無人駅
深 夜
「ねえちょっと。そこのあなた」
その声は頭の下から聞こえてきた。
うとうとしていた磯谷は、ベンチから跳ね起きた。
「だ、誰です?」
あたりを見回したがだれもいない。
がらんとした田舎駅には、上り下り二つのホームに常夜灯が淋しくともっているばかりだった。
また、声がした。
「ここですよ」
立ち上がって磯谷は震える足で線路に近づいた。
ホームの端から下をのぞくと、ひどく貧相な男がレールに横たわっている。よれよれの作務衣の襟もとを掻きながら男は磯谷に言った。
「終電はもう出ましたかね」
「とっくに行きましたよ。私はそれに乗り遅れたんだ。それよりあなた、そんなところで一体何をしているんですか?」
男は大声で笑った。
嫌な笑いだ、と磯谷は思った。口ばかりがひくひくと動き、目は雨上がりの水溜まりのように淀んでいる。
「なんだ。それじゃ始発までだいぶありますな」
また口許だけを動かして、男が言った。
「あたしはこれから死ぬんですよ。ほんとにこの世にゃ未練が尽きた」
「馬鹿なことを。死んだらおしまいです。生きてればこそ、うまくゆくまで何度でもやり直せるじゃないですか」
「いえいえ。もうあたしに出来るやり直しは、死ぬことだけなんです」
磯谷は線路に降りた。男は首の後ろで腕を組んだまま、起き上がろうともしない。
「ねえあなた、自分で命を絶った人には恐ろしい罰が当たるって言いますよ。最後まで生きてから死んだって、遅くはないでしょう」
磯谷は男を抱き起こそうとしたが、男の体は途方もなく重かった。
「いいんです。あたしはちっとも怖くはありません。これから始発が来るまで、しばらく夕涼みとしゃれ込みますよ」
そのとき線路がぴりぴりと震え出した。
貨物列車が近づいて来たのだ。
「え? ちょ、ちょっと待ってよ! あたしゃまだ心の準備が」
男は起き上がろうとした。頬が恐怖に引き攣っている。
「た、たすけて。体が動かない!」
磯谷は男を助け起こそうとしたが、その体は溶接したように線路に張りついていた。
闇の向こうからヘッドライトが近づいて来た。もう間に合わない。磯谷はホームに這い上がった。
男がけもののように絶叫し、それを車輪の轟音が掻き消した。
ベンチに突っ伏して、磯谷は耳を塞いだままがたがた震えていた。
なにも知らぬまま貨物列車は走り去り、夜のかなたへと消えていった。
静寂がもどった。ようやく磯谷は身を起こした。
その耳に闇の中から、かぼそい声が忍び寄ってきた。
「ねえあなた、終電はもう出ましたか?――」
今夜これからおれは、一体何度この声を聞くことになるんだろう?
そんなことを磯谷は考えていた。
無人駅 深 夜 @dawachan09
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