太陽の音を忘れない

夢月七海

太陽の音を忘れない

 

 —―真横から、うなされる声が聞こえて、私は目を覚ました。

 馬の形をした下半身は横たえたまま、上半身を起こすと、寝藁の上でギリギリと歯軋りをする私の夫・アイビーの姿が見える。人と同じ形の手は強く握りしめ、男の人間と同じ顔からは、じわじわと汗を垂れ流す。


「アイビー、ねえ、起きてよ。アイビー」


 手を伸ばして、肩を揺らすと、彼は「ううん」と唸りながらも、うっすら目を開けた。機能している左目で視線を漂わせて、私を見つける。その表情は、悪夢から覚めたばかりなのに、ほっとしたようには見えない。


「……また、あの夢を見ていたの?」

「うん……また……」


 ぼんやりとしているアイビーは、まだ夢の中にいるのかもしれない。上半身を起こし、自分の両手を見下ろす。その表情に、絶望が滲み始めた。

 私はたまらなくなり、彼の上半身に飛びつく。首に両手を回して抱きしめても、アイビーは拒まない――と同時に、抱き返したりもしない。


 この状況が、私にとって一番辛いものであることを、彼自身が分かっていない。






   ■

 





 私たちは人間たちから「ケンタウロス」と呼ばれる、最近増えてきた新しい種族だ。馬と同じ形の四本の足と尻尾に、胸からは人間と同じ形をした上半身が生えている。

 全ての仲間は、元々普通の馬で、この近くの草原にある一本の木の葉を食べたことをきっかけに、何故かこの姿に変化した。私も、昔はとある商人に扱われていて、そこから逃げ出してから、例の葉っぱを食べた。


 アイビーは、ほんの数年前に変化した、私たちの中で最も新しい仲間だ。近くの森の中で体力が尽きたように倒れていたのを、私たちの族長が例の葉っぱを与えた。

 彼が倒れていたのを発見したのも、変化していく間も、ずっと付きっ切りで世話していたのが私だ。大きく変化してしまった自分の姿に戸惑うアイビーに、ケンタウロスの生き方を教えたのも私だから、この関係が発展して夫婦になるのは特に不自然ではない。


 ただ、アイビーの心の中には、決して去らない人物がいる。それは、変化する直前まで、アイビーの持ち主だった人間の男だ。


「ジャスティに買われなかったら、僕は間違いなく死んでいた」


 生まれつき、右目が潰れていたアイビーは、牧場内でも疎まれており、競りでもなかなか買い手がつかなかった。売れ残った彼が荷馬車に乗せられる直前に、「ほしい」と話しかけてきたのが、そのジャスティだったという。

 ジャスティから「アイビー」という名前をもらった彼は、共に旅に出た。美しい景色を眺めたり、心優しい人々と交流したりをしていたが、その長い旅路は、突如終わりを迎える。


 とある深い森を一日で抜けきれなかった彼らは、そこで野宿することにした。だが、その前から、アイビーは嫌な予感がしていたという。そわそわと落ち着かないアイビーに、ジャスティは「ここには狼も熊もいないから」と言い聞かせてくれた。

 しかし、彼らは狼でも熊でもなく、人間に襲われてしまう。「盗賊」という、同じ仲間であるはずの人間を狩り、その持ち物を奪い取る恐ろしい性質のものたちに。


 どちらも寝ている瞬間に狙われたので、逃げる暇も無かった。それでも、ジャスティはアイビーを結んでいた綱を切り、先に逃がしてくれたという。

 アイビーは無我夢中で逃げた。命の危機に、ジャスティのことを気にする余裕も無かった。そして、体力が尽きて倒れたところを、私に発見された。


「助けてもらえたことには、深く感謝している。ただ、自分が不甲斐ないんだ」


 初めて並んで寝た夜に、私はアイビーが魘されていたので起こした。訳を聞くと、彼は、ジャスティと別れた瞬間の夢を見ていた。


「……もっと、この森の危険性をジャスティに伝えていたら。綱を切られても、盗賊に立ち向かっていたら。……あの瞬間、僕はただ逃げる事しかできなかったのを、後悔している」


 上から押さえつけられているかのように、頭がだんだんと下がっていくアイビーを目の前にして、私は彼を元気づけようと、言葉を探した。


「しょうがないわよ。命の危機にあって、逃げ出すのは当たり前のこと。あなたは全く悪くないわ」

「それは、分かっている……だけど、『もしも』を考えてしまうんだ」


 馬だった時よりも、私たちは賢くなった。だからこそ、ありえない未来を想像してしまい、アイビーはずっと苦しんでいる。

 彼が、ケンタウロスになったこと自体を後悔しているんじゃないかと思うとすごく怖い。「感謝している」という前置きの言葉は、小枝のように心許なかった。


「ジャスティと別れた森に行ってみたい」


 影のように不安が付きまとう毎日の中では、アイビーの申し出は唐突だったけれど、理由は分かるものだった。

 族長からも許可をもらい、私とアイビーは旅立った。ここよりもずっと北にある、深い森へと。






   ■






 旅路は意外と穏やかなものだった。競い合うように走りながら北上し、夜は疲れて倒れ込むように眠る。見かけた小川で水浴びをして、初見の木の実を口にしては「まずい」だの「おいしい」だの言い合って笑い合う。

 アイビーとつがいになって、こんなにも幸福で満たされた日々はなかった。このままずっと、アイビーと世界の果てへ走っていきたいと思ったほど。ただ、三日目から北の森が視界に入ってくると、彼の表情が暗くなり、走り合うのを止めないかと提案した。


「マトアカは、ケンタウロスになる前、どんな生活をしていたの?」


 北の森に入る直前の夜、私たちはあるこかげで眠りに就こうとしていた。その時に、アイビーからそう尋ねられて、私は酷く驚いた。過去について訊かれたのは、これが初めてだったからだ。

 しかし、ケンタウロスになる前までの私の暮らしは、それはもう酷いもので、あまり詳しく語りたくないのが正直な気持ちだった。毎日毎日、限界まで積まれた荷馬車を引いて、与えられる食事や水はほんの少し。飼い主の行商人からすきを見て逃げ出して、這う這うの体で辿り着いたのが、あの草原だったと、かいつまんで話した。


「なんというか、僕とは正反対な半生だったんだね」

「そうね。あなたみたいに、飼い主からとても大切にされていた馬は、珍しいじゃないのかしら」


 草原で暮らすケンタウロスたちは、みんな元は、飼い主から捨てられたり、逃げ出したりした馬たちだ。むしろ、飼い主の行方を心配しているアイビーのようなケンタウロスは初めて見たので、彼の気持ちを理解できないのが本音だ。

 伸びた片方の前髪が揺れて、潰れた右目が見えそうなほど、アイビーは深く頷いた。そして、自分の巡り合わせを噛みしめるように呟く。


「僕は、ジャスティに会えて幸せだったんだね」


 その一言は、一晩中、私の心をチクチクと突いていた。


 ……夜が明けて、私たちは一直線に北の森へ入っていく。

 北の森は、今まで見たことのないほど背の高い木々が生い茂っていて、どこもかしこもずっと薄暗い。その木々は、葉っぱの形が細い線のようで、あまりおいしそうには見えなかった。


 太陽の光があまり届かない為か、肌寒い。遠くで鳥の鳴き声が聞こえるけれど、それが余計に寂しさを抱かせた。

 それに、盗賊が出てきたらどうしよう。人間たちは、私たちを見ると逃げていくけれど、仲間を襲う盗賊は気にしなのかもしれない。色々考えて怖くなり、私はアイビーの肩に身を寄せた。


「夢の中で、嗅いだ匂いだ」


 しかし、アイビーは前を向いたまま、そんなことを呟く。ほぼ剝き出しの土の匂いが、彼にとっては特別なのか。

 他にも、殆ど代わり映えのない景色なのに、「ここは見たことがある」と言い出して、ずんずんと進んでいく。私がいるのも忘れているようで、途中からはぐれないように必死について行った。


「……ああ、やっと、見つけた」


 アイビーが、安堵というよりも、泣きそうな声で言う。私は彼が見つめるものを確認して、思わず体が硬直した。

 一本の木の枝から、縄が伸びている。その先、僅かに吹く風に時折揺れるのは、人間の白い骨だった。


「……彼が、ジャスティなの?」

「ああ。服があの時と同じだ。間違いない」


 まだへっぴり腰の私に反して、アイビーは躊躇なくその骨に近付いて行った。骨の着ている服を引っ張り、そこから覗いた手をなぞる。

 大切な人のこんな姿を見たら、驚き、泣き喚くものだろう。そう勘ぐってしまうほど、アイビーは冷静で、前足を木にかけるようにして立ち上がり、そのままだと手が届かない縄の結び目をほどいてしまった。


 数年ぶりに地面へ降りたジャスティンを横たわらせて、アイビーは両前足を使い、穴を掘り始める。私たちはケンタウロスになったことで身に付いた風習、亡き者への埋葬を行うようだった。

 地面が思ったよりも固く、時間がかかっているようなので、私も穴掘りを手伝った。浅くとも、丁度良い大きさの穴が出来上がったので、二人してその中にジャスティを眠らせる。それから、土を被せ直して、アイビーがしっかりとそこを均した。


 それが終わると、アイビーは何も言わずに元来た道を歩き出した。後ろを歩きながら、よかった、これで吹っ切れたんだと、私はほっとしていた。

 しかし、ほどなくして、アイビーがすすり泣く声が聞こえだした。前に回ってみると、彼はずるずると鼻水も一緒に、涙を流し続けている。


「大丈夫なの?」


 声をかけると、立ち止まったアイビーは、大きく首を横に振った。


「ジャスティと、また会えたなら、もう、彼への未練が、無くなるものだと、思っていたんだ」


 乱暴に涙をぬぐい続けても、アイビーの涙は止まらない。それを眺めているだけで、水中にいるかのように息苦しくなってくる私に構わずに、アイビーは続けた。


「でも、実際は、逆なんだよ。ジャスティへの、気持ちが、溢れて止まらない。彼は、とても温かかったんだ。あんな姿じゃ、信じられないだろうけれど、冬なのが気にならないくらい、背中に乗せていると、ぽかぽかとしてくる。まるで、太陽のように。それでね、僕を抱きしめてくれたら、ドクンドクンって、心臓の音が、はっきりと聞こえる。今も、この背中が彼の体温を、耳の奥が鼓動を、はっきりと覚えている」

「……もう、忘れてよ」


 耐え切れず、私は言い返した。アイビーは信じられないというように、涙を拭う手を止めて、私を凝視する。


「もう、忘れなさい。死んだ人のことなんて。もう、ジャスティはいない。体温も鼓動も、全部ただの幻。固執しているのは、あなただけ。だから、だからもっと……」


 私のことを見て。そう言い切る前に、恐ろしい形相で、アイビーが右手を振り上げた。平手打ちされると思い、咄嗟に目を瞑る。

 だが、いくら待っても、叩かれることはなかった。目を開けると、彼は奥歯を食いしばりながら、ゆっくりと手を下した。それを見て、私は気を使われているのだと、やっと気付く。


「私は、とても酷いことを言ったのよ? あなたの感情に向くまま、怒りをぶつけてもいいのに……」

「ごめん」


 私の方が、謝られてしまった。アイビーと心の距離を感じ、虚しさと惨めさとで、こちらも泣きそうになる。

 でも、私は我慢した。まだ、アイビーの涙は止まらない。俯いたまま、乾いた地面に涙を落とし続ける彼を、私はずっと見ていた。


 —―やっと二人並んだ歩き出したころには、真上にあった太陽が、西へ動き始めていた。

 アイビーが、私の手を握る。こんなことは初めてだったので、私の心は花が咲いたかのように明るくなった。


「ケンタウロスになれたから、こんな風に手を繋げるんだね」

「うん……」


 うきうきの気分でそう話しかけても、アイビーの顔は翳っている。きっと、ジャスティと手を繋げられたらと、考えているのだろう。

 結局、彼はジャスティのことから離れられないのだ。再び、苦しい気持ちを抱える私を、アイビーは真っ直ぐに見据えた。


「マトアカ。僕は、今も、ジャスティのことを忘れられない」

「うん。そうみたいね」

「でも、これからは、後悔ばかりして、うじうじするのはやめるよ。僕らの未来のために」

「……うん」


 彼の決意は、含みがあるものの、嬉しいものに違いなかった。私が彼を見つけた瞬間のように、彼が私を見つけてくれたのが、今、この瞬間なんだろう。

 アイビーと出会わなければ、こんな悲しい思いや苦しい思いをせずに済んだのかもしれない。だけど、それは裏返すと、私がアイビーのことを深く愛している証拠なんだと思う。


 私は、ケンタウロスになれて良かった。アイビーも、いつか心の底からそう思える日が来るといいな。

 そんなことを考えながら、私たちは帰路を、それぞれ四本の足を高らかに鳴らして歩いた。
























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