ラナウェイ・ガール

チェクメイト

猫被り

 爆発しそうな不満を抱えて、それでも鏡の中の少女は弱々しく微笑んでいた。

 ドレッサーの三面鏡の、右の鏡も、左の鏡も、正面の鏡も、全てが薄い微笑み。部屋は真っ白に統一されて、規則正しく、神経質なほどに整頓されている。人形のようにぽつんと座る少女と、その表情までが、正しくあるべき形に整頓されているようだった。

 日向ひなたむぎは“猫を被って”いる。

 十年に渡る児童養護施設での生活で、完全無欠に構築された処世術。その仮面の下で、得体の知れない何かが蠢いている。どろどろとした膿が胸の内部から溶け出し、そのうち自分自身の白々しい微笑みを真っ黒に染めてしまうのではないかと、彼女は不安に思った。彼女はじっと鏡の中自分を見つめ続けた。


 不満の原因は二つある。一つは、義理の母親の執拗なまでの厳しい教育だ。

 平日は学校に加えて学習塾、もしくはピアノ教室が課せられ、土日のどちらかは料理教室がある。休日の門限は十七時。朝・昼・夜と葉っぱまみれの食事が続き、言葉遣いとマナーは親子間でも徹底されていた。ファッションは全て義母がチョイスしたもので、モノトーンのワンピースとブラウスを着させられた自分を、まるでお嬢様のコスプレのようにむぎは感じていた。

 スマホの中身にまで義母の干渉は及んでおり、ゲームや動画関係のアプリは全て禁止されている。SNSアプリは連絡用に一つだけ入っているだけで、不特定多数の人間に閲覧されるような拡散性の強いものは禁止されていた。

 が、SNSに関してはむぎもそれで良かった。余計な愛想を振り向かずに済むからだ。

 即ち、不満の原因その二。友人関係だ。

 電子書籍で黙々と読書をするむぎを、学校の友達は孤独で可哀想な子だと勘違いした。“猫を被る”事で邪険には扱われないが、仲が良いと勘違いした友人たちは隙あらばむぎを彼女の世界から引きずり出そうとする。

 ねえねえ、むぎちゃん、何読んでるの?

 吾輩は猫である。

 え、何それ? 猫? 猫漫画? SNSの? 連載されてるやつ? 違う? 私の最近のお勧めはね……。

 私の最近のオススメとやらは、五秒後にはむぎの頭から消えていた。

 みんなやみんなが言ってる事が嫌いな訳じゃない。でも、全てを受け入れたい訳じゃない。彼女は拒絶する術を知らないのだった。


 それでもむぎは文句の一つも言わなかった。

 児童養護施設にいた頃と比べて、どれだけ恵まれた状況だろう。

 広い部屋、綺麗な服、質の高い教育。

 施設の他の子たちがどんな人に貰われたのかは知らないが、貰い手すら居なくて、十八歳になって施設を追い出される子だって沢山いる。

 少なくともむぎは、ある種のレールに乗せられて、道を踏み外していない。人生は軌道に乗りつつあるのだ。

 爆発しそうな不満はある。でも、きっと爆発はしない。今までだってそうだし、これからだってきっとそうだ。だからあの人を見習って、素敵な笑顔を振りまきたい。大人になるっていうのは、きっとそういう事だから。

 鏡の中の少女は笑顔のギアをもう一つだけ上げた。誰にも好かれそうな、百点満点のはにかみ顔。

 どろどろとしたマグマのような感情を抑えつけながら、震える顔の筋肉を必死に強張らせながら。

 ――いったい、何がおかしいんだ、こいつは。

 むぎは鏡の中の少女に向かって、そっと両手の中指ダブルファックを立てた。向こうも同じ事をしていた。ぶん殴ってやりたい。むぎはそう思った。


「もしもし、むぎちゃん? 電話待ってたよ」

 スマホ越しのゆみ姉の声は、いつもと変わらなかった。

 よく聞きなじんだ、おっとりとした穏やかな声に、むぎは思わず小さく笑った。久々に“猫を被らず”に。

「月次報告です」

 彼女は新しい生活が上手くいっているかどうか、月次報告を義務付けられていた。今回で三回目だ。

「そんな堅い言い方をしなくてもいいよ。問題なし?」

 ゆみ姉の声はどこまでも柔らかい。ヨギボーのでっかいビーズクッションの様に。

「特に問題は無いです。日向さんには十分な心身の健康管理と、手厚い教育を受けています」

「疲れてない? 新しい環境で、色々な刺激があると思うけど」

 ゆみ姉の質問に、むぎは少し微笑んだ。伏し目がちの視界には一枚のCDアルバムが映った。

 ストレイ・キャッツの『涙のラナウェイボーイ』。1981年リリース。

 このアルバムに収められたロカビリー・ミュージックについて、むぎは全く興味無い。でも、彼女の産みの親のどちらかの趣味で、唯一の形見だという事だけが、この四角四面の部屋に存在を許されている理由だった。本来なら、あっという間に義母に捨てられているはずだ。

 むぎが義務的な報告を済ますと、ゆみ姉にはなんとなく相手が電話を切るのを躊躇っている様子が分かった。少女の心の深い部分にあるわだかまりが、見守り役にはありありと見て取れた。

 むぎの猫被りは、ゆみ姉もよく知っている。こぶりな唇の口角をほんの少し上げ続けられるだけの、誰もが警戒を解く笑顔の素晴らしさと、素晴らしいが故に水面下で苦しんでいる精一杯の処世術の脆さを。

「むぎちゃん、いつでも施設に顔を出してね。一番目のご両親は産みの親。日向さんは二番目のご両親。1.5番目の親、なんてのが許されるなら……それは私なんだから。あはは、なんてね。むぎちゃんにとっては余計なお世話かもだけど、少なくとも私はそのつもりだよ」

 ゆみ姉の言葉はどこまでも優しい。心のどろどろが洗われるような気がして、むぎはほんの少し楽になれた。






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