第5話 単純接触効果

1.

社会心理学が実際の社会に役立った例として、こんなものがある。

こちらを見つめる「目」が描かれたポスターなどを街のあちこちに設置することで、設置する前よりも、その地域での犯罪率が減少したというものだ。

無人販売所などで防犯カメラ設置の旨が記載されたポスターがよくあるが、それと同様の犯罪抑止効果が、目のモチーフにあることが確認された事例である。

いつも誰かが見ている。そんなこと一つで、治安は変わってしまうのかもしれない。

駅前には交番があり、大通りにはパトカーが走る。通りにはなじみの商店が出て、子供を見守るおじさんやおばさん。すべての社会秩序は地道な警察活動と、地域の暖かなつながりによってのみ、真に維持されるのである。


2.

開発の進んだ駅前には都会的な中層ビルが立ち並び、この前まで空きテナントだったフロアには、おしゃれな洋菓子店や雑貨屋が開いていた。

休日である今日は、新しくできた店舗を見て回るためか、家族連れやカップルでにぎわっている。

新米巡査である私、宮坂澪音(みやさか れいん)は、久しぶりの休日、しかも、誕生日を迎える貴重な一日を充実させるべく、このビルの4階にある高級フレンチ店を予約していたのだった。一人で浮くとかはないよね、うん。

警察官というのは大変な職業で、休日といえど緊急の出動要請が来ることもある。そのため、交番からそれほど離れていないここで一日を過ごすことに決めたのだった。

予約は18時からだったが、せっかくなので新しくできた店舗をいろいろ物色しつつ、自分への誕生日プレゼントなんかも買ってみようか、という腹積もりだった。幸いここらはどんどんと新しいビルが建っており、一日をつぶすのに退屈するということはないだろう。

早速、少し離れたビルに移り、2階の洋服店へと向かうと、意外な人物と遭遇した。

「レイン?」

見ると、黒い髪を長く伸ばして、前髪をぱっつんと切りそろえた背の高い女性である。髪を染め直したためか一瞬わからなかったが、それは私の友人、中山 早紀(なかやま さき)だった。いまはペット可のマンションを見つけ、東京に拠点を移してモデルとして活動をしているというが、ここに何の用だったのだろうか。

「早紀、来てたの?」

私が訪ねると、早紀は真剣な顔で品物を見ながら答える。

「そう、このバッグ、ここの限定モデルらしくて」

なるほど、東京でも売っていない商品を買いに来ていたわけである。私が納得していると、早紀はぱっとまたこっちを向いてこんなことを訪ねてくる。

「ねえ、こっちのバッグとこっちのバッグ、どっちのほうが似合うと思う?!」

正直、私はデザインの差などはさっぱりわからなかった。適当に左、と答えると、早紀は考え込んでしまう。

「でも、右のほうが普段の服とかに合わせやすいかなって思うんだよねえ」

なんだ、初めから自分の中で答えが決まってるんじゃないか。

「だったらそっちにすれば」

私が言うと、でも、と早紀は抗弁する。

「こっちのバッグは華やかな印象があってパーティなんかにも持っていけるんじゃないかって」

恋する乙女のように悩む先に、私は内心あきれる。早紀は昔からこういう買い物が好きなのだった。誰もそんなに見てないって。

「早紀は美人だからどっちも似合うよ」

私が適当にほめると、早紀はぷりぷりと怒り出す。

「そういうことが聞きたいんじゃないの!」

めんどくさい。

「じゃあどっちも買ったら?」

私が言うと、えー、と嬉しそうに早紀は考え込む。なんだ、初めからその気で誰かに背中を押してもらいたかったのか。彼氏にでもなった気分で、その店で1時間という時間を過ごすと、早紀は結局二つともを買ったようで嬉しそうに店を出てきた。

「ま、たまにはいいよね」

たまにじゃない気がするが、本人はこれが楽しくてやっているのだろう。それから、早紀が雑貨屋も見たいというので、一緒になってウィンドウショッピングに付き合った。

恋の話。食べ物の話。洋服や小物の話。学生に戻ったように、私たちは笑いあった。

早紀が後の予定があるといって帰ったのは14時ころ。予約の時間まではまだまだありそうだ。私があてもなく歩き出すと、またも知り合いと遭遇してしまった。

「宮坂、これから昼か?」

見ると、同じ交番の先輩である佐藤巡査と、隣には上司である五十嵐巡査部長がいた。

「今日はこのあと予定があって」

絡まれても厄介なので適当に断ろうとすると、甘い誘い文句が聞こえてくる。

「五十嵐さんが福引で当てたっていうから海鮮しゃぶしゃぶ食いに行くんだけど」

私は脊髄反射的に答えてしまう。

「それって、私も行って大丈夫な奴ですか?」

これからフレンチを食べるというのに、何を考えているのだ、私は。


3.

福引が当たったという海鮮しゃぶしゃぶの店は黒を基調としたこぎれいな場所だった。

オープニングスタッフらしい店員たちがうやうやしく頭を下げて出迎えてくれる。

割引券配布のキャンペーンも、新装開店で客を呼び込む目的だったらしい。私は後の予定のことなどすっかり忘れて遅いランチに舌鼓を打つ。

「うーん、カツオのしゃぶしゃぶなんて初めて食べました! さっぱりして食べやすいですね」

私はグルメレポーターさながらに感想を言うと、夢中になってそれを口に運んだ。

「こっちは真鯛か。すごいなこりゃ」

佐藤先輩も一緒になって慣れない高級料理を味わう。五十嵐部長も珍しくお酒を飲まず、嬉しそうに食事を楽しんでいた。同じ鍋をつつく、などという表現があるが、いつになく結束が深まったような気がする。いつも仕事を共にする仲間同士、今日はここに来られてよかったのかもしれない。

「そういやあお前、松本警部にいたく気に入られたそうじゃないか。ああいうギラついたおっさんには気をつけろよ?」

佐藤先輩は上機嫌になって話を振ってくる。私も思わず笑みをこぼして返す。

「松本さんは紳士ですから、能力を評価してくれたんですよ。もしかしたら、一足お先に私が出世しちゃうかもしれませんよ」

私の生意気な切り返しに五十嵐部長も参加する。

「そうなったら佐藤、宮坂におごってもらえ」

「えー、嫌ですよー!」

本当に嫌そうに佐藤巡査が言うのを見て、私たちは笑いあった。そのまま3人で談笑し、打ち解けた雰囲気で楽しい食事会は解散となった。

さて、しゃぶしゃぶというのは危険なもので、脂が落ちてさっぱりするためかつい食べ過ぎてしまうようである。店を出たころには、私は強い満腹感と眠気に襲われていた。

しかし、このあと18時からは待ちに待った高級フレンチである。こんなコンディションで挑むわけにはいかない。私は腹ごなしと運動を兼ねて、少し駅から離れた方まで足を伸ばすことにした。まだ3時間ちょっとあるから、余裕で間に合うくらいだろう。

ここ相模川駅前は、最近の開発で大きく発展した地域ではあるが、駅から離れるとやはり田舎の感がぬぐえない。大きな国道のわきには田畑がずらりと見え、先ほどまでの都会の雰囲気とはがらりと変わった様子である。よく、開発はまっさらな土地に新しく建てるほうが、すでに建物がある場所を再開発するよりうまくいく、などというが、この地域はまさにそんな感じなのだろう。

おめかしをしているので走ったりはできないが、軽く道のある場所を散歩してさっきのカロリーを消費してしまいたい。靴が汚れる、と早紀が聞いたらひっくり返るような行動だろうが、もとよりぺったんこなヒールなのでそこはあまり問題ないだろう。

私が軽く通りを流していると、道で倒れている年老いた女性を見つけた。杖がうまく効かず倒れてしまっているようである。私があわてて駆け寄り助け起こすと、彼女はふらふらした手つきで道の反対側を指さした。

見ると、おばあさんの持ち物であったのか、オレンジのような果物が大量に散らばってしまっていた。私は見過ごせなくなりそれをすべて拾い集めると、おばあさんに手渡した。

おばあさんは深くお辞儀して礼を述べた後、よろよろと立ち去ろうとする。しかし、うまく歩けないのか、またつまずいている。見ると、さっきの衝撃で杖が折れてしまっているようだった。

「おばあちゃん、大丈夫ですか? おうちが分かれば、私が家まで送っていきますよ」

私は少し大きめの声で話しかけると、女性は嬉しそうにうなずいた。

彼女から家の場所を聞くと、私はタクシーを呼ぼうとアプリを起動した。しかし、中途半端な田舎であることが災いしてか、この辺りにはタクシーが来ないようであった。

仕方なく、私はおばあさんをおぶって家まで送り届けることにする。場所はパトロールでたまに来るからわかる。ここから大体20分くらいの距離、私の足なら行けないこともないだろう。

結局、私はおばあさんを担いで永遠にも感じられる20分の往路をこなして見せたのだった。全身がくたくただが、おかげでさっきの分のカロリーは消費できたように思える。

「お嬢さん、ありがとうねえ。お茶飲んでいって」

おばあさんのそんな申し出を断るわけにもいかず、さらにその家で15分ほどお茶をして、私はその場を切り上げた。

今日は次から次へといろんなことが起きる日である。はじめはこんなつもりじゃなかったんだけど。

そんなことを思っていると、仕事用の携帯のほうに誰かから着信があった。

「また何かあるの!?」

この後の予定のことにやきもきとしながら、私は着信に応じた。

「もしもし、松本ですけど。緊急招集です。相模川警察署まで来てください」

それは以前お世話になった刑事課の松本さんだった。ただならぬ雰囲気に私はなくなく署まで向かうことになったのだった。


4.

警察署に着くとでかでかとした「交通安全週間」の文字に、横にはマスコットキャラクターであるサガミちゃんの着ぐるみが子供たち相手に手を振っている。

子供が楽しめるような様々なコーナーが用意されているらしく、どれも交通事故の危険性などを説くものとなっていた。

半ば圧倒されながら私は松本刑事の姿を探したが、席を外しているらしく見当たらなかった。緊急というからには、何か重大な事件でもあったはずである。

「相模川駅前交番の宮坂です。松本さんから招集されたんですが……」

私が近くにいた交通課の女性警官に話しかけると、ああ、と何かを察して話し出した。

「こっち、人手が足りなくて困ってたのよ。助かるわ~。あっちで着ぐるみの人と交代してくれる?」

ん? 何やら話が違うような……。言われるがまま裏へと回ると、あれよあれよと着ぐるみを着せられ、風船を手に持たされてしまった。

「しゃべらなくていいから、子供が来たら適当に手振って風船渡して」

疲れ果てた顔の前任者からそれだけ言われると、私は子供たちの眼前へと放り出された。

とたん、わっと足元に襲い掛かる子供たちの群れ。何をするかと思えばポコポコとパンチやキックを仕掛けてくるではないか。痛い痛い痛い!

子供の力とはいえ複数人に囲まれて身動きの取れない状態で攻撃を受ければ、ひとたまりもない。もちろん、さっき言われた通り声を出すことも許されず、私は必死の抵抗をつづける。

「サガミちゃんだって、だっさー」

クソガキどもの暴言にカチンときた私は、とうとう怒って着ぐるみの頭をはぎ取った。

「あなたたち! 着ぐるみだからって殴っていいわけじゃないでしょ!」

私のすごい剣幕に委縮したのか、着ぐるみの中から人が出てきたことに驚いたのか、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。ふん、これに懲りたら大人を怒らせないことだ。

そんなことを考えていると、後ろから交通課の警官がつかつかとやってくる。

「あなたねえ~」

怒られる、と私は身構えたが、ふっと肩をすくめると、彼女は笑った。

「ま、いいや。内心みんな疲れてたし。あんたが注意してくれて助かったわ」

ぽん、と肩をたたかれ、私はほっと胸をなでおろした。

みんなが内心おかしいと思っていても言い出せない状況は、いつもどこかに生じてしまうものである。たまたまよそから来た私がそれを壊せたのは、よかったのかもしれない。

そのまま着ぐるみのほうは撤収となり、着替えていると遠くから松本警部が飛んできた。

「おーい、探したんだから! どこ行ってたの?」

え、と私が振り返ると、松本警部は何かに気づいたようにあちゃーと額に手をやる。

「交通課にいいように使われちゃったわけ? それ、僕のとは別件だよ」

ていうか、刑事課の呼び出しなんだから違うのくらいわかってよー、と、なぜか説教をされてしまうと、松本警部は真剣な顔に戻って言う。

「とにかく、大事な話があるから刑事課のほうに来てね」

私は背筋を正してはい、と敬礼した。


5.

刑事課は署内の3階に位置し、広いオフィスにデスクがいくつか並んでいた。机の上にはコーヒーと大量の書類。椅子にはコートがかかっており、忙しい仕事の様子が垣間見える。

私が到着すると、松本警部はどさりと大量の本を取り出してきた。これは。

「昇任試験の対策問題集。受験資格を得られるまでにはもう2年あるけど、今のうちから刑法とか民法ちゃんと勉強しなおしておくようにね」

ええとつまり、私に特に目をかけてくれている、ということでいいのだろうか?

「うちの署に来てもらえるかはわからないけど、とにかく君なら、巡査部長になってもうまくやれるよ」

松本警部は安心させるようにそう微笑むと、問題集を箱に詰めて渡してくれた。

「あ、ありがとうございます!」

私は深々と頭を下げお礼を述べると、再び敬礼をして、その大量の問題集をいただいて帰るのだった。誕生日プレゼントとしてはなかなかスパルタな内容だが、やはりこういう目に見える信頼を得られるのはモチベーションにつながるものだ。まあ、休日にいきなり呼び出して手渡しでなければ、という話ではあるが。

私は内心松本警部のことを恨みながら、ずっしりとしたその箱を小脇に抱えて、再び駅前へと急ぐ。すでに18時の5分前。

間に合いそうもなかったため、慌てて店に電話を入れた。

「18時から予約の宮坂ですが、少し道が混んでいて30分くらい遅れてしまいそうなんですが……」

と、私が伝えると、店側は快く応じてくれた。

「ええ、19時ころまでに入店いただければ大丈夫ですよ。ただ、20時半からご予約のお客様いらっしゃいますので最悪でも19時半までには来店いただけると助かります」

というような返事を受けて、私はひとまず安心すると、荷物をいったん途中の自宅に戻してから駅に向かおうと考えた。今日はどうにも体力を使わされる一日だ。おかげで昼の海鮮しゃぶしゃぶのカロリーなどどこへやら、今は再びの空腹感と疲労感に包まれていた。


6.

傾斜のきつい坂道を登って自分のアパートに戻ると、もらった時よりさらに重くなった段ボールをどさりと置き、そのまま床に腰を落ち着けぜえぜえと肩で息をした。

軽い散策のはずが早紀と歩き回り、部長たちと海鮮で腹をいっぱいにして、その状態でおばあさんをおぶって送り、その足で警察署まで呼び出され、着ぐるみで子供たちと格闘して、大量の問題集を運んで家まで持ち帰るという大旅行になってしまった。本当は一日をのんきに過ごして締めにおいしいディナーを食べたかっただけなのに……。

そんなことを思いながら、疲れた体は次第に地面に吸い寄せられ、気づいた瞬間には、深いまどろみに落ちていた。

どれくらい眠っただろうか。はっと目を覚ますとすでにあたりは真っ暗になっている。時計を見ると19時半をゆうに回っていた。一時間近く眠っていたらしい。

これから駅まで行って、確か20時半に予約があると言っていたから、食べる時間があるとして15分というところか。それでも、せっかく予約したディナーなのだ。何とか滑り込んで交渉すれば、少しは食べる時間をもらえるかもしれない。それに、このままでは何も言わずにキャンセルになってしまう。おなかのほうも、ぐううぅぅと同意の鳴き声を漏らした。

うん、意地でもあのレストランに行かねば。

私は自分を奮い立たせて、再び靴を履くと大急ぎでアパート前の坂を下った。

レストランのためにおめかしをしたというのに、これではボロボロだ。

でも、誰も見ちゃいないさ。私は自分に言い聞かせて、無我夢中で走った。少し走りにくいが、これがヒールの高い靴でなくてよかった。

谷になった市街地の交差点を走り抜け、青信号に味方されながら駅に着く。昼間と打って変わって電飾で輝くその道を、小走りに、しかし急いで渡る。

駅前のロータリーから階段を上がり、二階の連絡通路を通れば目当てのビルは目の前だ。

20時半まであと20分。これなら前菜くらいはありつけるのではないか?

私がビルに駆け込もうと思ったその時である。

「ひったくりー!」

甲高い女性の悲鳴とともに、走り抜けていった男の影。手には、女性ものらしいハンドバッグを持っている。

ああ、神様、私はどうして警察官になんてなったのだろうか。

私がただの民間人で、今食事をしようとしているだけなら、見て見ぬふりをすることもできたのに。いや、そもそも、民間人ならこんなに厄介ごとに巻き込まれて遅刻することもなかったのだ。

しかし。

頭の中でみっともない私の声は打ち消される。

今の私はお巡りさんだ。

365日、24時間、そうあると決めたからここにいるのだ!

短い葛藤の後で、私はきっと犯人に振り向くと、全力疾走でその姿を追った。

元陸上部をなめてもらっては困る。

でもそうだ。今はヒールだった。

ああ、走りにくいったらない。

私は走りながらヒールを脱いではだしになった。

これなら走れる。犯人の背中が見えてきた。

残り30m。

残り15m

そこでふっと私の視界にもやがかかる。

酸欠だ。

当たり前だ。

今日の一日、ずっとフルスロットルで飛ばしてきて最後の全力疾走。

疲れないわけがない。

だからこそ、私のスタミナが切れる前に、必ず捕まえてやる。

走りにくいその靴だって、立派な私の武器だ。

私はそのまま大きく振りかぶると、ヒールを犯人の後頭部めがけて投げた。

「これは私の高級フレンチの分だー!」

大声をあげて繰り出された、正義感だか八当たりだかわからないその攻撃は、見事に犯人の頭にクリーンヒットした。

「さあ、とった物を出しなさい」

倒れた犯人を急いで取り押さえると、私は盗品を奪い返した。

後から追いついた貴婦人は、感激して私に礼を言う。私は警察署に連絡を入れると、近くにいた男性数名に助けを求め、そのまま犯人を取り押さえたまま事情聴取をした。

食っていくのに苦労した果てに、金持ちそうな女性のバッグをひったくった。ほんの出来心だったという旨の供述だった。

私は一応けがをさせたことを謝ると、遅れてやってきた警察官に身柄を引き渡し、今の内容を報告したのだった。

すべてが終わって20時半。もう、完全に間に合わない。店の閉店時間は知らないが、入れてもらうこともかなわないだろうか。いや、こんなボロボロの服ではドレスコードにすら引っかかってしまうな。などと自嘲気味に内省を繰り返す。

でも、行動しないのは私の主義に反する。そう思いレストランを訪ねる。

「ええと、すみません、この後ご予約の方がいらっしゃるので……」

店員の申し訳なさそうな返答に、私も申し訳ない思いで謝った。

みっともない格好に、乱れた髪。たとえ入れても、みじめなだけだろう。

そこに、その日最後の、偶然の出会いがあった。

「君は、宮坂君?」

見ると、きれいに磨かれた靴にすらっと長い脚。ロングコートをピシッと着こなした長身の男が立っていた。誰あろう、社会心理学者、一ノ倉 征爾(いちのくら せいじ)準教授だった。

「ああ、お客様、お席のほう整っております」

と、ボーイは一ノ倉教授に向かって挨拶する。

私はというと、小さな声で助けを乞うように言った。

「18時から予約してたんですけど、いろいろあって遅れちゃって……」

一ノ倉教授は一目見て事情を察したようにうなずくと、ボーイに向かって言う。

「この女性を僕の連れということにできないだろうか。彼女の分の料理も、用意があったのだろう?」

一ノ倉教授の言葉に、ボーイはお辞儀をして、店長に確認してくる旨を伝えて一度奥に引っ込んでいった。

しばしあって、出てきたのは白髪交じりで眼鏡をかけた男性だった。おそらく、彼が店長なのだろう。私の顔を見るなり、驚いた顔をする。やっぱり、そんなにやつれているだろうか。

そんなことを思う間もなく、店主はお辞儀をして私たちに語り掛けた。

「ああ、宮坂様に一ノ倉様。本日はどうもありがとうございます。お席のほう、相席になりますが、2名様分空きがございます。お料理もこれからご用意できますが……」

そんな店主の言葉に、私と一ノ倉教授はぜひお願いします、と同時にうなずいた。

「席に行く前に、化粧室に行くといい。ひどい顔だ」

一ノ倉教授に言われ、私は恥ずかしいやらみっともないやらといった気持ちで化粧を直しに向かった。

席に戻ると、教授はすでに着席して、食前酒を選んでいるようだった。

「ありがとうございます。無理を言ってしまって」

私が礼と詫びを入れると、一ノ倉教授は首を横に振った。

「なに、一人の食事も味気ないと思っただけだよ」

さらりと言ってのける教授の所作に、大人の色気のようなものを感じると言ったら言い過ぎであろうか、とにかく、店のしゃれた空気と相まって、その夜は一段と素敵に見えた。

「でも、お店の方もこんな格好で入れてくださるなんて」

と、私はまだ少しよれている衣装の裾をつまんだ。そんな言葉を聞いてか聞かずか、一ノ倉教授はガラス張りの窓を指す。

「ほら、ここはこの町の夜景が一望できることで有名なんだ」

言われたとおり窓のほうを見ると、一面に橙や青の電飾で輝く街が見えた。明るい駅前のその向こうには、民家の明かりだろうか、暖色系の柔らかい光も見えている。

「そして、少し近くを見れば、行きかう人も見える」

教授の言う通り、少し下にさっきまで私が走り回っていたきらびやかな通路がある。

「君が昼からずっと走りまわっていたことは、ここの店主なら気づいたんじゃないかな」

え、と私は恥ずかしくなる。もしかして、さっきの大立ち回りも筒抜けだったということだろうか。

「そんな、前は誰も見てないって言ってたのに!」

私は教授の講義のことを思い出すと、そんな風に言い返してみる。教授は嬉しそうに笑うと、再び講義を始めた。

「もはや有名すぎる心理学理論に、こんなものがある。ある大学で講義を一学期間行う。その際に、受講生の中に数人サクラを混ぜておくんだ。一人は、すべての講義に出席するもの、もう一人は、7割出席して3割休むもの、もう一人は、半分出席して半分休むもの、さらに、7割休んで3割出席するもの、最後に、一度も出席しないもの」

教授はいつの間にか頼んでいた食前酒を傾けながら続ける。

「彼ら5人の顔写真を、すべての講義が終わった最終回に、ほかの受講生たちに見せて、その魅力度を評定してもらう。すると、どうなったと思う?」

教授の問いに、私はうーんと考えて答える。

「やっぱり、全部に出た生徒が魅力的な感じはしますよね」

私の答えに、教授は感心したようにその通りだ、と答えた。

「それどころか、5人の魅力度は順に、講義に出ていた頻度が高いほど高く評定されていたことが分かったんだ。つまり、単純に見た回数の多い人物ほど、魅力的に見えていたというわけだよ」

教授はまたここでいつもの人差し指を立てるポーズになって、締めくくった。

「これを、単純接触効果というんだ」

私は、教授の講義を面白く聞き届けると、また質問に戻った。

「でも、それとさっきの私の話とどう関係が?」

私の質問に、教授は説明を付け加えるように続けた。

「君は交番のおまわりさんで、パトロールや地域の活動にも熱心だ。そして、見晴らしのいいところからなら、その、よく見る顔が頑張っている姿は見届けられたはずだよ。だから、当然君が今日ここに遅刻した理由もよくわかったんだ」

そうかあ、と私は納得しそうになりかけて、ふと思い出す。

「でも、さっき来たばかりの教授が、どうして私が大捕り物に励んでいたことをご存じなのですか?」

私の質問が意外だったのか、教授は、あ、という声を上げる。軽い咳ばらいをすると、教授は口元を隠したまま照れ臭そうに言った。

「僕も今夜の予約のために少し前からこの辺りにいたんだ。それで、君がいたから、なんとなく目で追ったこともあったというくらいで……」

なんだかごにょごにょと末尾をぼかしてから、教授はとにかく、と私に向き直る。

「そのくらい、僕と君とは単純接触回数が多いということさ」

私はきょとんとなって頭の中で言葉の意味を確かめる。それを見てか、教授はああもう、と

頭をかいた後、こう言った。

「だから、僕にとって、君は魅力的だということだよ」

言われ、私は自分でも自分が赤面していることが分かった。

「なれないお酒のせいで余計なことを言ってしまった気がする。今のは忘れてくれ」

教授は取り繕うようにそう言うと、アリバイ作りのように食前酒を一気に飲み干した。なんだ、全然飲んでいなかったんじゃないか。

私はふふ、と笑う。

「今の言葉を誕生日プレゼントとして、大事に取っておきます」

最悪な一日かと思えた今日も、終わってみれば最高の締めくくりになった。

いつもよりちょっぴり長くおしゃべりを楽しんで、私たちは別れた。

食事代は、私が化粧室に立ち寄った間に、教授が払ってくれていたようだった。

ほかの相手なら、無理を言ってでも自分で払っただろうけど、彼には借りを作っておきたかった。いつかまた借りを返すと言って会えるように。

どうやら私もすっかりと、彼のことを魅力的に思っているようだった。


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