童貞の貞は貞子の貞

 自主企画のなかに【第一回きつね童貞文学大賞】なる企画を見かけた時には、「なんじゃいそれは」と呆れていたのだが、つまりこういうことなのだろう。
 童貞は、ありのまま、その生態を書くだけで文学になってしまうのだ。

 あらすじ欄にはこう書いてある。
 -----------------
 恋愛。セックス。
 童貞。
 他者との断絶。
 明日はない。
 日常はある。
 -----------------

 恋愛したいが童貞だ。
 セックスしたいが童貞だ。
 想い詰めた主人公は金を握り締めてソープに行くことにする。すごい決意だ。頑張れ。
 しかし残念ながら他者との断絶は続くのだ。

 セックスしたところで断絶は発生するのだが、コネクトする前に主人公は楽園から締め出されている。
 男の中でも最下層。生物の中でも最底辺。それがいい歳しても童貞のオス。
 やばい。
 やばいくらいの悲哀だ。
 虫以下じゃん。

 いい歳して童貞。この言葉に篭るものは悲愴感を超えた断崖絶壁だ。種の断絶だ。
「その年でまだ童貞なの?」
 俺がいったい何をした。
 童貞であるかぎり幼稚園児と変わらない。なりだけはデカいが男ではない。日銭を稼ぐ童貞たちは絶叫する。
 ソープに行くにも大金がいるんだよ!

 選ばれることのない者であり、選ぶことも出来ない者。
 子どもの頃の夢はなんだっけ。
 好きな女の子と初体験をしたかったな。
 人生がすでに終了していることを知りながらそれでも生きて行かなければならない、そんな底打ちの惨めさと焦燥が童貞の二文字に集約される時、主人公は限りなくフィクションに近くなる。
 ゴミに等しいこんな人生はフィクションだ。
 哀しいくらいに「そっちの世界」の住人じゃない俺は虚しすぎて、存在自体がすでに大嘘だ。
 テレビから出てくる貞子が作りものであるのと同じように、いい歳して童貞の俺もきっとホラーなんだろう。

 流行を追うならば主人公はここから異世界に飛び立つのだが、主人公は自分の手でリアリティに着地する。何事もなかったかのように、毎回のごとく。
 お帰り、童貞。
 題材としての童貞は文学になる。