第3話 認知的不協和

1.

ゲーテの本「若きウェルテルの悩み」を知っているだろうか。

この本の主人公である青年ウェルテルは、婚約者のいる女性への叶わぬ恋の果てに絶望の自殺を遂げてしまう。

1774年発行のこの本はヨーロッパでベストセラーを記録し、主人公ウェルテルの方法をまねて自殺をする若者が爆発的に増えてしまったという。

似た現象として、自殺に関する報道がなされると、その地域での自殺率が上がることが統計的に確認されている。この現象は主人公の名をとって「ウェルテル効果」と呼ばれる。

現在でも自殺に関する情報がインターネット上で規制の対象となっているのは、このためである。


2.

相模川駅前交番は神奈川県の中央部に位置する小さな市の駅前交番である。箱根や鎌倉、湘南や横浜など観光地を数多く有する神奈川県の中で、中央部はまさに「なんもない中途半端な田舎」と呼ぶにふさわしい。要するに、駅前だけそれなりに整っていてあとは田んぼと畑の中に国道が走っているような地域である。とはいえ、東京への交通の便もいいことから、半端に都会としての自負もあるから厄介である。

交番勤務の巡査である私、宮坂 澪音(みやさか れいん)もご多分に漏れず半端な都会もんとしての自覚を持ち、コンビニで買ったカヌレを昼食後のデザートとしていただいていた。今の私は警官にしてはイケている。

隣では上司である五十嵐 清美(いがらし きよみ)巡査部長が経済ニュースをスマホで眺めながらぶつぶつ文句を言っている。反対では先輩である佐藤 隼(さとう しゅん)巡査が遺失物の台帳を記録していた。

比較的治安のいいこの地域では落とし物や迷子の相談が主で、ときおり所轄署から入る盗難や傷害事件の対応以外には暇になる時間も多かった。警察学校時代の同期には配属先ガチャ大当たりとうらやましがられることもあったが、向上心あふれる私としてはやや怠慢な相勤者ふたりに不満もあった。

そんな折、一本の内線電話が鳴り響いた。相模川警察署からだ。私が慌てて受話器を取ると壮年の男性の声がした。

「あれ、女の子が出た。そちら相模川駅前交番で合ってる? 刑事課の松本です」

明るく、フランクな調子だがおそらく偉い人なのだろうという気配があった。

「はっ、こちら相模川駅前交番、宮坂巡査であります! 事件ですか?」

私が前のめりに応答すると、ははっと電話の相手は笑った。

「相模川中学校から爆破予告の相談が来ています。交番の巡査2名を応援によこしてね」

爆破予告。平和なこの街にふさわしくない言葉に私は背筋を伸ばした。

「相模川中学校で爆破予告です!」

電話を終え私が五十嵐部長と佐藤巡査に報告すると、ふたりは油断しているところを突かれたのか、椅子から転げ落ちるように立ち上がった。

「佐藤、宮坂、行ってこい」

痛そうに腰をさする五十嵐部長のそんな一声で、私たちは現場へと臨場した。臨場。一度言ってみたかったんだ。


3.

相模川中学校は60年の伝統ある公立中学校である。畑と田んぼに囲まれてぽつんと存在する広い敷地。何度かの改築を経ながらもすっかりまた薄汚れた校舎のまわりを、杉などの背の高い樹木が囲んでいる。

来客用駐車場にパトカーを停めると、私と佐藤先輩は生徒と教職員が避難している校庭へと移動した。到着するとすでに何名か捜査員が来ているらしく、スーツを着た刑事の指示を受けていた。

「ああ、来た来た。飴ちゃんいる?」

ロマンスグレーの髪をオールバックにひげを生やした男性刑事がニコニコとしながら個包装のミルクキャンディーを手渡した。彼が電話で聞いた松本という刑事だろう。高級そうなスーツに派手な赤シャツを着てダンディと言った雰囲気だ。私と佐藤先輩は礼を言って彼に尋ねた。

「それで、爆弾というのは?」

松本刑事はまあまあと手でサインをしてのんびりと話し出した。

「今日正午に爆破をすると学校あてに予告が来たんだ。おそらくはいたずらなんだけど念のため爆発物処理班に確認を依頼している。君たちは裏門前で不審人物の出入りがないか見張ってね」

最近よくそういうニュースを聞く。平和なこの街でもそう言うことが起こるのかと私が驚いていると、松本刑事はまたすたすたと別の捜査員のもとへ歩いて行った。ずいぶんあっさりしたものである。

裏門は校舎西のはずれにあるらしく、薄暗い雰囲気だった。林の中に花束が置いてあるのが見える。あれって、お供えだろうか? 

気になったが今は仕事に集中しようと、私は裏門付近を通る人や車を見張ることにした。裏門というだけあって人どおりは一切なく、しばし静かな時間が流れた。予告の正午まではあと10分ある。隣の佐藤巡査も爆発におびえるように肩をいからせていた。

正午。

私は腕時計を何度も見る。すでに十数秒が経過したが爆発の気配はなし。しかし、まだ油断はできない、刑事からの指示があるまで、私たちはさらに3時間という時間を見張りに費やした。その間、不審な人物はおろか、車両の通行さえなかった。

午後3時になって、松本刑事が小走りに私たちのもとへやってきた。

「校舎の点検は終わった。爆発物は確認できず」

それを聞くと佐藤巡査は敬礼してきびきびと返事した。

「こちらも不審人物、不審車両ともなし。異常ありません」

「わかりました。君たちも交番に戻ってください」

それだけ言うと、松本刑事は走っていった。

私と佐藤巡査は緊張を解いて交番へと戻るのだった。


4.

それから数日して、また内線があった。出ると、先日の松本刑事である。

「今度は殺害予告だ。この前の相模川中学。2名派遣してください」

そう簡潔に言うと一方的に電話は切れた。あの中学で、一体何が起きているのだろうか?

私はまた佐藤巡査とともにパトカーを走らせるのだった。

朝9時ころ、再び中学校に来ると今度は休校になっているらしく、校舎の明かりが消えていた。一部の教職員と捜査員だけが校門近くに集まっている。

一群の中でも目立ったロマンスグレーの男性が、また私を見つけて歩いてきた。松本刑事だ。少しくたびれたような顔をしていた。

「今日、生徒を殺害するという電話があったそうでね。出本を探っているけど、犯人が学校に来る可能性がある。また裏門の見張りを頼みますね」

以前のフランクな調子とは違い、事務的な態度だ。私は少し疑問があり、立ち去ろうとする刑事に尋ねた。

「前回の爆破予告と同一犯でしょうか?」

刑事は少し面食らったような顔をした後、難しい顔になって答えた。

「別の人物です。この前の犯人は保護者同伴のもと取り調べを受けているよ」

保護者同伴、つまり。

「未成年だったのでしょうか?」

私がさらに尋ねると、松本刑事はうなずいた。

「この中学の男子生徒だね。今回の殺害予告は生徒による模倣と見ている」

松本刑事は腕時計を見ると、急いだように教職員たちの方へ戻っていった。

指示に従って裏門へと着くと、佐藤先輩が呆れたように話しかけてきた。

「お前、あんまり松本さんに迷惑かけるなよな」

え、と私が驚くと、佐藤巡査はため息をついた。

「出世を焦ってるか何か知らないけど、俺たちは言われたことだけやればいいんだ。得点稼ぎのつもりなら時間を取らせるのは逆効果だぞ。」

こう言う指示待ちで事なかれ主義な態度は佐藤先輩のお家芸である。別に出世がしたいわけではなく、単に気になったのだ。

しかし、いつもと違い佐藤巡査はさらにこう続けた。

「あの人は相模川署刑事課の頭脳なんだ。気に入られたいなら有力な手掛かりのひとつも見つけて報告したほうがいい」

どうやら佐藤先輩なりのアドバイスだったらしい。私はありがたくそれを聞き入れると、しっかりと目をこらして見張りに集中した。先日見たお供えの花は、誰かが入れ替えているのか、前と違うものになっていた。

すると、ひそひそと話し声が聞こえる。どうやら近くの林で教職員らが話しているようだった。私は聞き耳を立てる。

「いじめ自殺の件も対応が残っているのに、どうしてこんなことになっちゃうんでしょうねえ」

と、中年の女性教諭が顔に手を当ててため息をつく。いじめ自殺の件? 

私はただならぬ気配にさらに耳をそばだてた。

「いや、あの一件以来生徒の様子がおかしいんですよ。リストカットとかタバコとか飲酒とか。窓ガラスを割ったやつもいましたけど、そのどれも不良ってわけじゃない」

ジャージを着た体格のいい男性教師がそんなことを言うと、女性教諭は口に手を当てて一段と声を落とした。

「ねえ、あの子の呪いなんてこと、ありませんよねぇ?」

あの子の呪い、とはどういうことだろうか。男性教師はおびえたように返した。

「めったなことを言わないでください。生徒に死んだあの子が取り付いたとでも言うんですか?」

それは、ある種冗談であってくれ、というような言い方だった。死んだあの子、というのが、もしかしたらそのいじめ自殺の件と関係しているのかもしれない。私は先日校舎裏で見た花束を思い出した。

飛び降り自殺。

そんな可能性が頭をよぎる。私は身震いして見張りを続けた。

やはりその日も不審な人物は現れず、見張りを終えたのだった。

念のため先ほど聞いたいじめ自殺の件を松本刑事に報告すると、彼は神妙な顔になって指示を出した。

「このあと教職員への聴取をお願いします。いじめ自殺の件と、その後の生徒たちの行動について」

私たちはその指示に従って教職員への聞き込みを行った。

その結果判明した事実は3点。

自殺した生徒の名前は河合 美優(かわい みゆ)。当時14歳で2か月前の水曜昼頃、校舎西の屋上から飛び降りたという。

学校側は自殺の理由について調査を続けており、いじめを認定するかどうかで連日会議が開かれていたという。

また、自殺があった数日後から生徒たちの間で問題行動が増加している。リストカットや飲酒、喫煙、器物破損など多岐にわたり、それまで普通に過ごしていた生徒複数人が個別に起こしていたという。

以上3点を松本刑事に報告したところ、しばらく考え込んだような顔になって次のように指示した。

「今後の捜査では河合美優の自殺と一連の犯行予告との関連性を探ります。君たちは次の指示があるまで交番に戻って待機してください」

交番に帰る道すがら、私は考え込む。複数の生徒がある日を境に非行に走る。これはまさに、集団心理が関係した現象なのではないだろうか。

私は「群衆の心理に詳しい大学教授」のことを想起していた。少し落ち着いたら、彼に相談してみるのもいいだろう。


5.

数日して、相模川中学への一連の犯行予告は全国ニュースになるまで大きくなっていた。

学校に恨みを持つ生徒の犯行か。自殺した生徒との関係は。学校はいじめ認定を出すのか。

ワイドショーではそうした無責任な憶測がなされ、相模川中学には取材の記者が連日押しかけているようだった。五十嵐巡査部長ではないが、けしからんと言いたくなるような野次馬っぷりだ。私はあの教職員たちのことを気の毒に感じていた。

そんな折、また刑事課からの連絡を受け、私と佐藤先輩は生徒たちへの事情聴取を行うこととなった。

「隠ぺい体質なんですよ、うちの教師たち」

どこで聞きかじったのか、そんな大人びたことを言うのは自殺した河合美優のクラスの学級委員だった。黒髪をおさげにして銀色のふちの眼鏡をかけた少女だ。自宅学習となって一人で留守番をしていたらしく、すぐに聴取に応じてくれた。

「爆弾とか殺害予告の件だけじゃありません、みんなが問題行動を起こしてるのは、学校に不満があるからなんですよ」

背伸びした彼女の語り口に気圧されながらも、私は尋ねる。

「不満、と言うとどういうことですか?」

こういう子は対等な姿勢で話した方が話しやすいだろう。私にもこういう時期があったので、子ども扱いされたくない気持ちはよくわかる。

「いじめも非行も見て見ぬふりなんです。誰も責任が取れないんですよ。だからここまで大きな事件になるまで誰も止められなかった」

組織にいるとよくわかることだが、責任の所在はあいまいなことが多い。特に、忙しい現場なら末端と上で意思疎通が取れていないことも多くあるだろう。

「では、いじめについて知っていることはありますか?」

私が質問を変えると、クラス委員の少女は悲しい顔をした。

「彼女が悪かったわけじゃありません。少しクラスから浮いていたところがあったから、ちょっとしたことで目をつけられた」

小中学生ならよくある話だが、自殺まで至った以上はかなり追いつめられていたのだろう。

「いじめていた生徒については心当たりありますか?」

私が深く突っ込むと、彼女は軽蔑を込めて語った。

「うちのクラスの渡辺のグループです。最近は不登校になりましたけどね」

もういいですか、と引っ込んだ彼女に礼を言うと、私たちは名簿からその渡辺という生徒の家も訪ねてみることにした。

しかし、渡辺さん宅は留守か居留守か、インターホンを押しても応答がなかった。

結局、河合美優のクラスメイト達への聞き込みは、満足な成果が得られずにおしまいとなった。

その後、松本刑事に連絡を入れると、意外な話を聞くことができた。

「前の爆破予告の容疑者少年に取り調べをしたんだけれど、彼らに指示を出している存在がいるようなんだ」

「指示、ですか?」

私が聞き返すと、刑事はああ、と返してから、なにかをためらうような間があってこう続けた。

「詳細は聞けなかったが、河合美優からの指令だと語っていた。すっかり彼女に心酔しているようなんだ」

死者による犯行指示。いよいよ話は謎めいてきたようだった。


6.

県内最大級の公立大学、相模川大学。その文学部棟は設立当初からあるレンガ造りの古い建物だった。文学部棟4階に位置する一ノ倉研究室で、私は松本刑事とともに目下捜査中の事件について捜査協力を求めたのだった。以前警察に協力をしたことがある大学教授だ、と話したところ、上からの許可が下りたのである。

「つまり、生徒たちが問題行動を次々に繰り返した理由について見解を聞かせてほしいというわけですね?」

事件の概要を聞いた一ノ倉教授は黒のタートルネックに白衣を着たいでたちで、ソファの上で腕組みして尋ねた。

「ええ、そもそも命令は出ているのか、なぜおびえた様子なのか、そこまでして命令に従った理由は何か、ここらあたりが疑問点なんですよ」

松本刑事がにこやかな笑顔で答える。一ノ倉教授はふうむと目を閉じて何か考えているようだった。次に口を開くと、こんなことを言った。

「ところで、捜査協力の代わりに少し僕のお願いを聞いてもらってもいいですか?」

それを聞いた松本刑事は手伝える範囲であれば、と返事をした。

「まずは場所を移しましょうか。食堂へ行きましょう」

一ノ倉教授は促すように席を立つと私と松本刑事を前に進ませ、ドアを閉めた。

ん? と私はおかしな気配を感じ取った。これはこの人のいつもの手口ではないだろうか。

食堂に着くと、一ノ倉教授は次のように言った。

「どこかいい席があればとってもらえますか?」

私たちは指示のまま席をとり、荷物を置いて着席した。

「そうだ、せっかくですから何か食事などどうですか? 食べたいものがあれば買ってきましょう」

松本刑事はいぶかしむように私と目を合わせた後、A定食と注文した。私は天ぷらそばを頼むと、一ノ倉教授は券売機に向かうついでに、こんなことを言った。

「買ってくる間、お水など取ってきてもらえると助かります」

私は松本刑事を座らせ、率先して水を取りに行く。と、水をとっている間に一ノ倉教授は松本刑事のところに戻っているようだった。慌てたようにぺこぺこと頭を下げている。

「すみません、さっきの研究室にお財布を忘れてしまったみたいなんです。一時的に貸していただくこと可能でしょうか?」

松本刑事は財布を取り出すと、一万円札を預けたようだった。

私が水を手に戻ると、なぜか一ノ倉教授が席についている。と、松本刑事が膳をもって戻ってきた。

「ああ、ありがとうございます」

一ノ倉教授の返事に松本刑事はいえ、と返事する。

「もともとこちらがお願いしていることですから、こちらの食事代は私が持ちましょう」

私は松本刑事の返事に驚いた。もちろん、けち臭いことを言うような人ではないが、もともとご飯をおごるつもりで来ていたわけではないのだ。

一ノ倉教授は嬉しそうに膳の前で手を合わせると、こう言った。

「さて、これで分かりましたでしょうか?」

え、と松本刑事と私は顔を見合わせる。分かる、とは何がどういうことなのだろうか?

「私のはじめのお願い、さっきの部屋を出て食堂に行こうというお願いを聞いたことから、エスカレートする要求を、結局すべて飲んでしまいましたね」

あ、と刑事は驚いたような顔をする。

「しかも、あなたは自分から、進んで私にご飯をおごると言い出した」

一ノ倉教授の言葉をかみしめるように松本刑事はあごに手を当てた。

「一ノ倉教授、こんなペテンみたいなことをして何がしたいんですか?」

私が少し怒ったように尋ねると、いや、と松本刑事が制止した。

「つまり、これが彼らを従わせた方法ではないかと、そう言いたいわけですね?」

なにかがわかったというような松本刑事の言葉に、一ノ倉教授もうなずく。

「一体、今ので何がわかったって言うんですか?」

私が飲み込めずに聞き返すと、一ノ倉教授が笑いながら答えた。

「部屋を出て食堂に行くという簡単なお願いを聞いたことで、次の、席をとるという要求へのハードルが下がったんだ。席を取ったらご飯を注文するハードルが、ご飯を注文したら水を取りに行くハードルが、水を取りに行ったら注文した分のお金を貸すハードルが下がって、最終的にその気もなかった1万円を払ってしまった」

ああ、と私はようやく理解した。

「小さなハードルを徐々に超えていくうちに、いつのまにかとんでもない要求をのまされていたということですか?」

私が聞くと、感心したように松本刑事がうなずいた。教授はさらに補足する。

「もっと言うと、要求をのんだ結果、あなたは要求をのんだ理由が自分の意志だと勘違いしてしまったんですよ」

言われ、松本刑事は面食らったように、ふむふむとうなずいた。そう、彼はもともと依頼のつもりだからおごるのもかまわないという口ぶりだった。

「そうですよね、当初はご飯を食べようとも、謝礼としてご飯をご馳走しようとも思っていたはずないですから。おごってもいいなんておかしいですよ」

私が言うと、松本刑事はしてやられた、というような顔でくっくっと笑う。

「いやはや、若い教授なので心配しましたが、大した根性ですよ」

あけすけな松本刑事の言葉に、一ノ倉教授もふふ、と笑った。教授はこういう正直な意見が好きなのだった。

「はじめに簡単な依頼に応じると次の依頼の承諾率が上がる。これをフット・イン・ザ・ドアテクニックと言います」

教授はマジックの種明かしのようにさっき使ったトリックを紹介した。ああ、そう言われると有名な手法だったとわかる。確か訪問販売の営業職がよく使うんだよな。

「また、こちらがおごると言っておいて後で財布を忘れたと言って条件を取り下げる。こっちがローボールテクニックです」

なるほど、ビジネスでなくともそこかしこに人の防御姿勢を崩す心理テクニックというのはあるものである。一ノ倉教授は締めくくるようにこう解説した。

「つまりですね、見返りもなくお願いに従うという行為を続けると、自分がそのお願いをした相手を尊重していると錯覚してしまうことがあるんです」

松本刑事はしばし考えた後、次のような仮説を話した。

「すると、一連の指示も軽い要求からエスカレートしていったと考えるのが妥当でしょうか?」

教授はそうですね、とその意見に同意した後、付け加える。

「複数の生徒が指示を聞いていることから、同時に、例えば、メーリングリストのような形でグループ全体に指示が出ているのかもしれません」

と、言ってから教授はまたあごに手を当て、いや、と訂正した。

「あるいは、ソーシャルメディア上で一連の指示が出されている可能性もあるでしょうね」

教授の言葉に、はっとするように松本刑事が言う。

「それなら、予約投稿などで……」

刑事課の頭脳は一足飛びに真相に近づいているようだった。

死者からの指令。その影には誰が潜んでいるというのだろうか?

松本刑事は謝礼の代わりに本当にご飯をおごると、急いだように警察署へと戻っていった。


7.

それからまた数日して、私はと言うとパトロールのついでに生徒に聴取を続けるよう指示されていた。

曇り空のひと気のない住宅街。ぽつぽつとある一方通行の看板に注意しながら、徐行して運転する。こういう住宅街に交通課の得点稼ぎに使われる罠のような道があるのだ。

佐藤巡査が助手席で面白そうに笑う。

「よかったじゃないか。松本さん、一ノ倉の奴を気に入ったそうだな。お前にもまたチャンスが来るぞ」

佐藤先輩は私が出世したがっているとすっかり思い込んでいるようだった。訂正するのも面倒なので、私はあいまいに相づちを打つ。

生徒への事情聴取では特に不審なメールや、犯行指示などと関連したアカウントについて質問した。

「あ、その話なら聞いたことありますよ」

嬉しそうに話すのは河合美優の下の学年の女子生徒である。噂好きなのか、警察の聞き込みという状況に浮ついているようだった。

「死んだ先輩のアカウントが今も動いてて、DMでやり取りしてる先輩もいるみたいですよ」

DMというのは、SNSで個人間のチャットができるダイレクトメッセージ機能のことだろう。つまり、すでに亡くなった人間と直接会話ができているということか?

「そのアカウントについて、ほかに何か知っていますか?」

私がさらに尋ねると、女子生徒はスマホを取り出した。

「えっと、一時期うちのクラスのグループにも回ってきたんですけど」

と、スマホの画面を見せてきた。

「これです」

そこには、QRコードが記載されていた。生徒の間で拡散共有がなされていたらしい。私が私物のスマホで慌ててそれを読み取ると、隣で佐藤巡査がおい、という顔をした。URLは河合美優のアカウントで、最近も投稿がなされていたようである。

「誰かのいたずらかもしれませんけどね」

彼女に礼を言うと、私はそのアカウントについて詳しく調べることにした。

佐藤巡査は渋い顔をすると、

「何かわからないQRをいきなり読み込むなよ。まったくZ世代は分からん」

と、そんなに年代も違わないくせにおじさんっぽいことを言っていた。考える間もなく読み込んでしまったのだから仕方ない。

アカウントの投稿は教授の予想通り行動を指示するようなもので、さかのぼるとやはり簡単な指示からエスカレートしているようだった。読んでいるだけで何となく気分が落ち込むような文面である。

指示は週に1~2回で、毎回朝8時ちょうどに投稿されている。松本刑事がつぶやいていた予約投稿というのも当たりだったようだ。

指示が始まった最初のころまでさかのぼると、ちょうど2か月前、河合美優の命日の次の日だった。

「学校が嫌いな人、私と友達になりませんか。フォローもいいねもしなくていいので、明日も見に来てください」

ごく簡単なお願い。それ以前の投稿では指示のようなものはなく、日常の愚痴などが書き連ねられていた。死者のアカウントが死後に動いていたら、野次馬感覚でフォローしてしまう生徒もいたかもしれない。もちろんさっきのグループチャットのように情報共有もあったはずだ。

その中から何名かでも興味を持てば、次はいいね、次はアカウントのフォロー、次は簡単な投稿を指示し、と蟻地獄のように死者からの「お願い」を聞いていくことになる。

この中学では教師の知らないところで生徒だけのネットワークができていたのだ。

学校に恨みを持っていた故人が、生前から立てていた計画を自殺後に予約投稿を使って実行した。まさに死後の怨念が生徒たちをそそのかしているような、そんな悪意ある筋書きが見えてきた。

このアカウントについて松本刑事に報告を上げると、すでに知っていたようで次のように語った。

「河合美優の身辺について調査をしていたけれど、彼女はオカルトや心理学に傾倒していたようなんだ。死の直前は特にマインドコントロールについて熱心に調べていた。そのアカウントも本人用のスマートフォンから見つかったよ」

警察にかかるとこういうプロフィールも簡単に調べがついてしまうらしい。後ろめたいことがあるわけではないが、ネット上での記録が残る行動には気をつけないとな、という気分になった。

「すると、このアカウントによる犯行指示も彼女によるものなのでしょうか?」

私が尋ねると、電話口の松本刑事はうーんとうなった。

「PCから予約投稿がなされていたことが確認できたんだけど、それだけではないようなんだよねえ」

ややくだけた松本刑事の口調からは、本当に困っているという様子が感じ取れた。

「そのアカウントが彼女の死後に爆破予告の犯人にダイレクトメッセージで直接指示を出している。つまり、河合美優にはこの指示だけは不可能なんだ」

誰か別人が死者のアカウントを動かしている? 

私はこの事件の背後に何者かのもう一つの悪意を感じ取り寒気した。

では、この計画は誰のもので、誰が実行しているのか? そして、その理由は?

さらなる調査を続ける必要があるようだった。


8.

後日、河合美優と接点があった人物について大規模な聞き取り調査が行われた。

生徒の多くは、彼女は学校内で常に孤独であり、友達らしい友達もいなかったと答えた。

私が担任の若い女性教師に話を聞いた時には、彼女は心底疲れた様子だった。

「ですから、私はいじめの事実も知らなかったんです。自殺の当日まで学校に来ていたんですよ?」

言われ私は驚く。考えてみれば、自殺の現場もこの学校だったのだ。では、どうして無理をしてまで学校に通っていたのか?

「不登校だったり、学校に来なかった時期はありますか?」

私が尋ねると、担任教師はこう答えた。

「なかったと思いますね。欠席や早退は多い方でしたけど」

それでは、学校に行きたい事情でもあったのだろうか? 私はかさねて尋ねる。

「では、彼女と仲が良かった生徒や彼女が特に打ち込んでいた活動などはありますか?」

うーん、と教師は考え込む。

「部活も入っていなかったようですし、クラス委員もしていましたけど積極的ではなかったですね」

だとすると、学校に来なければならない理由があり、膨らんだストレスから突発的に自殺をしてしまったということだろうか? 

それにしては、予約投稿や屋上への侵入など計画的な面が気になる。

そもそも、本当に自殺だったのだろうか?

そんなことを考えていた時である。一本の通知が来た。

「ササキセリナという人物にこの動画を見せてください。知らなければ知っていそうな人にこのリンクを回してください」

それは、例の河合美優のアカウントによる投稿だった。今の時間は13時17分。予約投稿とは考えにくい。動画のリンクを開くと、警告メッセージが表示された。

「次のコンテンツには、自殺や自傷行為のトピックが含まれている可能性があります」

確認ボタンを押すと、映像とともに音楽が流れた。それは気が滅入るような曲調のビデオだった。なんとなく嫌な感じがした私は、とっさに視聴をやめた。

これを送ってきた人物は何のつもりなのだろうか?

そして、この犯人が名指しでこの動画を届けたい「ササキセリナ」とは何者だろうか?

私は学校から預かっていた生徒の名簿をめくってみたが、在校生や教師の中にササキセリナという人物はいなかった。

聞き込みの結果といまなされた投稿について松本刑事に相談したところ、驚いたような声で応じた。

「佐々木芹那は河合美優の小学校時代の同級生だよ。家族ぐるみで付き合いがあったそうでね。今は一家で引っ越して私立中学に通っているそうですよ」

では、探していた河合美優と交友があった人物、ということになる。

「ちなみに、美優さんが学校に通っていた理由について親御さんはどうおっしゃっていましたか?」

続けて私が聞くと、松本刑事は次のように答えた。

「両親の教育方針が厳しかったんだそうだ。いじめについても相談されたことがなかったと話していたよ」

つまり、学校には本当に信頼できる人がいなくて、家にも居場所がなかったということになる。

そして、唯一の友達がさっきのササキセリナだった?

では、今の投稿の目的はなんだろうか。この映像の意味も不明だ。

そして、このアカウントを今運用しているのは誰なんだ?

私は今回の件をもう一度一ノ倉教授に相談してみることを提案した。

個人的に見解を聞く程度ならと言うことで、今度は私一人で休日に訪ねることとした。


9.

相模川大学の研究室。本で埋まった小さなその部屋には木々の隙間を通り抜けて午後の陽ざしが差し込む。節電のためか比較的明るい日中はこうして自然光だけにしているのだという。

一ノ倉教授はそんな暖かな陽気の中、テストの採点をしていた。私は入り口近くの革張りのソファでそれが終わるのを待つ。

准教授というのも忙しいようで、自分の研究と講義とテストとをすべてこなす必要があるらしい。と言っても、一ノ倉教授の場合、生徒からの人気がなく受講生が少ないために、これでもましな方なのだという。

採点をしながら私の話を全て聞き届けた教授は、なるほど、と答案用紙から目を離さずに独り言ちた。それはどっちに対してのなるほどなのだろうか。と思っていると、こんなことを尋ねてくる。

「暗い日曜日、という動画を知っているだろうか?」

それは、まさにこの前の投稿で見た動画のタイトルだった。

「もしかして、私が聞いた、不気味な感じの曲のことですか?」

私が尋ねると、そうだ、と彼は首肯した。

「1933年にハンガリーで発表された曲で、各国で翻訳カバーがされている。しかし、この曲にはおかしな都市伝説がついていてね」

「都市伝説ですか?」

私がおうむ返しをすると、彼はまた語り始めた。

「この曲を聞いた人が自殺をしてしまう、という噂だよ。ウェルテル効果と言って、実際、自殺に関する情報が得やすい地域では自殺率が高いという統計的事実もある」

「ええと、それはつまり、どういうことでしょうか?」

私が意図をつかめずに尋ねると、一ノ倉教授は答案用紙から少し目を上げてこう答えた。

「この動画を送った人物は、その相手を自殺に追い込もうとしていたんじゃないか、ということだよ」

私はぎくりとした。この前、あの動画を途中まで見てしまったぞ。私の緊張がわかったのか、一ノ倉教授は安心させるように笑う。

「もっとも、その動画に関して自殺を誘発する効果があるということはほとんど実証されていない。本当に幼稚ないたずらだと思っていいんだ」

私が安堵していると、教授はしかし、と続ける。

「この犯人はこういう幼稚なことをする一方で、おそらく知識も持っているようなんだ」

「知識、とはどういうことでしょうか?」

私が不思議に思い尋ねると、教授はまたこんなうんちくを語り始めた。

「ケビン・ベーコン数、というものを知っているだろうか」

寡聞にして聞いたことがない。と、言う顔を察してか教授は説明を続ける。

「知り合いの知り合いをたどっていくと、6人目で必ず目標の人物にたどり着く、という理論だよ。つまり、ひとりの人間に30人の知り合いがいて、チェーンメールのような手法でその知り合い全員に、できるだけ多くの人にメッセージを伝えるようお願いすると、数学的には『知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合い』まで来たときには世界中の全員に届くはずだ、という考え方なんだ」

昔テレビの企画でそんなのがあった気がする。話だけ聞く分には信じられない話である。

「つまり、今回の投稿もそれに準ずるものと考えた方がいいということですか?」

私が聞くと、彼はうなずいた。

「しかも、わざわざこんな方法でササキセリナという人物を狙い打って、自殺を誘発する動画を送りつけたかった人物というのは、どういう人間だと思う?」

いきなり質問を振られ、私は戸惑った。

「ええと、やっぱり幼稚だということですよね。聞きかじった知識で行動しているような節がある。それに、かなりの悪意を持っている。途中で受け取った人も動画を見る可能性があるわけですから」

私がぽつぽつと考えながら答えると、教授はうんうんとうなずいた。

「すべて正解だ。ただし、もう一点大事なこととして、『これを送った人間はササキセリナのことを名前しか知らない、それもおそらく文字では知らない』と言うことがある」

えっと、つまりそれは。私が考えていると、教授は次のように言った。

「面識のない相手に恨みを持つ状況とは何だろう? 僕には、まだ、隠された繋がりがあるように思えるんだ」

私は困惑した。犯人はおそらく学生と言うことになるのだろう。だとしたら、河合美優の小学校時代の同級生を恨む理由とは何だろう?

私の問いに答えるように、教授は次のように指示した。

「佐々木芹那と河合美優の関係について、もう一度調べた方がいいだろう。それと、河合美優の自殺現場に花を供えて、それをたびたび入れ替えている人物。ボクの見立てではその人も関係があると考えている」

私は彼の言葉を聞いて鳥肌が立った。そうだ。河合美優のアカウントによる一連の犯行指示の中に花を供えろなんてものはなかったはずだ。熱心に彼女の命令に従っていた生徒が聴取を受けている間にも、あの花は入れ替えられていた。

河合美優に本当に友達がひとりもいなかったのなら、死後2か月もたって、誰が彼女の死を悼んでいるのか?

私は一ノ倉教授に礼を言うと、松本刑事に連絡を入れた。


10.

一ノ倉教授の見解を受けて、松本刑事は該当地域の警察署の協力を仰ぎ、佐々木芹那への聴取に向かったようだった。

私は佐藤先輩を連れて、自殺現場の花束に印字されていた花屋に聞き込みに出た。

花屋の店員さんからは、意外な答えが返ってきた。

「ああ、おさげで眼鏡の中学生の女の子が買いに来ていますね。小さいものだけど結構な頻度ですよ。1か月前くらいからですかね」

おさげで眼鏡の女子生徒などいくらでもいると言えばそうだが、河合美優のクラスメイトでと言えば真っ先に思い浮かぶのは彼女だ。学級委員の少女。たしか、事件の初めに聞き込みに応じた生徒だ。名前は名簿によると江原 千秋(えはら ちあき)というらしい。

思い出してみれば、担任の教師がこうも言っていた。自殺した河合美優はクラス委員もしていた、と。つまり、学級委員はふたりいた。ふたりのクラス委員の間に何か接点があっても不思議ではない。

江原千秋の家へと慌てて向かいインターホンを押すと、中年の女性が出た。

「娘は今塾に行っていると思いますが」

私が千秋さんに聴取をしたいと言うと、母親らしいその女性は困惑したように言った。

「娘が何かしてしまいましたでしょうか?」

連日の事件のことは知っているらしく、不安そうに彼女は聞いてきた。私は安心させるように笑顔を作ると、それを否定して千秋さんについて尋ねてみることにした。

「クラスメイトの河合美優さんとの関係についてお聞きしたいことがありまして」

私が言うと、彼女の母親は不思議そうに首を傾げた。

「美優さん、ですか。千秋からその名前を聞いたことはありませんが」

彼女によると、千秋さんの交友関係は主に彼女の所属しているソフトボール部と一部の小学生時代からの友人だけだったという。悪い友達とつるんだり、学校が嫌いになったりと言うこともなく、謙遜する風に語っていたが、自慢の娘であるようだった。

たしかに、河合美優と接点がありそうには見えない。もしかすると、花を供えている「おさげで眼鏡の少女」というのは別の人物なのだろうか。

江原家での聞き込みを終え、千秋さんの通っているという塾にも行ってみたが、彼女はその日、受講の予定はなかったという。

あれ。では今日、彼女はどこに行っていたのだろうか。

松本刑事に連絡を入れると、彼からはこんな言葉が出てきた。

「佐々木芹那は小学生時代、河合美優をいじめていたらしい。この前の投稿がすでに彼女のもとに送られてきていて、おびえた様子だった」

つまり、犯人は河合美優をいじめていた相手を自殺に追い込もうとした、ということだろうか? それは、アカウントを操作している人物が河合美優の代理復讐を目論んでいるようでもある。

さらに、松本刑事は意外なことを告げた。

「それと、一連の投稿の犯人は江原千秋でほぼ確定だ」

え、と私は驚いた。

なぜ彼女が? 

そして、どうして犯人と言い切れる?

私がそのことについて尋ねると、松本刑事は淡泊にこう語った。

「犯行に利用されたネットカフェで会員証の不正利用が確認された。相模川中らしい制服を着た少女が頻繁に目撃されていて、利用時期がくだんのアカウントによる投稿のタイミングと一致した。また、一連の投稿は江原千秋の通う学習塾付近のネットカフェからだった。決め手として、使われた会員証が江原家の長男のものだったんだ」

あまりにもあっさりとした幕引きに、私は肩透かしにあう。では、彼女がそれをする動機は? あまりにも河合美優と江原千秋には接点がない。少なくとも、彼女をいじめていた相手に復讐するような動機はない。

私が聞くと、松本刑事はこれで捜査は終わりだ、とばかりに言った。

「詳しいことは出頭してもらって聞くほかないね。とにかく、長いことありがとね、お互いお疲れさまだ」

私はそれを聞いてもなお安心しきれなかった。だって、動機がわからないと、また同じことが起きるかもしれないじゃないか。ここまで同じようなことが起き続けてきたんだ。

犯罪が連鎖してしまうこの環境は、どこに原因があったのだろう。

私はこのもやもやを抱えたまま、交番へと帰るのだった。


11.

「さて、みなさんはどうして僕の授業をまだ受講しているんですか?」

相模川大学4階の講義室。すっかりと少人数になってしまった講義の場で、一ノ倉教授はそんなことを尋ねる。私が事件の顛末について相談をしたところ、授業を聴講しに来いと一方的な指図を受けたのだった。もっとも、毎度この授業が事件と大きく関係していることを私は知っている。おとなしく授業を見守ることにした私は、彼の言葉の意味を考えた。

どうして受講しているも何も、単位を取りたいとか、心理学に興味があるとか、そういうことではないだろうか。教授はさらに続けた。

「僕の授業は採点も厳しく例年単位を落とす者も多い。初回の授業でも言った通り、一回でも無断欠席があれば単位は取らせないし、毎週の課題としてレポートも課している。必修科目でもないから、君たちにはほかの授業に履修を振り替えるチャンスがあったはずだ」

なるほど、大変にハードな授業であり、そのうまみもあまりないということらしい。

教授は前列の女子生徒を指すと、次のように尋ねた。

「あなたがこの授業を履修している理由は?」

女子生徒はいきなりの指名に驚きつつも、おずおずと答えた。

「えっと、心理学が好きなのと、自己成長ができると思ったから、です」

一ノ倉教授はふむふむとうなずくと、名簿を見ながらこう言った。

「確かあなたは農学部の学生でしたね。本当に心理学が好きならはじめから心理学科を選んでいてもいいはずです」

え、と女子生徒は困ったように身を縮めた。返事も待たず教授は続ける。

「つまり、あなたが心理学を好きだと認識したのは、この授業を履修した後だということになる。もちろんそれは提供される授業の内容のおかげもあったのかもしれないが、きっとそれだけではないんですよ」

それはつまり、どういうことだろうか?

考えていると、教授は次のような説明を始めた。

「人は多くの場合、自分の意志で行動していると思っている。しかし、心理学の分野では反対の考え方もあるのです。つまり、『自分の行動を後付けで解釈して、自分の意志を推測するケースがある』ということです」

と、教授はスライドを送ると、具体的な説明を始めた。

「例えば、ブラック企業で働くサラリーマンが、職場に不満を持っていないばかりか、その会社に忠誠心を覚えているというケースが頻繁にある。当然ながら、そのサラリーマンがもともと過酷な労働環境が好きだった、ということはほとんどありません。ところが、仕事を続けていく中で、彼らの自己認識はゆがんでしまうのです。この職場や職務が好きで働いているのだ、と」

教授は生徒たちに向き直ると、次のように尋ねた。

「さて、ではどのようにして彼らは職場に忠誠心を覚えたのでしょうか?」

生徒たちは答えが思いついていないのか手を上げるのが怖いのか押し黙っている。

教授は誰も手を上げないのを見ると、また説明に戻った。

「答えは簡単です。彼らは過酷な労働を続けたことで職場に忠誠心を持ってしまったのです」

それのどこが仕事を好きになる理由なのだろうか。私が考えていると教授は続けた。

「給料や休日、福利厚生などが十分でないのに、過酷な労働をしているという状況は矛盾していますよね。このような、説明のつかない二つの認知が生まれる状況を、『認知的不協和状況』と呼びます」

スライドには「給料や休みが少ない」「過酷な労働をしている自分」という二つの文字の間に、大きく「認知的不協和状況」の文字が映し出された。

教授はさらに付け加える。

「このような矛盾した認知が発生した時、人はそれを解消しようと、それらを合理的に説明づけるストーリーを作り上げます。例えば、『給料が安くて休みも少ないのに自分がその仕事を続けている理由は、自分がその仕事が好きだからだ』という具合にです」

なるほど、心理的な矛盾が自分の意志すら捻じ曲げてしまうことがある、ということだろうか。まさに、この授業を履修している学生たちにも通ずる心理である。

「僕の授業は学生にとって非常に条件が悪いと言えます。そんな授業を履修し続けるという行為は、認知的不協和状況を生みます。ですから、ここに集まっている皆さんは、何らかの形でその不協和を解消しているはずなのです。その一つは、先ほど彼女が語ったように、心理学や毎週のレポート課題が好きなのだと自己認識を変えてしまうことなのです」

教授の説明に、生徒たちは感心したようにため息を漏らした。やはり内心、この授業が過酷すぎるという意識はあったのだろう。

「二つの矛盾した状況があると、人はそれを解消しようとする傾向がある。場合によっては、後付けのストーリーで認知をゆがめてしまう。この二点をおさえておいてください」

教授はそのように締めくくると、残りの時間で認知的不協和状況の具体例をいくつか取り上げて、その日の授業はおしまいとなった。

授業の後で一ノ倉教授のところへ向かうと、彼は帰り支度をしながら応じた。

「どうかな、参考になっただろうか」

教授はやはりこの授業を通して何か伝えようとしていたらしい。私はしかし、今回の授業と事件との関連性が見いだせず、首を横に振った。教授はふうとため息すると、こう言った。

「また補講をしようか。今回のトピックは少し複雑だ」

教授に促されるまま、私は再び一ノ倉研究室へと足を運ぶのだった。


12.

研究室の中は相変わらずほこりっぽく、日差しを受けて宙に舞った塵がキラキラとしていた。

一ノ倉教授はソファに腰かけると、手を組んで語りだした。

「今回の事件はやはり死んだ河合美優による間接的なマインドコントロールだったと言っていい」

教授の言葉に、私は尋ね返す。

「しかし、実行犯は江原千秋のはずでは?」

私の問いかけに、教授はこんな話を始めた。

「一時期、海外で『自殺ゲーム』というものが流行したことがあった。これは、心理学に精通した人物が、メールなどの文章を通して少年少女に指示を出していき、最終的には自殺にまで追い込んでしまうという内容だった。はじめは軽い指示だったものが、自傷行為に走らせたりと過激化していって、最終的に自殺にまで及んだ被害者も数名ではなかったという」

それって。と、私が思う間もなく、教授は続ける。

「マインドコントロールに興味を持ち、オカルトに傾倒していた河合美優は、この仕掛けを流用したのだと思われるんだ。つまり、彼女の中学の生徒を自殺に追い込む仕掛けだよ」

「でも、結局それは江原千秋の手によって計画ごと奪われたわけですよね?」

私が聞くと、教授はいや、と首を横に振った。

「逆なんだ。計画の実行犯として河合美優は江原千秋を選んだんだよ」

実行犯として? でも、やはりおかしい。

「だとしても、彼女にそれを実行する動機は一切ありませんよ? 仲が良かったわけでもないですし」

教授はそれを聞くとうなずいた。

「そうなんだ。だから、これは元からすべてが逆なんだよ。実行が先で動機が後なんだ」

禅問答のような答えに、私は釈然とせずに聞き返す。

「ええと、動機がないとそもそも行動もしませんよね?」

「もちろん、はじめの行動のきっかけはあったはずだよ。でもそれは、多くの人を巻き込んで犯罪を起こすほどの動機じゃないんだ」

私はますますわからなくなり、尋ねた。

「つまり、どういうことですか?」

私の問いかけに、教授は噛んで含むように説明した。

「前に、この一連の指示について、軽い指示から雪だるま式に大きな命令を聞いてしまったという話をしたのは覚えているかな?」

松本刑事が昼食をおごらされてしまった時の話だろう。私がうなずくと、教授は続ける。

「あれも一つの認知的不協和でね。メリットのないお願いを聞くという行為は、『相手への協力的態度をとっている自分』という自己像を確立させてしまうんだ」

「それは、江原千秋の場合も同じだった可能性があるということでしょうか」

私が聞くと、一ノ倉教授はそうだろうとうなずいた。

「実行犯である江原千秋に対しても、同じ仕掛けでなし崩し的な共犯関係が作られたのではないかと読んでいるんだ。例えば、自殺の直前に軽い遺言を残したとか、そういうところが入り口になっているんじゃないかと思ってね」

今回の事件はすべてがそうだった。ごく軽いお願い。それがこんな大事に発展したとは、やはり信じられないが、事実そう言う心理があるのかもしれない。

教授は続けて言う。

「実際に河合美優が亡くなったことを受けて、彼女の最後のお願いを聞いてしまう、というくらいなら、責任感の強い人物ならあったのかもしれない。彼女自身もはじめはそれが大ごとになるとは思っていなかったはずだよ。しかし、河合美優の計画に加担したことに気づいたときには、すでに学校を巻き込む事件になってしまった。そして、それこそが彼女の動機を生み出してしまったんだよ」

逆、とはつまり、大ごとになってしまったことで自分の行動を正当化して、さらなる犯行に手を染めてしまったということだったのか。

「ともあれ、何らかの形で犯行計画の実行に大義を得た彼女は、その計画犯である河合美優に対しても並みならぬ感情を抱くまでに至ったはずだ」

教授の言葉に、私は思い出す。

「ああ、だから花束を供えていたのですか」

教授はその言葉に首肯する。

「この計画が動き出す前には仲が良くなかったのに、彼女の死後に彼女の死を悼み、代理復讐まで考え着いたとしたら、その動機についてはこの仮説がしっくりと来るんだ」

なるほど、生前にはほとんど交友がなかった相手に肩入れする理由が、その認知的不協和だった可能性があるというのか。

私はひとまず江原千秋の動機に関して腑落ちして、事件についてはこれ以上の追及をやめたのだった。実際のところは、やはり推測するしかないのだろう。


13.

数日してのことである。松本刑事から連絡があり、私は急遽、江原千秋の取り調べに呼び出された。彼女が動機についてかたくなに口を割らず、応援を必要としたとのことだった。抜擢の理由については、一度聞き込みをして面識があること、年代的に近く、性別も同じであることから話しやすいだろうということだった。

私はこの事件の本当の真相を知るべく、相模川警察署へと赴いた。

取調室では江原千秋と母親が中央の椅子に掛けており、その向かいに松本刑事がいた。

「ああ、来たね。少し、このお巡りさんと話してみてくれないかな。その方が話しやすいこともあるだろう」

松本刑事は優し気な口調で江原千秋に話しかけると、任せたとばかりに私の肩をたたいて退室した。おそらく、外から中の様子を見ることができるのだろう。横では書記担当の刑事が記録を取っていた。

私は前の椅子に腰かけると、江原千秋と対面した。彼女はかたくなな表情をして口を閉じていた。私は彼女と母親を安心させるべく笑顔を作る。

「ええと、千秋さん。今回のことは、私も聞いています」

少女はうつむいたまま何も言わなかった。すっかりと心を閉ざしているようだった。私はそのまま一方的に話を続けることにした。

「あなたは責任感が強い人なのだと思います。きっとこれほど大ごとになるはずではなくて、ただ、亡くなった河合美優さんの遺言を実行しようとしたのではありませんか?」

私は一ノ倉教授の仮説を思い出し、そのように尋ねてみた。すると、彼女ははっとしたように顔を上げた。

「みんな、あなたを責めたいわけではないのです。ただ、美優さんから何を頼まれていたのか、そして、どうしてこれほど事が大きくなってしまったのか、それを突き止めたいのです。協力してくださいませんか?」

江原千秋は私のそんな言葉を聞くと、少し目に涙をにじませて、あ、とおそらく、久しぶりに声を出したのだろう、しゃがれた声をあげた。

「私は、ただ彼女からメモを手渡されたんです。本当に死んじゃうなんて思っていなくて」

そんな言葉から、彼女はとつとつとこれまでのことを語り始めた。

河合美優との接触があったのは事件の前日。「もし私が何かあって死んだらこのアカウントから投稿をしてほしい。皆を驚かせたいから、足がつかないようにネットカフェから投稿してほしい」と、IDとパスワード、そして、投稿の内容が書かれたメモを手渡されたのだという。はじめ、なにかのいたずらかと思って取り合わなかった江原千秋だったが、その翌日に彼女が本当に自殺をしてしまったことで、相当なショックを受けたという。

もし真剣に取り合って自殺を止められていれば。そんな責任感と後悔の気持ちから、彼女は河合美優の最後の願いであった、アカウントの投稿を受け入れてしまう。

死者からの投稿。そんな話題で学校が持ち切りになったのを見届けた彼女は、河合美優の最後のいたずらで、彼女の存在が皆の心に刻まれたことに達成感を得たのだという。

しかしその後、予約投稿機能によって彼女のアカウントは動き続けた。窓ガラスを割る生徒や、リストカット、飲酒など、死者からの指示でエスカレートしていく生徒たちの問題行動を見て、彼女は内心焦りを感じた。もしかしたら、とんでもない計画に加担してしまったのかもしれない。

例のアカウントからの投稿を直ちに停止すべく、ネットカフェからログインをしたところ、おそらくこちらも予約投稿によるものだったのだろう、彼女のアカウントあてに犯行計画について書かれた遺書が別のアドレスから届けられていた。

その内容は、いじめについてみて見ぬふりをしてきた学校への怒り、また、いじめてきた生徒への恨みが書かれており、最後に、彼らに復讐をするための、「自殺ゲーム」の仕掛けが書き連ねられていたのだという。

はじめ、その計画を止めようと予約投稿を停止した彼女だったが、途端に、生徒たちは死者への侮辱的な態度をとるようになった。「あのいじめられっ子、ようやく成仏したんだ」

生徒たちの心ない噂話は、江原千秋がリスクを冒して実行した河合美優の最後の願いを踏みつけにするようなものだった。また、当時自殺を受けていじめ認定の対応をしていた学校側も、いじめはなかったと断定したことで、江原千秋は彼らに対する義憤にかられたという。

河合美優の復讐計画を実行に移し、学校に損害を与え、いじめの事実を認めさせる。そして、いじめていた連中は亡霊におびえればいい。そんな暗い復讐心が、彼女を動かしたのだった。

彼女の死を悼むのはもはや自分しかいない。軽い気持ちで自殺現場に花を供えたことは、江原千秋がより犯行計画にのめり込むのを助けた。計画書にあった犯行指示だけでなく、オリジナルの命令を、特に熱心に従っていた生徒あてにダイレクトメッセージで送り付け、爆破予告や殺害予告は実行された。

さらに、生前河合美優がこぼしていた小学校時代にいじめてきた相手、ササキセリナにも、動画を用いた復讐を実行したのだった。このころには、江原千秋はほとんど交友のなかった河合美優のためにそこまでするほど、彼女に肩入れしていたのだった。

以上が、江原千秋の口から語られた事件の真相だった。具体的な犯行の流れを追うと、誰でも同じことに加担してしまう可能性はあったと感じさせる。そのくらい、一つ一つの行動は素朴でシンプルなのだが、それゆえに、小さなハードルをいくつも超えた先の大事件であったのだと感じさせた。

うなだれる江原千秋を慰めるように、私は声をかける。

「あなたが悪いわけではありません。きっと、誰でも同じ状況にいたら同じようにしてしまったかもしれない。ただ、あなたは責任感が強すぎたんです」

それを聞くと、江原千秋はわっと泣き出した。ずっと多くのものを抱え込み、罪悪感におびえていたのだろう。そのまま彼女が泣き止むまでそばにいた。

取り調べが終わると、松本刑事が驚いたような嬉しそうな顔でやってきた。

「いやはや、君に声をかけて正解だったよ。お手柄だったねえ」

私がいえ、と謙遜をすると、松本刑事は不思議そうにこんなことを言った。

「でも、そんな些細な原因からあそこまでのめり込むなんて、人の心は不思議だねえ」

私はそれを聞いて一ノ倉教授の授業を思い出し、くすと笑った。

「でも松本さんも、最初は単なる下っ端だった私を、ずいぶん重用してくれるまでになったじゃないですか」

松本刑事は気づいたようにあ、と声を上げた。

「これは一本取られたね。またよろしく頼むよ」

照れくさそうにそう言ってその場を後にする松本刑事を私は敬礼して見送った。

些細なきっかけからずるずると。世の中にはそんな話が多いようである。

私は、すっかりと頼りにしてしまっている大学教授に思いをはせた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る