偶像の記憶

サトウ・レン

忘れてしまった恋

 僕の初めての恋人は同級生で、アイドルをしていた女の子だ。超有名人というわけではないが、決して無名でもなかったので、その事故はニュースなどでそれなりに話題になった。


 彼女と最後に会った時のことは、いまも覚えている。

 夏は終わりに近付きつつも、まだ蝉時雨が聞こえる時期だった。病室の窓がすこし開いていて、隙間から入ってくる風が白いカーテンを揺らしていた。個室の病室に、彼女はひとりだった。事故の後の喧騒が落ち着いて、ようやくふたりきりで会えることができた。

「あなたは?」


 窓越しの景色に目を向けていた彼女が、僕を見て、首を傾げる。


 分かってはいたけれど、実際に目にして、僕はその場から逃げ出したくなってしまった。


『舞台上から転落。記憶喪失か』

 確かニュースにはこんな、煽るような見出しがついていた。詳しいことは分からないのだが、すべての記憶を忘れたわけではなく最低限の日常生活を送ることはできるそうだ。忘れてしまったのは、人間関係のあらゆる記憶らしい。当然、僕のことも覚えていない。


 僕はいまも彼女との出会いからいまにいたるまでを、鮮明に思い出すことができるけれど、それらの一切を彼女は忘れてしまっているのだろう。時間の経過とともに忘れてしまうのならば、まだ納得はできるが、こんな形で忘れられてしまうのは、あまりにも寂しすぎる。


 出会ったのは、街で彼女が男に絡まれていた時だ。僕がビビりながらも彼氏の振りをして、その絡んでいた男を追い払った。ありがとう、と頭を下げる彼女が同じ学校で、アイドルをしている女の子なんて、その時は何も知らなかった。僕の通う学校はマンモス校で、僕が周りの事情にあまり興味を持てない性格だった、というのもある。


 だから学校の廊下ですれ違って、「あっ」とお互いが驚きの声を上げてしまったのも、いまでは良い思い出だ。

 それから僕たちはゆるやかに距離を縮めていった。僕はアイドルとしての彼女のことはあまり知らなくて、「知らないなら知らないままでいて。そのほうが気楽だから」と言われ、彼女のアイドル活動に関して、自ら知りにいくようなことはしなかった。


 僕たちの関係は、本当に恋人なのだろうか、とたまに不安になることはあった。

 話す時も、あるいはデートの時も、表立ったものではなく、こっそりと誰にも知られないように、とお互いに心掛けていた。だから僕たちが恋人である、と知っている人間は、この世でお互いのみ、だ。よすがにできるのは、相手の心だけ。


「僕はきみの恋人だったんだ」

「そうなんだ。ごめん、覚えてない」

 その片方の心がもうすでに僕を覚えていない。恋人と証明してくれる者は誰もいない。僕は真実を言っているはずなのに、まるで嘘をついているような気分になった。


「そうだよね。でも本当なんだ」

「疑っているわけじゃないんだけど、でも……」

「でも?」

「同じことを言ってきたの、あなたで十三人目なんだ」

 あなたもそのひとたちと同じなんじゃ、と疑いの目が僕に向く。いや疑いどころか、もしかしたら確信のまなざしなのかもしれない。違うんだ、僕だけは本当にそのひとたちとは違うんだ、と否定したい気持ちはあったが、言えば言うだけ虚しくなるような気がして、言えなかった。そもそもいまの彼女は、僕を知りもしないのだから。


「あぁ、うん。ごめん、嘘なんだ。いまの話、忘れて」

 僕はそう言って、病室を出た。なんで恋人だってもっと主張しなかったんだ、と心の中の僕が、僕を責めてくる。だけどもしも自分が彼女の立場だったら、と思うと、もうそれは恐怖の上塗りでしかないだろう。彼女が傷付くのは、もっと嫌だ。


 彼女はその十二人のうちから、新しい恋人を作るのかもしれないし、あるいは全然別のひとと新たな恋をするのかもしれない。


 それから数日経って、僕も僕なりに彼女を忘れて、新しい恋でもしてみよう、と無理に自分に言い聞かせてみたりもした。すると実際、新しい恋人ができてしまった。彼女のことを完全に忘れることはできなかったが。


 彼女の事故から十年近い月日が流れた。

 結局、彼女の記憶が戻ることはなかった。ただアイドル活動は事故の後も続けていた。二十代なかばまで続け、アイドルを引退した後すぐに結婚した。


『記憶喪失から復帰。奇跡のアイドルが結婚』

「奇跡のアイドル、って。もうアイドルじゃないのに、なぁ」


 ニュースを見ながらつぶやく僕の背後から、「何、見てるの」と妻の声がした。


「結婚発表」

「恥ずかしいから、やめて」

「本当に僕で良かったの」

「その話はNGって約束でしょ」


 彼女と最後の会話を交わした数日後、退院した彼女が僕の目の前に現れて、言ったのだ。


『私はあなたを思い出すことができません。むかしの私のことは忘れてください。そして新しい私と一からはじめてくれませんか。なんだか分からないけど、どうしてもそう言わないといけない気がして』


 そして僕はそれまでの彼女に別れを告げ、それからの彼女と新たな一歩を踏みはじめたのだ。

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偶像の記憶 サトウ・レン @ryose

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