猫に鰹節

 ゆみ姉と名残惜しい別れを済ませ、愛栄学園を出ようとした瞬間、不躾に、藪から棒に、むぎの肩を掴む不埒な輩がいた。

 少女は珍しく、鋭い目で相手を睨みつける。

「おっと、怖い顔すんなって」

 愛栄学園の職員の一人、蟹谷だった。ざらついた無精ひげと苗字のイメージから、ザリガニと呼ばれている。

「触らないで」

 むぎはザリガニの手を払ってそう言った。彼女はザリガニの事が大嫌いだった。ぶっきらぼうで、愛想が悪く、酒臭いからだ。ダメな大人の見本を思い浮かべると、むぎは必ずこいつの顔が思い浮かんだ。

「そう邪険にすんなよ。恩人だぜ? お前が日向さんの家に引き取られるきっかけを作ったのは俺なんだから。品行方正、成績優秀だなんだと太鼓判を押しまくったら、猫の子を貰うみたいにすんなりいった」

 それを聞いたむぎの解釈は“こいつに施設を追い出された”だった。

「喋らないで。酒臭い」

 言い捨てると、むぎはザリガニを無視してずかずかと進み始める。こんな奴に時間を無駄にするなら、あの窮屈な家にさっさと帰る方が、まだマシだ。

「自分のルーツが知りたいんじゃないのか」

 ぴたり、とむぎの足が止まる。ほんの少し逡巡した後、盗み聞きしやがって、と心の中で罵り、彼女はまた歩き始めた。

 それでもザリガニは食い下がる。

「調べてやるよ。お前が措置入所になった時の書類がある。豆粒みたいなクソガキだった頃のな。事務所に保管されてるのさ」

 むぎはきっとザリガニを睨みつけた。

「あんたなんかが勝手に見られる書類じゃない」

「そりゃそうだとも」

「しかも、あんたはそんなお人好しじゃない」

「その通り」

「つまるところ、あんたは自分のリスクに見合う何らかの見返りを求める」

「十万円でいいぜ」

 むぎは鼻で笑った。

「あんたは私が知ってる一番のクズ」

 そう吐き捨てると、むぎは今度こそ立ち止まるまいと決意し、愛栄学園を後にした。

「足りないな、人生経験が。俺が聖人だって気づかないかぁ」

 今度こそむぎは足を止めない。いつでも連絡待ってるぜ、というクズの言葉を背に受けながら。

 もちろん、むぎはそんなお金を持っていない。月のお小遣いは五千円で、今から全く使わずに貯めても二十ケ月かかる。人の弱みにつけこむ卑劣な外道に、むぎは苛立ちを感じた。

 同時に、自分自身の卑劣さにも気づかされる。並行して紡がれる利己的な思考により、彼女の胸にぽっかりと浮かぶ邪悪なプランニング。

 日向家には十万円相当のものなんて、石ころのように散らばっているじゃないか。

 小石が一つ無くなったって、両親は気づかない。きっと。


 むぎが帰宅すると、彼女の義母――日向唯は、リビングで仕事の電話をしていた。

 むぎはただいまの代わりに猫かぶりの微笑みを浮かべて自室へ戻ろうとするが、義母はそれを許さなかった。指を一度鳴らし、手招きをする。

 呼び止められた。どうしてだろう? 様々な理由がむぎの頭の中に渦巻く。夕食を無言で食べた。同じ洋服を二日続けて着た。ふとした拍子にありがとうが無かった。すみませんが無かった。等々。

 唯は弁護士だ。クライアントに『離婚協議を有利に進める為に準備するあれやこれ』という内容のアドバイスを、理路整然と、お決まりの口上のように喋り終えると、お気持ち程度に挨拶をし、電話を切った。七三分けのコンパクトに纏まったショートヘアが、今日もばっちりと決まっている。

 むぎはこの髪型が嫌いだった。義母が嫌いなんじゃなくて、この髪型が嫌いなんだ。そう思い込んだ。

「むぎ、座りなさい」

 義母の言葉に、むぎは大人しく従う。面倒臭い気持ちを抑えつつ、一先ず微笑みを口元から消す。「何を笑ってるの?」と怒られないように。でも、まだ怒られてはいない。反省までの余白は残して、表情を微調整する。

「今日は何をしていたの?」

 唯は真っすぐ義娘を見据えつつ、そう尋ねた。

「友達と遊んでました。凜ちゃんと水族館に」

 適当な友達の名前を拝借し、むぎはアリバイ工作をする。愛栄学園に行っていたなんて、まず義母の望む回答じゃない。

 しかし、唯は納得しなかった。

「さっきの電話は凛ちゃんのお母さんよ。凜ちゃんは今日、絵画教室に通ってるらしいわ。あなたが嘘をついたのか、凜ちゃんが絵画教室をサボったのか、どっちかしら」

 凜ちゃんのお母さん、離婚するんだ。むぎはそう思った。

「私が嘘をつきました」

「どうして?」

 日常に苦痛を感じて、ゆみ姉に逃避していました。とは言えない。

 唯は組んでいた足を組み替え、むぎに顔を近づける。

「……私たちは親子じゃないの? どうして嘘をつくの?」

 唯の質問に、むぎは何も答えない。何かを答えるふりをして、結局押し黙る。まるっきり白を切らないように、罪悪感を感じる義娘を演じる。

 しばらくして、唯は溜息をつく。腕時計を外し、陶器の猫の耳にかける。きめ細やかな装飾が施された腕時計。

 むぎは思った。この腕時計は、きっと凄く高い。

 十万円なんて、軽く超えているだろう。

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