野良猫

 むぎは児童養護施設へ向うバスに揺られながら、自分の人生や立場や状況を考えた。明快な答えは出そうに無く、解けば解こうとするほど絡まる問題に、眉間には不満げな皺が出来るのだった。窓の外を見ると、温かい車のボンネットの上で毛づくろいをする猫がいる。彼女はその自由さに嫉妬した。

 ああなりたい。

 私も本当は野良猫なのかもしれない。

 ……と、彼女は思った。

 養子として恵まれた環境の内に居るはずなのに、心が少しも馴染まない。上品なワンピースを着て、行儀よく薄い微笑みを浮かべれば、それらしい見てくれにはなる。あるいは“そういう事”になる。しかし、圧倒的に自分という人格や魂の規格が、この環境の為に設計されていないのを彼女は感じていた。なんらかの手違いでうっかり混ざってしまった、別商品のジグソーパズルの様に。

 産みの親の唯一の形見であるストレイ・キャッツのCDを見るたび、本当は自分にどんな人生があったのだろうと想像する。これは父親の趣味? それとも母親? 顔も知らない。好きな食べ物も、好きな色も、タバコを吸うのか、コーヒーに砂糖を何杯入れるのか、犬派か猫派かも。

 どこかに存在したはずのむぎの家族は、彼女が物心ついた時には交通事故で失われていた。いっそのこと一緒にあの世へ連れて行って欲しかった。チャイルドシートの出来が良すぎたんだろう、と彼女は思った。出来の良いチャイルドシートが、とどのつまり両親の愛という事なら、皮肉な運命を感じても自分の命を無碍にするのは躊躇われる。

 二度と蘇る事の無い別の人生は夢想の域を出ない。追いかけても手に入らない普通の幸せ。しかし、せめて彼女は知りたがっていた。自分のルーツを、本当にあるべき自分の姿を。

 むぎは習い事や友達との約束の合間を縫って、1.5番目の親であるところのゆみ姉を訪ねるのだった。


 児童養護施設『愛英学園』は、故郷というにはちっぽけで古臭く、味気ない建物だった。外観は二階建ての普通の一軒家だが、普通の民家より三軒分ほど横に長かった。山の麓に建っていて、周りには木々が生い茂っている。むぎは幼少の頃によく木登りをして遊んだ。子供たちの中では一番得意(まるで猫のように)だったし、高い所から見下ろす町並みが大好きだった。でも、今は施設のルールとして禁止されていた。他ならぬ彼女自身が足を滑らして転落事故を起こしたからだ。不意の出来事で着地が出来ず、硬い地面に頭から真っ逆さまに落ちた。目の前に光がパチパチと弾け、ボキボキと首の骨が砕けた……ように彼女は感じた。でも、折れてないからここに居る。


「久しぶりね、むぎちゃん。可愛いワンピースだね。お嬢様みたい。というか、お嬢様だもんね」

 ゆみ姉はいつも通りの優しい笑顔と口調(と黒縁眼鏡)で、むぎを出迎える。お嬢様みたいだけど、偽物だ。むぎは心の中で独り言ち、穏やかな微笑みを返した。

「両親について聞きたいんですが」

 むぎがそう言うと、ゆみ姉は少し不憫そうに眉を顰める。

「むぎちゃん、あなたもよく知っての通り、ご両親は十一年前に亡くなられたわ。当時、三歳のあなたを残して。ご両親の何を聞きたいの?」

「住んでいた場所、仕事、趣味、顔、年齢、学歴、なんでも」

 ゆみ姉は首を静かに横に振った。

「私には分からない。もう随分昔の話だし、当時の職員さんで何か知っている人がいれば良いけど……聞いてはみるけど、期待しないで」

「当時の職員って誰ですか」

 むぎの淡々とした質問の奥に見え隠れする彼女の苦しみが、ゆみ姉に罪悪感を募らせる。

「……日向さんのお家で、上手くいってないの?」

 分からない、とむぎは思った。だから黙っていた。

「大丈夫、気にしないで。ずっと施設で暮らしていたんだもの。ようやく出来た新しい家族とそりが合わないなんて、殆どの子が直面する現実だよ。だからここでは、笑顔とマナーを教えるの。みんなが施設の外で、自分の運命を乗り越えるためにね」

 ゆみ姉の微笑みは、どこかむぎの微笑みに似ていた。むぎが学んだ笑顔のモデルが彼女なのだから当然だった。

「私、何か学び忘れてない?」

「他の事はこれから学ぶの。楽しい事も、悲しい事も。色んな事を学んで、ちょっとずつ良くなるよ。だから、大丈夫」

 ゆみ姉がむぎの頬を両手で優しく包み込む。

 胸の奥にじんわりと広がる暖かさ。

 むぎは自分の猫被りの笑顔に、ようやく気持ちが追いついたような気がした。

 ここに来たのは、これを求めていたのかもしれない。

 両親の事なんかではなく、ゆみ姉の暖かさを。

「……施設ここから出たくなかった。ここでみんなと暮らしたい」

 ゆみ姉はにっこり笑って、むぎの体をぎゅっと抱きしめる。

「私はいつでもむぎちゃんの味方だよ」

 むぎも自分が我儘を言っているのは分かっている。自分が望もうと望むまいと、どこか遠い場所へ向うレールに乗せられているのだ。それでも彼女は、泣言を言ってしまうのだった。ここでは彼女は、借りてきた猫のように萎縮する必要も無いのだから。

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