図書塔の庭 -beginning-
どこか懐かしい香りでクーウィンカーは目を覚ました。目の前には、小さな紫色の花をつけた野草が楽しそうにゆれている。どうやら地面にうつぶせで倒れていたらしい、ゆっくりと上半身をおこすと、風で痩せた髪がなびいた。
ぱたり、と音がした。
目をやると、そこには本が落ちていた。黒の革表紙に金の箔押しが施されている。手にとると、ずっしりとした重みを感じた。顔をあげる。あたり一面に本が散らばっていた。クーウィンカーは本を携えたまま立ち上がる。そこはちいさな庭だった。
散らばっている何冊もの本の下には、朝露が浮いた草花が茂っている。ひび割れた石造りの枯れた噴水の縁にも、ページが開いたままの本がひっかかっていた。さらに目を引いたのは、石畳が続くさきにそびえ立つ、高い高い塔だった。
塔は噴水と同じ石造だが、とても古いものに見えた。壁にはひびが入り、蔦がこれでもかというほど生い茂っている。その上部は雲に隠れていて見えなかった。やっとそのとき、クーウィンカーは自分が眼鏡をしていないことに気がついた。眼鏡をかけないと鏡に映った自分の顔も見えないくらい目が悪かったはずなのに、いまは視界がクリアだ。服も、見覚えのない白いシャツとズボンを履いていた。そういえば、体じゅうを蝕んでいた強い痛みも消えている。自分の体に何がおこっているのだろう。彼は不思議に思いながら、本を踏まないよう慎重に、石畳の先の塔を目指した。
塔の入り口には大きな両開き扉があった。真鍮のノブを持って開こうとしたが、ギッ、と音をたてて開かない。どうやら鍵がかかっているようだ。クーウィンカーは何度かドアを押してみたが、扉はかたく閉じられたまま彼を拒む。しかたないか、と踵を返した。
塔の反対側には、小さな家があった。いや、家というよりかは小屋に近い。クーウィンカーは本の合間を縫いながら小屋にむかう。小屋のドアはとても軽く、簡単に開いた。
小屋のなかには、ベッドと木材でできた机、それに丸椅子が置かれている。装飾も何もない。机の上には、手提げランプがひとつ。彼はベッドのそばに歩み寄り、シーツを撫でた。干したての、太陽の光をたっぷり含んだあたたかな手ざわりだ。ベッドの横の分厚いカーテンを開く。窓からは庭と塔がよく見えた。もちろん、庭に散らばった幾冊の本も。
しずかだ。クーウィンカーは思った。ここには鳥も虫も、人もいない。自分はどうしてしまったのか。椅子に座り、落ち着いて思い出そうとした。なぜここにいるのか、ここはどこなのか。いくら考えてみても、さっぱりわからなかった。よし、と膝を叩いて彼は立ち上がり、小屋の外に出る。庭を歩いていけば、どこかに出口があるかもしれない。クーウィンカーは庭を囲む森に足を踏み入れた。蔦の巻きついた樹や、見たこともない草花が生い茂っている。かきわけて進むと、しばらくして石壁に突き当たった。塔や噴水と同じようにひび割れている。彼の背丈よりもはるかに高く、とても登れそうにはなかった。どこか切れ間や扉はないか、彼は壁をつたって歩いていく。
いつしか太陽はクーウィンカーの真上を通りすぎていた。ずっと歩いているのに、汗が出ない。腹も減らない。彼は自分の体がこれまでのものとまったく違うものに変わったのだと痛感した。草花を踏み鳴らす音だけがクーウィンカーの鼓膜を震わせる。自分は元いた場所に戻りたいのだろうか? 自分に問いかけるが、答えを出せないまま彼は歩き続けた。
クーウィンカーが小屋に戻ってきたのは、月明かりをたよりに歩かねばならないくらいに夜が更けてからだった。椅子が軋む音だけが部屋に響く。体は疲れていなかったが、心はずっしりと重かった。石壁をつたってずっと歩いたが、どこにも出口は見つけられなかった。もう自分はここから出られないのかもしれない。いや、もしかしたらぜんぶ夢なのかもしれない。そんな思いがぐるぐると彼の頭のなかを駆け巡る。もうなにもかもが嫌になって、クーウィンカーはベッドに倒れこんだ。この体は眠れるのだろうか。自分の呼吸の音しか聞こえない中で、彼はゆっくり瞼を閉じた。
静寂の中、ぱたり、ぱたり、と音がした。誰かいるのか。クーウィンカーは驚いて飛び起き、あわててベッドの横のカーテンをひく。彼は息をのんだ。
空から本が降ってくる。ふわりふわりと、何冊もの本が。さきほど聞こえていた音は、本が庭に落ちる音だった。クーウィンカーは小屋の外に出て夜空を見上げた。月明かりに照らされた本が、次々と降ってくる。とても美しい光景だ、とクーウィンカーは思った。体が変わってしまっても涙は変わらず出るのだ。しばらく彼は夜空を見上げたまま立ち尽くしていた。
朝。クーウィンカーは柔らかなシーツにつつまれて目を覚ました。昨夜はしばらく本が降ってくるのを眺めていたが、急に睡魔に襲われてなんとか小屋に戻ったのだった。窓のむこうには、本が散らばった庭がある。彼はベッドから降りて外へ出た。
そこには昨日と同じ景色が広がっていた。白んだ陽光のなかで、朝露に濡れた本が散らばっている。昨日から落ちていた本もあるはずなのに、どの本も汚れてはいない。どうやら時間が止まっているようだった。
足元に落ちていた本を拾い上げる。茶色の表紙の分厚い本だ。表紙に書かれた文字を、彼は読めなかった。適当なページで開くが、もちろん書かれている文章も読めない。ページをめくってみると、スケッチが目に飛びこんできた。クーウィンカーはそのスケッチを食い入るように見つめる。人体の解剖図だった。彼はその絵を見たことがあった。それも何度も。ページをめくる。別のページには、血管のスケッチが描かれている。これは医学書なのだ。でも、彼はこの文字を見たことがない。
他の本も拾い上げて読んでみた。文字はどれも違うものだった。どれか、どれか読める本はないか。クーウィンカーは探し続けた。しかし、彼が読めそうな本はなかった。地面に高く積み上げられた読めない本をそのまま残して、クーウィンカーは重い足どりで小屋に戻った。
小屋の壁に、見たことのない白いエプロンがかかっていた。昨日はなかったはずなのにと思いつつ、手にとって目の前で広げてみる。それは彼にぴったりのサイズだった。まるでエプロンをつけてみろと誰かに言われているようだ。訝しがりながらも素直にエプロンをつけてみると、右腹のあたりに何か硬いものがあたる。ポケットから取り出すと、それは鍵だった。何もついていないくすんだ金色の鍵は、彼の手のひらにすっぽりとおさまった。どこの鍵だろう。クーウィンカーは鍵穴を探した。小屋の扉にはなく、机には引き出しすらない。しばらく考えて、彼は気づいた。小屋から飛び出して、石畳を駆けていく。塔の扉の前で、クーウィンカーは足を止めた。ドアノブの下に鍵穴が隠れていた。
鍵をゆっくり差しこむと、カチャン、と乾いた音がした。クーウィンカーはおそるおそる扉を開く。ぎい、と音が鳴るとともに、彼の背後から太陽の光が少しずつ塔のなかに差していく。
深紅の絨毯が敷かれている塔の中に足を踏み入れて、彼は見上げた。塔の壁面は、本棚で埋め尽くされていた。そこに並ぶ、無数の本。懐かしい香りがした。上のほうは暗くなっていて見えないが、移動式の螺旋階段が床から上にのびていた。クーウィンカーは階段の一段目に腰かけた。おそらくこの階段を登っても、塔の頂上には辿りつかないだろうとなんとなく思った。寒くないのに、寒い。クーウィンカーは螺旋階段の手すりに身を預けて、目を閉じた。
本がぱたり、と倒れる音で目を開いた。クーウィンカーは立ち上がり、倒れた本を探す。階段を二段のぼったところにある、赤い背表紙の本だった。彼はその本を手にとって驚いた。見知った字が並んでいる。あわてて表紙をめくった。読める。螺旋階段に腰かけ、クーウィンカーは貪るように読んだ。
内容は、愛について書かれた少年の物語だった。少年が成長し、家族に愛され、女性に愛され、人を愛していく物語。最後、男は病を患い、ベッドで生涯を終えた。
クーウィンカーは病院の天井を思い出す。元々生きていた世界で自分が医者として働いていたとき、患者を診て、カルテを読み、医学書を読んでばかりの毎日だった。そんなある日、突然、不治の病を患った。いよいよ病室のベッドで息絶えるときになってはじめて、患者たちが見てきた景色を彼は見ることになる。それはとても無機質で、これが孤独かと彼は嗚咽した。
クーウィンカーの頬を伝った涙が、ぽたりとページの隅に落ちる。自分とは違い、この物語の主人公は最後まで人を愛し、人に愛された。独りさみしく生涯を終えた自分はここまで、人を愛したことがあったろうか。涙をエプロンの裾で拭いながら、クーウィンカーはその本を読み終えた。在った場所に本をしまい、塔の外に出る。いつのまにか夜が更けていたようだ。彼の足元にちいさな影が落ちる。見上げた空から、次々と本が降ってきた。ぱたり、ぱたりと落ちていくしずかな音に包まれる。クーウィンカーは昼間、自分が積み上げた本にそっと触れた。読めないけれど、これらの本も誰かが誰かのために書いた本に違いはなかった。触れたところはひんやりとしていて、でも温かかった。
翌朝、クーウィンカーはベッドで目を覚ました。ベッドのシーツを整えてから、壁にかけたエプロンをつける。外に出ると、庭には本が散らばっていた。彼は腕まくりをし、一冊ずつ本を拾い上げる。鍵で塔の扉を開き、拾い集めた本の表紙についた朝露を丁寧にエプロンで拭っては棚にしまう。それを何度も、何日も繰り返した。本棚が埋まることはない。ただこの世界では、誰かの思いを大切に本棚にしまっておきたいと思った。
いつしかクーウィンカーは、その塔のことを「図書塔」と呼ぶようになっていた。
了
図書塔の庭 高村 芳 @yo4_taka6ra
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