欠落椅子探偵

@1945shusen

欠けているものが多すぎる

 現在


 コツ コッコッコッ


 うるさい。


 コッ コツ コツ


 ああ、うるさい。


 決して心地よくはない眠りだったけれど、それでも途中で起こされるのは不愉快だ。


 目を開ける。暗い。いつの間にか夜になったのだろうか。


「うるさい!もう起きるから静かにしてくれ!」


 そう、言おうとした。事実、俺は深く息を吸い込んで吐き出そうとしていた。


 言おうと、「した」。


 過去形。


 つまり、俺はそう言えなかったのだ。言葉にならなかった。声にならなかった。


 声にならない叫び、なんて表現はなかなか素敵で詩的だけれど、そんな大層なものではなく、俺の喉か出たそれは──只のくぐもった呻き声。


 息が詰まる。


 息が詰まってどうにかしようと身を捩ってから違和感に気づく。


 手足が、動かない──何が起こったのか。けれど混乱する頭が覚めるのを待つまでもなく、疑問は直ぐに氷解した。


 猿轡。


 そう思えば先ほどから異様に暗い視界の理由にも、納得がいく。


 推測する。理解する。納得する。


 俺は身体の自由を奪われているのだと。


 口に嚙まされた猿轡。視界を封じる黒い目隠し。手足に巻かれたガムテープ。───俺はどうやら、椅子に縛り付けられているらしい。


 胴体は背もたれに。俺の足は椅子の足に。腕は肘掛に。一分の隙もなく。文字通り髪の毛一本通る隙間もなく。間一髪さえ許さぬように。紙一重さえ許さぬように。


 拘束されている。


「───!」


 絶叫しようとする衝動に駆られたけれど、必死にそれを抑え込む。


 きっと、今叫んでしまえば、もう正気には戻れないだろうから。


 きっと、今叫んでしまえば、俺は決定的に────壊れてしまうだろうから。


 叫んで捩って狂って壊れる─────そんな未来を、簡単に想像できてしまう。


 拉致監禁。あるいは────被害者が未成年者であることを考えると、誘拐だろうか。


 恐怖に意識を向けないように、思考を一部遮断するために、俺は別のものへ意識を向ける。


 コツ コッコッコッ


 即ち、俺の意識を目覚めさせてくれた、この音に。


 コッコッコッ コツ コツ コツ コッコッコッ


 俺は。


 息を吐く。普段なら、声に出して呟くだろう。────憂鬱だ、と。


 僅かに自由のきく指を動かして、強く、激しく、俺を拘束しているひじ掛けに打ち付ける。


 コッ コツ コツ コッコッコッコッ コツ コツ コツ コッコッ コツ コツ コッコッ


 モールス信号。その返信。


 違和感を覚えたきっかけは、この音に妙な規則性があることだ。短い連続した音だったり、逆に長く間隔をとった音だったり。そう思ってよく聞いてみると、この音は大体同じ周期を繰り返している。すなわち、コッコッコッ コツ コツ コツ コッコッコッ。これを何度も繰り返している。まるで、何かへ呼びかけるように。ここまでくればわかる人もいるだろう。


 ・・・ー--・・・の表記なら多くの人がわかるだろうか。


 これが意味するのは日本で最も有名なモールス信号メッセージ。


───SOS。




 声を大にして言わせてくれ。


 それは俺の台詞だ。


 助けを求めるからにはこの人も俺と同じく何者かに拉致監禁されたのだろうか。俺は視界も身体も封じられ文字通り身動き取れない現状なので、この「救難信号」に俺が答えたところでできることは何もない。けれど情報の共有くらいはしておいたほうがいいだろう。だから俺がしたのはその返信。


 ・ー- ・・・・ ー-- ・・ー-・・


───Who?


 まあ、この状況下で相手の素性を問う意味は皆無だ。内容そのものに意味はない。意味があるのは、返答そのものだ。相手に自分の存在を示すこと。仲間、同志、協力者、そう成りうる者がいると示すこと。


 その返信は思っていたよりずっと早かった。


───自分から名乗るのが礼儀では?


 …かなりイラっと来た。スルーしてやろうかとすら思う。


 というか何故いきなり日本語にしたんだ。折角、俺が英語で訊いたのに。


 すると、今のメッセージの続きが流れてきた。ああは言いつつも、普通に名は名乗るのだろうか。俺は優しい心で翻訳してみる。


───名を名乗れないような方は信用できません。


 苛立ちがムカつきに変わった。そもそもこいつは俺と同じように、拉致監禁されて拘束されているのではないのか。なんでこんな長文打つ余裕があるんだよ。


───シュウです。


 誠に遺憾ながら俺は親切に名前を教えてやった。多少の歩み寄りも必要だろう。苗字も名乗ろうかと思ったけれど、罪人みたいな苗字なので止めておく。


───そうですか。私はポンドと言います。


 ポンドとは。MI6の諜報員なのか英国通貨なのか。元ネタすらも確定できない偽名だ。俺は本名を名乗ったというのに。まあ偽名とも一概には言えないが俺の英語での問いかけに日本語で返してきた辺り、少なくとも英国紳士ではないだろう。


───じゃあジェームズさん、貴方は現在どんな状況ですか?


 この問いにもまともに答えてもらえないのではと思ったが、意外なことに素直に現状報告の返信が返ってきた。


───縛られて床に転がされています。私に見えるのはコンクリートの壁だけですが、どこかから微かにテレビの音が漏れ聞こえてきます。


 俺は驚いた。ジェームズの返答が簡潔だったからでも、彼が自らをジェームズだと半ば認めたからでもない。


───ということはジェームズさんはもしかして目隠しをされていないんですか?


 若干些か食い気味に、俺は指をひじ掛けに打ち付ける。俺の食いつき方に驚いたのか、ジェームズの返信は当惑気味だった。


───ええ…それが?


───いいから俺の質問に答えてください。そのテレビ番組は何ですか?


 ジェームズは俺の問いに、とあるニュース番組の名前を挙げた。


───ほら、椿ちゃんのニュースです。


 椿ちゃん。一般的にそう言われるのは、平川椿16歳のことだ。


───平川椿って、あの事件の被害者遺族ですよね。


 ある普通の家庭で起こった悲劇にして惨劇。精神的に鬱屈した息子が父を殺すという凄惨な殺人事件。病床の父親を残酷にも果物ナイフで刺殺した、無意味な殺人。殺す必要のない、殺人のための殺人と呼ばれた事件。


 平川椿は、その事件の遺族だ。救いようのないことに、殺人鬼となった息子のほうはすぐに自ら命を絶った。つまり平川椿は一度に二人の肉親を失ったのだ。一人は理不尽に命を奪われた被害者として。一人は心に病巣を抱えた殺人鬼として。


 そしてそんな悲劇を境に、平川椿の精神は崩壊した。


 明るく社交的。そんな性格だった平川椿が、部屋から一歩も外に出なくなったのだという。ニュースで知らされる「可哀想な少女」の姿に庇護欲をそそられたのか、それとも格好の標的を見つけたのか、しばらくネット上には彼女への応援コメントがあふれかえっていた。殺人者となった息子への罵詈雑言という形での。


 彼女の家族をひたすら罵るという形での。


 まるでそれが善意だと。それが正義だと。信じて疑わないような。


 第三者の投げる言葉は、ごく当然のように人を殺し得る。ごく必然のように人を壊し得る。


 振りかざされた「真実」は、ごく自然のように人を殺め得る。


───椿の兄が出たみたいです。


 彼女の兄が出るということは単独のニュースとしては終盤だろう。はっきり言って、平川椿の知名度が上がりすぎて、その兄の名前など誰も覚えていないに違いない。


───難しい名前ですね。


 そうだろうか。記憶力だけは良い俺には難しい漢字というのがよくわからない。


 とはいえ数日前に起こったセンセーショナルな事件なので、恐らくは番組開始から最初のニュースだと思われる。


 つまり、現在時刻は5時10分ほどだということになる。


 俺は誘拐された記憶がない、つまり気を失わされた後に誘拐されたのだろう。


 そして記憶にある限りの誘拐以前の最新の記憶、即ち帰り道でのブラックアウトは4時ジャストか一、二分だった。つまり俺が気を失っていた時間は1時間10分ほどだということだ。


 なるほど。少しだけ天を仰いで考える。どうせ何も見えないけれど。


 眼を瞑る。瞳を閉じる。瞼を下す。


 そして、深く息を吐くと再び指を打ち付ける


───ここ、都内ですね。






 俺の特徴を一つ挙げろと、俺の身近な人に言ったとしよう。

 俺の知人や友人、そして家族の恐らく大部分が挙げるであろう俺の特徴を、少なくとも一つは確信とともに予想できる。きっと彼らはこういうだろう。他の特徴を思い出そうとしながら、ごく当然のように自然のように必然のように。


 記憶力がいい、と。


 俺の少々特殊で特異な「性質」。


 一度見聞きしたことは絶対に忘れない程度の記憶力。


 他人はそれを、才能という。


 知人はそれを、個性という。


 家族はそれを、怖いという。


 医者はそれを、欠落という。


 超記憶症候群。


 自分の「これ」がそういわれるものだと知ったのは、実はつい最近のことだ。


 あの日。


────「君には、人の心とかないのかな?」


 何の特別性も持ちえない全ての記憶。


 その在り方を非難されたのだと、最初は気づくことが出来なかった。


 全て同等に刻まれる記憶。全て同質に重なる記憶。全て等質に覚えている記憶。


 全て等価値に記録されていく記憶。


 俺にとって全ての事象は─────どうしようもなく、等価値だ。






───何故そんなことが言えるんですか?


 訝し気な顔が目に浮かぶようだ。顔知らないが。


───実は俺、東京の台東区民なんですよ。


───だから?


 なんか腹立つな。


───そのニュースでその内容をやっているということは恐らく今はおよそ5時10分。3月21日の5時10分。分かります?


───流石にそれくらいわかりますって。


 どうでもいいけどこの男、いちいち気に障る言い方をする。


───俺がざっと記憶を振り返ってみる限り、俺が気を失う前の最新の記憶は4時ジャストでした。まあずれていても一二分くらいですかね。


───だから?


───つまり、俺が気を失っていたのは70分ほどだということです。


 だから何か?俺が気を失っていた時間を求めたところで何がわかるのか。


───俺が気を失った場所からの距離、即ち現在位置の範囲が割り出せる。


 移動時間、そしておおよその速度を割り当てれば必然的に移動距離を導き出せる。なら速度は?


───まさか男子高校生を誘拐するのに公共交通機関を利用するわけにはいきませんよね。心理的にも避けたいでしょうし何より目立ってしょうがない。といっても徒歩では無理でしょう。心理的にも物理的にも。だったら当然の帰結として誘拐手段は限定される。


 勿論、自転車なんて論外だ。あの二輪の不安定な乗り物で俺を運べる筈がない。


───自動車です。ならば法定速度に従う以上、その速度はおおよそ予想できる。


───なるほど。つまりシュウさんは自動車の移動速度と移動時間から活動範囲を推理したんですね?


───そういうことです。どうでしょうか、俺の推理は。


 まあ、彼に納得してもらおうがしてもらわなかろうが別にどうだっていいのだが。


───残念ですがシュウ、その推理には致命的な穴があります。


 穴?別にジェームズが俺の推理をどう思おうがどうだっていいが、それでも間違いを指摘されると聞き返したくなってしまう。何しろ俺は目下誘拐被害の真っ最中であり、何の比喩でも 冗談でもなく、命が危ないからだ。誘拐被害者は口が封じられると決まっているし、いつ犯人が俺の命を奪うために現れるかもわからない。


───シュウは移動時間をどの程度と見積もっていますか?


───30分くらいですかね。


───その根拠は?


 そこで俺はようやく、ジェームズの言わんとすることを理解した。


 俺の失神時間は70分。けれど、その中の移動時間がどの程度かがわからない。もっと言うならこの場所に運ばれてから現在までの時間がわからない。


───台東区から都外までは、ざっと見積もっても車で60分ほど。つまり運び込まれてから10分後にシュウが目を覚ましたとするならば、ここが都外だという可能性も十分ありえることでしょう?


 俺は苦笑した。なるほどジェームズはただむかつく奴というだけではなく、それなりに頭が回るようだ。いつかその頭を頼ることもあるかもしれない。だが。


 この件に関しては、まだ甘い。


───いやいや、俺がそんなことも考えていなかったと思っていましたか?


───はい。


 やっぱ悪意感じるな。


───大丈夫ですよ。ちゃんと確固たる根拠を以て言ってます。移動時間は30分前後。ここは間違いなく都内です。


───だからさっきから訊いているんですよ。根拠は?


 面倒くせえ。そもそも説明なんて丁寧にする必要があるのだろうか。まあいい、信頼関係は大事だし。現状、俺は外界からの情報を得る手段は彼しかないのだ。


───汗です。


───は?


 何故だか軽蔑を感じる相槌だった。「こいつ何言ってんの?」的な。


───何言ってるんですか?


 思われていた。


───えっと、不感蒸泄って聞いたことありますか?


───ありません。


───詳しい説明は省きますよ。無事に家に帰れたら調べてください。簡単に言うと滅茶苦茶小さい汗です。


 厳密言うと小さすぎて普通は霧散してしまうけれど。


───俺の腕は現在ガムテープでグルグル巻きにされています。そんな密閉空間なので、水滴になりやすいんですよ。


 感触的に俺の肌にこびりついている汗、すなわち俺が拘束されてからの不感蒸泄は1,5~2.0ほど。まあ1,75mlだとしておこう。


 不感蒸泄を求める公式は確か…


 15×体重+200×(体温-36,8)だった。


 家庭科の教科書のコラムでみた記憶を頼りに思い起こす。


 成人男性の前腕の重さが4,2kgだっただろうか。俺は平熱なので36,8℃。


 上記の公式は1日の不感蒸泄量なので、時間をXと置くと


 15×4,2+200×体温×X/24=1,75


 即ち、X=40分である。


 拘束されてからの時間が40分。すなわち70-40=30。よって移動時間は30分。


───だから、ここは都内です。




 














前日


 その日は祖父の葬儀だった。


 僧侶の読経。打ち鳴らされる木魚の音。


 遺影の祖父は笑っていた。あまりにも蔭のない笑顔。死に際の祖父の憔悴ぶりを知っている我々家族としては、あまりにそれは見ているのが辛すぎる。どこまでも痛々しい、祖父の死に顔。大往生とは程遠い祖父。そんな彼を象徴しているとさえ思えてしまう。


 両親は泣いていた。だから俺はせめて、顔を背けず遺影を見つめる。


 序盤の読経が終盤に近い。そろそろ弔辞が始まる。


 弔辞を行うのは生前の祖父の会社の同僚だった人で、坂下紀夫という60ほどの男性だった。祖父には仕事で随分と世話になったらしい。


「康文さんには何度も仕事で助けてもらったばかりか、社会人としてのイロハをいちから教えていただき、感謝してもしきれません」


 上手いスピーチだ。この人に弔辞を依頼して正解だった。


「私に頼みに来た孫のシュウさんによると、康文さんの最期は決して安穏と呼べるものではなかったそうですが、それでも私にとってはいつまでもあの頃の康文さんです」


 俺、桜田朱雨は軽く唇を噛む。辛い闘病生活の末の最期。人生の価値はその死に様で決まるなんて思わないけれど、少なくとも最期に限って言えば祖父のそれは幸福とは程遠いものだった。


 ふと、視線を横に向ける。


 親族が座る席。けれどそこに彼らがいるのは、はっきり言って驚きだった。


 親戚。

 俺の父親の弟の家族。


 高校二年生の俺の従弟と、医療従事者の彼の母。


 けれどそこには二人しかいない。本当に来るべき人は来ないまま。


「アキ」


 俺は従弟に向けて小声で囁いた。


「大丈夫か」


 憔悴。それは祖父だけでもなく、アキの家族にも言えることだ。祖父の死がどれだけこの家族に精神的重圧を強いたのか。考えるだけで胸が痛む。


「もう慣れたよ」


 アキは弱弱しい口調でそう言った。


「お前は悪くないんだぞ。誰も悪くないんだ」


 諭すようにそんな欺瞞を口にする。それが嘘だってアキ自身が一番わかっているはずなのに。


「ありがとうシュウ兄。でも俺は大丈夫だよ」


 シュウ兄。幼いころの甘えた呼び方。小さなころから弟のように接してきたアキの明らかに大丈夫じゃない口調。そんなこいつに大丈夫だと言わせてしまったことの、行き場のない自己嫌悪に襲われる。


「心配なのは俺よりハルだよ。あいつ、葬式にも来られないって…」


 アキは彼の妹の名を口にした。


「お前も大変だな、16歳でこんなことが起こるなんて」


 本当に大変だと思う。高校入学からあまり日を跨がずにこの訃報だ。


「だから俺は大丈夫なんだって」


 気丈なそんな声だが、やはり疲れが垣間見える。


「本当なら父さんも来るべきなんだけどね…」


「まあ…気にすんな」


 分かっている。あらゆる台詞の中で最悪のチョイスだ。考えられる限り最悪な言葉選びだ。


 どうしようもなく救いようもなく。むしろ呪いというほうが正しいような。


 そんな言葉を囁きながら。


 俺は誤魔化すように前を向く。


 






 現在


 沈黙。


 顔も名前も知らない彼。俺と同じ境遇に身を置く、仲間とも呼べる相手。


 そんな彼、ジェームズは俺の推理を聞いて黙り込んでしまった。


 またか。割といるのだ。俺の「性質」を聞くと気味悪がる者が。何度も繰り返すうちに慣れてしまったが、やはり気分のいいものではない。


───あの……


 取り繕ったほうがいいだろうか。


 俺は今更気にならないけれど、やはりたった一人の同族に気味悪がられるのは困る。


 何者かわからない輩に拉致監禁されている今の状況からすると、やはり同志との信頼関係が崩れるのは困る。


───いや、たまたま覚えていただけで、本当に大したことじゃないんですよ。だから…


 だから。


 俺は特別でも特殊でもない。貴方と同じ只の人。


 そんな言い訳を口にする。取り繕う。


 けれど彼の返した反応は彼の寄越した返信は、俺の予想を軽く超えた。


───素晴らしいじゃないですか。


───は?


 今、何て?


───素晴らしいと言ったんです。


───気持ち悪くないんですか?


 今までに何度も言われてきた言葉。


 ある程度は割り切っている。


 けれどそれは暴力的に、心って奴を抉り取る。


───全く。


 欺瞞かも知れないけれど。


 それでも俺は。


 彼に。ジェームズのその言葉に。


 救われたのかもしれなかった。


 全てを等価値だと言ってしまえるこの俺を。


 素晴らしいと、そういった。


 喩えそれが欺瞞でも。


 彼の言葉で。


 俺は人生で初めて救われたような、気がした。


 俺は指を打ち付ける。


 決めた。


 ジェームズを信用して、一か八かの賭けにでる事を。


 この顔も知らない同志を、信頼してみることを。


───辺りの明るさは分かりますか?


───はい。


───日の入りになったら教えて下さい。


───了解。他には?


───そうですね。チャイムが鳴るまで、待って下さい。








 先日


 葬儀にはつきものである故人への最後の挨拶。


 霊魂どころか神も仏も信じていなかった俺の祖父ではあるけれど、それでもやはり別れを告げる事に意味はあるのだろう。死者が別れで楽になろうとなるまいと、それは生者にとっての意味がある。


 死者には言葉なんて届かなくて。俺たちが何を言おうと届かなくて。


 それでも、俺たちは別れを告げる。


 きっとそれは死者へ向けたものではなくて。


 自分の為の別れの言葉なのだろう。


 「過去」となった「記憶」へと告げる────別れの言葉なのだろう。


 俺はそんな事を思いながら、祖父へ別れを告げる者たちを眺めていた。


 死者への別れ。


 たったそれだけのことなのに、別れを告げる人たちは哀しくなるほど統一性に同一性に欠けていた。


 哀悼。感謝。追憶。哀愁に郷愁。そして、隠そうともしない好奇心。


「この祖父さん、寝てる間に殺されたから死んだことに気づいてないんだって。出るかもよ」


 つい、苛立ってしまう。祖父へ抱く感情は多様だろう。喜怒哀楽も愛憎も、抱くだけなら好きにしろ。それでも。


 取り繕う努力くらいはしてくれよ。


 静かに立ち上がる。隣に座る弟、蒼大が怪訝な顔で見てきたので「トイレ」とだけ告げて部屋を出る。


 意外なことに綺麗な廊下。日本家屋に特有の曲がりくねった複雑な経路。


「桜田朱雨さんですか?」


 涼やかな声が俺の背後から聞こえる。


 振り返るとそこには喪服をまとった女性が立っていた。10代後半から20代前半くらいだろうか。墨を流したような黒髪。黒縁眼鏡。そして───どこまでも黒い瞳。


「………貴女は?」


「北結橋夕月と申します」


 彼女は軽く頭を下げる。それはどこまでも自然な礼。けれど一分の隙もない辞儀。


「北結橋……珍しい名字ですね」  


「よく言われます」


 柔らかい微笑みを返される。


「ところで、俺に何か?」


 本題を切り出す。俺はトイレに行くと言って席を外してきた。だからあまり長い間留守にする訳にはいかない。実際は客人たちに嫌気が差しただけだとしても。


「お話を伺いたくて」


 お話。


 ああ───この人もそうなのか。この人も彼らと同じなのか。


 それならば、俺は断固として宣言するしかなくなってしまう。


「お断りします」


 北結橋さんに背を向ける。明確に示した拒絶の意思。それが目的ならば、彼女と話すことは何もない。


「どうしてですか」


「……」


 俺は答えない。


 ただ黙って足を踏み出す。彼女の問いを拒否するために。彼女を拒絶するために。


「なぜ質問に答えてくれないんですか?」


「……」


 答える意味はない。意義も目的も在りはしない。


「何か言ってくださいよ」


「俺達に関わらないで下さい」


「私はジャーナリストです」


「だから?」


 それは俺が答えを拒む理由にはなっても、答える理由にはなり得ない。


「何を言おう何を言われようと、俺は貴女と話す気はありませんよ」


「私はジャーナリストです」


 北結橋さんはもう一度言った。


「世間に真実を知らせる権利があります」


 世間───いや、世界に。


 北結橋夕月はそう言った。


 けれど、どうしようもなく救いようもなく────その言葉は俺に届かない。


 真実。


 俺は、その言葉が持つ狂気を知っている。


「だから何ですか?」


 微かな苛立ちが込み上げる。北結橋さんのしつこい追及に。だから、俺は怒気を見せつけるように、あえて乱暴な言葉で言い放つ。


「人のプライベートに土足で踏み込むな」


「なんと言われようと、我々には真実を知る権利があります」


 対峙する。真っ向から、向かい合う。


「真実の為なら遺族の心を踏み躙っていいとでも?」


 遺族。


 不用意に発したその言葉で、祖父がもうこの世にはいないことを改めて思い知る。


「でも、真実を知ることで救われる人もいるはずです」


「確かにそうかも知れませんね。けれど、それは俺じゃない」


 解っている。身勝手な論理だ。自分の気分が悪いというだけで、彼女の掲げるイズムまで否定しようとしているのだから。所詮社会を知らない餓鬼の戯言。自分しか見えない男の妄言。


 どこまでも青臭く、痛々しい、個人的なエゴイズム。


 俺は言う。


 北結橋さんの目を見据えて、一言ずつ言葉を紡ぐ。


「そしてそれは───俺の家族でもなければ親族でもなく祖父でもなければ母でもなく父でもなく従兄弟でも従兄妹でもなく祖父の友人でも知人でもなく敵でも仇でもなく恋人でも愛人でもなく同志でも同胞でもなく幼馴染みでも顔馴染みでもなく部下でも上司でもなく神でも仏でもなく霊でも魂でもなく────」


 言葉を切る。


 俺が言おうとしているこれは、きっと残酷なことなのだろう。俺が叩きつけようとしていることは、きっと冷徹なことなのだろう。


「───人の不幸を見て嘲笑う、そんな大衆の為でしょう?」


 怒りとまでは言わないまでも。


 けれど明確に明白な意思をもって、真実を求めるジャーナリズムを否定した。


 権利と正論を振りかざす、高慢で傲岸なジャーナリストを否定した。


「…済みません。言い過ぎました」


 俺は頭を下げる。善悪正誤関係ない。否定したなら頭を下げる。社会を廻す不変のルール。


 分かってる。


 俺は大義も正義も関係なく、自分勝手に問うただけ。


 解ってる。


 彼女たちがここまでしつこく質問を投げかける理由。詰問調にすらなる理由。


 けれどそれは、正対するにはあまりに酷な───「真実」だった。








現在


────ジャーナリズムは欺瞞なんですかね。


────は?


 唐突な、あまりに唐突なジェームズのそんな問い。


 そしてそれは、どこかで聞いたことのあるものだった。


────ただの愚痴ですよ。


 ジェームズはそう言った。


────ある人に言われたんです。真実はある意味で凶器だって。


 真実。


 曖昧な言葉だ。


 ある人々にとっては決定的に真実は残酷な凶器となる。その曖昧さは、狂気となる。


────真実ね…好きな人が多いですよね。


────はあ……まあ嫌いな人は少ないと思いますけど。でもそれが残酷さを帯びるって言うのが納得いかなくて。


────例えば兄弟姉妹の名前が対比させられるという風潮があったとします。


 勿論例え話だ。ちなみに俺らの名前も対比させられている。我々の名前は対比というより対極だが。


────多いですよね。兄弟や姉妹の名前を対比させるの。


────さて、兄や姉と全く関連性のない名前をつけられた弟や妹がこれを知ったらどう思うでしょうか?


────この話は何の関係があるんですか?


────いいから聞いて下さい。もしかすると彼らはこう思うかも知れません。自分は生まれてくる予定ではなかったのだ、と。


────考えすぎじゃないですか?


────ですが、そう信じてしまった彼らにとってはそれが明確に間違いなく「真実」なんですよ。


────すみません、余計わからなくなってしまいました。


 まあ確かに解りにくい例えだ。理解してもらえないのも仕方ないか。


────真実ってのは結局わかりようがないってことですよ。明確な5W1H。そんなものは本人にすら分からないでしょう。ましてやそれを完全に把握するなんて不可能だ。それを完全に網羅するなんて不可能だ。


──────何が言いたいんですか?


──────ジャーナリズムの是非なんて俺は知りません。けれど、皆が平然と口にする「真実」なんて結局はご都合主義の産物だってことですよ。


 真実は分からない。真相は分からない。誰も、分かろうとしないように。


──────誰かにとっての「真実」は誰かにとっては紛い物で、誰かにとっては武器に成り得る。


 言葉は凶器で。


 正論を帯びた言葉は武器で。


 真実を纏った言葉は兵器だ。


 俺はそれを身にしみるほど、知っている。


────でもそんな事、誰に言われたんですか?


 ジャーナリズムの否定。真実の否定。そんな事を簡単に言える者など、そこら辺に転がっているはずがない。


────ただの失礼な学生ですよ。


 学生と敢えて言うということは、ジェームズは社会人なのだろうか。


────世の中には失礼な学生がいますよね


────そうなんですよ、何だか江戸城の血なまぐさい門みたいな名字の人で。


 その言葉で。


 それ台詞で。


 時が止まったかのような錯覚を、受けた。












 前日


 北結橋さんに別れを告げてから、俺はトイレにも寄らずに葬式場への廊下を歩いていた。すると廊下の曲がり角からアキが顔を覗かせた。


「やっと見つけたシュウ兄。蒼大が探してたよ」


 アキは俺の弟の名前を出した。それにしても朱と蒼とは、両極端な名前をつけたものだ。


「蒼大が?どうして?」


「なんか坂下さんがシュウ兄に挨拶したいらしくて」


「分かった。坂下さんはどこにいるんだ?」


「広間じゃないかな」


「了解」


「わざわざ北区から来たのに大変だね」


 俺は少しだけ足を早めた。


 またあの難解なルートを曲がりくねり、俺は坂下さんのもとに向う。


「やあ、シュウくんじゃないか。若いのにご苦労だったね」


 坂下さんは鷹揚な態度で俺を迎えた。


「本日は、祖父の弔辞をお受け頂き有難うございます」


「さっきも言ったが、君のお祖父さんには随分世話になったからね。このくらい当然だよ」


 好感が持てる話し方だ。相手を過度に恐縮させないような。調子に乗って次から次へと頼み事をしてしまいそうだ。


「さっき君の従弟に会ったよ。信じられないくらい良い少年だよね。まだ若い身で家族を亡くすのは辛いだろうに」


 アキの事だろうか。形容の仕方に感謝する。確かに、アキたちの家族の事を考えると胸が締め付けられる。


「お祖父さんの最期は痛ましいものだったそうだね。人生というものは案外、報われないものだ」


「ええ……」


 祖父の晩年はお世辞にも幸福なものではなかった。祖父の介護を押し付けてしまった事への罪悪感は感じている。そしてあの最期。因果応報と言うならば、祖父はもう少し報われてよかったのかも知れない。


「痛ましいよ。実にね」


 全くだ。せめて、自然死ならばいくらかマシだったのだろう。










 現在


 ジェームズ=北結橋夕月?


 まさか。けれど、その会話を知っているのは北結橋さんくらいしか考えられない。


 あの場の全員に取材していた彼女。


 ならば俺の正体は明かさないほうが良いだろう。割といい関係を築いているのだ。それをふいにするのは合理的ではない。話を逸らすか。


───そういえば、なぜ犯人は俺たちを誘拐したんでしょうね。


───今更ですか?


 的確な突っ込みだ。確かに真っ先に疑問を抱くべき問題だ。


───考えてみましょうよ。何かの役に立つかも知れない。


───身代金目的では?


───だとすれば二人も誘拐する必要あります?


 人質は足手まといだ。できるなら少人数で抑えたいだろう。


───何か俺達が秘密でも握ってるんですかね?


───え?


 怪訝そうな顔が目に浮かぶ。


───いや、何か口封じとかかなって。


───心当たりがあるんですか?


 いや、それはジェームズの方かもしれないだろう。


───まあ、無くは無いですがね。


 言いたくはない。特に、相手が北結橋さんの場合は。


 なぜならそれは、どうしようもなく救いようもなく洒落にもならないほど───冷厳な現実なのだから。


 俺の祖父は─────殺されたのだ。


 だから。


 俺を誘拐した犯人。


 つまりそれは、俺の持つ秘密を知っている人物。


 即ちそれは─────


 あの葬式の参列者。










 先日


 棺が運ばれる。


 祖父が収められた棺を見送る。


 祖父が骨まで灼けるまで。


 どんな幸福な者も、どんな不幸な者も、平等に炎に焼かれて灰になる。


 死だけは、誰に対しても平等なのだ。


「なあアキ」


「うん?」


「お前の名前って難しいよな」


「まあ珍しいとは思うけど」


 今言うこと?


 そんな口調だ。


 それで良い。こんなくだらない会話が、今の俺たちには必要だ。


「命名者はお父さんだったよな」


「確かね。───父さんの葬式は小ぢんまりとした物だったよ」


「平川家だけでやったのか」


 平川。アキの名字。偶然なのか狙ったのか、桜田と平川には奇妙な共通点がある。


「お前らの名前も対比してるよな」


「まあね。若干無理矢理だけど」


「お前のは明らかに常用漢字じゃないしな」


「お陰で親戚は誰も本名で呼んでくれないんだよ。つくりからとってアキとしか」


「それは漢字の難しさとは関係ないだろ」


 ちなみにアキが本名で呼ばれないのでハルも本名で呼ばれなくなった。


「まあお前らは音訓すら違うしな、アキとハルは」


「いい加減なんだよ。そういう所あるから、うちの父」


「祖父ちゃんの最期はどんな感じだった?」


 それが残酷な質問であるとは分かっている。けれど、これは必要な問いなのだと思う。祖父の晩年から目を逸らしてきた者としての。


「末期癌だったらしい。尤も、俺も正確なことは分からないけれど、治る見込みはなかったって」


 殺されなかったとしても、いずれ時を待たずに逝っていたということだろうか。ならやはりあの殺人には、意味はない。


 祖父が死んだときのことを思い出す。


 静謐なはずの寝室。


 純白のシーツを染め上げてしまうかのように広がっていく鮮血。


 刺さった一本のナイフ。


 俺の親は呆然としていた。


 アキの父は居なかった。


 思えば、最も涙を零していたのは、血の繋がりのないアキの母だったかも知れない。


 祖父は────そんな人間だったという事だろうか。










 現在


───今です。


 ジェームズが合図を打つ。その合図が意味するのは、日の入りである。


───了解。


 そしてその数分後のことだった。


 鐘が────チャイムが、鳴ったのは。


 夕刻を知らせるチャイムが────鳴り響いたのは。


 勝った。賭けには勝った。


 俺の脳裏を膨大な量の数式が掠める。


 先程のニュースの時間から心臓がおよそ3843回脈打っている。


 いつか測ったとき、俺の鼓動の速さが確か一分70回なので現在時刻は6時ジャスト。


 今日は3月21日。


 昔チャイムの鳴る時刻の一覧を見たことがあるから覚えていたけれど、東京23区のうち3月に6時のチャイムが鳴るのは北区だけである。


 そうなってしまえば6時からの逆算でジェームズが知らせてくれた日の入りの時刻を導き出せる。日の入りからチャイムが鳴るまで455回鼓動したので日の入りの時刻は17時54分31秒。


 いつか何処かで北区の緯度経度を調べた機会があったのだが、その時の記憶によると経度が139.707831度で緯度が35.774614。そこから公式に当てはめて逆算すると、現在の高度は標高60メートルの地点だと導き出せる。


 指を激しく打ち付ける。


───現在地がわかりました。


───本当ですか?


───はい。現在地は北区の60メートル以上の建物で……


 何かが俺の頭を掠めた。


 それは例えるなら閃光が走ったが如く。


 些細な、けれど深刻な違和感が。


 その正体を突き止めるように。


 俺は記憶の断片をかき集める。


 俺が持つ無数の記憶を全て洗い直す。




 誘拐…モールス信号…ジェームズ…葬式……弔辞…………真実………東京都………従兄弟…北結橋夕月…不感蒸泄……ジャーナリズム…拘束……ガムテープ……窓……理不尽…可哀想……若い身で……祖父………刺さったナイフ………赤く染まる……殺人…SOS……23区………チャイム……平川…桜田…坂下…蒼大……ハル…五時のニュース…超記憶症候群……




───あなたは誰ですか……?ジェームズさん…。あなたは北結橋夕月……なんかじゃない!


 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ…


 だってそんな事────あり得ない。


───貴方はの正体は…


 そんなはずがないんだ。ジェームズが。俺を誘拐したのが。


───なんで俺を誘拐したの?シュウ兄……


 俺───平川楸は、そう言った。


 バサッ


 アイマスクが取られる。


 猿轡も外される。


 目に入ったのは痩身の男。


 つい先日に並んだ男。


「流石だな、アキ」


 シュウ兄───桜田朱雨はそう言った。






 平川楸。16歳。楸と書いてシュウ。妙な名前だ。


 十中八九、初見では読んでもらえない。


 そして俺の名前を考案した父はもう一つ決定的なミスを犯した。


 なんと兄の息子が同じ読みの朱雨という名前だったのだ。


 だから俺は、楸から木偏をとってアキと呼ばれるようになった。


 その被害を受けたのは妹だ。俺より早く誕生日が来るので小癪なことに俺と同じ年である妹は、俺の呼び方の影響からハルと呼ばれるようになった。


 兄弟姉妹の名前は対比させられることが多い。


 秋と春。夏と冬を挟んで対極に位置する2つ。


 そう。俺の妹、平川椿。16歳。


 数日前に起こった、息子が親を殺した事件。


 ジェームズが俺に知らせた、凄惨な殺人事件。


 その遺族だ。


 息子が親を殺害。


 親は老境に達していた。


 息子は中年に達していた。


 即ち、俺ら兄妹の祖父と父である。


 婿養子に入った父は名字を変えた。桜田から平川に。


 平川家。平川。江戸城平川門。城内での死人や罪人を運びだす、不浄門。─────罪人みたいな苗字、いや最早罪人の苗字か。尤も、俺があの時名乗ろうが名乗るまいが、ジェームズは俺の苗字を知っていたのだが。


 父が祖父を殺して自殺した日。平川家は────マスコミに取り囲まれた。










「『なぜ』ね。後で答えてやるよ」


 飄々と悪びれるでもなく、シュウ兄は俺の目の前に座った。


「それにしてもよく俺だと分かったな。まずは結論までのプロセスを教えてもらおうか」


 楽しんでいる。人を拉致監禁しておいて。


「北区って、シュウ兄の家は北区だからね」


─────分かった。わざわざ北区から来たのに大変だね。


─────言ってませんでしたっけ?俺、東京都民なんですよ。台東区の。


 俺は台東区民でシュウ兄は北区民。


 台東区から北区までは、おおよそ車で30分だ。


「まさか計算で導き出されるとは思ってなかったよ。でもどうしてジェームズが俺だと?俺は全力で北結橋さんの振りをしてたのに」


「あの『真実』云々の話はあそこで話していた人しか知らない」


 まあ、俺の様に伝言を装って立ち聞きしていた奴を除けばだが。


「ということはジェームズの正体は北結橋さんかシュウ兄に限定される」


「それで?」


「最初は北結橋さんも拉致られているのかと思った。だけどこれは明らかに妙なんだ」


「妙?」


「北結橋さんは───皆に取材してるからな。あの場に居た関係者全員の殆どが江戸城門に関連した名前であることを知っている」


 平川。北結橋。坂下。

 そして、桜田。


「だからシュウ兄のことを表すのにあんな喩えをするはずがないんだ」


───そうなんですよ、何だか江戸城の血なまぐさい門みたいな名字の人で。


「それでは何の喩えにもなっていないから」


「俺も知っているぞ?関係者全員の名前なら」


「うん。でも北結橋さんが関係者全員に取材してたってことは知らないよね」


 ややこしい。北結橋さんはジェームズは桜田姓を表現するのに江戸城の喩えを使わない。関係者全員が江戸城の、しかも血生臭い苗字であると知っているから。


 けれど、シュウ兄は知らない。北結橋さんが関係者の名前を知っていることを、シュウ兄は知らないのだ。


 しかしジェームズはあたかも他の関係者を知らないような振りをした。まるで江戸城門の苗字を冠する者が桜田だけであるような。


 そしてその上で、ジェームズは北結橋夕月を演じた。真実に関する非難を受けたと。ジャーナリズムを学生に否定されたと。


「それに気づいてしまえば違和感が確信に変わったよ。ジェームズはその正体を隠したい人物。即ち犯人だとね。そして、立ち聞きした俺と北結橋さん以外にあの会話を知っている人物。うまく演じようとして墓穴を掘ったね」


「…………ㇵっ」


 シュウ兄は、誘拐犯は、ジェームズは、僅かな微かな─────笑いを漏らした。


「お前が盗み聞きをしたのは気づいていたからこその演技だったんだが。余計なことをして失敗するとは。笑えねえ」


 全くその通りだ。俺の血縁者から犯罪者が出るのは、これで二人目なのだから。


 嫌になる。けれど俺の頭を支配していたのは嫌悪でも危機感でもなく───怒りだった。


「こんなことしてどうなるか分かってんのか」


「お前に言われるまでもない。覚悟の上だ」


「家族が犯罪者になったらどうなるか分かってんのかよ」




 あの日。


 晒される我が家。炎上するSNS。鳴り響くシャッター音。


 神経をすり減らし続ける時間の中、少しずつ妹は摩耗し、そして壊れた。


 平川椿。16歳。


 顔の見えない誰かの好奇。正体不明な誰かの悪意。得体のしれない誰かの善意。


 それらを一身に受け止めて、椿の心は破綻した。


 あの時の椿がフラッシュバックする。


 暗い部屋。蹲る体躯。魂の抜けたような顔。更新され続けるスマホの画面。感情を感じさせずに動く瞳。微かな声を漏らす唇。


「殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼殺人鬼…」


 そして、椿は部屋に鍵をかけた。


 誰かがそんな彼女を可哀想と言った。誰かがそんな彼女を可愛いと言った。可愛そうで可哀そうな───弱った女の子。


 父への誹謗中傷は増した。同時に、平然としているように見えた俺にも。


「君には、人の心とかないのかな?」


 そう言われて固まった俺が、今日もニュースで流される。


 被害者遺族の平川椿。


 加害者遺族の平川楸。


 そんな構図が決定づけられる。そのことが─────椿の精神を沈め続ける。


 今もまだ。


 椿は部屋の鍵を開けていない。




「『真実』は他の何より致命傷になりうる。なぜなら『真実』とは、大衆という小さな加害者の為のものだから」


「なら何故こんな事をした?あんたの言う大衆が武器を持った殺人鬼だって、俺達をみて知ってるはずだろ」


 武器。正義、正論そして。


 「真実」


 他人を殺し得る凶器となるもの。


「知っているよ」


「ならどうして…」


「俺が北結橋夕月の振りをした理由は思いつかないようだな」


「…⁉」


 唐突に、シュウ兄が言うそんな言葉。思わず眉が寄ってしまう。


「お前から聞き出そうとしたんだよ。危機的状況なら口を滑らしてくれると思ってな」


 道理で。おかしいと思っていたんだ。他の誘拐被害者とモールス信号ででも会話できる距離にいることが。それを犯人が放置していることが。


「残念だったね」


「ああ。だから正体がばれた時点で顔を晒したんだよ」


「なんだか知らないけど、勘違いだと思うよ。俺がそんな大層な秘密を握っているとは思えない」


「本当は感づいているだろ?俺が拉致監禁してまで知りたがること」


 俺は笑って見せる。引き攣った、強がりのような笑みだけれど。


「遺産なら期待しないほうがいいよ。祖父ちゃんの介護で殆ど消えた」


「知ってるよ」


 俺は先を促す。


「俺が聞きたいのは祖父ちゃんの死についてだ」


「というと?」


「ここまで聞けば大体わかるだろ?

 お前の父さんは本当に殺人鬼だったのか?」


 殺人鬼。殺人者ではなく、殺人鬼。


 多くのメディアで父はそう語られる。心に病を抱えた殺人鬼。理由なく父親を殺害した、人でなくなった殺人鬼。


「…そうだよ」


 俺は答えた。笑いながら。怒りは引いていく。残ったのは引き攣るような苦笑だけ。


「父さんは理由なく祖父ちゃんを殺した、人でなしの快楽殺人鬼だよ」


 笑って嗤って哂って嘲笑う。


「そんなことが知りたくて俺を拉致ったの?スマホ開けば書いてあるよ。くそったれの殺人鬼ってね」


 一人殺せば犯罪者。百万人殺せば英雄。全員殺せば神。そんなことを言うけれど、祖父を殺して自殺した父は、誤魔化しようもなく犯罪者だ。


「犯罪ってさ、本っ当に迷惑なんだよね」


 悪くすると父さんの殺しの責任が蒼大たちに行くよ。


 俺は言った。半分くらいの本心を込めて。


「救いようもなく、センセーショナルだから」


 好奇が悪意が善意が、否応なく集められてしまう。


「それでも俺が知りたいと言ったらどうする?」


「……」


「なあアキ、祖父ちゃんは頼んだんじゃないのか。自分を殺してもらうように」


「馬鹿な」


 俺は言下に否定した。否定せざるを得なかった。


「お前、言ってたよな。祖父ちゃんは末期癌に蝕まれてたって。そして、寝てる間に殺されたらしいな」


───この祖父さん、寝てる間に殺されたから死んだことに気づいてないんだって。


「お前の父さんはわざわざ祖父ちゃんが寝てる間に殺した」


「それが?睡眠薬が盛られていたらしいし」


「それは初耳だ。けど、殺人鬼ならそんなことはしない。しかも、ばれないように殺ろうとしたわけじゃないんだろ?」


 押し黙る。父の自殺は死体発見後、直ぐだった。


「祖父ちゃんは余命宣告済みの老人だ。抵抗なんてできはしない。大声を出す心配もない。口を塞げばいいからな。かっとなって殺した?寝てるんだから、かっとなる要素がない。殺人鬼なら、起きたまま殺そうとするんじゃないか?」


 殺人が目的の殺人鬼なら、殺す瞬間の苦しみが見たいんじゃないのか。


 シュウ兄はそう言った。


「わかるだろアキ、眠らせる利点が何もないんだ。もしお前の父さんが殺人鬼なのだとしたら。だって、眠らせてから殺すなんてまるで…」


「…やめろ」


 俺は言った。懇願するように。


「やめてくれ」


 それ以上は。俺たちが犠牲のうえで守ってきたことを無に帰すようなことは。


 けれどどこまでも、冷酷に冷徹に冷厳に、シュウ兄は事実を突きつける。


「苦しませないように殺したみたいじゃないか」


「やめろよ!わかってんだろ⁉俺たちが隠した理由を!」


「ああ」


 シュウ兄は頷いた。「お前の母さんが、医療従事者だからだろ」


「……」


 安楽死殺人。つまり「楽にしてやりたいから殺した」。


 父の犯した罪は、そんな動機に終始する。法律的には同意殺人とも承諾殺人とも嘱託殺人とも言われる罪。


 高慢で傲岸で救いようもなく傲慢な殺人。安楽死を国が許可しようと認可しようと、私的にそれを断行した父の罪は言い逃れ出来るものではないだろう。


「だが同意殺人の場合、そこまで罪は重くない」


「あくまで法的には、な」


 弱々しくなった声で、俺は言う。


「殺人鬼はただの人殺しだ。殺しの為の殺し?そんなのはな、世の中見渡せばいくらでも転がっている」


 一年で何度も起きる快楽殺人。一年で何人も捕まる殺人鬼。父が殺人鬼ならば所詮はその中の一人で終わる。


 直ぐに、忘れられる。


「だけどもし、父さんが別の理由で祖父ちゃんを手に掛けたなら?苦しむ父親を見てられなかった。優しさが理由の哀しき殺人───そんなドラマ性を帯びてしまったら?」


 安楽死の是非を問う議論が活性化する近年。そのニュース性は快楽殺人の比ではない。


「殺人鬼の家族というだけで俺たちはここまで消耗した。誰かの好奇で。誰かの悪意で」


 ────誰かの、善意で。


「分かるだろシュウ兄?不特定多数の感情を向けられることの意味を」


 きっと誰かは父の殺人を「正義」と呼ぶだろう。嫌悪とも厭悪とも付かない感情が伴う、そんな言葉で飾るだろう。


「そんな中で母さんの医療従事者という肩書がどう作用するのか。想像がつくだろ」


 誰かの目にはこう映る。人の死と常に向き合う強き弱き女性が選んで下した「大義」だと。


「笑ってしまうよね。まさか殺人鬼の家族が、正しいと思われることを恐れるなんて」


 人の言葉は凶器となり得る。例えそれが賛美でも。


「そうなった時、俺の家族がどうなるか」


「…」


「最悪、一家心中かもね」


 俺は自嘲的に自虐的にそう言った。


 俺たちはこの先の人生で、どこでも歪んだ正義を押し付けられる。法律より正しいと歪められた「正義」を。


「知らねえんだよ、安楽死の是非なんざ」


 毒づくように吐き捨てる。


 俺は、俺たちは、そんな議論と関わり合いになりたくなかった。


 生命倫理を巡る答えなき問い。その象徴に祭り上げられたくなかった。


「それに比べれば───殺人鬼の方がマシだったか?」


「ああ。父さんにとっては、死んだほうが」


 マシだった。


 家族を守るために自ら死を選んだとも、言えるかも知れないけれど。


「だから、お前の母さんが一番泣いていたのか」


 祖父の死を発見した時。


 最も泣いていたのは、俺の母だった。二人の死の責任を感じての涙だったのだろう。


「シュウ兄、もしかして父さんの為に俺を誘拐したの?」


 父の汚名を、殺人鬼としての不名誉を漱ぐ為に。


「いや………」


 シュウ兄は、答えを躊躇うように目を逸らす。


「それもある。が…」


 気まずげに、言葉を濁しそうになる。


「お前達家族を被害者にしたかった」


「は?」


 意外な答えに、素頓狂な声をあげる。


「加害者遺族でもあるお前らを、ごく普通の被害者遺族にしたかった」


 年間千件以上起こる殺人。その数だけ存在する被害者遺族。


 なんの変哲もないありふれた事件の被害者に。普通の不幸に見舞われた、ただの可哀そうな家族に。


「真実ならぬ事実を知らしめて、お前らを純粋な被害者にしたかった」


「シュウ兄の家族を俺等と同じ目に合わせてまで?幾ら何でもそこまで仲のいい親戚同士じゃないでしょ」


「そうかもな。けど、見てられなかった。そういえば解るか?」


 苦しんでいるお前らを。耐え忍んでいるお前らを。


 見ていることが出来なかった。


 シュウ兄は。


 優し気に易し気に、そういった。


「父さんの死を無駄にしてまで?」


 俺の父が家族を守るために死を選んだのなら、シュウ兄のしたことは、その全てを否定することになる。家族を守ろうとした、意志さえも。


「分かってるよ。自己満足って言いたいんだろ?そんなことは十分過ぎるほどわかってるさ。俺の犯した罪なんてのは、どう弁明しようと俺のエゴに終始する。誰になんて言われようと犯行動機はただ一つ。『俺が』お前らを見てられなかったんだ」


 なあ。とシュウ兄は言葉を続ける。


「アキ、いつかお前が言ってたよな」


───俺にとって全ての事象は、どうしようもなく等価値だ。


「そんなことを言いつつも苦しみ続けているお前を見るのが、被害者であることを強要され続けるハルを見るのが、どうしようもなく辛かった」


 卑劣な犯罪者だと、罵ってくれて構わない。


 身勝手な犯罪だと、蔑んでくれて構わない。


 自己犠牲というほかない彼の行動を、自殺行為としか思えない彼の行動を、気に病むことさえ許さぬようなそんな言葉。


 憐憫も罪悪感も抱かせぬような。


 なぜこんなことを?


 その答えは彼が、どうしようもなく救いようもなく、優しかったことに尽きるだろう。


「俺の罪は俺の責任でしかなくて。俺の罪は俺のエゴでしかないんだよ」


 そう言って、シュウ兄は俺の拘束を解いてゆく。


「お前は、機転と推理でピンチを切り抜けた安楽椅子探偵にでも成りきってこの体験を自慢しておけ」


「無理だよ」


 俺は言った。


「探偵役なんて、俺には無理だ」


 俺は祖父の死を、父の死を見過ごして、そして親戚を犯罪者にしてしまった。


 俺がやったことなんて監禁場所を当てただけ。それも滑稽なことに犯人の協力付きで。


 それに何より。


 この記憶も記録も追憶も、時間と共に風化する。他の記憶と等質に同質に等価値に、時間と共に風化する。


 だから俺は探偵というにはあまりにも、欠けているものが多すぎる。


 人間というにはあまりにも、欠落した部分が多すぎる。


「あ、それとな」


 俺の身体の全ての拘束を解き終わって、シュウ兄は思い出したようにそう言った。


「北結橋さんの振りした俺がお前の記憶について言ったこと、あれは本心だぞ」


─────素晴らしい。


 俺にとっての全ての事象は、どうしようもなく等価値だ。


 まるで、そんな在り方を、肯定されたかのように思ってしまう。


 他人はそれを、才能という。


 知人はそれを、個性という。


 家族はそれを、怖いという。


 医者はそれを、欠落という。


 俺は言う。


「ありがとう────────俺を認めてくれて」










 





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欠落椅子探偵 @1945shusen

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