第4話 多元的無知
1.
グリム童話に「ハーメルンの笛吹き男」という話がある。
1284年、ドイツのハーメルンに現れた一人の男は、ネズミ退治を買って出ると、笛の音でネズミを町の外へ追い出してくれた。
しかし、町の住人たちは男をだまして金を払わなかったため、笛吹きは激怒。再び笛を吹くと、町の子供たちをそのまま連れ出しどこかへ連れていってしまったという。
単なる童話と思われるこの話だが、集団失踪事件は歴史上いくつか例が残っている。
1212年、フランス、オルレアンでは、シュテファンという少年が神のお告げと称して少年少女を十字軍に誘い出し、そのまま出航、二度と帰らなかったという。
こうした集団失踪はしかし、当時の子供たちの過酷な労働環境に原因があったのではないかとも考察されている。
2.
相模川駅前交番はその日の夜も激動だった。
酔っ払いが嘔吐し、速度違反の暴走族を取り締まり、迷子を案内し。新米巡査である私、宮坂澪音(みやさか れいん)は、だんだんとそうした忙しい勤務にも慣れてきたところである。それぞれの対応を終え、ようやく落ち着いたところにその人物はやってきた。
「お巡りさん! うちの社員が集団失踪しちゃったんですよ!」
大きく、よく通る声で駆け込んできたのは、30代くらいの男性だった。カジュアルなシャツにジャケットを羽織り、片手にはノートパソコン、もう片手にはカップのコーヒー。顎髭を生やした姿からは、都会的な印象を受けた。
「失踪、ですか?」
私が慌てて応対すると、男も困ったような顔で机をたたく。
「集団失踪ですよ! 9人がいっぺんに!」
と、オーバーな身振りで説明した。近くにいるのだからそんな大きな声をださなくてもいいのに。
「調書を作りますので詳しい事情を説明いただけますか」
私が着席するよう促すと、男はどかりと座って肘をつくとぐいと身を乗り出して名刺を手渡した。
「中台 陽一(なかだい よういち)、ベンチャーのCEOをしてます」
勢いに気圧されながら、私もつい名刺を探す。いや、そんなもの持ってないんだった。
「ええと、社員さんが失踪されたということで、いつ頃のことでしょう」
私が尋ねると、中台さんはさらに身を乗り出して答える。
「もう4日も前です。現地の警察で届を出して捜索してたのに打ち切られちゃったんですよ!」
え、と私は驚く。つまり、すでに届が出ている事件をまた持ち込んできたということか。それに、現地ということは、ここ相模川駅周辺のことでもないようだ。
「現地と言うと、ここ以外で失踪したということでしょうか?」
私はかさねて質問する。中台さんは当然だとばかりにうなずくとこう答えた。
「弥生町、知っているでしょう? あそこで宝探しをしていた最中にいなくなったんです」
宝探し? ここ日本には不似合いな言葉に思わず調書を書く手が止まる。
弥生町と言うと、県央部の小さな寒村である。そんなところで何を探していたというのだろうか。
「宝探しとは、何をされていたんですか?」
私が聞くと、中台さんはばっとパソコンを開いて何かカタカタとやってから画面を見せてきた。
「弥生如来像。アルカイックスマイルって知ってるでしょう? あれくらいの時代に作られた仏像で、重要文化財に指定されたのに、その直後に紛失したって言うんですよ」
そこにはぎこちない笑みを浮かべる仏像の白黒写真が写されていた。昔美術か社会か、そんな授業で聞いたことがあるな。まさか県内にそんな仏像があったとは。
「その仏像を、弥生町で探している最中に、社員の方々が失踪したというのですね?」
私が尋ねると、中台社長はそうだとうなずいた。
「あんなに宝探しに熱心に協力してくれていた社員たちです。放り出して逃げるなんて考えられない!」
社長の必死な訴えに、私も同情する。確かに、信頼していた人がいっぺんに9人もいなくなったら心配だろう。
「それで、現地の警察はなんと?」
私が尋ねると、中台社長は難しい顔をする。
「連中、どうも信用ならないんですよ。2日くらい調べてどこにもいませんなんて言って。親族の人たちも心配しているというのにどうなんでしょうね」
うーん、と私も考え込んでしまう。明らかに管轄外だし、こちらに持ってこられても答えは変わらないだろう。しかし、身内の人たちの心配もよくわかる。
ちらりと後ろに目をやると、打ち込み作業を行っていた佐藤先輩が、声を出さずにバツ印を作る。よその管轄の事件には首をつっこむなと言いたいらしい。
私は仕方なくまた中台さんに向き直ると、愛想笑いでこう言った。
「一応、上に報告してみますね。現地の警察からまた調査があると思います」
中台さんは怪訝な顔になると、落胆したように交番を後にした。正義感に燃えていた私も、組織に入ればこう言わざるを得ない。
「ちなみに、親族の方は相模川駅周辺にお住まいですか?」
肩を落として去ろうとする中台さんに私がそう尋ねると、ええ、と返事が返ってきた。
「では、我々からは後日そちらに聴取をしてみますね」
できる限りの誠意としてそう伝えると、中台社長は安堵したように一礼して去って行った。
「俺は関係ないからな」
後ろで佐藤巡査が逃げ口上を唱えた。
当てにならない先輩である。
3.
翌日、朝のパトロールに出た私は、真っ先に失踪者の親族宅へと向かった。
インターホンを押すと、玄関口でバタバタと音がしてから、ややあって年老いた男性が出迎えた。
「ええと、美咲のことでしょうか」
おそらく、失踪者の名前なのだろう。父親だというその男性は、すぐに察したらしく事情を話してくれた。
「聞きましたよ、新しく入った会社で仕事の最中にいなくなるなんてねえ」
悲しそうな顔で彼は言う。
「心配ですよね。連絡もつかないのでしょうか」
私が尋ねると、男性はうなずいた。
「ええ。一体どこで何をしているやら」
寂しそうな表情の失踪者の父親を見て、私は自分の父を思い出した。幼いころに家を出て、それ以来連絡のつかない父親。きっと、家族は不安だろう。私にはその気持ちが痛いほどよくわかった。
「ほかの失踪者についても何かご存じないですか?」
私が尋ねると、彼は首を横に振った。
「会社の同僚なのでしょう? なにぶん、娘とは長いこと連絡が取れていなかったので」
そうですか、と私は下を向く。土間には男物の靴が一足きり。両親がここに住んでいると言っていたが、単身なのだろうか。
「また、何かわかりましたらご報告に上がりますね」
私が笑顔でそう言うと、男性も安堵したように礼を言った。彼のためにも、失踪者を見つけてあげたい。私はそう決意するのだった。
聞き取りを終えると私は交番へと戻った。
昼で交代となるため、非番の一日半を利用して弥生町へと足を運ぶ予定だった。
4.
弥生町は県央の山中に位置する小さな町である。市街地からバスで30分ほどの距離にあるにもかかわらず、森に囲まれたその町は、片田舎に来てしまったような旅情を感じさせる。わずかだが温泉も湧き出ており、知る人ぞ知る観光スポットなのだという。
世帯数は千を切るくらいの小さな町に、私はひとり乗り込んだのだった。
ネット予約で素泊まりできる宿を探したところ、宿泊できるのは町の中心部の温泉旅館ひとつきりで、客室が5つしかないという。私はちょうど一部屋空きがあったその旅館に泊まることとした。
宿は流木に筆で書かれた看板が掛けられており、玄関ホールには鳥のはく製などが置いてある。入ってすぐに風呂の入り口があり、泊まりでない客にも開放されているらしかった。
「あの社長さんは2週間くらい前から泊まっていますかねえ。お仲間の皆さんも毎日頑張ってらっしゃって。あの社長さん、失踪されてからもまだ一人で宝探しをしてるんですよ」
宿のおかみさんに事情を尋ねると、そんな風に答えた。おかみさんの横では小学校低学年くらいの男の子がおかみさんの裾をつかんでこちらをじっと見ていた。私が少年にあいさつすると、彼は恥ずかしそうに顔を引っ込める。
「どうでしょう、失踪当時おかしなことなどありましたか?」
私が尋ねると、おかみさんは首をひねる。
「いいえ、みなさん仲がよさそうで、その日もうちの町の男を案内役にして山の中を探しに出かけてたんですよぉ」
失踪したのは6日前。2週間前からそこまで毎日宝探しに励んでいたというのか。
「宝探しについてなんですが、どういう契約になっていたんですか?」
私が聞くと、おかみさんはああ、と表情を曇らせる。
「宝なんてこの街にはありませんよ。でもねえ、あの社長さんが熱心に頼みこむものだから、町長が根負けしたんです。結構お金の払いもよかったみたいでねえ。団体でお金を落としてくれるからうちの宿なんかも大助かりですよ」
つまり、あるかもわからない仏像のために、大金をはたいて探していたというわけか。うすうす思っていたが、あの社長もかなり胡散臭い人なのではないだろうか。
「あの社長さんについて、ほかに知っていることはありますか?」
私がさらに尋ねると、おかみさんは周囲を見回して声を低くするとこう言った。
「大きな声では言えませんけどね、あの人が社員さんをどこかへ隠しちゃったんじゃないかと思ってるんですよ」
え、と私は驚く。おかみさんは推理を披露するように続ける。
「だってねえ、あの社員さんたち、何日も付き合わされてうんざりって様子でしたよ。さっきは仲がよさそうって言ったけど、それは表面上だけで、何かいざこざがあったんじゃないかしら」
おかみさんの語る失踪者と、社長の言っていた話とは少し齟齬があるようだ。社長が語っていたほど、彼らは熱心ではなかったということだろうか?
「失踪者を探すと言いながら、まだ宝にこだわってるんですもの。本当は失踪者にはそんなに興味がないんじゃないかしら」
そんな不気味なことを言って、おかみさんは話を締めくくった。
それ以上の情報はないというので、私はそのまま客室に戻る。すると、その道中である。宿の階段で思わぬ人とすれ違った。
「え、一ノ倉教授?」
私は思わず声をかけた。それは私が捜査で毎回お世話になっている社会心理学者、一ノ倉 征爾(いちのくら せいじ)准教授だった。
旅館の室内着に着替え、これから温泉に行くのかタオル類を抱えている。
「君は、交番の……」
結構親密になったと思っていたが、彼にとってはまだ交番の人くらいの認識だったらしい。
「宮坂です」
私があいさつすると、彼はああ、と一言うなずいた。なんだ、よそよそしいじゃないか。
私が寂しくなって立ち去ろうとすると、向こうから声をかけてきた。
「君も何か調査か?」
私は立ち止まり、聞き返す。
「ええと、『君も』というと、教授も何か調査なのですか?」
教授はああ、とうなずいた。
「この町に伝わる伝承を調べていたんだ。山の神が棲む禁足地、というのがあるという」
禁足地。祟りや呪いを理由として、立ち入ってはならないと言い伝えられる場所のことだ。社会心理学というのはそんなことまで調べるものなのだろうか。これではどちらかと言うと民俗学である。
私が聞き返す前に、教授の方から尋ねてきた。
「君は、何を調べに来たんだ?」
問われ、私は教授に集団失踪事件について話した。黙って聞いていた彼は、興味深そうに顎を撫でた。
「では、今のところは関係なさそうだな。こちらの調査が進んだら、また提供できる情報もあるかもしれない」
それだけ言うと、彼は温泉へと向かった。温泉に行くのが、その禁足地の調査だというのだろうか。私は彼を見送ると、自分の調査を進めることとした。
まずは、まだここで宝探しをしているという社長に会ってみよう。
5.
温泉のわき出る山からは、湯煙が立って白くかすんでいる。
私は山中でスコップを手に作業をする中台社長と、その手伝いをしているという案内役のひげを生やした中年男性に声をかけた。
「相模川駅前交番の宮坂です。失踪者についてお話を伺いに来ました」
私を見つけると、中台社長はさわやかに白い歯を見せて笑った。
「うわあ、お巡りさん、ここまで来てくれたんですか!」
さっきのおかみさんの言う通り、社員がいなくなった割にはあっけらかんとしたものである。社長は続けてこう言った。
「今、社員を探しがてら宝の捜索も続けているんですよ」
探しがてら、なんてそんなことがあるだろうか。彼にとっては、仏像探しの人手が足りなくなって困っているくらいの感覚なのかもしれない。
「失踪時の状況について、私にも詳しくお聞かせ願えませんか?」
私は案内役の男性と社長、二人に向けてそう尋ねた。
「いやあ、もう6日も前ですよ。みんなで一緒に山の中を探している際中でした。日が暮れる直前、逢魔が時って言うのかな、僕とこちらの里中さんが目を離したすきに全員いなくなってたんですよ!」
相変わらずの大きな声と身振り手振りで中台さんはそう説明した。
里中、と呼ばれた中年男性にも確認すると、はあ、と軽い会釈を返してこう言った。
「そちらの社長さんの言う通りですよ。本当に消えるように、一瞬の出来事だったんです」
私はさらに聞き返す。
「失踪の前後に、なにかおかしな様子とかはなかったでしょうか?」
社長はむむ、と上の方を向いて考え出す。
「変というわけじゃあないんですが、前の日に温泉に入ってから、メンバーの一人がやけによそよそくなったんですよ。何かにおびえているような感じで」
「おびえるきっかけがあったんですか?」
私がさらに尋ねると、社長はいや、と首を横に振る。
「本当に温泉に入ったくらいですよ。それだって、あの日がいつもと違ったわけでもないし」
これ以上の情報はなさそうだったので、私は質問を変えてみる。
「では、その社員さんたちが消えたという場所はどちらですか?」
聞くと、里中さんは遠くの方を指さした。
「あっちの、禁足地の近くですよ。だからね、私なんかはこう思っとるんです。山の神に神隠しにあったんじゃないか、とね」
禁足地に山の神。さっき教授から聞いた通りの話だ。私は驚いて聞き返す。
「山の神の、神隠しですか?」
里中さんは恐ろしそうにブルリと身を震わせるとうなずいた。
「だって、あんな人数が急に消えたりしないでしょう? 電車もバスも使っとらんちゅうことですから」
え、とさらに私は驚く。
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
聞くと、里中さんは笑って答えた。
「ここは出入りの少ない街ですから、電車もバスも知り合いしか乗っとらんです。都会の人たちが9人も連れだって乗っとったらいやでも目立つでしょう」
つまり、ここへ出入りするよそ者については、町の人たちがよく観察しているということだろう。里中さんの話に補足するように社長も言う。
「僕らは電車でここまで来たんですよ。皆で街を出たなら、電車かバスは必要だったんじゃないかな。何しろ、歩いていくには酷な山道ですから」
私はでは、と恐ろしい事実に気づく。
「社員のみなさんは、まだこの町の中にいる可能性が高いということですか?」
私の言葉に、社長と里中さんは黙り込んだ。ややあって、中台社長は苦笑いでこう言った。
「だからこうして町に残って探してるんです。もう6日ですからねえ。生きているかどうか」
さっきは冷たいと思っていた中台社長だったが、その言葉からは悲しみと悔しさが感じ取れた。こうして気丈に振舞っているのも、彼なりのやさしさなのだろう。仲間のことが心配だからこそ、いつも通りをやろうとしているのだ。
「ちなみに、2日かけて行われたという捜索の様子はどうだったのですか?」
私が尋ねると、里中さんが答えた。
「ここの駐在さんと、街の方の警察が来て大勢で探しました。ヘリも何台か飛んだんじゃないかな。それでも、見つからなかったから打ち切りに……」
遭難したとしても、ヘリまで飛んで見つからないとなれば大ごとだろう。それに、山と言っても遭難するような大きな山には見えなかった。
だとすると、残る可能性はひとつだろう。
「禁足地は捜索したのでしょうか?」
私がそう聞くと、里中さんはとんでもない、という風に首を横に振った。
「あそこだけは近づいてはならんのです。昔からよく人が死んどります。空からは見たかもしれないですが」
禁足地というのはよほどこの町の人々から忌避されているらしい。それを聞いて、私は余計にその場所を怪しく思った。
「禁足地はどういう場所なのですか?」
私の質問に、中台社長が代わりに答えた。
「僕もあそこには興味があったんですが、どうやら神様の住むところだというんですよ。山のてっぺんの方にあって、木々でおおわれている。昔から、立ち入ったものに祟りがあるとか」
里中さんも同調するようにこくこくと首を縦に振った。
「遊び半分で近づく場所じゃないです。きっと、社員さんたちもあそこに近づいたばっかりに……」
なるほど。やはり、私にはその場所に秘密があるとしか思えなかった。私は二人に礼を言うと、里中さんが止めるのも聞かず、禁足地があるという山頂へ向かって歩き出した。
祟りなどあるはずがない。むしろ、そんな迷信で救助されるべき人が死にかけていたらことである。
私は強い正義感で動き出した。
6.
禁足地、と呼ばれるその場所は、おどろおどろしい名前に反して、夕日を浴びてキラキラと輝いていた。見上げると切り立った崖のようなものがあり、原生林がうっそうと茂っている。立ち入り禁止の柵を超え、私はおーいと声を出す。
「美咲さーん。社員のみなさーん。どこかいませんかー?」
と、奥の方で落ち葉を踏む音が聞こえた。
「誰かいる?」
私は少し警戒しながらも、失踪者がいるかもしれないと思い、そちらにかけていく。すると。
「君か」
そこには、登山着の一ノ倉教授の姿があった。
「教授、何をしているんですか?」
私が驚いていると、当たり前だと言わんばかりに教授はこたえる。
「さっきも言った通り、フィールドワークだよ。禁足地の伝承について」
そう言えば、そんなことを言っていた。温泉に入ってからこちらに来たのだろうか。教授は興味深そうに崖の上を見上げると、何かわかったようにうんうんとうなずいている。
「ここは土砂崩れの多発する地形なのだろう。だから、禁足地になったんだ」
私は驚いて教授の方を見た。
「でも、さっきは山の神が棲んでいるとか……」
私が言うと、教授は笑う。
「子供にはそう言い聞かせるという話だよ。昔から、自然というのは畏敬の対象だからね」
自然を神だと言い聞かせたということなのか? だとすると、土砂崩れも集団失踪に関係してはいまいか。そんな私の考えに気づいたのか、教授はこちらを向いて言う。
「といっても、ここ最近は土砂崩れも起きていないようだよ。それらしい跡もないだろう」
言われれば、土や泥、岩の類も落ちておらず、こぎれいなものであった。教授はひとりごとのように続ける。
「昔は土砂崩れで人がたくさん亡くなって、その多発する場所は立ち入り禁止となった。その時、山の神がいるから、という宗教的な説明づけがなされたのだろう」
確かに、子供に言い聞かせるには科学的にやるよりも怖がらせてしまったほうが早いということもある。私が何となく納得していると、さらに教授は言う。
「社会心理学の中には、合理的にその辺を割り切る学派もあるんだけど、僕はそう言う文化こそ大事だと思っているんだ。つまりね、人が死ぬから近づかなくなるんじゃなくて、人が死ぬ場所に物語や文化が生まれる、そのことが大事ではないかと思ってね」
そこには、一ノ倉教授なりのこだわりがあるのだろう。私は何も言わなかった。教授はさらに語り続ける。
「例えば、土砂崩れがあるから近づかない、というのと、山の神がいるから近づかない、というのには歴然と差があるんだ。それこそが、人の集団心理の本質なんだよ」
なるほど、心理学者としては、彼の考えは浮いているのだろう。しかし、その考えこそが彼ならではのこだわりのようにも感じられた。
「ひとまず、ここに失踪者はいなかったよ」
くまなくこの禁足地を探していたのだろう、一ノ倉教授はそれだけ言うと、くるりと向き直った。
「ただ、こんなものが落ちていた」
そう言って私にメモ書きのような紙片を手渡した。そこに書かれた文字を見て私はぎょっとする。
「社長は危険だ。ここから逃げたい」
走り書きのメモからは緊迫感のようなものが伝わる。
「これは一体?」
私が教授に尋ねると、彼は分からないというように肩をすくめた。
「例の社長についてもう少し調べてもいいかもしれないね」
それだけ言うと、教授は私に下山を促す。
「暗くなるから宿に帰ろうか。車を停めているから送っていくよ」
私はありがたく教授の誘いに乗ると、彼がふもとに停めたという車のところまで一緒に歩くのだった。実のところ、恐ろしい話を聞かされて、ひとりの山歩きも心細かったのである。
山を歩くうち、いつの間にかとっぷりと日が暮れ、あたりは闇に包まれた。これを一人で下っていたら、寂しくて死んでいたところである。教授は懐中電灯をつけると足元を照らしてくれた。
教授の車があるという駐車場まで戻ると、教授がう、と声を上げた。私もそちらを見ると、驚くべきものが目に入る。
「車に……!」
そこには、真っ赤な手形が無数に、フロントガラスにべっとりとこびりついていた。
私が悲鳴を上げると、教授は大丈夫だ、と私の背中をたたいた。
「ペンキのようだ。これは誰かのいたずらだよ」
落ち着いた様子でそれをぬぐった教授は、そのまま私を助手席に乗せて宿まで車を走らせた。私はというと、教授の膝に手を置いたままカタカタと恐怖に身を震わせていた。全く情けないものである。
7.
宿に戻ると、おかみさんが心配したような顔で待っていた。
「ああ、お客さんたち、遅いじゃないか!」
すみません、と私が謝ると、おかみさんはいやいやと首を振って続ける。
「禁足地に行ったんでしょう、とにかく、お風呂に入って今日は寝ちゃいなさい」
私は礼を言うと、温泉に浸かることにした。正直言って、あんなことがあった後だと温泉でのんびりできる気分でもなかったが、おかみさんに背中を押され、仕方なく風呂に入ることにした。
「あんなことがあった後だと、ちょっと怖いですよね」
私がそう独り言ちると、教授はふっと笑った。
「僕と一緒に入るかい?」
教授が指さした先には、混浴の温泉があった。
「は、入りません!」
私は赤面し、慌てて女湯に向かった。全く、あの男はどういうつもりだろうか。怖いことがあったばかりなせいか、むやみに心臓がどきどきといっている。つり橋効果と言ったか。そんなベタな効果で軽々しく好きになったりしない、と、私はむきになった。
脱衣所に着くと、赤みがかった蛍光灯がこうこうと輝いており、その明るさにほっとした。
「祟りなんて、あるわけないんだから」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、私はさっさと着替えを済ませ、温泉に浸かった。
サウナが一つに温泉は室内風呂と露天の二つで、どちらも熱い風呂らしい。女性客は私一人なのか、静かなものだった。
私はシャワーで体を洗い、室内風呂で暖まってから、露天風呂に浸かった。全身の疲れが取れるような気持ちのいい風呂に気分を落ち着ける。
横には竹でできた柵があり、奥から水の流れる音と人の気配がする。そう言えば、教授は今日二回も温泉に入ったのか。
そんなことを考えていると、温泉の奥の竹林から、がさがさと音がした。ふっとそちらを見ると、大きな黒い影。目を凝らすと、竹林からぬっと、ふさふさと毛の生えた、2メートルはあろうかという巨大な動物が現れた。
イノシシ。
いや、そんな大きさじゃない。
「モオオオォォォ」
牛のような低く大きなうなり声に、私は声も出せずに慌てて温泉を飛び出た。
着替えもそこそこに風呂から出ると、一ノ倉教授と出くわした。
「君もあれを聞いたか?」
少し狼狽した様子の一ノ倉教授に、私はこくこくとうなずく。
「教授、私……!」
涙目になって教授に助けを求めると、教授は少し顔を赤くした。
「ああっと、そうだな、不安なら僕の部屋に来なさい。それから、服をしっかりと着るように」
言われ、私は自分が下着同然で出てきたことに気づく。
「でも、脱衣所に置いてきちゃって」
泣きそうな声でそう言うと、教授はああ、もう、とうなってから答えた。
「そのままでいいから、とにかく来なさい」
教授に手を引かれ、私は彼の部屋へとなだれ込んだ。
おかしいほど体がほてっている。それが恐怖からなのか、興奮からなのか、私には判別もつかなかった。
「この部屋にも女性用の着物があったから、それを使いなさい」
私に館内着を手渡し、部屋の中央にシーツで仕切りを作ると、教授はごろんと寝ころんだ。
「間違いがあってはいけないからな」
そんな風に言う教授に、私は礼を言うと、隣に自分用の布団を敷いて寝た。
長い沈黙があり、私はまた教授に話しかける。
「一ノ倉さん、まだ起きていますか」
私の言葉に、教授がくぐもった声で応じる。
「どうした、眠れないのか」
やさしい彼の声を聞き、私は安堵する。
「はい、まだ少し、怖くて」
私はさっきあったことを思い出した。血の手形に、巨大な猪。あれが誰かのいたずらだとして、その理由は?
「僕の授業を聞くとね、みんな眠くなるというんだ」
天井を向いているのだろう。低く、穏やかな声で一ノ倉教授が言う。私は聞いたこともないその声色に思わずドキリとする。
「よく眠れるように、理屈っぽくてわかりにくい話をしてあげるよ」
そんな教授の自嘲的な言葉に、私ははい、と一言答えると、耳をそばだてた。
「比較文化心理学という学問がある。これは、その地域の特性に応じて、そこに住む人々の考え方が異なっているということを実証した学問だ」
私は聞き慣れない言葉と、耳ざわりのいい声に身をゆだねた。
「例えば、日本とアメリカを比較したとき、日本は島国で、関係性が閉じたコミュニティに属している。一方で、アメリカは国土が広く、人の移動が盛んな国だ。この二国の人の特徴を比べると、面白いことが分かったんだ」
私はややぼんやりとした思考ではい、とあいまいに返事する。教授は返事を聞いたのか聞いていないのか、そのまま天井を向いて続けた。
「つまり、人の移動が少なく、閉ざされた関係性の国では、人全般に対する信頼が低い。一方で、都会的な、人の移動の多い国では。人全般に対する信頼が高いんだ。なんだか、普通の認識とは逆のように感じるだろう?」
私はそうですね、と答え、次のように続ける。
「田舎の人の方が鍵をかける習慣がなかったり、逆に都会人の方が冷たいって感じがするのに」
私の言葉に教授はそうだな、と寝返りをうった。
「でも、それはあくまで、同じ地域に住んでいる人への信頼感の話なんだ。だから、よそ者に対しては、都会人より田舎の閉じたコミュニティの方が厳しい傾向にある」
ああ、それなら納得できる。私はまた深くうなずいた。なんだかとても眠い。
「じゃあ、やっぱり私たちはこの町では信頼されていないのかも」
私が何となくそう言うと、教授は感心したように声を上げた。
「そうなんだ。だからこの事件は……」
教授が何か推理を話したように聞こえた。しかし、私はそこで意識が途切れたようだった。
深いまどろみの中で、教授の落ち着いた声だけを認識していた。
8.
目を覚ますと、すでに朝の10時台。横では、教授が着替えを済ませてコーヒー片手に本を読んでいる。
私は昨日教授の部屋に泊まったことを思い出し、恥ずかしくなって飛び起きた。
「す、すみません、こんな時間まで! 私、このあと交番に行かなくちゃ!」
私がわたわたと荷物をまとめると教授はくすくすと笑った。
「ここから相模川駅前まで車で30分程度だ。これから行けば十分間に合うよ」
そう言う教授に、バスの時間が、と相談すると、教授は車で送ってくれると言い出した。
「え、そんなことさせられません!」
私の抗弁むなしく、教授は強引に送っていくと宣言した。
「女性の一人歩きは感心しない。送らせてくれ」
この教授は、どこまで人のことをドキドキさせれば気がすむのだろうか。私はしかし、そんな甘い言葉に乗せられ、午後からの仕事に教授の車で向かうのだった。
「またこの町に来るのだろう。僕はもう少しここにいるつもりだから、また来てくれ」
そんな捨て台詞とともに、教授はまた弥生町に戻ったのだった。
交番に戻ると、佐藤巡査がニヤニヤと出迎えた。
「朝帰りか、宮坂」
「そんなんじゃありません!」
私はカッとなって言い返す。もちろん、仕切り越しとはいえ男性と同じ部屋で寝たのだから後ろめたさもあった。
佐藤巡査はそんな私の反論を無視してこう言い放った。
「この間の失踪者の母親が来てな。捜索願を取り下げたそうだ」
私は驚いて聞き返す。
「この間の、と言うと、弥生町で失踪した美咲さんですか?」
私の質問に佐藤先輩は首肯して次のように続けた。
「なんでも連絡が取れて無事が確認されたそうだ。だが、社長さんのところに戻る気はないんだと。だから、社長さんにもそう伝えてくれ」
私は納得できずに聞き返す。
「連絡が取れたって、いつ、どこで? それに、社長さんに会いたくないというのはどういうことですか? しかも、美咲さんの母親って、いつ連絡が取れたんですか?」
私の質問に、佐藤先輩はうるさそうに耳をふさいで返した。
「とにかく、この件に事件性はない! 以降余計な詮索はしないように」
私はそんなはずない、と確信した。そもそも、美咲さんの母親はどこにいる誰なのか?
誰も会っていない美咲さんの安否を誰が保証しているのか? 社長のもとに戻る気はないという理由は何か?
これだけでは、まるで謎だらけだ。私はやはり、この失踪事件のさきの真相を見極めねばならない気がしていた。
昼のパトロールの折に、私は再び美咲さんの父親の住む家へと足を運んだ。
すると、今度は初老の女性が出た。
「ああ、この間は主人がお世話になりました」
どうやら、この人が失踪した美咲さんの母親らしい。
「捜索願を取り下げたそうですが、娘さんは見つかったのですか?」
私が息を切らして尋ねると、にこやかにその女性はうなずいた。
「今は安全な場所にいますよ。内緒なんですが、同僚の皆さんも見つかったそうです」
私は安心しきっているような彼女の表情にやや拍子抜けした。しかし、同僚の人たちも見つかったとはどういうことだろうか。それが内緒だという理由もわからない。
「同僚の方々の居場所はご存じですか?」
私が聞くと、美咲さんの母親は何名かの親族の居場所を教えてくれた。
彼女に礼を言ってその他の失踪者の親族にも話を聞きに行くと、同様の答えが返ってきた。
すなわち、「失踪者は見つかった。安全な場所にいるが、その場所は答えられない」というものだった。
彼らはいつ見つかり、どこにいて、なぜそれを隠すのだろうか。
社長から逃げたいというメモ書きも気になった。私は彼とその会社について、さらに調べることとした。その結果、次のようなことが分かった。
中台社長の会社はIT系のベンチャー企業。従業員数は社長含め十数名ながら、アイデアマンであるワンマン社長のもと、相当な利益を上げているようだった。宝探し事業は彼の趣味と実益を兼ねたもので、ここ2か月ほどで取り進めているようだ。
しかし、社員総動員で宝探しなどしていて、本来の事業であるITはどうしてしまったのだろうか。また、いきなり宝探しに手を出した理由も気になるところである。
深まる謎に、私は再度弥生町に戻って社長に話を聞く必要があると感じた。
9.
それから2日経って、私は再び弥生町へ戻った。まずは社長の素性について詳しく聞きたい。それに、町の住人達も何か隠しているように感じる。
宿に行く前に、私は駐在の警察官に聞き込みをする。
「あの都会の人たちですか? いなくなった日は誰も見てないんじゃないですかねえ」
30代くらいのその男性は、長くここにいるのか町の事情には詳しいようだった。
「当時は例大祭で街の人はほとんど中央広場に集まってたんですよ。だから、見かけようもないんじゃないかな」
新しい情報に私ははっとする。それでは、複数人が抜けだす隙があったということだろうか。
「お祭りは何時間くらい行われていたんですか?」
駐在さんはああ、と印刷物を取り出すと、何か調べてから答える。
「昼14時から始まって夜19時くらいですね。夕方におみこしなんかが通るのでその時はみんな集まってたと思いますよ」
夕方頃なら、社員たちの失踪時と一致する。
「では、お祭りに参加しなかった人はいますか?」
私が聞くと、彼はあー、と考えてから言う。
「例の社長さんの一群と、その案内役たちは参加してなかったかな」
私はまた引っかかる。
「案内役は、里中さん一人ではなかったのですか?」
私の質問に、駐在さんは知らなかったんですか、とばかりにうなずく。
「案内役は3名ですよ。里中さんとその息子さん、あと2丁目の新井さんかな」
「その、里中さんの息子さんと新井さんは今どちらに?」
私が続けて質問すると、彼はうん、とうなる。
「実はね、彼らも失踪したんですよ」
私はようやく事の真相をつかんだ気がした。案内役の2名が社員たちを連れ去り失踪。
バスや電車を使わなくても、車なら町の外に出ることができる。6人乗りの車なら2台でも9人を連れていくことは出来そうだ。
では、その動機は? そして、いま彼らはどこに?
私は駐在さんに礼を言うと、中台社長に聴取をしに、彼が泊まる宿へと向かった。
10.
駐在所から5分ほど歩いて、商店街の近くの小さな旅館にやってくると、中台社長の大きな声が聞こえた。
「僕は確かに弥生如来像を見つけたんですよ! この金庫に入れておいたんだ!」
どうやら宿のおかみさんと口論になっているらしい。話を聞くに、宝を見つけたということなのだろうか。
「どうされましたか?」
私がおかみさんと中台社長の間に入ると、落ち着けるように事情を尋ねる。
「ああ、お巡りさん! 僕はついにあの仏像を見つけたんですよ! ところがそれを盗んだ奴がいる!」
私はいっぺんにいろんな情報が入ってきて、混乱する。
「ええと、まず、探していた宝を見つけたんですね?」
私が言うが早いか、社長はいつもの大きな身振りで応じる。
「なんとあの禁足地にあったんですよ! 案内役の目を盗んで夜中に行ったんですがね」
なんと、あれだけ存在しないと言われていた宝が禁足地にあったとは。私は順番に事情を聴いていく。
「それで、その仏像が盗まれたと?」
「ええ、宿に持ち帰ってそこの金庫に入れておいたんです! それが夜の間になくなっていた!」
中台さんは必死の形相で説明する。隣で聞いていたおかみさんは困ったようにこう言った。
「お客さんの思い違いじゃないですかねえ。だって、金庫は暗証番号が必要でしょう? 盗もうったって盗めるものじゃありませんよ」
私は気になっておかみさんに尋ねる。
「金庫は強引に空けられたとかではないんですか?」
私の質問におかみさんはうなずいて応じる。
「鍵が開いた状態で客室にありますよ。だから、夢かなんか見ていたんじゃないですかねえ」
そんなおかみさんの言葉に、社長は逆上したように言う。
「いや、僕は間違いなく見つけた! 暗証番号を知っていたやつがいるんだ」
社長はどうしてここまで宝にこだわるのだろうか。私は社長の態度に疑問を持った。
「ええと、中台さんはどうしてそこまであの宝にこだわるんですか?」
私が聞くと、中台さんはこう答える。
「文化財というのはね、保護されなければ簡単になくなってしまうものなんですよ。こうして紛失するというのはね、後世の文化にとって重大な損失だ!」
思っていた以上に、彼は古美術品に対して情熱があるようだった。それを聞いて、私は聞いておかなければいけないことを思い出した。
「しかし、社長の本職はITでしたよね? どうして急に古美術品に興味を? それに、従業員総出で宝探しなんて、本職の方は大丈夫なんですか?」
私の質問に、中台さんはぷんぷんと怒り出す。
「何を言っているんですか! 僕の会社はITを活用した骨董品の鑑定や売買がメインなんです。だからこうして文化財の保護事業に乗り出したんですよ」
なるほど、一口にIT系と言っても幅が広いようだ。感心していると中台社長はさらに続ける。
「鑑定業に関しては個人の鑑定士と個別に契約を結んでいますし、通信などのインフラはアウトソースしているんです。それが軌道に乗って来たから、その収益と手の空いている従業員たちを利用して文化財保護に投資を始めたんだ。こっちも命がけなんですよ!」
つまり、この宝探しこそが彼の新規事業ということなのだろうか。私はひとまず納得し、彼をなだめた。
「よく知らずにすみません。それでは、本当に仏像は盗まれたのですね」
彼は少し落ち着きを取り戻すと、ジャケットを直して咳払いをする。
「ええ、これが誰の仕業にしろ、重大な契約違反ですよ。僕だって、宝を自分のものにしようっていうわけじゃない。ただ、しかるべき方法で保管されるべきものなんですよ、あれは」
誰かが仏像を盗んだとしたら、それは誰だろうか。元から中台さんが宝を譲り受ける気がないというのなら、町の人間が盗み出す動機はないだろう。すると、やはり失踪した社員たちによる持ち逃げということになるだろうか。
もう一方で、気になるのはあのメモ書きである。
社長は危険だ。
これほど熱意あって、善良に見える人が危険というのはどういう意味なのだろう。
私はまだこの町に逗留している教授に意見を聞くこととした。
11.
一ノ倉教授は再びフィールドワークに出ているらしく、彼に会おうとした私は山中を探しまわることとなった。
大学が長期休みのシーズンなのか、1週間近くこの町に滞在しているらしい。存外余裕のあるものなのだな、と教授のことを少しうらやましく思った。
山中に遠くからでも目立つ青い瓦屋根が見え、それが古い寺院らしいと分かった私は、そこで少し休憩することにした。歩き回ってさすがに疲れてきたところである。
寺院は長いこと手入れされていないようであり、クモの巣などがかかっている。小さな庵のような形の建物と、奥に倉庫が一つ。廃寺というやつだろう。人の気配はなかった。
欄干に腰かけ、ふもとで買ったお茶を飲んで一息ついていると、がさがさと音が聞こえた。
野生生物だろうか、と身構えていると、長身の男がぬっと姿を現した。
「あ、一ノ倉教授」
私が声をかけると、彼も驚いた顔で会釈した。
「こんなところでどうしたんだ」
私が事件の状況と、教授を探していたことを伝えると、納得したようにうなずいた。
「いろいろ進展があったみたいだね。こっちもこれから調べがつきそうだよ」
こっち、というと何のことだろうか。私が尋ねると、教授はずんずんと奥に進みながらこんなことを話しだした。
「ここが、もともと弥生如来像を保管していた寺のようなんだ。7年くらい前に住職が亡くなって、後継ぎもいなかったためにそのまま廃寺になったそうだ」
道理で、人の立ち入った跡がないわけだ。それにしても、文化財のあった寺としてはひどい扱いに見える。
教授は倉庫の中に入っていくと、ガサゴソと何かを探している。
「汚いな」
私が教授について中に入ると、確かにほこりっぽいすえたにおいがした。
「見てくれ。仏像のほとんどはこの倉庫に置かれたままだ。つまり、弥生如来像だけがここから持ち出されたようだよ」
つまり、どういうことだろうか。私が考えていると、教授はさらに続ける。
「重要文化財指定の話が持ち上がったのが、住職の亡くなる直前のことだったそうだ。それから、住職が亡くなって寺の移動の最中に例の仏像は紛失したことになっていた」
では、仏像が紛失してから中台社長が見つけるまで、仏像は禁足地に遺棄されていたことになるのか。しかし。
「仏像が見つかった禁足地からここでは、ずいぶん離れていますね。たまたま落としてしまったという場所にも見えません」
私が言うと、教授はそうなんだ、と返事した。
「僕にはね、例の仏像は意図的に隠されているように思えるんだ」
教授は倉庫の中で古い地図を見つけると、それを眺めてにやりと笑った。
「思った通りだよ。昔の地図を見てごらん」
私は教授が差し出した地図を見てみる。すると、どこか違和感があった。
「あれ、ちょっと待ってください。禁足地の範囲が」
私の言葉に教授はうなずく。
「こっちが今の地図だ。見比べてごらん」
そう言って教授が差し出した地図と、さっきの古い地図を見比べると、その差は明らかだった。
「……これ、禁足地が増えていませんか?」
私が言うと、教授は笑う。
「やはりあの仏像は、町ぐるみで隠しておきたいものなんだ」
一体それはなぜなのだろう。私の疑問に答えるように、教授は言った。
「ここらで、特別課外授業と行こうか」
私は教授について倉庫から出た。
12.
「さて、世の中には、みんながおかしいと思っているのに、誰も言い出せないという状況がある」
廃寺の入り口近く、教授はいつもの講義の口調で話し始める。私は欄干に腰かけ、生徒になったつもりで教授の話に耳を傾ける。今日はほかの生徒もいない、正真正銘の個人授業だ。
「有名な例で裸の王様というお話がある」
私はああ、と頭を縦に振る。バカには見えない服だと言われて裸にされた王様が街を歩くが、国民たちは自分がバカだと思われたくないために、王様が立派な服を着ているとほめそやす。そこに、子供がやってきて王様が裸だということを指摘してしまい、皆がさっきまでの状況のおかしさに気づくという話だ。
「この話の肝は、王様が裸だと誰も指摘できない状況が、さらなる沈黙を生み出してしまうところにある。つまり、ひとりひとりはおかしいと思っていても、周りの様子を見渡して、おかしいと思っているのは自分だけかもしれないと萎縮してしまう状況ができるんだ」
一ノ倉教授はいつもの調子で指を立ててそう説明した。たしかに、言いたくても言い出せない状況というのは誰しも経験したことがあるものだ。
「このような状況を、『多元的無知』という。これは、集団になった時に、あたかも皆が無知になったように異常な状況を受け入れてしまうというものだ」
ここで、また教授はたとえを出した。
「こんな実験がある。被験者の学生に試験を受けさせるのだが、その最中にスモークを焚いて火事が起きたような演出をする。普通であれば慌てて逃げ出すところなのだが、この際、ほかの受験生全員と試験官にサクラを使い、被験者以外の全員がいつも通りに試験を受ける。すると、本来逃げるべき異常な状況にもかかわらず、被験者はそのまま試験を受け続けたんだ」
聞いて私はぞっとする。たしかに、同じ状況なら私も逃げずに試験を受けてしまうかもしれない。教授は次のように締めくくる。
「この事件の真相も、実はそんなものかもしれないと思うんだ」
私は分からずに聞き返す。
「と言うと、どういうことでしょうか?」
「失踪した社員たちは内心おかしいと思っていた。仏像を隠し、失踪事件を見て見ぬふりをした町の人間もそうだ。そして、仏像を隠した動機もそこにつながるんだよ」
教授の抽象的な答えに私はますますわからなくなる。それを見て教授は二の句を継ぐ。
「王様ははじめから裸だったということさ。元からおかしなものを、みんながおかしいと言い出せずに神輿に乗せて担いでいたんだ」
私はきっぱり答える。
「意味がわかりません」
私の言葉に教授はそうだろうな、と笑った。
「では、決定的な証人に訊いてみよう」
それは、誰のことだろうか。私が考えていると、教授はこう言った。
「王様が裸なのを知っているのは、子供だけだよ」
13.
宿のおかみさんには小学校低学年くらいの男の子がいた。私と一ノ倉教授は彼に話を聞くことにしたのだった。
「ねえ、お姉さんに少し話を聞かせてもらえないかな」
私は目線の高さを合わせるようにかがむと、宿のロビーで遊んでいた彼に向かって訪ねた。
男の子は少し照れくさそうに笑うと、いいよ、と答えた。
「ねえ、この間なくなった仏像について、何か知らないかな」
「知ってるよ、里中のおじさんが持ってっちゃったの。ボクも昔ねえ、山の中でねえ、見つけたの」
彼の答えに、私は驚く。宝を社長のもとから盗み出したのは、案内役の里中さんだったのか。
「ボクも昔見つけたっていうのは、いつ頃のこと? どうしてまたなくなっちゃったの?」
彼はえーっと、と思い出すように語りだす。
「6歳の時、山の中に落ちてたから拾ったの。お母さんもおじいちゃんも怒って返してきなさいって言うから、またみんなで埋めたの」
わざわざ埋めにいったのか。これまた決定的な証言だ。
「それじゃあ、ここに泊まってたお姉さんたちについては、知ってるかな」
私はさらに気になっていたことを尋ねる。
「お祭りの日に里中のお兄ちゃんと新井のおじさんが連れてっちゃったんだよ」
少年の答えに私は納得した。ここは私の推測通りだ。とすると、その理由はなんだろう。
「どうして連れていっちゃったの?」
私の質問に、少年は驚くべき答えを返した。
「あの社長さん、ハンシャなんだって」
ハンシャ。反社。反社会的勢力、つまりは、暴力団関係の人間だということだろうか。
「里中の兄ちゃんたちも、一緒に都会に逃げるんだって」
ということは、社員たちは社長を恐れて逃げ出したということ。そして、町の男二人も町から逃げ出した。すると、社長とこの町にこそ、彼らの動機があるということになる。
「禁足地について、何か知ってる?」
私は最後にもうひとつ質問を投げかけた。
「入っちゃいけないところだよ。よそ者が入ったらみんなで脅かすの」
私はああ、とひざを打った。この前の血の付いた手形や巨大な化け物は、彼らの仕業だというのか。
「色々教えてくれてありがとう、助かったよ」
私は彼に手を振ると、後ろで座って待っていた教授の元へと戻った。
「今の話、聞こえていましたか?」
教授は私の言葉にうなずきで返した。
「おおよその真相はつかめたが、最後に確かめないといけないことがある」
そんな風に言っていると、後ろで男性の言い争う声が聞こえてきた。
「あんた、禁足地に入ったのか! 恐ろしい祟りがあるぞ!」
「祟りどうこうよりも、今はなくなった仏像ですよ!」
それは、案内役の里中さんと中台社長らしかった。里中さんはすごい剣幕で社長を脅している。
「とにかく、あんたはもうこの町に近づかん方がいいぞ。前にいなくなった社員だって、きっと山の神の神隠しにあったんだ」
社長も負けじと食い下がる。
「そんなことで諦めきれませんよ。それにね、社員だってまだ見つかっていないんだ。はっきり言わせてもらえば、僕はこの町の人間を疑ってる」
今にもつかみ合いになりそうな様子を見て、私は慌てて仲裁に入った。
「まあまあ、少し落ち着いて話し合いましょうよ!」
私を挟んでお互いににらみ合ったまま、里中さんと社長は襟を正した。
「お巡りさん、何かおかしいと思いませんか?」
助けを求める中台社長の言葉に、私は苦笑いを返すほかなかった。おかしいと言えば、この社長も十分におかしいのである。
「失踪事件について詳しく聞きたいので、場所を変えてお話を伺えませんか?」
私はそのように提案すると、一ノ倉教授の客室に里中さんと中台社長を運んだ。
14.
客室に着くと、私はまず中台社長の話を聞くことにした。後ろでは、一ノ倉教授が腕組みして見守っている。彼なりに推理をまとめている際中なのだろう。
「中台さんがここに来てから今までの行動をお聞かせ願えませんか?」
私は彼の目的についてもう一度整理するため、そのように質問した。社員を心配する社長の行動としては、やや一貫性に欠ける気がするのだ。
「僕がここに来たのは2週間以上前。目的は弥生如来の捜索でした。社員たちを連れて連日連夜山の中を探しまわりましたが、それらしい成果は得られず。そんな時、9日前の夕方に集団失踪が起きたんです」
私は合の手を入れるように質問する。
「その時に、社長はどうしましたか?」
「もちろん、すぐに探しに行きましたよ。しかし、案内役の男衆ごと姿を消していた。はじめは、はぐれただけかと思ったんですが、一旦宿に引き上げてからも戻ってこないので、翌日に捜索願を出したんです」
ここまでは以前聞いた通りである。私は補足するように知っている情報を付け足す。
「それで、2日がかりの捜索でも見つからず、捜査が打ち切られたわけですね?」
「ええ。納得がいかない私は、失踪者の地元の交番にも相談に行った」
それが、先日の依頼である。私はそれを聞いて失踪者の親族に会いに行ったのだった。
「ところが、社長は宝探しの方を続行したわけですよね?」
私は確信に迫るべく、かさねて尋ねる。
「ええ、しかしそれはあくまで失踪者探しがメインですよ。親族の方はあなたが当たってくれるということだったので、山の中で遭難している彼らを探していたんだ」
なるほど、宝探し自体は失踪者探しのついで、ということだったのか。すると疑問点がある。
「しかし、禁足地で宝を見つけてからのあなたの行動は変でしたよね? 宝の行方に夢中で、もはや失踪者のことなど眼中にないような様子だった。」
私の詰問に、ああ、と中台社長は何か気づいたような顔をした。
「それで僕を不審がっていたのですか。そうじゃない。僕はね、ある仮説を立てたんですよ」
「仮説、というと?」
私が促すと、彼はこんな推理を披露した。
「つまり、町の人間と社員たちがグルになって僕をだまして、宝を持ち逃げしたんじゃないかと言うことですよ。だってね、あの金庫の番号は僕以外には社員しか知らなかったはずなんですよ」
それで、あの時から様子がおかしかったのか。つまり、彼は失踪者としてではなく、窃盗犯だと認識を改めたということになる。
「でも、失踪者と町の人たちが結託する理由がありませんよ?」
私が反論すると、社長は渋い顔をする。
「それは僕にもわからない。ただ、状況証拠から社員と町の人間、両方が協力して何かたくらんでることは確かだろう? 大方、文化財を売っぱらって山分けしようなんて考えてるんじゃないか?」
なるほど、筋は通るように聞こえる。と、思っていると、後ろから一ノ倉教授が声をかけてきた。
「だとすると、順番が違う気がするのですよ」
え、と社長は一ノ倉教授を見る。どういう意味だ、と言いたげな彼の顔を見て、教授は説明した。
「つまりね、普通は宝が見つかってら失踪するものですよ。失踪してから誰かが宝を見つけてくれるのを待って、改めて持ち逃げするなんて非効率だと思いませんか?」
言われてみれば、確かにそうである。しかし、中台社長は教授の推理にまだ納得いかないのかこんな反論をした。
「むしろ、順序が逆だからこれほど犯人像がわかりにくい話になったのではないですか。それ自体が隠ぺい工作の役割があるのかも」
これまた筋は通っている。しかし、教授はまだ反論の材料を持っていた。
「ところが、町の人間は例の仏像が禁足地に隠されているのを知っていたのですよ。だから、彼らがそれを掘り起こす動機はない。むしろ、社長がそれを見つけてしまったこと自体が、町の人間にとっては不都合だった」
それを聞いて、さっきまで黙っていた里中さんが姿勢を正した。何か思い当たる不死でもあるのだろうか。教授はさらに自説を述べる。
「あの仏像を盗んだってどこにも売れませんよ。この町の人々の動機はむしろ、例の仏像を隠しておきたいということにあるんですよ。そして、社員の方たちの動機について、僕はあなたに訊かなければならないことがある。彼らは、あなたから逃げようとしていたんだ」
「なんだって、社員が僕から逃げるんですか?」
社長は何も後ろめたいことなどないぞ、と言わんばかりに胸を張る。
そこで、一ノ倉教授は一枚の紙を取り出した。
「これは僕がここの脱衣所で見つけたものです。あなたのものではありませんか?」
そう言って机の上に出したのは、簡素な名刺だった。
「赤山 達郎」
私はその名前に心当たりがあった。
「赤山達郎って、あの関西の暴力団赤山組の幹部じゃないですか……!」
中台社長はぎょっとすると、慌てて首を横に振った。
「いや、これは確かに僕がもらったものなんだが、同姓同名の別人だよ! バーでたまたま意気投合して名刺を交換したけど、本当にそれっきりで」
中台さんの必死の言い訳に、教授はにこやかにうなずく。
「ええ、おそらく、その通りなのでしょう。ちゃんと社名と肩書の記載があります。しかし、あなたの社員はそうではなかったのかもしれませんね」
え、と社長は驚く。教授は笑顔のまま次のように言った。
「そろそろ答え合わせと行きましょう。里中さん、町長さんと宿のおかみさんをコミュニティセンターに集めてください。仏像の処遇についても、私にいい案があるんです」
へえ、と驚いて立ち上がった里中さんは、慌てて部屋を後にする。
「それと宮坂さん、美咲さんの実家に彼女を迎えに行ってくれないか? できれば同僚の皆さんと失踪した案内役の2人も、彼女に居場所を聞いて集めてほしい。社長は危険な人ではないと説明もするように」
私は名前を呼ばれ、里中さんと同じような反応で立ち上がった。
「え、どうして、実家にいると思うのですか?」
私が尋ねると、彼は笑った。
「彼女の父親が、靴を隠した理由を考えるんだ」
たしか、はじめに尋ねたとき、奥さんの靴がなかったから単身の世帯だと思ったんだっけ。
もしかして、あの時すでに娘さんは帰っていて、彼女の存在を隠していたということなのか? 私はひとまず一番早い電車に飛び乗ると、駅前へと向かった。
15.
美咲さんの実家を訪ねると、今度は父親が出た。
「すみません、娘さんはこちらにいらっしゃるんですよね?」
私がそう切り出すと、父親は図星をつかれたような顔をした。
「中台社長は暴力団と付き合いがあるわけではありません。ご説明をしたいので、出てきていただけませんか?」
私がそう言うと、奥から20代後半くらいの女性がおずおずと姿を現した。
「ええと、私が美咲です」
彼女にあいさつをすると、残りの同僚たちと、失踪した案内役の男性2人にも連絡を取ってもらい、弥生町へ来てもらうこととなった。結局、失踪者は全員無事に弥生町の外でかくまわれていたようなのだった。
教授の言うとおりに、驚くほどスムーズに事が運んでいるようである。
私たちが街に到着したころには、コミュニティセンターにはすでに里中さんと中台社長、町長らしき初老の男性、宿のおかみさんとその息子さんがそろっている。
「お前、どうして町を出たんだ!」
里中さんは、こちらに気づくと後ろにいた若い男性に詰め寄った。おそらく、彼が里中さんの息子さんなのだろう。彼は不貞腐れた様子で何も答えなかった。
中台社長はと言うと、社員たちを見つけ、どこに行っていたんだ、と詰め寄っていた。
社員たちは申し訳なさそうな顔で口ごもっている。
全員がそろってからしばらくの時間が空き、待っていると、一ノ倉教授がきれいな布のようなものに包まれた両手に収まるくらいの何かをもって現れた。
「お待たせしました。まずは失踪者が全員見つかり何よりです。そして、仏像の方も無事に保護できました」
そう言って教授が包みを開けると、中から前に画像で見た仏像が現れた。
「あっ」
中台社長は驚いて声を上げる。街の人々もはっとした顔で固まった。
「これが、この町が隠してきた弥生如来像です」
教授は再びそれを包むと、口をパクパクさせている町長たちに向かって話し始めた。
「まずは、どうしてこれが隠されたのかから始めましょうか。と言っても、本当に簡単な話なんですよ」
私はかたずをのんで教授の次の言葉を待った。貴重な文化財が秘匿されていたわけ、そこにはどんな理由があったのだろうか。
「まずは、重要文化財というものの厄介さから説明しなければなりませんね。これは、名前の響きほど値打ちがあって持っていてうれしいものでもないのですよ」
教授はそんなことをさらりと言った。町長は、あ、と小さく声を上げたようだった。
「重要文化財に指定された品物の持ち主は、それを管理維持する責任が生じます。湿度、温度、日当たり。それが劣化しないような条件で保管し続ける義務がある。おそらく、これのもとの持ち主である亡くなった住職は、ある程度までこれを果たしていたものと思われます」
言われれば、重要文化財に指定されるような作品は、大きな施設で手入れがなされていることがほとんどである。
「ところが、こうした義務と引き換えに得られる助成金は、そうした維持管理費に足りる量とは到底言えない場合がほとんどです。差し引きで、年間一千万円以上の管理費を必要とするというのが実情なのです。大きく、体力のある寺などは、ほかの仏像などと合わせてそれを見せものとし、余分のお金を稼ぐことができるでしょうが、この町の場合は違った」
ドキリとした顔で里中さんとおかみさんが息をのんだ。
「後継ぎのいなかった住職が亡くなってから、この文化財を守る責任は、町に移ってしまったわけです。それには、おそらく住民の負担を要したでしょう。しかし、こんな責任を支えきるだけの財力が、この町にはなかった。どれだけ値打ちがあると担ぎ上げていたものでも、自分たちの重荷となったら、やはりおかしいと不満が出るものでしょう。誰がはじめに言い出したかはわかりませんが、あなた方はこの責任から逃れるために一計を案じたはずです」
私はようやくこの事件の本質を理解した。この仏像は、見つかってはならない品物だったのだ。
「つまり、禁足地と呼ばれる、人の立ち入らない場所にこれを隠して、紛失したと嘘をついたんですよ。それだけじゃない。用心深く、禁足地の場所を広げてね。今日ここに持ってきた仏像は、禁足地の最奥部に隠されていましたよ」
町長は、ああ、とうめいた。
「宗教的な理由付けで捜索をあきらめさせ、管理維持の責任からも逃れる。一石二鳥の作戦は、しかし、長期的な隠ぺい工作を必要としました。すなわち、禁足地に立ち入るよそ者を排除する工作です」
私は思い出してそのことを補足する。
「そう言えば、私たちがあそこに立ち入ってから、心霊現象が起きたんでした」
私の合の手に教授もうなずく。
「おそらく、ああして部外者が面白半分に近づくのを防いでいたんだろうね。中台社長も何か心当たりがあるんじゃありませんか?」
教授が水を向けると、社長もそう言えば、と私たちが体験したのと同じような怪奇現象を語った。
「しかし、それだけ隠したいものだったのに、どうして中台社長の宝探しを受け入れたんですか?」
私が聞くと、教授は次のように答えた。
「一つには彼の金払いがよかったことがあるでしょう。もう一つは、案内役をつけて禁足地だけは調べられないようにしたうえで、この町に文化財は存在しなかった、という結論を強く決定づけたかったという思惑もあったはずです。おまけに、あわよくば怪奇現象の起こる禁足地として、よそ者たちを怖がらせる広告塔を務めてくれるかもしれない」
教授の言葉に町長と里中さん、おかみさんはうなだれたまま黙りこくってしまった。これは、今話したことがすべて図星であるとみて間違いないだろう。
と、そこまで聞いて中台社長が口をはさむ。
「では、仏像を盗んだ理由もそこだというのですか?」
教授はその通り、と首肯した。
「残念なことに、中台社長は仏像を自分のものにする気はないとおっしゃった。となれば、見つかった仏像の管理責任者は再び町に移ってしまう。だから、なんとしてもなかったことにしなければならなかったのです。あの金庫は僕の客室にもありましたが、暗証番号はたったの3桁だ。それくらいなら、社長が寝ているうちにマスターキーで忍び込んで全パターン試せるでしょう」
ああ、と社長はがっかりとした顔になり、そしてまた質問をした。
「そこまでは分かりましたが、どうしてうちの社員を連れ去る必要があったのですか?」
教授はまたこくりとうなずいて続ける。
「ええ、そちらはまた別の事件なのですよ。しかし、根っこは同じです。つまり、元からおかしかったものを、おかしいと言い出せずにいた人たちの、堪忍袋の緒が切れる瞬間があったというお話です」
中台社長は首をひねって尋ねかえす。
「つまり、何が言いたいのですか?」
「仏像の管理を続けるのは明らかにおかしい、これを言い出した人がいたことで仏像がなくなったのと同じように、ありもしない仏像を探し続けるのはおかしいと思っていた人たちがいた。さらには、仏像を隠し続けることにうんざりしていた人たちもまた、この町に存在していたんです」
教授の説明に私は思わず声が漏れる。まさに、社員たちと町の若い男衆のことではあるまいか。これも、さっき聞いた「多元的無知」状況のひとつだ。教授はさらに詳しい説明を始めた。
「つまり、ここにいる社員のみなさんは、数日間にも及ぶ仏像の捜索に、内心辟易としていたのではありませんか? おかみさん、あなたはその様子を見ているはずです」
話を振られたおかみさんは、ええ、と焦ったように答えた。
「本当に仏像なんてあるのか、と愚痴をこぼしてらっしゃる方もいました」
それを聞いて中台社長は驚く。
「そんなこと、俺には一言も言わずに熱心に付き合ってくれていたじゃないか!」
言われ、社員たちは申し訳なさそうな顔でうつむく。教授は助け船を出すように続ける。
「上司と部下の関係で、なかなか言い出せるものでもありませんよ。それに、ひとりひとりはおかしいと思っていても、仲間の誰も言い出さないことで、おかしいと思っているのは自分だけだと萎縮してしまう現象があるのです」
それを聞いて、美咲さんが口を開いた。
「いつ言おうかと思ってはいたんですが、みんなもやる気だったし、自分だけ帰りたいなんて言い出せなくて……」
おどおどとした美咲さんのその話に、社長は愕然とした表情になった。ほかの社員たちも、実は同じ気持ちだったのだと同調した。
「いつまでも見つからない仏像に、心霊現象もあり、もとのIT職とも違う社長の趣味に付き合わされる状況。集団失踪は、そうした不安と不満が、あるきっかけではじけたために起きたのですよ」
教授の説明に、社長は困った顔で振り返る。
「きっかけって?」
「社長が脱衣所で落とした、暴力団組員の名刺です。社員のひとりがそれを見つけて、情報を共有したことで、逃げようという話になったのではありませんか?」
一ノ倉教授がそう言うと、あ、と社員の一人の男性が声を上げた。
「そ、そうなんです! 社長が反社と付き合いがあるなんて知らなかったから……!」
中台社長は誤解なんだ、と困り果てて弁解する。一ノ倉教授も、その言葉に同調した。
「この名刺の主は同姓同名の別人ですよ。それに、もし本当に深い付き合いがあったなら、名刺を落とした時に真っ先にそれを探して隠そうとするはずだ。僕が脱衣所でこれを拾えた時点で、彼にとっては数ある名刺の一枚に過ぎないのだと思います」
教授の助け舟に安堵したのか、中台社長は名刺入れを取り出して釈明した。
「たまたまバーで知り合った人だよ。会社に戻ったら彼に連絡して確認をとることだってできる」
それを聞いた社員の男性は、唖然として謝罪した。
「つまり、自分の勘違いだったんですね……」
社長と社員が一応の和解を見せると、教授はさらに話をつづけた。
「さて、逃走計画に加担したのは社員の人たちだけではありませんね。禁足地で見つけたこのメモ書きは、町の案内役のお二方にあてられたメッセージでしょう」
教授が取り出したのは、禁足地で見つけた「社長は危険だ。ここから逃げたい」というメモだった。今ならその意味もよくわかる。反社と付き合いのある社長の宝探しに不信感を覚えた一同が、逃走に手を貸してもらうべく案内役にこっそりとメッセージを送ったのだろう。
「これを受け取ったあなた方も、町から逃げ出す動機を得た。違いますか?」
教授に名指しされ、案内役の若い二人、里中さんの息子さんと、新井さんはびくりとした。
「そこの人たちにあの社長が暴力団だって聞かされて、例の禁足地のことを思い出したんだ。ガキの頃から漠然と近づかないように言われて、よその人を脅かしたりして、あの場所はおかしいって前から思ってた」
そんな風に語りだしたのは里中さんの息子さんだった。教授はそれを聞いて深くうなずいた。
「なるほど、やはり、あの仏像の件すら、あなたたちは聞かされていなかったわけですね」
言われ、ふたりはこくこくとうなずいた。
「だから、思っちゃったんだよ。あの山にヤクザが死体を埋めに来ていて、俺たちはその片棒を担がされてるんじゃないかって。だって、町ぐるみでヤクザを招き入れるなんて、どう考えてもおかしいだろ? やけに金払いがいいのも不気味でさ」
教授は安心させるように笑うと、このようにまとめた。
「それで、社員の人たちの逃走計画を手伝って、自分たちも町から脱出したわけですね」
教授はまた全員の方に向き直ると、こう続けた。
「それから先は、みなさんの知る通り、失踪者は実家などにかくまわれて社長との連絡を絶ち、町の青年たちも、市街地に出て帰らなかったということです」
こうしてまとめてみると、ずいぶんとすっきりした話である。すべては、しっかりと情報が共有されていなかったために起きた悲劇だったのだ。
「それで、これからどうするおつもりですか」
全て聞き終えてから、最初に口を開いたのは町長だった。
「我々は今さら仏像が見つかったからと言ってそれを維持することはできませんよ」
町長のそんな言葉に、教授はふふ、と笑ってからこう言った。
「だから、ここまでのことすべてを、中台社長に聞いてもらったのですよ」
え、という顔で一同が中台社長を振り返る。彼は難しい顔をして何か考え事をしている。
「よくわかりましたよ。僕の使命はね、文化財を守り、つないでいくことにあるんだ。国の制度が原因で、こうして隠匿され、失われてしまう文化財がいくつもあることは、本当に悲しいことだ」
ひとりごとのようにそう言ったかと思うと、彼は目を開いていった。
「私にその仏像を引き取らせてください」
彼の言葉に、町の人たちの顔が明るくなる。社長は社員たちに向き直ると、続けてこう言った。
「僕のわがままに、もう一度付き合ってくれないか。君たちの力が必要だ」
16.
数日して、私はいつものように忙しい交番勤務をこなしていた。
備え付けのテレビからは、夕方の特集ニュースが流れている。
「本日取材に来たのは、新進気鋭のワンマン社長が経営する美術館です!」
ふっと目をやると、そこには中台社長がインタビューに答える姿が映っていた。
「世の中には、重要文化財に指定されたにもかかわらず、金銭的理由から辞退したり、隠されてしまう美術品が数多くあるんです。僕は、全国を巡ってそうした古美術品を探し集め、保存する事業に取り組んでいます」
再び集まった社員たちとともに、彼の会社はさらに大きく成長しているようだった。やや強引なところのあった中台社長だが、その力強さと商才が人を引き付けるのだろう。
「このあとは、恐怖の禁足地⁉ 弥生町の温泉とグルメをご紹介します!」
テレビからはまたよく知る名前が聞こえてくる。すっかりと彼らも有名になったものだった。私は、面白かった弥生町での冒険を思い出しながら、特別でもない仕事の日々に戻るのだった。
「えっと、宮坂。お前今日は非番じゃなかったか?」
振り返ると、いつもの相勤者とは違う同僚警官の顔。カレンダーを確認すると、確かに今日は休みだった。つまり、間違えて出勤してしまったのか、私は。
「どうしてみんなもっと早く言ってくれなかったんですか~!」
交番内に響きわたる私の絶叫。同僚たちは言い出しにくかったようで苦笑いをしていた。
誰もがおかしいと気付いているのに誰も切り出せない状況。確か、「多元的無知」というのだったか。
案外と、奇妙な集団心理は日常に潜んでいるようである。
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