図書塔の庭
高村 芳
図書塔の庭 -inheritance-
ヴォーゲルグリーフは本をしまう。
朝、彼は目を覚ますと、ベッドの横に据え付けられた窓のカーテンを開けるのが日課になっていた。窓の向こうに広がる庭には、そこかしこに本が散らばっている。草花が隙間から顔を出す石畳の上に、丸く刈った植木の中に、噴水の水底に。朝の光をたっぷりと受け、革の表紙が光り輝いている。何冊落ちているかは、いちども数えたことがない。ヴォーゲルグリーフはひとつおおきなあくびをしてからベッドを降りた。
顔を洗い身支度を整えると、ヴォーゲルグリーフは壁にかけたエプロンをつけ、外に出る。まだ早朝の、冷ややかで清らかな空気が体を包み込む。本が散らばる地面を眺め回してから、目の前に聳え立つ塔を見上げた。彼はその塔を「図書塔」と呼んでいた。
図書塔は円柱型の塔だった。上部はいつも雲に隠れていて、ヴォーゲルグリーフは図書塔がどれだけ高いのかとんと見当がつかない。さまざまな形の石が組み合わさってできた外壁には、いろんな種類の植物の蔦が巻きついている。今の時期には黄色い花が咲いている。
ヴォーゲルグリーフはエプロンのポケットに入っている鍵を取り出し、図書塔の正面扉の鍵穴に差し込む。ガチャン、と重々しい音が鳴り響くのが、彼は好きだった。その音を堪能してから、両開き扉をゆっくりと開いた。
床に敷かれた紅絨毯を踏みしめて中に入ると、古い紙の香りがヴォーゲルグリーフの鼻腔をくすぐる。塔の中の壁には、上から下まで隙間なく本棚が据えられている。木製の古いもので、ところどころ黒ずんだりささくれたりしているが、歪みはない。本棚にはもちろん本がしまわれている。すべての段が埋まっている棚、空白が目立つ棚、ひとつも本がしまわれていない棚などが、おそらく無作為に並んでいる。そのほかは、腕を伸ばすように据え付けられている照明と、移動式のおおきな螺旋階段があるだけだった。ヴォーゲルグリーフがここに来たときから、図書塔はこうだった。
ヴォーゲルグリーフは庭に戻り、地面に落ちている本を丁寧に拾いはじめた。十冊拾うと、図書塔のなかに戻り、一冊ずつ表紙についた朝露を布切れで拭く。そして、螺旋階段をのぼり、本棚の空いているところにしまっていく。螺旋階段ははるか上まで続いているのに、小柄な彼でも楽に動かすことができた。本をどこにしまうか、決まってはいなかった。ただ、ヴォーゲルグリーフは分厚い本も、薄い本も、古い本も、新しい本も、その本がしまってほしそうな場所に大切にしまうことにしていた。その作業を、ただただ繰り返した。
陽が落ちる時間に、作業を止めることにしていた。本はまだ庭に落ちているが、不思議とそのままでも汚れはしない。図書塔を施錠し、庭の石畳を通って家に戻る。エプロンを壁にかけ、ヴォーゲルグリーフはベッドに潜り込む。腹も減らないし、風呂に入る必要もない。ただ眠る必要はあった。彼は心地よい疲れを全身に感じながら、瞼を閉じる。本は、いつも夜のあいだに空から降ってきた。本がぱたり、ぱたりと落ちる音を聞きながら、ヴォーゲルグリーフは眠りについた。
その日の朝は、いつもとすこし様子が違った。目を覚ましてカーテンを開けると、庭に落ちていたのは本だけではなかった。ヴォーゲルグリーフは落ち着こうと自らに言い聞かせながら、あわてて顔を洗い、身支度を整え、後ろ手でエプロンの腰紐をしばって外に出た。散らばる本のなかに埋もれるように倒れていたのは、ひとりの少女であった。そばにしゃがんで、顔を隠していたブロンドの髪をそっとかきあげる。どうやら眠っているだけのようだった。ほっと胸をなでおろしたヴォーゲルグリーフは、白いエプロンドレスを着ている少女の肩を優しくゆすってやった。少女は静かに目をそっと開いた。灰色の瞳が彼をとらえた。
「大丈夫かい?」
少女はゆっくりと体を起こし、あたりを見回した。少女の視線は庭に散らばる本から図書塔に移り、最後にはヴォーゲルグリーフに戻ってきた。
「あなたは誰? ここはどこ?」
「ぼくはヴォーゲルグリーフ。ここがどこかはぼくも知らないんだ。君の名前は?」
手を握って少女を引き起こしてやる。
「わたしはスピナフィーネ。ねえ、わたしはなぜここにいるの? あの建物はなに?」
スピナフィーネと名乗った少女は疑問がつきないようだ。ヴォーゲルグリーフは優しい声色で彼女に応えてやる。
「なぜ君がここにやってきたのかはわからない。あの塔のことを、ぼくは『図書塔』と呼んでいるよ」
彼と同じ歳くらいのスピナフィーネは、不安そうな顔をして黙り込んでしまった。自分がここにやってきたときのことを思い出しながら、ヴォーゲルグリーフは彼女の手をそっと握りしめてやる。
「大丈夫だよ。なにも心配しなくていい。ただ、ぼくはこれから本をしまわなきゃいけないんだ。体や心が辛いなら、ぼくの家で休んでいるといい」
「本をしまう?」
「そう。ここに散らばっている本を、あの図書塔のなかにある本棚にね」
彼は図書塔を指さした。彼女は変わらず不安げだったが、「横で見ててもいい?」と申し出た。「もちろん」とヴォーゲルグリーフは応えた。
ヴォーゲルグリーフは図書塔の扉を開け、スピナフィーネを中へ招き入れた。家から椅子を持ってきて、図書塔の絨毯の上に置いて彼女に座らせた。そのあと彼はいつものように庭に出て、本を集め出した。
本を拾っては綺麗に拭いて棚にしまう。ヴォーゲルグリーフは淡々と繰り返した。椅子におとなしく座っていたスピナフィーネが、螺旋階段をのぼる彼に問いかける。
「あなたはなぜ、本をしまうの?」
ヴォーゲルグリーフは足を止める。
「そうしたいと思っているから」
それだけ言ってヴォーゲルグリーフは螺旋階段をのぼっていった。彼女もそれ以上聞かなかった。
スピナフィーネは、彼のその細やかな手作業をずっと見守っていた。まるで怪我が治った小鳥が飛び立つ瞬間を待っているかのように、じっと我慢づよく。ヴォーゲルグリーフも、静かに彼女に見守られながら本をしまっていた。
いつのまにかスピナフィーネも外へ出て、彼といっしょに本を拾っていた。ヴォーゲルグリーフは何も言わなかったので、彼女は本を拾い上げて中身に目を通していた。見たことのない言葉で書かれたものや、絵がたくさん載っているものもあった。六冊目の本は、スピナフィーネにも読めた。
「知らないひとの日記だわ」
ヴォーゲルグリーフは本を抱えながら振り返る。
「他にもいろいろあるよ」
スピナフィーネは、そのときはじめてヴォーゲルグリーフの笑顔を見た。
陽が落ち、ヴォーゲルグリーフはスピナフィーネを連れて家に戻った。椅子は一脚しかないので、椅子に彼女を座らせ、自分はベッドに腰掛けた。ランプの灯りがちらつくたびに、スピナフィーネの睫毛の影が頬に落ちた。
「落ち着いたかい?」
「わたし、おなかがすかないわ。喉も渇かない」
「ぼくもだよ」
夜の闇が深くなるにつれて、スピナフィーネを不安の波が襲った。ヴォーゲルグリーフはその気持ちが手にとるようにわかったから、穏やかな声色で応えながら、彼女の肩に毛布をかけてやった。
「ねえ、ここはどこなの。わたしはどうなっちゃったの。死んだはずなのに」
スピナフィーネの灰色の瞳から大粒の涙が溢れた。ヴォーゲルグリーフは彼女の前に跪き、膝の上でかたく握られているちいさな拳にそっと手を重ねる。ヴォーゲルグリーフは彼女の灰色の瞳の上で揺れる橙の光を見て、夕陽のようにとても綺麗だと思った。
「ぼくがここにきたとき、この家にいたのはアラダルショーというひとだった」
窓の外から、ぱたり、ぱたりと音が聞こえ始めた。今日もまた、本が空から降っている。
「アラダルショーはぼくらよりもかなり歳をとったおじいさんだった。白い髭をたっぷり蓄えていてね。笑うと眼鏡の奥で目尻のしわが深くなるんだ」
ヴォーゲルグリーフは目を細めて、ちいさく顎をさすった。まるでそこに髭があったかのように。
「ぼくもアラダルショーに尋ねたよ。ここはどこなんだ。なんで本が空から降ってきて、あなたはそれを本棚にしまうんだ、とね。彼はぼくの肩を優しく手で包み込んで応えてくれたよ」
いつのまにかスピナフィーネは拳を解き、彼の指をそっと掴んでいた。頬を伝った涙の跡が、ランプの灯りで照らされている。
「『それはわたしにもわからないし、わたしより前にいたひとも知らなかった。でも、わたしたちにもできることがある。それは降ってくる本を、誰かの想いを、大切に本棚にしまうことさ。誰かが愛するひとに伝えたいと想って書いた本の表紙を綺麗に拭い、折れてしまっているページを戻し、あるべき場所にそっとしまってやるんだ。わたしたちはもう元の世界にはいられないけれど、ここでひとを愛することはできるはずさ』ってね」
ヴォーゲルグリーフは袖でスピナフィーネの涙をそっと拭ってやった。彼女はもう泣いていなかった。
「翌朝、アラダルショーはいなくなっていたよ。それからぼくは、ずっと図書塔に本をしまい続けてきた。次はスピナフィーネ、君の番だ」
ヴォーゲルグリーフはスピナフィーネの額にキスをした。それから彼女の手を引いて、ベッドに寝かせ、毛布を体の上にかけてやった。スピナフィーネは毛布の端から片手を出して、もういちどヴォーゲルグリーフの手を握りしめた。もう不安はなかった。
「おやすみ、スピナフィーネ。愛しているよ」
スピナフィーネは瞼が重くなるのを感じた。本がぱたり、ぱたりと落ちる音を聞きながら、眠りに身を任せた。
朝、スピナフィーネは目を覚ました。家には静寂があった。カーテンを開けると、庭には本がいたるところに散らばっている。スピナフィーネはベッドから降り、顔を洗って身支度を整えたあと、壁にかけられたエプロンを身につけて外に出た。図書塔の庭に落ちている本を、在るべき場所にしまうために。
了
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