綴
@Bluewisteria
傘
雨が降る午後10時半、傘を持って歩道を歩く男がいる。
不思議なことに男は傘を差さずに、ただ手に持っているのだ。
そこで私は傘を指さしながら男に声を掛けた。
「あの、その傘差さないんですか?」
男は、突然見知らぬ人間に声を掛けられたことに驚いて、目を見開いたまま立ち止まって固まってしまった。
私はもう一度男に話しかける。
「大丈夫ですか。」
固まっていた男は真顔に戻って、何も答えずに再び歩きだした。
私は男を放っておけなくなり、男の斜め後ろを追いかけながら話しかける。
「どうしたんですか? 傘、壊れてるんですか?」
ここで男が初めて口を開く。
「壊れてないです。」
「......ならどうして差さないんですか。」
「あなたには関係ありません。」
「でも気になって......」
男は歩き続ける。
私は追いかけ続ける。
「ついてこないでください。」
「すみません。でも、どうして傘を差さないのか気になってしまって、それだけ教えてくれませんか。そうしたらもう追いかけません。」
男は立ち止まって黙り込む。
私も立ち止まる。
濡れたアスファルトが街の光を反射する。
車のタイヤが水溜まりを弾く。
しばらくして男がぽつりと呟いた。
「面倒臭いから。」
私は聞き返す。
「面倒臭い?」
「そうです。」
「濡れる方が面倒臭くないですか?」
男は再び歩き出す。
私もそれを追う。
「風邪引きますよ。」
「......もう引いてますよ。」
「ならどうして外に?」
「知りません。」
男が歩くペースを上げた。
私はそろそろ疲れてきてしまった。
「まだついてくるんですか?」
「だって面倒臭いじゃ分からないですよ。」
「......」
「......」
男はおもむろに立ち止まって私の目をじっと見つめて、諦めたように言った。
「傘の差し方くらい知っています。傘は雨の日に使う物だってこともね。
でも、傘を差してどうするんですか?」
「傘を差してどうするんですか......?」
私は男の質問を繰り返した。
「はい。傘を差して、それからどうするんですか?」
「......雨に濡れなくなります。」
「それで?」
「それで?......ってそれが良いんじゃないんですか?」
「あなたはそれで良いかもしれませんね。でも俺は濡れようが濡れまいがどっちでも良いんですよ。」
「じゃあどうして傘を持ってるんですか。」
「雨が降っているから。」
私には意味が分からなかった。
男は構わず続ける。
「今日は雨の予報でしたね。だから俺は傘を持ってきました。悪いですか?」
「誰も悪いとは言っていません。」
男は少し口角を上げながら言った。
「それにあなただって傘を差していないじゃないですか。」
男の言葉に、私は自分も傘を差さずにずぶ濡れであることに気が付いた。それどころか傘さえ持っていなかったのである。
ここで私は男が傘を差さなかった理由を悟り、男に会釈をしてから、来た道を戻ることを決意した。
綴 @Bluewisteria
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