第2話 最小条件集団

1.

千里眼事件。

明治末の日本で、透視能力を持つという二人の女性が登場した。御船千鶴子、そして長尾郁子。彼女らは体内透視を用いた治療や念写を次々に成功させ、やがて、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らを巻き込んで、大きな超心理学論争を巻き起こした。

実験でははじめ念写や透視の成功が報告されたが、実験の際中の数々の不審点が見つかったことから、彼女らと研究チームは社会的なバッシングを浴びることとなる。やがては透視と関係のないゴシップの中で、両名はペテン師のそしりを受けたまま死去してしまう。

最終的に単なるマジックと結論付けられた一連の実験には、しかし、トリックでは説明のつかない超能力があったのではないかと、今でもささやかれている。


2.

正午頃、駅前の交番。私、宮坂 澪音(みやさか れいん)は朝のパトロールを終え交番に戻ってきた。何を隠そう私はこの春に駅前交番に着任した新米巡査なのである。手には巡回中にもらった手土産のタッパーを下げている。

「宮坂、それはどうした?」

と、尋ねてきたのは同じ交番の上司である、五十嵐 清美(いがらし きよみ)巡査部長だ。こんな名前だが、小太りの定年近いおじさんである。読んでいた新聞をたたんで老眼鏡をくいと上げる。

「いつもの大村さんのお宅でいただいちゃったんです」

と、私が答えると、五十嵐さんはああ、と納得した。

「あのおばあさん、一人で寂しいからなあ。俺が行ってた頃は旦那さんが生きてたが」

大村さんはひとり暮らしの老婆で、パトロールのたびに長話に付き合わされては、こうしておすそ分けをくれてしまうのだ。最近地震があったとかで今日などは大変に怖がっていたため、長く引き止められてしまった。私も一人暮らしだから、夜中に地震が起きたときなどの心細さはよくわかる。

「よかったら部長もどうぞ。卵焼きだそうです」

私がタッパーを差し出すと、部長はうむ、と一つつまむと、びっくりしたように顔をしかめた。

「これ、砂糖が入ってるじゃないか! 全く最近の若いもんは」

「いや、それをくれたのおばあさんなんですが」

私の言葉も聞かずに部長は文句を言う。

「俺の時代は卵焼きと言ったらだし巻きだったんだ。全くけしからん。俺の娘も自分で弁当を作ってると思ったら弁当箱に菓子をぎっしり詰めていやがった」

五十嵐さんは昔かたぎと言うか、頑固なところがあった。いつもこうして新聞などを見てはけしからんけしからんとつぶやいている。

「まったく、世の中どうなっているんだ」

と、また新聞を広げてぶつぶつ言っていた。一応、そういう世の中を良くするのが警察官の仕事なのだが。

そんなことを思っていると、交番に向かって誰かが歩いてくるのが見えた。何か困りごとかと思い、私は背筋をただした。

その人影は、どうやら中年の女性のようだった。質素な服を身に着け、手には数珠のようなものをつけている。目は切れ長で、幸は薄そうだが美人だった。

「すみません、少し相談よろしいでしょうか」

女性のか細い声に部長も顔を上げた。

「ええ、なにかお困りごとでしょうか?」

私が元気よく返事すると、女性は少したじろいでから、意を決したように言った。

「私、暴行事件を目撃してしまったんです」

え、と私は驚いて五十嵐部長の方を見る。部長は少し真剣な表情になって、女性に手前の椅子に着席するよう促した。

「私は本田 公子(ほんだ きみこ)と申します。職業は、工場のライン工と、内職などをしています」

女性の自己紹介を受けて、部長が手際よく調書を取る。こういうところはさすがの年の功である。

「目撃した事件というのをお聞かせ願えますか?」

と、部長が質問すると、女性、本田公子はぽつぽつと思い出すように語り始めた。

「3日前の夜10時ころだったと思います。私がアルバイトを終えて高架下の道を歩いている時でした。男性同士が言いあうような声が聞こえ、空き地の方に目をやると、男性が男性を殴っていたのです」

事前に話をまとめてきたのか、わかりやすい説明だった。部長はそれを聞くとまた尋ねる。

「言い合いになっていたという男性について、ほかに覚えていることはありますか?」

「ええと、おそらく、ひとりは私のアパートの住人だと思うのです。杉内という30代の男性です。もう一人は存じなかったのですが、殴られてから少しして立ち上がったので、大きなけがではないのかもしれません。でも、よろめいていたのでもしかしたらと思い、今日報告に上がりました」

つまり、殴り合いをして、一方の男性がけがをして、どうやらその犯人がこの本田さんと同じアパートの杉内という男だ、ということだろうか?

部長はおもむろに最近のファイルを取り出すと、指をなめてぱらぱらとめくる。

「そうでしたか、確かに被害届が出ているようですね。犯人については被害者も顔見知りでないということで、現在捜査中です」

ファイルを棚に戻すと、また質問に戻る。

「事件直後ですが、救急車や警察は呼ばなかったのですか?」

と、部長が問うと、本田さんは少し言葉を濁していた。まあ、事件を見て怖くなって言い出せなかったということもあるのだろう。今日ここに来ただけで立派である。

などと思っていたが、彼女の答えは驚くべきものだった。

「その、確証がなかったんです。その事件を目撃したのは、私が」

言いよどんでから女性はまた口を開く。

「透視を、したからなんです」

とうし? 予想外の言葉に五十嵐部長もペンが止まる。

「と、透視……って、あの、透かして視ると書く、あの透視ですか?」

私は思わず聞き返してしまう。本田さんはええ、と首肯した。

「私、超能力があるんです。だから、ブロック塀の先で起きた事件を目撃してしまったんです」

頭がくらくらする。この人は大丈夫なのだろうか?

部長は何か言いたそうにもごもごしていたが、やがて口を開いた。

「ご協力ありがとうございます。また、なにかありましたらご報告ください」

それは、もう結構だから帰ってくれ、という意味だった。まあ、透視で目撃したなど信じられるわけもない。

念のため彼女の連絡先を控えると、彼女は一礼して去って行ったのだった。

「部長、今のって」

私が聞くと部長は腕を組んでそっぽを向いた。

「まったく、最近の中年はけしからんな」

それならあなたも最近の初老になるだろう。

部長は記録だけ残しておいて、暴行事件の捜査とは分けるよう指示をした。

私はというと、本田さんが目撃したという話に少し興味を持っていた。単なる冷やかしには見えなかったのだ。

暴行事件の調査のついでならと許可をもらい、私は彼女の証言についても調べてみることにしたのだった。


3.

「そうなんだよ、目が覚めたら血まみれでやんの。で、思い出したら多分居酒屋でケンカになったんだな」

事件現場となった空き地で、被害者である山野 喜久雄(やまの きくお)がそう証言する。彼は現場付近に住む60代の無職で、事件当時は現場の向かいにある居酒屋で一人酒を飲んでいたということだった。全治2週間のけがと言うことで、足にギプスを巻いて杖をついていた。

「犯人の特徴は覚えていないのですね?」

と、五十嵐部長が尋ねると、山野さんはうーんと首をひねった。

「スーツを着てたと思うから、どっかのサラリーマンなのかねえ。何しろケンカの内容も覚えちゃいないんだ。俺が中卒だから何の見たいなことを言われてカッとなった気がするんだが」

酒で記憶をなくすタイプなのだろう。よくある酔っ払い同士のいざこざに見えた。

「とにかくよ、早くとっちめてくれよ。そこのかわいい姉ちゃんが色仕掛けすりゃあコロッと吐くだろ」

などと締めくくった。なんとも下品な男である。デリカシーのなさそうな態度だし、この口が災いのもとだったのではなかろうか。

質問を終えると、私は現場を見て回ることにした。

真上には国道が走っている高架下の空き地で、地面に点々と草などが生えている。よく見ると黒くシミができている場所があり、ここで事件があったことを物語っていた。現場の両脇は高い塀があり、居酒屋に面したところだけ隙間があって入れるようだ。

先日の目撃者がいたというのはちょうど居酒屋と反対側の塀の外だから、のぞくことは出来なさそうだ。わざわざこんな人目につかないところに呼び出すとは、犯人には相当な害意があったことだろう。

周辺を見回り終えると、ついでに、ケンカのきっかけとなったという居酒屋の方にも聞き込みをしてみる。チェーン店らしく奥に細長く伸びた店内にテーブル席が8席、カウンターも長く、広々としていた。

「いやあ、お客さん同士のいざこざは分からないっすねえ」

バイトらしい金髪の店員は困ったようにそう答えた。

「3日前って金曜の夜ですから、お客さんも多くてうるさかったですし。誰かがケンカしててもどうだったか……」

当たり前と言えば当たり前の返事に、部長と私は落胆して聞き込みを終えた。

外に出ると、私はこの前の目撃者の証言について調べることを提案した。

「透視云々を信じるわけじゃありませんが、ちょっと目撃現場の方も見てみていいでしょうか」

と、私が言うと、くたびれたように部長はしゃがみ込んだ。

「いいけど、俺は先に戻るぞ。もう足が動かん」

以前ヘルニアで腰をやってからというもの、五十嵐部長はこの調子だった。老体に鞭打つわけにもいかず、私はひとりで調査を続けることにした。


4.

高架下の反対側に回り込むと、アパートや民家が立ち並ぶ住宅街のようだった。向こう側が雑居ビルばかりだったのに比べると、閑散として見えた。

道は比較的狭く、車が一台通れるくらいと言った感じか。現場付近までたどり着くと、コンクリートで塗り固められた真っ白な塀が見えた。

ここから現場を見るのはまず不可能だ。

そのことを確認して、今度は目撃者が住んでいるというアパートの方へと歩みを進めた。

と、途中の道に看板が立てかけてあるのを見かけた。裏面だったので、ひっくり返してみると。

「この先立ち入り禁止」

赤い文字でそのような注意書きがあった。裏返されていたのを見ると、今は使われていないということだろうか? では、誰がこんなことをしたのだろうか。

私は本田さんの住むアパートに着くと、まず大家さんに聞き込みをしてみることにした。

「ああ、なんだかいざこざがあったんだって? 怖いわねえ」

大家の女性は夕方の再放送をつけながら、せんべいを片手に他人事のようにそう言った。

「それが、こちらの杉内さんという方が関係しているのではないかと情報がありまして」

と、私が言うと、大家さんは目を丸くした。

「ええ⁉ あの人は穏やかで親切な人ですよお。虫も殺せないような顔して」

大変に信頼の厚い人物のようである。さっきの事件の犯人像とは食い違う。

「では、事件のあった金曜日におかしなことだったり、不審な人物だったりは心当たりありませんか?」

私が続けて尋ねると、カレンダーを見てうーんとうなった後。

「ないわね、何も」

と一言言った。

「それよりさあ、あれもう一回見せてよ。警察手帳」

と、刑事ドラマにかぶれた大家さんに少し付き合ったのち、私は部屋を後にした。

杉内さんはまだ帰っていないということで、ほかの部屋の住人にも聞き込みをしてみたが、やはり、杉内さんは人当たりがよく、そんなことをするはずがないという意見だった。

次に、本田さんの部屋を尋ねてみる。彼女は内職の際中だったようで、何やら袋詰めの作業をしながら質問に答えてくれた。

「ええ、さっきの道の、まさに現場の前の壁です。壁がスーッと透けたようになって、奥で男性が殴り合うのを見たんです」

彼女は相変わらずそのように熱弁した。

「あれは間違いなく杉内さんだったんです。スーツのまま逃げるように引き返していきました。私は慌てて帰って、自室の窓から透視できないかと試したんですが、帰ってくる姿までは見えませんでした」

本田さんの言う通り、1回の角部屋の窓からはアパートの塀が見えるばかりで、その向こうの道は見えなかった。

「ところで、あの道が立ち入り禁止になったことってありますか?」

私が看板のことを思い出してそう尋ねると、本田さんは首をひねる。

「わかりません。工場のバイトの帰りしか通りませんし、それも週に2回なので。少なくとも私が通っているときにはなっていないかと」

本田さんの答えを聞いて、私は続けて質問する。

「では、立ち入り禁止の立札を見たことは?」

「いやあ、あっても透視してしまうからわからないかも」

本気だか冗談だかわからない答えに、私は力が抜けた。

「ひとまず、また何かあったらお訪ねします」

そう言って、私は本田さんの部屋を後にした。どうにもぼんやりとした人である。

私は少し時間を置いて、もう一度杉内さんの部屋を訪ねた。

「ええ、私が杉内ですが」

出迎えたのはボーダーのポロシャツを着たオールバックの男性だった。スポーツマン風でいかにもさわやかな感じである。

玄関には彼のものだろうか、スポーツの大会の表彰状やトロフィー、地域の感謝状の類が並んでいた。

「3日前の暴行事件についてお話をお聞きしていまして。何かご存じですか」

あくまで聞き込みという体で私は探りを入れる。杉内さんはうーんと困ったように首をひねる。

「いやあ、不審なことはなかったと思いますねえ。私は妻とテレビを見ていたんですが」

「ちなみに、番組は?」

私が尋ねると、杉内さんは奥にいた女性に声をかけた。おそらく奥さんなのだろう。

「あれなんだっけ、クイズ番組みたいなやつ?」

そんな杉内さんの質問に、「あれよ、クイズビリビリってやつ」と、奥さんが大きな声で返事した。スマホで番組表を確認すると、確かに事件当日の夜9時~11時ころの番組のようだ。事件の時間とも一致する。

「これで、大丈夫ですか?」

と、杉内さんはにこやかながら警戒したような口調で尋ねた。

「ああ、いえ、形式的な質問ですので。お気を悪くされたらすみません」

と、私は取り繕うように返事をして、部屋を後にした。やはり、暴力をふるうような感じには見えなかった。とはいえ、そういう予断が危険である。私は聞いたことをメモして交番へと戻った。


5.

交番に戻り、休んでいた五十嵐巡査部長に調査の報告をすると、部長はふうんと顎を撫でた。

「そりゃあ、その本田っていう女の私怨かもしれないな」

え、と私は聞き返す。

「え、じゃない。まったく最近のは」

部長のいつもの説教が始まる前に私は聞きなおした。

「私怨とはどういうことでしょうか?」

「つまり、本田という女が杉内という男になにか恨みがあって罪をなすり付けようとしてるんじゃないか?」

部長は面倒そうに言った。でも、と私は考える。

「それでも、あの事件を目撃できないと成立しませんよね? あの現場では、どうしたって目撃者が出ませんよ」

私がそう言い返すと、部長はうーんとうなった。

「だったら、現場があそこじゃなかった、ってことはないか? 被害者の自己申告とその本田って女以外根拠がないじゃないか」

確かに、酩酊状態だった被害者と、信用ならない目撃者だけを根拠に、あの高架下が現場だったと考えるのもおかしいだろうか。いや、そうではない。

「そうですよ、あの現場には血の跡が残っていました。あの量の血は、事件現場である以外考えられません」

私の反論に、部長はむっとした顔になる。

「だったら、お前はその本田の証言を信じるのか? 透視が実在するとでも?」

むきになる部長に、私はひとつ思いついたことがあった。

「だったら、透視実験をやってみるのはどうでしょう」

そんなことできるか、と部長が言い返すのも待たずに、私は続ける。

「そういうのが得意な大学教授の知り合いがいるんです!」

と、話題に上げたのは以前捜査協力をしてもらった社会心理学者、一ノ倉教授である。そういうのが得意かはこの際どうでもよく、彼の知恵を借りたいというのが正直なところだった。

えっ、と目を丸くした部長は、少し考えてから言う。

「業務としては許可できない。非番の時に個人的にやりなさい」

佐藤先輩もそうだったが、組織というのは窮屈なものである。私は早速一ノ倉教授と本田さんにアポを取った。


6.

県内最大級の大学、相模川大学。その文学部棟の地下1階に心理学実験室があった。薄暗い廊下は昼間だというのに寒々とした空気をかもしている。今にもおどろおどろしい人体実験が行われそうな、すえたにおいがした。

私が透視能力者について実験をお願いしたいと言ったところ、一ノ倉教授は少し興味を持ったようで、協力してくれることとなったのだった。本田さんもまた、自身の能力を証明できるなら、と参加の意思を示した。

実験準備をしている一ノ倉教授に、私は持参したタッパーを差し出す。

「お気に召すかわかりませんが、家で焼いてきたんです」

それは、大村のおばあちゃんに教わった甘い卵焼きだった。

「いただいておこう。ちなみに甘い味付けか?」

「ええ、お嫌でしたら……」

照れくさくなって私は引っ込めようとするが、教授は強くそれを離さなかった。

「いや、それを聞いて安心した」

どうやらお気に召したようだった。

それでは、と一ノ倉教授はファイルを片手に本田さんの前に立った。

「いいですか、本田さんはこちらの部屋に待機して、私が鍵をかけます。その間、隣の部屋でこの宮坂さんが紙に図形を描きます。部屋のスピーカーで私が指示をしますので、指示があったら透視を開始して、見たものをお手元の紙に描きうつしてください」

一ノ倉教授は白衣を着て、そのように指示を出した。連絡をしてからしっかりと実験準備が済んでいたようで、立会人として同じ研究室の学生たちも参加していた。超能力実験というためか、どこか浮ついた空気である。

実験室Aと書かれた部屋に本田さんが入室し、鍵がかかる。私はその隣の実験室Bへと入った。部屋は明るく内装は白で、中央に机といすが一つずつという簡素なつくりだった。

教授がセッティングした以上、トリックを使えるということもなさそうだ。

「それでは宮坂さん、図形を描いてください」

私は教授の指示を受け、目の前の紙にマジックペンで図形を描いた。私の好きなウサギさんだ。

カメラがついているのか、そのまま教授から次の合図があった。

「では本田さん、透視を開始してください」

しばしの沈黙の後、また指示があった。

「それでは宮坂さん、次はまた別の図形をお願いします」

え、まだ続けるの? 見ると前の紙には番号が振ってあった。どうやら10回続ける気らしい。私は少し困惑しながらもまた図形を描き……。

そしてまた本田さんが指示を受け……。

そんな流れを10セット繰り返したのち、退室の指示が出た。

部屋を出て私たちが描いた紙を渡すと、学生たちはうーんとうなった。

一ノ倉教授も紙を確認し、ふむ、と声を発した。

私も確認してみる。おぼろげに形が一致しているようなものもあるし、丸などの単純な図形では2枚完全一致があった。もちろん、2枚くらいは大外しもある。

「え、割と精度が高いんじゃないでしょうか。後半のは疲れてきたり、複雑な図形は透視しきれなかったとしても……」

私が興奮気味にそう言うと、一ノ倉教授は真顔のまま言った。

「君はそう思うかね」

納得いっていない、という顔だ。

「では、今度は私が透視役をやるから、君はまた学生の指示に従ってB室で図形を描いてくれ」

え、と私は驚く。教授も透視能力に目覚めちゃった、などと言うつもりだろうか。

わからないながらも、私は言われたとおりにもう10セット教授が透視するための図形を描いた。部屋から出るとまた学生たちがうなっている。

「おぼろげに形が一致しているものもあれば、2枚は完全一致もあり、2枚は大外し」

これでは、さっきと一緒ではないか。つまり。

「教授も透視に目覚めたんですか⁈」

私が驚くと、教授は呆れたように言った。

「違う、彼女に透視能力がなかったんだ」

と、本田さんを指した。

「だって、一致してるものもあったのに」

と、私が聞くと、教授は講義のような口調になって説明する。

「実験者バイアス、というものを知っているだろうか」

生憎と全く聞き覚えがない。そんな顔を察したのか教授は説明する。

「実験者が自分の仮説にこだわるあまりに、仮説に都合のいい証拠ばかりを集め、逆に、都合の悪いデータを見落としてしまうという現象があるんだ」

「つまり、どういうことですか?」

私が要領を得ずにいると、また教授が要約してくれた。

「君は透視が成功したと信じたいあまりに、2枚の成功に注目して、2枚の大外しを勘定に入れなかったんだ。対照実験、という言葉くらいは義務教育でも習うだろう。つまり、本当に透視が成功と言えるか、同じ条件で能力のない僕がやった結果と比較してみたんだ」

大昔、理科の時間に習ったような気がする。つまり、今の2回目の実験がそれだったのか。

「結果、自称能力者の本田さんと、能力がない僕の間で有意な差が見られなかった。もちろん、正確な統計検定にかけたわけではないが、素人目にも明らかだろう」

と、教授は結論付けた。確かに、的中の枚数とはずれの枚数は同数で、あいまいな部分一致に関しても大きく違っては見えない。一致も、偶然の範疇とみていいのだろう。

「研究の参考になりました。本日はありがとうございました」

と、教授は本田さんに向き直ると、粗品の大学ボールペンと2000円分の商品券を渡した。

「交通費はこちらの紙で申告してください」

という学生の指示に従うと、本田さんは一礼して去って行った。ショックを受けたのか、なんとも思っていないのか、表情が読めなかった。

教授は次に私の方を向いて言った。

「それで、捜査というからにはこれだけが目的じゃないのだろう?」

お見通しのようである。私は本田さんと彼女が目撃した事件について説明した。

教授は聞き終えるとへえ、と興味なさそうに相づちを打った。

え、それだけ?

「あの、教授はどうお思いですか? 今回の事件について」

私が問うと、教授はどうでもよさそうに答えた。

「彼女の透視能力が嘘だった以上、目撃証言の信ぴょう性は下がっただろうな」

まあ、そこまではわかる。私の反応を見て教授が補足する。

「だとすると、2つのパターンがある。彼女が嘘をついているか、思い違いかだ」

一ノ倉教授の淡々とした口調からは何の感情も読み取れない。本当にただ状況を整理しただけのようだ。

「では、彼女は杉内さんという男性に悪意を持っているか、なにか勘違いをしているかということでしょうか」

私がさらに尋ねると、教授はまた抑揚のない声で答える。

「そうだ。しかし、暴行事件を考えたいだけなら、彼女のことはわきに置いて、真面目に捜査をした方がいいだろうな」

「それはどうしてですか?」

疑問に持った私がそう尋ねると、教授は講義の時の表情になった。

「実験者バイアスと似たバイアスとして、『確証バイアス』というものがある。まあ、単なる言いかえと思ってもらっていいが、人は信じたいことを信じるための証拠を集めてしまう傾向があるんだ」

「つまり、どういうことでしょうか?」

詳しく説明を求めると、一ノ倉教授は目を閉じて言った。

「つまり、彼女は自分に能力があると信じたいんだよ。そうでなければ、目撃証言にわざわざ透視の話を付け加える必要はない」

確かに、あのまま透視の話が出なければ有力な目撃証言として捜査が進んだことだろう。

「だからね、彼女の証言が嘘でも思い違いでも、それは彼女に能力があるということを補強するための誤った情報でしかないことになる」

偽証か、さもなくば思い違い、と考えると確かに捜査には関係しないだろう。だが、私には不可解なことがあった。

「ウソや思い違いだとしても、彼女があの事件のことを知れた理由がないんですよ。だって、周辺住民が気付かない、被害者と犯人しか知らないはずの事件なんですよ?」

私の言葉を聞き、教授は疑問の声を上げる。

「周辺住民に一人の目撃者もいないということか?」

教授の質問に私はうなずいた。

「ええ、現場前のアパートの人も、居酒屋の人も知らなかった事件なんです」

「おまけに、現場は壁で囲まれて死角になっていた?」

教授は興味が出たのか質問をしてきた。私はまたはい、と答えた。

「被害届が出ていた警察、被害者と医療関係者、そして犯人とその周辺人物以外には、知りようがなかったんじゃないですかね」

私の言葉に教授はまた考え込む。

「では、彼女がどうして事件を目撃しえたのか、それが問題と言うことだな」

教授が前のめりな姿勢を見せたことで、私も勢いづいて言う。

「そうです、まるで見てきたように現場のことを語った以上、彼女は何か事件を知るすべがあったはずなんです!」

教授は腕組みしてこう言った。

「例えば、警察無線を傍受していたような可能性は?」

私は考えもしなかった可能性にはっとしたが、すぐに打ち消した。

「いえ、あとから交番に直接被害届が出たんです。無線でのやり取りはなかったと思います」

ふむ、と教授はまた考えて、最後にこう言った。

「もう一度彼女のことを調べてみてくれ。なぜ透視能力があると思うに至ったか。そして、親族や周辺に事件の関係者がいるか。また、犯罪歴などがあるか」

私は教授のてきぱきとした指示に、はい、とうなずいた。

あれ、この人って刑事か何かだったっけ?

ともあれ、事件は再度、動き出した。


7.

翌日の捜査で、私は再び現場前のアパートに向かった。今度は五十嵐部長も一緒である。

あれから本田さんの前科などを調べてみたが、犯罪歴はないようだった。

最初に訪れたのは本田さんの部屋。彼女はまたも内職をしているようだった。

「本田さん、またお話を伺ってもいいでしょうか?」

私が言うと、彼女は嬉しそうに応じた。

「ええ、その後、先生から何か?」

おそらく、一ノ倉教授のことを言っているのだろう。やはり、自身の能力になにかこだわりがある様子だ。

「すみません、今日は本田さん自身のお話を伺いに来たんです。少しお時間よろしいですか?」

頭にはてなマークを浮かべたような顔で、本田さんは作業の手をとめた。

私は、一番気になっていた彼女の能力について単刀直入に尋ねた。

「本田さん、あなたは何をきっかけにご自身に透視能力があると思われたのですか?」

私の質問に、緊張を緩めて本田さんは笑う。

「母が超能力者だったんです。透視能力で個人塾みたいなものを開いていて。私も、子供のころは透視を使ってテストで満点を取ったりしていたんですよ」

嘘か本当か、彼女は本気でそう信じているようだった。でも、母親も超能力者だったとは初耳だ。

「では、お母様はいまどうしていらっしゃるんですか?」

私が聞くと、彼女は少し悲しい顔になった。

「詐欺容疑で立件されて、今は塀の中です。私も、少し前から能力がなくなっちゃって。だめですね」

だめ、とは、どういう意味なのだろうか。それでも、彼女の母親と彼女の能力こそが本田さんを支える軸足となっていたことは確かなようだった。

「辛いことをお聞きしてすみません。ちなみに、本田さんにはほかにご親族は?」

私が聞くと、手元の梱包材に目を落として、本田さんは答えた。

「父は蒸発して、子供も私だけです。今はひとりですから、天涯孤独と言うことですね」

私は思わず本田さんに同情する。何か言葉をかけようとしたところで、彼女は気丈に笑って見せた。

「それでも、私にはこの透視能力があるんです。だから、私の証言でお役に立ちたいんです」

もし証言で役に立つとしたら、そんな能力がない方がよかったかもしれない。ともあれ、彼女にとって透視能力は譲れない一線、ある種の信仰のように見えた。

「ありがとうございました、また、証言をお願いするかもしれません」

私はそう言うと、部屋を出ようとした。最後に本田さんが声をかけてきた。

「ねえ、私って役に立っていますか?」

悲痛にも見える笑顔に、私は作り笑いで応じた。

「もちろんです、必ず犯人を見つけますから」

安堵したように本田さんは笑った。


8.

本田さんの部屋を出ると、黙っていた五十嵐巡査部長が口を開く。

「聞いたか? さっきの母親の件。本田といやあ本田智子の透視塾だな」

部長は懐かしそうにそんなことを言った。

「何かご存じなんですか?」

私が聞くと、部長はまあお前くらいの世代じゃ知らないよなあ、と渋い顔をした。

「超能力ブームの折に、子供の超能力を開花させるってうたい文句で金を巻き上げてたんだ。最後は見せしめみたいな形で大々的に報道されて捕まっちまって、その手の商売はめっきり減った」

そう言う時代があったという話は聞いたことがある。超能力の塾など、今では詐欺とか宗教の代名詞だろう。

「つまりその娘だったのか」

なにか思うところあるのか、五十嵐部長はそうつぶやいて黙り込んだのち、切り替えるように言った。

「もう一回、周辺住人に事件の話を聞いてみるか」

部長の言うとおりに、アパートの住人に聞き込みをすると、やはり事件について一切気づかなかったという。

「あの壁はどのくらい前からあるものなのですか?」

五十嵐部長が尋ねると、応じたフリーター風の男はんー、と考え込んだ。

「あのブロック塀ならずっと前からありますよ、延長したとか壊したとかそういう話も聞きませんね」

私はそれを聞いておや、と思った。それでは、立ち入り禁止の看板はなんだったのだろうか。

「では、立ち入り禁止になっていた期間はありますか?」

私が尋ねると、本田さんと同じくわからないと答えた。では、あの看板の意味とは何だろう。

「ついでに、101号の本田さんと204号の杉内さんについて知っていますか?」

五十嵐巡査部長はメモを取りながらさらに質問した。男はああ、と斜め上を見ると声を低くして次のように答えた。

「ここだけの話、本田さんはなんだか不気味ですよ。あんまり交流もないしねえ。逆に杉内さんはよく自治体の芋煮会なんか企画してくれたりして、世話になってます」

それを聞いて私はまた尋ねた。

「それでは、やはり杉内さんが暴行に及んだというようなことは……」

言いかけて住人の男は即答した。

「ありえませんね。そもそも、あの人事件当日はアパートにいたんじゃないかな」

同様の供述が続き、アパートの調査は終了した。事件現場の周辺住宅でも聞き込みをしたが、それらしい証言は得られなかった。

「あと、大村のおばあちゃんもこの辺じゃないか?」

五十嵐部長の声掛けで、私はそう言えばと思い出した。いつもパトロールで世話になっている一人暮らしのおばあさんだ。

早速大村さん宅に赴きチャイムを鳴らしてみたが、買い物にでも出ているのか、その日は出なかった。


9.

「周辺住民が誰も見ていない犯人と、ひとりだけ事件を目撃した透視能力者、か」

昼の住宅街。高架下の一本道。私が聞き込みの結果を伝えたところ、現場を見てみたいと言い出した教授は、私と一緒に事件現場に訪れていた。

長い塀を眺めていた教授は、なにかに気づいたように塀を触りながら言う。

「真っ白なコンクリートで塗り固められた塀だ」

「そうですね」

私は教授が何に気づいたのかわからずあいまいに返事する。

「こういう壁を通常『ブロック塀』と言うかな」

教授は真剣な目でつぶやいた。まあ、普通はレンガのようにブロックを積み重ねた塀のことそう呼ぶだろう。

どこかでそう言っていた人物がいたな。あれは確か。

考える前に続けて教授は私に尋ねる。

「ところで、ここは手前のアパートの私道だな?」

たしかに、公道らしくない作りだった。私はまたあいまいに返事する。

教授は勝手に向こうに歩いていくと、アパート前の表札を確認し、誰かに電話をしているようだった。

「もしもし、ええ、そこのアパートの塀の件なんですが。ああ、やはりそうでしたか。先週のあれで」

電話を終えると、教授は私に向き直り言った。

「やはり犯人は杉内さんだ」

思いがけない言葉に私は立ち止まった。

「え、それって」

私がまごまごしていると、教授は私の手を握って引っ張っていった。

「急ごう、授業の時間だ」

てっきり休日だと思っていたのだが、この大男はこのあと授業を控えているらしく、私を連れて行った。

「いや、それどころじゃないんですけど⁉」

そんな叫びもむなしく、私はまた相模川大学の講義室へと運ばれたのだった。


10.

相模川大学文学部棟4階の講義室には、また人数が減った学生たちの姿があった。採点が厳しく、へんぴな講義室に追いやられているのだから無理もないだろう。

一ノ倉教授は私を最後尾に立たせると、またも講義を開始した。

「さて、今回は内集団と外集団について説明しよう」

スライドを切り替えながら一ノ倉教授は言う。

「内集団とは、自分が所属していると認識している集団。外集団とは、自分が所属している集団とは別の集団のことを指す。例えば、テニスサークルに所属しているAさんにとっては、テニスサークルは内集団、それ以外のサークルはすべて外集団と言うことになる」

教授のことだから、これも事件と関係するのだろうか? 私は一応しっかりと話を聞いてみることにした。

「面白いことに、人間は自分の所属する内集団のメンバーをひいきし、自分が所属しない外集団の人間を敵視する傾向にある。例えば、Aさんがテニスサークルの人間に頼まれれば授業の出欠票を代筆してやるくらいのことはするが、ほかのサークルの人間が同じことをしていれば、先生に密告するようなことがあるだろう」

たしかに、ほかの地域の警官に会うと嫌な奴に見えることがある。それも、外集団だからということだろうか。

「さて、さらに面白いのは、この区分けは実に単純になされる、ということなんだ」

一ノ倉教授はここで講義を聞いている者にアンケートを取った。

「この中で卵焼きは甘い派というものは黒板に向かって右の席へ、しょっぱい派のものは左の席へ移動しなさい」

私は一応右の席へ移動する。学生を見ると、ちょうど半々くらいにばらけたようだった。

「では代表者一名、そこの男子だ」

教授はしょっぱい派に座っていた眼鏡の男子を呼ぶと、前に立たせた。

「次のテストの採点で、甘い派としょっぱい派の生徒から得点下位の者一名ずつに、合計で10点分下駄をはかせてやろうと思っている」

突然の教授の言葉に、教室がどよめく。採点の厳しい授業でこれはかなりおいしいということだろうか。

「ただし、君はその恩恵の対象外だ」

え、と学生はがっかりした顔をする。

「その代わり、その配分は君が決めていい。例えば、合計で10点をしょっぱい派に2点、甘い派に8点、という風に振り分けていい。この場合、しょっぱい派で得点下位の1名は合計点にプラス2点、甘い派で得点下位の1名は合計点にプラス8点の加算となる」

つまり、報酬を分配しろと言っているわけか。ただし、それを選ぶこの学生には特にうまみがあるわけではない。

どうする、と問われた眼鏡の学生はしばし考えると、こう答えた。

「しょっぱい派に6点の、甘い派に4点で」

わっとしょっぱい派から声が上がった。何もしなくても少し得をしたわけである。

学生を席に戻すと、教授は説明を始めた。

「どうだろうか、さっきの彼にとってこの分配には一切うまみがないはずだ。それでも、彼は自分がたった今所属した、しょっぱい派をひいきしたと言えるだろう」

なるほど、それが、内集団の区分けは簡単だ、と言ったわけか。教授は私の考えを先回りしたように説明を続ける。

「そう、この区分けは単なる線引きなんだ。極論を言えば、適当に僕が境界線を引いただけでも集団が分けられ、ひいきが発生してしまう」

例えばの話、県境や市の境、地域の境界線ですら、内集団の対象となりうる、ということになるだろうか。教授は締めくくるようにスライドを切り替えた。

「これを、最小条件集団という」

最も簡単な意味付けで分けられた集団、ということだろう。テストに出ますよ、と言わんばかりの大きなフォント。私が学生ならメモを取っているところである。

そのまま興味深い授業が続き、あっという間にチャイムが鳴った。

さて、この話を受けてどう考えるべきだろうか。私は集団と言ってあのアパートのことを思い出していた。あれも一つの内集団である。

教授は教科書類をたたむと、薄笑いでこちらに近づいてきた。

「今回は何かヒントを得たようじゃないか」

教授のそんな言葉に、私は素直に返事した。

「ええ。杉内さんが犯人という話と合わせるなら、あのアパートの住人は杉内さんに有利に働く証言をしている可能性がありませんか?」

それを聞いて満足そうに教授は笑った。

「テストで書いてきたら30点というところだな」

辛めの採点である。

「もう少し補講をしようか。なに、犯人は逃げないよ」

教授は落ち着き払って私を研究室まで呼んだ。


11.

以前にも来た一ノ倉研究室。8畳程度の研究室としては狭い部屋に、両脇は大量の書籍が本棚に整理されて並んでいる。

真ん中に長机とソファがあり、私は一ノ倉教授の向かいに腰かけた。

「さて、どこから話そうか」

珍しく教授はそんなことを言う。私は聞きたかった本田さんの件について尋ねてみることにした。

「では、本田さんが透視した件の真相について聞かせてください」

私が言うと、教授はああ、と笑って答えた。

「彼女は実際に現場を目撃できたんだ。しかし、それは透視能力のおかげじゃない」

どういうことですか、と問うと教授は先ほどの電話の相手について話してくれた。

「さっきアパートの管理会社に連絡を入れたんだ。あの塀はね、元はブロック塀で、地震によって倒壊したところを、事件後に修繕されたんだよ」

私はそれを聞いて驚いた。地震と言えば、大村のおばあちゃんがおびえていた先週の揺れのことだ。つまり、アパート前の老朽化した塀が壊れていて……。

「では、もしかして」

私が言いたいことを察して教授は続ける。

「そう、事件当時あのブロック塀は部分的に崩れていて、彼女は倒壊した隙間から事件現場を見たんだよ。そして、あとになって白いコンクリートの塀になった。おそらく、立ち入り禁止の看板は倒壊してから修繕が終わるまでの間掛けられていたのではないかな」

だから彼女やアパートの住人はあの壁をブロック塀と供述していたのか。なんとあっさりとした話だ。この教授にかかるとすべての謎がくだらなく見えてしまう。

「では、本田さんはどうして透視したなんてウソを……」

私がつぶやくと教授はまた言った。

「それこそ、自分の能力を信じたい気持ちが、記憶を捻じ曲げてしまったのかもしれないね」

たしかに、あれほど自分の能力を重く信じている彼女にとっては、そこまでのことなのかもしれない。しかしだ、私にはまだ不可解なことがあった。

「でも、わざわざ立ち入り禁止の道を通ったことはどう説明するんですか?」

教授はうーんと口に手を当てた。

「僕はおそらくね、彼女は色弱なんじゃないかと思ったんだ」

私はまた意外な発言に驚く。つまり、認識しにくい色があるということだろうか。

「な、なぜそのように?」

私が問うと教授は本田さんの供述を繰り返した。

「『男性が殴り合っていて、一方がぐったりと倒れこみ、よろめいていたのを心配した』『スーツの男が逃げていったのを見た』。現場を見た君から見て少し足りない点はないだろうか」

私は2つの証言と現場のことを思い出す。

「あっ、出血です。現場には大量の血痕、被害者も血まみれだったと言っていて、おそらく犯人にも返り血がついていたはずですよね?」

私がそう答えると、教授はうなずく。

「彼女は赤い色が見えていないんだよ。だから、あの立札の赤い字が読めなかった」

だとすれば、あの現場を通ったことはいつも通りの行動だったのだ。

「そして、ここからがさっきの講義の内容だよ」

教授は斜め上を向いて言った。

「おそらく住人によっては、その崩れた塀から事件を目撃したり、聞いた人だっていたはずなんだ。それでなくても、塀が崩れていたことくらいは、誰か証言できたはずだ」

そう、つまりはここが問題なのだ。

「彼には世話になっているという人もたくさんいました。自治会にも所属していたようですから、それでかばったということですか?」

私がそう尋ねると、教授は首を横に振った。

「それだって、積極的にウソをついてかばいたてるほどの関係ではないよ。だからね、この一連の住人の供述は、消極的な隠ぺいだったのかもしれない」

「消極的な隠ぺいとは?」

私がまたそのまま尋ね返すと、教授は自身の考えを述べた。

「警察に協力するのは厄介だし、誰かが指摘してくれればいい。疑惑はあるけれど強いてそれを報告して間違っていたら今後の関係に亀裂が入る。だから、崩れていた壁のことや夜中の異音など、わざわざ話すこともない。まあ、こんなところが正直な意見だったんじゃないかな」

なるほど、ある意味で、住人たちの結束が強かったというよりも、警察への信頼が薄かったわけだ。まさしく、警察が市民にとっての外集団になってしまったようだ。

私が落ち込んでいるのがわかったのか、教授はフォローするように言った。

「だが、君を信頼している住人ならいるんじゃないかな? きっと、誰よりも君を仲間だと思っている市民がさ」

言われ、私はこの前聞き込めなかった大村のおばあちゃんのことを思い出す。たしか、事件現場からそれほど離れていなかったはずだ。

私は教授に礼を言うと、急いで彼女の家へと向かった。


12.

夕方頃、高架下の住宅街。打ち水をしていた大村さんにちょうど出くわした。彼女は嬉しそうに手を振った。

「ああ、お巡りさん。夕方に来るなんて珍しいねえ」

いつも通りの優し気な口調に、私も笑顔で答える。

「ごめんなさい、今日は事件について調査に来たの」

そう伝えると、大村さんはえっと驚く。

「事件って、なにかあったの?」

私が先週末に起きた暴行事件について話すと、大村さんはあっと口に手をやった。

「何か知っていることがあるんですか?」

私が聞くと、大村さんはおずおずと答えた。

「関係があるかわからないんだけどね、お巡りさんのこと信頼してるから言っちゃうわ。私ねえ、その日の夜中に男の人のどなり声を聞いて、怖くって眠れなかったんです」

大村さんはやはり何かを聞いていたのだ。神経質で怖がりなところのある彼女は、よく眠れないのだと訴えていた。

「それでねえ、私窓を開けて見てみたの、そしたら、血まみれで自治会の杉内さんが歩いてくんですよ」

私は驚いた。これほど決定的な証言が、これまで眠っていたとは。

「その時は事故かと思ったんですけどねえ、その後も普通にしてたから、なあんだと思ってたんですけどねえ」

私はそれを聞いてもう一度確認する。

「その話に間違いありませんか?」

大村さんはええ、ええ、と太鼓判を打った。

「私は日付にはうるさいんだから。確かに先週の金曜日の夜ですよ」

私は大村さんに感謝を伝えると、今度は急いで交番へと戻った。

交番に着くと、五十嵐巡査部長が新聞を広げている。私は駆け込むと大声で五十嵐さんに声をかけた。

「部長! 暴行事件の決定的な証言が上がりました!」

大声に驚いた五十嵐部長は、新聞をたたんでこちらを見た。

「宮坂お前、今日は非番だろ! 何しに来た」

部長の話を遮って、私は一方的にまくしたてた。

「犯人は杉内さんで、大村のおばあちゃんと本田さんが証人です!」

私の剣幕に押されたのか、部長は慌てて所轄署に連絡を入れた。


13.

所轄署の刑事から指示があり、私たちは任意出頭のお願いをしに刑事らとともに杉内さん宅へと向かった。

「一体、何のことですか」

と、はじめは言い逃れをしていた杉内さんだったが、奥さんの一言で態度が変わった。

「もういいでしょう。私もうすうす気づいてた。血をつけて帰ってきて、転んだだけなんて言っていたけど、あとから警察の人がこんなに来て……」

おそらく、奥さんには黙ったまま、口裏合わせに協力させていたのだろう。杉内さんは悲しいような顔をしてうなだれると、罪を自供して出頭に応じた。


14.

事件から数日して、私は五十嵐巡査部長に誘われ、彼の行きつけの居酒屋にいた。捜査協力のお礼もかねて一ノ倉教授も呼んでいいかと相談したところ、快諾してくれたのだった。実際のところ、五十嵐さんは酔うと大変なのでサシでは相手したくなかったというのは内緒だ。

居酒屋は煮込み料理がメインで安いつまみ類も提供するこぢんまりとした店だった。昭和のおじさまには受けがいいのか、初老の客たちが腰を据えて飲酒している。

「まったく。最近のカニときたら気合が入っとらん! 昭和のカニはもっとシャキッとしとった」

すっかり酔っぱらった五十嵐さんはとっくり片手にいつもの調子でくだをまく。

「部長、それカニカマです」

私は水を差しだしながら、もつ煮込みをつまんだ。いつ呼び出しがかかるともわからないため、お酒は飲まないようにしていた。横では、一ノ倉教授が大根おろしのついた卵焼きをつまみにのんきにビールを飲んでいる。少し顔は赤いが落ち着いたものである。

「事件の件はその後どうでしたか」

一ノ倉教授が私を挟んで反対側の部長に声をかける。彼なりに助け舟を出したつもりなのだろうか。それを聞いて部長はああ、と真面目な顔に戻ると、水をぐいとあおる。

「杉内のケンカの理由は、学歴のことだったんだそうだ。有名大学の受験に失敗してから、中堅の私立大を卒業して、真面目に働くサラリーマンだった。だが、奴の中ではずっと大学に落ちたのがコンプレックスだったんだな」

よくある学歴コンプレックスという奴だろう。私などにはわからない世界だが。

「奥さんもいて周辺住人とも仲が良くて、それでも、会社の中で学閥から省かれたりと疎外感があったんだな。アパートでの暮らしも、こんなのは本当の俺じゃないんだと、ずっと劣等感があったんだったんだそうだ。いや、もしかしたら子供ができなかったことも彼の自尊心を傷つけたのかもしれない」

多くに囲まれても孤独になる人もいるということだろうか。私は本田さんと、大村のおばあちゃんのことを思い出した。

「そんな折に、例の被害者に因縁をつけられて、ということでしょうか」

私が聞くと、部長はかくりとうなずいた。

「逆鱗に触れるってやつだな。プライドの高い杉内は、それでカチンときて店の外に老人を呼び出した。本当の怒りはその相手にじゃなかったのかもしれない」

私はまた悲しくなった。あの被害者だって、事件当夜はひとりでお酒を飲み来ていた。彼もまた、孤独だったのかもしれない。

「奥さんにもそれを隠していたんだから、孤独な奴だよ」

五十嵐さんは憐れむようにつぶやいた。

「それで、結局被害届は取り下げてもらえたのですか?」

一ノ倉教授は冷静に聞いた。なぜ、そんな話になっているんだ?

「ああ、被害者と杉内の間で示談が成立した。大ごとにすると、隠し立てした住人にも嫌疑が及ぶからな」

ああ、そうか。事情聴取での嘘の申告は一応、偽証罪には問われない。しかし、裁判などになり出廷することがあれば、嘘をついた証拠にはなってしまう。警察としてもできるだけ穏便に済ませたかったというところなのだろう。

でも、そうすると、杉内さんはそのままあのアパートにいて、告発者であった本田さんの肩身が狭くなりはしないだろうか。

「本田さんは大丈夫でしょうか。またひとりになってしまいますね」

私が言うと、隣で聞いていた一ノ倉教授がくくと笑って上の方を指さした。

不思議に思い指の先を見ると、居酒屋のテレビでバラエティ番組が放映されていた。

そこには見知った顔があった。

「ええ、私は大学教授の実験を受け、警察の捜査にも協力した超能力捜査官なのです」

それは、ばっちりと化粧をして美人超能力者として映る本田さんの姿だった。

なんだこれは。

私が思っていると、一ノ倉教授は楽しそうに言った。

「君が思っているほど、人は弱くないよ」

私は安心とともに自己嫌悪した。どこかで彼女を、上から目線で憐れんでいたのかもしれない。そんな私の表情を見てか、一ノ倉教授はフォローを入れる。

「それにね、今回は君のお手柄なんだ」

え、と私は顔を上げる。

「君が普段からパトロールをしてくれたからあの大村さんの証言が引き出せた。本当に街の防犯につながるのはね、お巡りさんと市民の信頼関係なんだよ。それは、刑事や大学教授にはできない立派なことだ」

自分で言うとおり、一ノ倉教授は優しい人なのだろう。普段嘘を言わないからこそ、それが本心だとわかった。

孤独が事件を起こすなら、私の仕事は孤独な人の味方になることだ。それは、憐れみなんかじゃないはずだ。

すっかり酔っぱらってしまった五十嵐巡査をタクシーに乗せると、一ノ倉教授は酔いを醒ますように私と歩いて駅まで向かった。

「どうして、あんなフォローをしてくれたんですか?」

さっきのことを一ノ倉教授に尋ねると、彼は答えた。

「人の味方をする理由は案外単純でね」

と、彼は子供っぽく笑って言う。

「僕も卵焼きは甘い派なんだ」

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