きは無くなっていた。
「小姫ちゃん、私の両親が誰だったか、分かるかもしれない」
部屋に招き入れられたむぎは、座りもせずに開口一番そう言った。猫の額程の広さの小等部の部屋が、妙に懐かしい。
小姫はどこかぼんやりとした表情で、眠たげな目を擦って精一杯思考する。
「事故死したんやないの。お父さんお母さん」
小姫はオブラートに包まず、そう言った。彼女は幼少期に住んでいた場所の訛りがずっと残っている。訛りという自分の出生に対する輪郭がある事に、むぎはほんのりと嫉妬していた。――小姫はその生まれた環境、家族の幻影に苦しめられているのだが。
「事故死はした。でも、出生地に行けば誰か知り合いを探せるかも。事務所に措置入所した時の書類が残ってるって、ザリガニが」
「ザリガニに頼めばええやん」
十万円よこせって言われた、とむぎは言いかけて、やめた。チクればザリガニは批難を受け、最悪この施設から追い出されるだろう。あんな奴でもまだ利用価値がある。プランBとして、保険を残しておく。
「小姫ちゃん、おみやげ」
むぎは道中に買ったチョコレート菓子を、小姫の目の前で広げた。少女の顔がぱあっと年相応に明るくなるが、すぐにまた元に戻る。
「……なんこれ」
チョコレート、とむぎは呟いた。
「量が多すぎる。怪しい」
むぎはコンビニに置いていたチョコレートを片っ端から買ったのだった。もちろん、小姫の好物だと知って。
即ち、プランA。施設にこっそり忍び込んだのには、訳があった。
「小姫ちゃんにお願いがあるんだけど」
むぎがそう言うと、小姫はまた眠たそうな目を擦った。寝起きだからか、小姫はずっとぼんやりとしていた。
「小姫ちゃん?」
反応の鈍い小姫に、むぎはもう一度呼びかける。
「……これも追加してくれたら、ええよ」
小姫はスマートフォンの画面をむぎに掲げた。画面には、厳選された五種類のカカオ、黄金比ブレンド、五年連続売上ナンバーワン、最高の焼き加減、ギフトに最適です、というありがたい文句に囲まれた、ショコラの画像が映し出されている。
「このありがたいショコラを、後日持ってくればいいのね」
「持って来ーへんと、怒るよ」
どこか寂しげな小姫の表情。
「イエイ」
「いえいえぃ」
むぎが拳を差し出すと、小姫はにっこりと笑って拳を突き合わせた。
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