社会心理学者一ノ倉教授の社会貢献

@nomo781

第1話 スポットライト効果

1.

「死の舞踏」を知っているだろうか。

1518年、フランス、ストラスブール。この事件はある日ひとりの女性が突然踊りだしたことに端を発する。女性の踊りはやがて人々に伝染し、4日後には33人、1か月後には400人もの群衆が踊りはじめたのである。彼らは最終的に“踊りつかれて”絶命したという。

同様の事件は7世紀頃から繰り返し記録が残っており、原因はいまだ解釈が割れている。

このように、ある集団が脈絡なく同じ行動をとることを「同調現象」と呼ぶ。


2.

「ね、この服変じゃない?」

私の友人、中山 早紀(なかやま さき)がくるくると長い茶色の髪をいじりながらこちらに尋ねる。

日曜午後の喫茶店。大通りに面したテラス席は賑わいを見せており、客はめいめいに談笑しているようだった。私、宮坂 澪音(みやさか れいん)は高校時代の友人である早紀と、近況報告を兼ねて久しぶりのお茶としゃれこんでいた。

「うん、似合ってるよ。それに、誰も見てないでしょ」

周囲を見まわして私がそう答えると、早紀は不機嫌そうに口をとがらせる。

「似合ってるかじゃなくて変じゃないかだって。絶対目立ってるもん」

そう言って指さした服はアグリーセーターというのだろうか、ブサイクなワンちゃんが印刷されたセーターだった。まあ、正直目立ってる。

「あーあ、久々に会うのに、どうしてこんなの選んできちゃったんだろ」

早紀は昔から人の目を気にする性質だった。自分と同じ服を着ている人がいたからとその服を捨ててしまったり、高校時代には寝ぐせが気になって2時間も遅刻してきたり。今日だって化粧に時間がかかったと言って30分の遅刻だ。

「あんたも変わんないねえ。ま、その自意識過剰さがモデルさんには必要なのかもね」

私は半ば呆れを込めてそう言う。高校時代から目立っていた早紀は、当時からの夢をかなえてモデルとしてデビューを遂げていたのだった。

「そういうレインも化粧っけないのは変わんないよねえ。警察官にはいらないかもしんないけどさ」

私が嫌味を言ったのに気付いたのか、早紀もニヤニヤとこちらに水を向けた。

何を隠そう私はこの春から地元の駅前交番勤務となった巡査である。珍しく非番が早紀の休日と重なったため、久しぶりに一緒に過ごしていたのだった。

「化粧は好きな人がやるべきであって周りが押し付けるものじゃありません! だいたい、『みんながやってる』って言うのに流される人が多すぎる!」

私がむきになって持論を展開すると、早紀はくすくすと笑った。

「そういうとこも相変わらずだねえ。理屈っぽいのはいいけど女子力低いとモテないぞ?」

「はあ~?! 別にろくでもない男にモテても仕方ないんですけど?」

私は激高した。私は女子力とか女の子らしさとか、そういう人を型にはめる言葉が大嫌いなのだ。

「とにかくさ、久々に会ったんだし飲み行こうよ、恋バナ聞かせてよ」

私の言葉など無視するように早紀は軽い態度でそう言った。

「も~、ほんとチャラい」

早紀は恋愛中心に世界が動いているような女だった。そういう価値観の違いがあったからこそ、ここまで気が合ったのかもしれない。

「じゃ、歩きながら店探そ」

早紀がそう言って喫茶店を後にしようとした時だった。伝票を手にした早紀の腕に。

「包帯」

ケガでもしたのだろうか?

「ねえ、その腕……」

私が声をかけると、早紀は隠すように腕を引っ込め、アハハと笑った。

「この間転んじゃっただけ」

違う。

何か隠している。

私の中で何かざわざわとした直感がはたらいた。

「もしかして、彼氏に何かされたの?」

と、私は尋ねた。早紀は恋多き女だ。もしかするとDVのような目にあっているんじゃないだろうか。もしそうなら警官として放ってはおけない。

「違うって! 今はひとりなの。だからさ、ほら、ふたりで良い出会い探しに行こうよ!」

話題をそらすと、早紀はそのまま私の手を引いた。

結局その日ははぐらかされ続け、包帯の理由を聞けずに別れたのだった。


3.

午後の駅前は人の往来が絶えない。私の職場、相模川駅前交番はレンガ張りの駅前通り、大きな銀行の横に位置する。銀行のあるビルにはほかにも飲食店や雑貨屋などが入っており、そこを利用する人も頻繁に行きかっている。

駅前の交番は忙しい。

と、いうのは夜から早朝にかけてのことであって、昼の交番はのんびりとしたものである。

その日、昼から勤務だった私は、迷子の道案内や落とし物の対応を済ませると、ぼんやりと街の喧騒を眺めていた。

気にかかるのは親友のケガのこと。あれから何度かメッセージで探りを入れたが、それらしい返答は得られなかった。そう思って街を見てみると、包帯や絆創膏をした人がいやに目についた。腕に絆創膏をした男性。脚に包帯を巻いた女性。顔に絆創膏をした人もいて、そのどれもが比較的若い人だ。

どうしてこんなにけがをしている人が多いのだろうか?私は早紀の包帯との関連性を疑った。

指名手配ポスターの張替えをするついでに、私は通りがかった包帯の人に尋ねてみることにした。

「あの、けがをされているんですか?」

警官に話しかけられると思っていなかったのか、通行人の女性は驚いたような顔で身じろいだ。遊んでいる風の若い女性だ。

「いや、別に」

それだけ言うとすたすたと女性は去って行った。まあ、警官に話しかけられたら警戒するよな。それでも、なにか後ろめたいことがあるという気配を感じ取った。

私は持ち場に戻ると、先輩警官に話しかけた。

「先輩、最近大きな事故でもありましたかね? やけに絆創膏や包帯の人が多くて……」

私が尋ねると、横で爪を磨いていた若い男が振り向きもせず応じる。

「宮坂巡査、君の仕事はなんだね」

男の名前は佐藤 隼(さとう しゅん)。私と6つ違いの先輩巡査だ。

「はっ。街の平和を守り、市民の安全を確保することであります!」

元気よく私が答えると、佐藤巡査はため息をついた。

「違う。上から命じられた職務をこなし、言われていないことはしないことだ」

「と、申しますと?」

私が聞き返すと退屈そうなあくび交じりで佐藤先輩は話し始めた。

「上が事件だと判断し、下の俺たちが動く。下で異変が起こったら、上に報告する。市民のプライベートをいちいち詮索してたらキリがないぞ」

「しかし、何か大きな事件や事故でけがをしているのだとしたら……」

私が言い返すと佐藤先輩はこともなく次のように言い放った。

「被害届が出てから考えなさい」

なんとまあ無責任な男である。怖くて警察にも頼れないというケースがあるかもしれない。そういう人々に寄り添うのも警察ではないのか?

「しかしですね」

立ち上がり、私が言い返す前に先輩が話を遮った。

「とにかく、パトロール以外じゃ交番勤務は待つのが仕事。上からの命令か、市民からのSOSかだ。俺の知る限りこの近辺で事件も事故も起きていない」

先輩のきっぱりとした態度に私はもう一度席についた。

「じゃあ、どうしてみんなが……」

私がつぶやくと先輩は後ろを向いたまま黙り込み、少しあってぽつりと言った。

「でもまあ、そんなに気になるなら」

え、と私は佐藤先輩の背中を見る。

「そういう、集団ヒステリーみたいなのに詳しい知り合いがいる」

と、先輩はポケットをガサゴソとやると、名刺入れから一枚の名刺を取り出した。

「相模川大学 准教授 一ノ倉 征爾(いちのくら せいじ)」

私が驚いていると、先輩は片眉をつり上げて話し出す。

「大学時代の友人で、今は社会心理学の教授だ。以前こいつが提案した防犯方法で犯罪率が下がったことがあってな。まあ、俺が手柄にしちまったんだが……」

そう言うと名刺を押し付けるように先輩は続ける。

「個人的に調べる分には構わないだろう。ただし、非番の時にな」

「先輩……! ありがとうございます!」

私は先輩の厚意に感謝をこめ、敬礼した。と、慌てたように佐藤先輩は付け加えた。

「あ、俺が紹介したってことは内緒な! あとなんかあっても俺は責任持てないからな!」

そう言うと佐藤先輩は空き巣事件の捜査に呼ばれたと言って交番を出ていった。

この事なかれ体質がなければ頼れる先輩なんだけどな。

私は名刺をもう一度確認すると、次の休みに訪ねることに決めた。


4.

相模川大学は県内最大級の公立大学。敷地に入ると並木が生い茂り、若々しい雰囲気の大学生たちが行きかっている。私もこんな頃があったなあ、なんて、ついこの前警察学校を卒業したばかりなのに懐かしい気分になる。

目的の教授は今講義の真っ最中ということで、私も聴講生に交じって授業を立ち聞きすることにした。

「同調現象は現代社会でも散見されます。例えば化粧がそうだ。誰も教えていないのに、なぜか女性は必ずするものという暗黙の合意が形成されている。本来、このようなことをする必要はないのにです」

黒髪を伸ばした背の高い男がマイクを手にスクリーンを指す。彼が一ノ倉教授なのだろう。彼の話は私の意見に近い。その整った容姿からか、女生徒が大挙し、とろけたような目で彼の一挙手一投足を見守っている。

と、横に立っていた金髪の男子生徒がひそひそと私に話しかけてきた。

「ね、君新入生でしょ。一ノ倉教授の授業は取らないほうがいいよ」

どうやら私を1年生と勘違いしているのか、先輩風を吹かせながらそう言う。

「見た目で女子人気高いけどさ、この人採点厳しいし、単位取れない人続出で、皆殺しの一ノ倉なんてあだ名がついてんの」

私が適当に相づちを打つと、気を良くしたのか男子生徒は続ける。

「おまけに人望ないから教務課からも嫌われてるんだ。部屋も狭いとこしか割り当てられないし、結局期末には10人くらいしか受講してないくらいだよ」

この男子はこういうことを新入生に吹き込んで何がしたいのだろうか。まあ、その答えは考えるだけ無駄だろう。

「いい履修先紹介するからさ、このあとお茶しようよ」

やっぱり、ただのナンパ目的だ。

「そこ、私語をするなら出ていきなさい」

と、一ノ倉教授が名指しで男子生徒に注意した。

「はーい。君も来るよね?」

金髪の男子生徒は私を強引に連れていこうとしたが、私が断るとチェッという顔で退室した。

授業が終わると、聴講していた女子生徒たちがわらわらと一ノ倉教授に群がる。

「先生のお話とっても勉強になりましたぁ! 私、もっとお化粧がんばらなきゃって思いました」

この子は話を聞いていたのだろうか。大げさに言って見せた茶髪の女子大生に一ノ倉教授は冷たい目をすると、こう言った。

「君の化粧など誰も見ていない」

しばし凍り付いたような空気が流れたのち、女子大生は泣きながら退室した。何もそこまで言わなくても。なるほど、これが人望のないという皆殺しの一ノ倉なのだろう。その後に控えていた生徒たちも逃げるように教室を後にした。

私は早足で帰ろうとする一ノ倉教授を呼び止めた。

「すみません、一ノ倉教授でしょうか」

彼は面倒そうに振り返ると、「准教授だ」と訂正した。見た目通り神経質な人である。

「私、相模川駅前交番の巡査をしている者です」

と、私があいさつをすると、教授はさらに顔をしかめた。

「つまり、佐藤の回し者だな」

言うなと言われていたが、見抜かれては仕方がないだろう。私ははいと答え、捜査協力をお願いする。

「あの、どうしても教授のお力をお借りしたいことがあるんです」

「私はこのあと昼食をとるんだ、邪魔をしないでくれ」

取り付く島もないという態度の教授に、私は懇願する。

「私の親友が窮地かもしれないんです。助けてください」

「それと私に何の関係がある。帰りたまえ」

なんとも薄情な人だ。私はそれでもと思い先輩に言われたことを思い出した。

「あなたが捜査協力をしてくれたこと、先輩がとても感謝していました。また協力をしていただけたら、きっともっと人望が増しますよ!」

思い付きの一言だったが、一ノ倉教授は人望という言葉にはっとしたように足を止めた。

「……僕は冷たい人間に見えるか?」

「まあ、優しい人間には見えませんね」

私が正直な気持ちを答えると、教授は振り返って言った。

「僕ほど誠実で優しい人間はいない! その僕がなぜ嫌われる?」

「え、いやあ」

やはり人望がないというのは事実なのか、どこか切羽詰まった様子だった。私が二の句を継げずにいると、教授は続けてまくしたてる。

「冷たい人間とは人に嘘をつく人間だ、心にもないことを言う人間だ! そうは思わないか?」

なるほど、本心からあんなことを言っているのか。それはかえってタチが悪い。

「しかし、言わなくていい本音もありますよ」

私がそう諭すと、彼はますます激高した。

「またそれだ、そういうセリフは聞き飽きている! 生憎と僕は言えないような本音は抱いたことがないものでね」

普通の人は言わないような本音を言っているわけだが。

「とにかく、僕は世間から正しく評価されていない! 僕の社会貢献を知っているなら君、ただちに皆に周知するんだ」

また普通の人なら言わない本音を言っている。私は一ノ倉教授の言葉に乗ってあげることにした。

「あの、もちろんそれはやぶさかではないのですが、新しい社会貢献をお願いしたいのです。きっとあなたの本当のやさしさが広まりますよ」

言うと教授は少し落ち着きを取り戻し、私に向き直った。

「ふふ、やはり僕は勘違いされているだけなのだろう? まったく世の中というのは愚物ばかりだ」

この口が災いの元なのではないだろうか。もちろんそんなことは口に出さず、私はもう一度お願いした。

「先生の名誉を取り戻すためにも、ぜひ社会貢献をお願いしたいのです。その、個人的なお願いなので報酬はあまりお支払いできませんが」

教授はそれを聞いてフンと笑う。

「いいだろう、前金として昼食をおごってもらおうか」

なるほど、正直で誠実な態度だ。

私たちはそのまま学生食堂へと向かった。


5.

相模川大学の学食は近代風な白い建物の二階に位置していた。カフェテリア形式というのか、想像していた学食よりはしゃれた雰囲気だ。ガラス張りの壁からさっき通ってきた並木通りが一望できた。

「次の授業もあるので、手短に頼む」

一ノ倉教授はそう言うと、「ふわふわデミグラスオムライス」の前で手を合わせ、むしゃむしゃと食べ始めた。私は天ぷらそばを注文し、少しすすってから話をまとめる。

「つまり、道行く人がなぜか包帯や絆創膏をつけているんです。それも、一人や二人じゃない」

教授は無言でオムライスを口に運ぶ。目で話を続けろと促してきた。

「そして、私の高校時代からの親友も腕に包帯をしていたんです。しかも、その理由を隠している。これって何か共通の理由があるとしか思えませんよね?」

私が言うと、教授はやはり無言のまま咀嚼を続け、最後に水を飲んだ。

「それで、君はどういう仮説を立てた?」

一ノ倉教授は教授らしく腕組みで質問した。私は学生に戻ったような気分で質問に答えた。

「私は、はじめ友人が包帯をしていた時、DVを疑ったんです。恋多き女性ですから、恋人に暴力を振るわれていたら、と」

「だが、その仮説は否定された?」

教授の質問は続く。

「ええ。何しろ、町中でほかにも包帯をしている人がいるのを見てしまったんですから。彼らはみな比較的若い男女でした。これは一カップルの問題ではないですよね?」

私の答えに納得していないのか、目をつぶって教授は質問を続ける。

「次に仮説をどう修正した?」

「次に疑ったのは、共通の事件や事故に巻き込まれた可能性です。地域一帯の人がけがをするなにかがあったのではないか、と」

私の答えに教授はうんうんとうなずいた。大学生というのはこういうことを毎日やっているのだろうか。警察学校の教官や職場の上司とも違う緊張感がある。私はさらに知っている限りのことを述べた。

「でも、先輩巡査に訊いてみると、交番周辺で事件や事故はなかったと言うんです」

「……なるほど」

教授はまた水を飲むと、考えをまとめるように黙ってから、ゆっくりと話し始めた。

「まず、すべての仮説は生の統計情報、ローデータを観察することから始まる」

「ええと、つまり?」

私が聞き返すと教授は講義のような口調になって話し始めた。

「例えば、包帯をしている人は全体の中で何人か、その中で本当にけがをしている人は何人か、あるいは病気の人は何人か、包帯の中を隠している人は何人か。周辺で起きた事件は何件か、事故の件数は何件か。まず前提の数値をはっきりさせないと、議論の軸足は立たない」

「つまりそれは、情報不足ということでしょうか」

私がおずおずと聞き返すと、教授はそうだと答えた。

「サンプルサイズが小さくては社会調査というのは成り立たない。『みんな』とか『集団』を語るにはそれなりの数値がいる。そもそも、『みんな』が包帯をしているということが君の主観だ」

「ええと、すみません……」

私は理屈っぽい方だと自認していたが、本物の理屈屋は圧倒的だった。なんとなく悪いことをしたような気になって私は縮こまった。

「君、次の土曜日は空いているか」

突然、スケジュールを尋ねられ、私はえ、と当惑した。教授は補足するように言う。

「実地調査をしよう。おそらく、数名に直接インタビューをすれば解決するよ」

教授は何か考えがあるようだった。ちょうどその日は私も非番だ。

「ええと、午前中だけで良ければ」

私が答えると、教授はうなずいた。

「では、土曜の朝10時に交番付近に集合だ」

そう言うと教授は立ち上がる。私は教授の皿に目が行った。

「あ、グリーンピース」

皿にはケチャップライスの中のグリーンピースだけが器用に残されていた。教授は真顔で次のように答えた。

「グリーンピースの主な栄養素は食物繊維だ。今の私には必要ないと判断した」

苦手なだけだろ。


6.

「宮坂巡査、聞き込みに向かうぞ」

次の日のことである。佐藤先輩のそんな言葉で、私は最近多発する空き巣事件の捜査に駆り出された。

「昨日あいつのとこ行ったんだってな」

聞き込みに向かうパトカーの助手席で、佐藤先輩はそう言った。

「ええ、まあ」

私は安全運転を心掛けながら先輩のナビ通りの道を運転する。

「どうして俺の名前を出しちゃうんだ、あいつ、また嫌味を言ってきやがった」

先輩は恨み言のようにぶつぶつとそう言った。

「いやあ、一ノ倉さんがすぐに察したんですよ」

私が言うと、先輩はまったくもう、とぷりぷりしている。どういう関係なんだこの二人は。考えていると、佐藤巡査が200m先を左だ、と指示した。こういうところはきっちりしている。

「いまテープが張られている家が昨日空き巣のあった家だ。俺たちはその近所で、不審人物がいなかったか聞きこむぞ」

佐藤巡査の指示通り、私は邪魔にならない通りにパトカーを停車した。

「空き巣はここ1か月で6件、どれも同一地区の別の家庭だ。そのどれもが同じ手口で、同一犯とみられている」

佐藤巡査の話を聞き、昨日の教授の言葉を思い出した。なんだ、この近辺で事件は起きていないなんて嘘ばっかりじゃないか。

聞き込みのため、事件現場から一本先の通りに向かう。角を曲がってすぐにある二階建ての家のインターホンを押すと、奥ではーいと声がし、バタバタと足音をさせて小太りの婦人がドアを開けた。

「あらいやだ、警察?」

顔をしかめる婦人に手帳を見せて佐藤先輩がにこやかに一礼する。

「お忙しいところすみません、昨日そこの今川さんのお宅で空き巣があったのをご存じでしょうか」

「わ、聞いたわよ~。海外の窃盗団じゃないかってねえ。その前にも紺野さんちであったでしょ、怖いわねぇ~」

婦人は大げさな手ぶりで話し出す。手にはいくつも宝石付きの指輪をつけ、首からは高級そうな革のネックレスを下げていた。

「ほら、私なんか結構持ってるもの持ってるから、次狙われたらどうしましょうなんて主人と言ってるのよ」

こんなことを言いつつまるで自慢のように婦人は手を振って見せる。暇を持て余しているのかおしゃべりのとまらない様子である。

「ええ、我々も全力で捜査をしているんですが……」

婦人はそこで思い出したようにパチンと手をたたいた。

「あ、そーだ、ワンちゃん」

え、と思っていると、婦人は猫なで声で奥に消えたかと思うと、犬を抱えて出てきた。

「マロンちゃーん、お巡りさんにごあいさつしてごらん」

婦人に抱かれて出てきたのはダックスフントだった。私たちを見ると、不安げな表情でじたばたとする。佐藤巡査は愛想笑いをすると、話を戻すように尋ねた。

「えっと、この付近で不審な人物など見なかったでしょうか?」

その質問に婦人はまた思い出したように話し出す。

「そーそ、さっき言いかけてたのはそれよ。不審な人じゃないんですけどねえ、この間の紺野さんの時、ワンちゃんが犯人にかみついたんですって! 血の跡も残ってたんでしょ? DNAかなんかでチャチャっと捕まえちゃってちょうだいよ」

調子よくテレビドラマで聞きかじったようなことを言う婦人に、私と佐藤先輩はあははと苦笑いを返した。

しばらく婦人の自慢話を聞かされ、ようやく解放された私たちは別の家でも聞き込みをしてみたが、めぼしい情報は得られなかった。

しかし、婦人の話の中で私には気になる点があった。最近になって姿を現した窃盗団、そして、犯人が犬にかまれたという情報。

まだつなげるのは早いが、じりじりとした疑念がわいていた。


7.

土曜日のこと。午前ののんびりとした駅前、約束した交番の近くで、私は時計を見ながら一ノ倉教授を待っていた。デートなどという浮ついたものではないが、異性と休日に二人で待ち合わせ、という状況が初めてだったため緊張していた。気合を入れてきたと思われてもあれなので学生時代から着ていた私服だ。おかしくないよね?

なんだか早紀みたいだな、と思いながらショーウィンドウのガラスを鏡に、髪を手ぐしでとかす。

昨日の夜、私は再度早紀に連絡を入れた。相変わらずケガについては聞けなかったが、予定の合う水曜の夜に、私の家でお泊り会をする約束を取り付けたのだった。彼女のケガは何が原因で、何を隠しているのか。落ち着いた状況でゆっくり話したかった。

と、そこに、背後から低い男性の声が聞こえた。

「待たせた」

なぜかドキッとして振り向くと、一ノ倉教授は驚くべき姿をしていた。

「私は社会貢献のため貴重な時間を割いて警察の捜査に協力しています」

そんな一文が印字されたTシャツだった。まさか、わざわざ作って来たのか?

「な、なんですかそれは」

私が絶句していると、一ノ倉教授は平然と言う。

「僕は人望を得るためにこんなところに来ているんだ。アピールできなければ意味がない。ほら、君の分だ」

そう言うと教授は私に文字の入ったTシャツを手渡した。

「私は心優しい大学教授に捜査協力をお願いし、社会のために貴重な時間を割いていただいています」

目を丸くする私に、教授はそれを着用するよう促した。

こんな男に緊張したりドキドキしたり、バカなのか私は。がっくりと肩を落として、渋々それを私服の上からかぶった。サイズはLなのか服の上から着ても問題なかった。

一ノ倉教授は人目など一切気にしていない様子で道行く人を観察している。まさか、本当にこの格好で電車に乗ってここまで来たのか?

と、通行人の中に絆創膏をした人を見つける。私が気づくより少し早く、教授はすたすたとその人に向かっていき、進路を阻むように話しかけた。

「社会調査にご協力いただけますか」

「は?」とうっとうしそうに顔を上げたその女性は、教授の顔を見るなり目を大きくして立ち止まった。

「あ、はい。少しなら……」

人が恋に落ちる瞬間という奴だろうか。まあ、相手がこんなダサTを着たノッポでなければ絵になる光景なのだろう。女性はポーっとしたまま教授を見つめていた。

「その絆創膏、なにかけがをしているのだろうか?」

教授が尋ねると、女性は恥ずかしそうに腕をかばった。

「あ、いえ、その、お恥ずかしいんですが……」

女性の言葉を待つと、意外な答えだった。

「ケガではなくて、おしゃれと言いますか」

ん? 包帯や絆創膏を張るファッションってこと? そんなのある?

私が考えていると教授は納得したように微笑んで言った。

「ああ、やはり、入れ墨と言うことでしょうか?」

女性は指摘され、ほっとしたような顔になった。

「ええ、つい最近彫ったものなのでまだ外せないんです」

「どうもありがとうございます。お礼に大学のボールペンを進呈します」

教授は学校見学で渡すような安物のボールペンを手渡すと、きびすを返してこちらに向かってくる。

「聞いていたか? 私の仮説が正しければ、これが答えだろう」

教授の言葉に私は感心した。

「つまり、入れ墨ブームということですか? それで若い男女が多かったんですね」

「ブームと言うか、正確には専門の店がこの辺りにできたんだよ」

教授は腕組みしてそう言った。いつの間に調べていたのだろうか、自分で言うだけあってあながち冷たい人間というわけでもないようである。

「絆創膏はともかく、けがを疑うような包帯は普通病院で巻くものだろうと思ってね。ここ一月以内に増えたということだったから、駅前の医院を調べてみた。結果、病院やクリニックではないが、タトゥーの専門店が新しくできていたことが分かったんだ」

教授が指さした雑居ビルには、それらしい看板が見えていた。

「うそ、ずっと見ていたはずなのに気づきませんでした」

「まあ、人の注意力なんてその程度だよ」

私が驚いていると、教授は得意げに笑った。

「とはいえ、この程度のサンプルサイズで結論を出すわけにもいかない、もう少し調査をしてみようか」

そんな言葉に従って、正午まで入れ墨店の近くでインタビューをしてみると、実際に包帯の人物の多くがその店で施術を受けていたことが分かった。

早とちりで事件を疑ってしまったが、なんとも肩透かしな結末だった。あとで早紀にも謝らなきゃな。

駅前のレストランで教授にまた昼食をおごって、その日は解散となったのだった。


8.

水曜の夜のことである。日勤を終えた私は、同じく仕事終わりの早紀と夕方に合流し、スーパーで買い物をしてから私のアパートで鍋をすることとなった。

鍋のもとで作ったごま豆乳鍋をつつきながら、私はすっかりと安心して談笑していた。

「あはは、早紀がDVにあってるんじゃないかって心配しちゃったよ」

「えー、だから単なるケガだってば。レインってほんと思い込み激しいとこあるよね」

と、早紀もお酒が回って来たのか愉快そうに笑った。

「とか言って、元カレの名前でタトゥーとか彫っちゃったんじゃないの?」

私も調子に乗って包帯の下を見ようとしたが、早紀は怒ったように腕を隠した。

「ちょっとやめてよ、まだ治ってないんだから! モデルの骨折ったら賠償だぞ!」

なんだ、いつも通りじゃないか。早紀の言う通り、私は変な正義感で突っ走るからいけない。

「それよりさ、レインは誰か良い人いないの? 例えばほら、交番の佐藤さんめっちゃイケメンじゃない?」

「えー、そうかなあ」

早紀の浮ついた話題に私も思わずにやける。

「でもさ、本気で。気になる人とかいるんでしょ。レインってわかりやすいんだから」

なんて探りを入れてくる早紀に思わずむきになって言い返してしまう。

「いないって! あの人は別に……」

「あー! やっぱり好きな人できちゃったんだ!」

そんな調子で恋バナにうつつを抜かしながら締めの雑炊まで完食し、私たちは近所の銭湯に向かうことにした。

銭湯はアパートから坂を下って少しのところにある。古くから続いているようで、私もシャワーでは少し寂しいというときに利用している。夜でも遠くから煙が見えた。

「なんかさ、こういうの青春って感じだね」

早紀はどこか悲しいような嬉しいようなあいまいな顔をした。

銭湯に着き、脱衣所での着替えの最中だった。私はついに早紀が包帯を外す瞬間を見た。

「噛みあと……」

そこには、くっきりとした犬の歯形がついていた。


9.

どうして早紀に犬の歯形が……?

朝になって早紀と別れてからも、私はぐるぐるとそのことを考えていた。

彼女は実家でもネコを飼っていただけだし、今もペットは飼っていないはず。今までの彼氏が犬を飼っていたという話も聞かない。

「近所で噛まれちゃっただけ」

そんな風にごまかした早紀だったが、だったら、どうして最初からそう言わなかったのだろうか? それに、あの程度の傷にしては仰々しい包帯だ。転んだだけと言って私から隠そうとしていたことも気になる。

「宮坂巡査」

私が考え込んでいると、佐藤先輩がいぶかしむように顔を近づけて声をかけてきた。

「あ、いえ、はい! 聞いてます!」

慌てて立ち上がり敬礼する私に佐藤先輩はため息をつく。

「また聞き込みだ。例の空き巣事件」

佐藤先輩に促されるまま、私たちは再び聞き込みに出かけた。

そう、まさにこの空き巣事件が、私の心配だった。

「先週、また被害があったそうだ。この間の家、覚えてるか?」

「それって、あの宝石ビカビカのご婦人の」

私が答えると、先輩はそうだと首肯した。忘れるはずもない。

「あの聞き込みのすぐあと発覚したらしい。現場の方は所轄署が捜査に当たっているから、俺たちはまた周辺の家で聞き込みをするぞ」

そう言ってから、佐藤先輩は不思議そうに首をひねった。

「しかし、これだけ大胆に何件も事件を起こしていて、目撃情報が一つもないとはなあ」

確かに、それは不思議だ。

「ま、最近は地域のつながりみたいなのも薄いし、誰が歩いててもわからんか」

ひとりで納得するように言う佐藤巡査に、私も同調する。

「そう、ですね」

早紀は目立つ人物だった。それは今も変わらないし、万が一彼女が何か事件にかかわっているとしても、目撃情報が出ないのはありえないだろう。

しかし、一ノ倉教授の一言が頭をかすめる。「人の注意力なんてそんなものだよ」

海外の窃盗団だと思われていた空き巣。その目撃情報を聞かれて、若い女性が歩いていたことなどわざわざ報告するだろうか?

私は現場の路地にパトカーを停めると、佐藤先輩と二人、両隣の家で聞き込みを開始した。

「ええ、不審な物音もなかったし、変な人も見ませんでしたよ」

応対した主婦はもういいですかと言わんばかりにドアを閉めようとする。まあ、連日近所で犯罪が起きてそのたびに警察が来てはうんざりというところだろう。私は慌てて声をかけた。

「ちなみに、事件の前後で背の高い若い女性を目撃したりしていますか?」

佐藤巡査は私が口を挟んだことにぎょっとしたような顔になる。主婦の方は少し考えると、思い出したように答えた。

「前後、ってわけじゃないですけど、最近よく散歩してる人には会いますね。ちょっときつい感じの」

私はドキッとしてさらに尋ねる。

「えっと、茶髪でロングの、モデルっぽい人でしょうか?」

主婦は驚いたように答えた。

「ああ! まさにそんな感じです。一月前くらいからかなあ」

一月か……。空き巣が現れた時期とも一致する。

「あ、それでは、ありがとうございます! また何かありましたらお伺いするかもしれません」

と、苦笑いの佐藤巡査が話を打ち切り、私たちはその家を後にした。

「お前、何考えてるんだ? 言われてもないことを聞いたりして」

外に出てから、佐藤先輩は小声で叱ってくる。しかし、私の心のうちには確信めいた疑念があった。

「いえ、その、どうしても気になることがあって」

「それがさっきの質問の理由か」

ため息交じりに腕組みをする佐藤巡査。

「その、もしかしたら、私の友達が事件に関係しているかもしれないんです」

私が言うと、佐藤先輩は眉を吊り上げ、うーんとうなった。

「一応今の証言は上に報告しておくが、確証もなく疑うわけにはいかないぞ」

まあ、そういう答えになるよな。私は続けてこう言った。

「あとで早紀に連絡してみます。親友として放っておけないので」

佐藤巡査はそれを聞いて安堵したようにうなずいた。

「うん、そうしてくれ。とにかく捜査に私情を挟まないように。責任持てないからな」

まあ、この人はこういう人だよな。

私は聞き込みを終えると、休憩時間に早紀に連絡を入れることにした。コール音がしばらく鳴り……。

「出ない」

今日は休みと言っていたが、出かけているか寝ているのだろうか。

仕事終わりに、マンションが現場の近くだったため私は訪ねてみた。しかし、留守にしているようでエントランスで足止めを食らった。出かけているのか、とあきらめて引き返そうとした時だった。

「ペット禁止」

張り紙を見て私は再び思考を巡らせる。「近所で噛まれた」はずがないじゃないか、これでは。駅まで向かう道にも民家はなく繁華街が続いている。では、あの噛み跡はどこで……?

気づくと、私はスマホを取り、名刺の一ノ倉教授に電話をかけていたのだった。

「一ノ倉社会心理学研究室」

くぐもった声で返事が返ってくる。その声に、なぜか私は落ち着きを取り戻すのだった。

「すみません、また、個人的な相談なのですが」

私がこれまでのことをかいつまんで説明すると、一ノ倉教授ははっと笑った。

「この間のシャツを着て研究室に来たまえ」

私はよくわからずに聞き返す。

「えっと、もしかしてあの文字の入ったやつですか……?」

「ああ、解決に必要なことだ。必ず着て来るんだ」

一体この教授は何がわかって、何のためにそんな指示をしたのだろうか?

わからないまま、私はシャツを取りに家に戻った。


10.

朝の10時ころ。私は教授の指示の通りに前にもらったTシャツを着て電車に乗っていた。強烈な人の視線を感じる。

「私は心優しい大学教授に捜査協力をお願いし、社会のために貴重な時間を割いていただいています」

こんな文字の入ったシャツを着ている女がひとり電車に乗っていては、目立つことこの上ないだろう。どうしてこんなものを着せるんだ。そんなことを思いながらも、あの絆創膏の件を解決した教授だ、事件解決のためならと自分を納得させ、私は相模川大学へと歩みをすすめた。

道行く人々の視線を一手に浴びながら、私は羞恥に耐えて一ノ倉教授の研究室にたどり着いた。

研究室のある文学部棟はレンガ造りの古ぼけた建物で、その4階の隅に追いやられるように一ノ倉研究室はあった。ドアをノックすると、「入りなさい」と落ち着いた男性の声がした。

「なんだ、本当に着てきたのか」

驚いたような顔で教授は言った。

「あ、あなたが着ろって言ったんでしょう?」

私ははしごを外され、怒りながらそう言う。

「いや、おかげで説明がしやすい。どうだった?」

「どうも何も、みんなから白い目で見られて散々でしたよ」

私がそう言うと、教授は笑う。

「そうか、では、実験の続きをしようか。ついてきてくれ」

教授はそう言うと、私を連れて同じフロアにある講義室へと向かった。そこは一ノ倉教授の講義の教室で、以前見たときより少なくなった聴講生たちが席についていた。一ノ倉教授は私を真ん中付近の席に座らせると、講義を始めた。一体何のつもりなのだろう?

「今回は各論に入る。外的自己意識特性についてだ。君たちは自分がどう見られているかを気にしたことがあるだろうか?」

教授はそのまま講義を進める。私にダサTを着せて講義を聞かせるのが目的だというのか?

何より、事件とどう関係があるというのだ。私は、学生たちの視線を感じつつ、じりじりとした思いで授業を見守った。

「おそらく誰もが一度は自分の外見が相手にどう見えているか気になったことがあるだろう」

まさに、今の私である。

「こうした外見的注目を意識する心の働きを、外的自己意識特性と呼び、個人差はあれど皆が持っているものだ」

思えば、早紀は特にその傾向の強い人間である。私はまた友人の事件を考え、焦りにかられた。こんな授業を聞いている暇があるのか?

「ところが、多くの場合自分が浴びていると思っている注目と、実際に人々が向けている注目には大きな温度差があるものだ」

そう言うと教授はつかつかと私の方にやってきた。

「さて、少しアンケートをとろうと思う」

教授は私の手を握ると壇上に引っ張ってきた。冷たく大きな手だ。学生に見られている恥ずかしさからか、教授に手を握られたことからか、私は思わず赤面する。

「この女性はこのTシャツを着て授業の途中から入室し、そこの席に座っていた」

と、教授は私の腰に軽く手を回し、さっきまで私が座っていた席を指した。

「さて、あなたはどのくらいの人数に見られていると感じましたか?」

教授は私の方を向くとじっと目を見つめて尋ねた。顔が近い。透き通った目に吸い込まれそうになる。

「えっと、30人くらいでしょうか?」

私はしどろもどろになりながら、何とかそう答えた。

「では、実際にこの女性がいるのに気付いていたものは?」

と、教授は次に学生に向かって尋ねた。

ぱらぱらと手が上がるが、私が意識していたよりずっと少ない。

「9人か。いいだろう」

教授はうんとうなずいた。

「このように、自分が目立つ格好をしている時というのは、実際以上に注目されていると勘違いしてしまうことが多い」

教授はもういいぞというように私に着席を促すと、そのまま講義に戻った。なんだ、講義の材料に使われたのか。まあ、私も個人的な捜査協力をお願いしている以上文句は言えまい。

「これを、スポットライト効果と呼ぶ」

教科書に載っているような単語なのだろうか、前列の学生がうんうんとうなずいた。

「要するに、多くの人は自意識過剰なところがあり、逆に言うと、多くの人は他人のことなどそれほど気にしていないということだ。もちろん、女性の化粧も、望む人以外はする必要はないと僕は思っている。誰も見ていないという理由だけでなく、時間的金銭的負担が大きいからね」

と、一ノ倉教授は話を締めくくった。以前女子学生を泣かせていた「君の化粧など誰も見ていない」という発言は、まぎれもなく彼のやさしさだったようである。よくしゃべる割に言葉足らずな人だ。

授業の後、私は一ノ倉教授と研究室に戻ると、さっきの一件を抗議した。

「授業の材料に使うならあらかじめ言ってもらわないと困ります! 恥をかいちゃったじゃないですか」

「言っていたら意味のない実験なんだ。おかげでいいデータが取れた」

教授は愉快そうに口の端を上げると、さらりと言ってのけた。人の気も知らないで。自意識過剰女みたいだったじゃないか。

「とにかく、授業の協力はしたんですから、そのわかったという答えを聞かせてください」

私がそう促すと、教授は不思議そうに聞き返す。

「今の授業が答えなんだが、わからなかったか?」

わかるはずもないだろう。人は自意識過剰だという心理学の講義を受けただけなのだ。

「わかりませんよ! 私が聞きたいのは早紀がどうして犬にかまれたのか、そして、どうしてそれを隠していたのかです。もし空き巣の件とつながりがあるなら、もっと調べないといけないことがある」

私がまくしたてると、教授ははあとため息して椅子に掛けるよう促した。

「それじゃあ、補講を始めるとしよう。空き巣の件はまだだったしな」

一ノ倉教授は私と反対のソファに腰かけると、足を組んでそう言った。


11.

ほこりっぽい文学部棟4階の隅の部屋。長机を挟んで恥ずかしいTシャツを着た私と、反対にはタートルネックにジャケットを羽織った長身の男。

夕陽を背にその男、一ノ倉教授が語りだした。

「まず、前提を整理しよう。問題となっているのは君の友人が包帯をしていた一件。彼女はその理由を『転んでけがをした』と君に嘘をついたが、実際には犬にかまれた傷だった。」

私は首を縦に振る。

「ええ、ちょっとした傷ですし、あまりに包帯が多いと言うか、隠しすぎているように見えたんです」

話を補うように教授が付け加える。

「しかも、彼女は犬を飼っていたことはないし、マンションやその周辺でも、噛むような犬はいない」

「そうです、そもそもあのマンションはペット禁止だったんですから」

私が言うと、教授はあっさりと結論を話した。

「僕の仮説はこうだ。彼女はペット禁止のマンションで犬を飼っている。だからそれを包帯で隠した」

え、と私は面食らった。そんなにあっさり?

「後ろめたいからこそ隠したんだ。そう、彼女はちょうど自意識過剰な人だったのだろう?」

聞いて、私はさっきの授業を思い出した。

スポットライト効果。

つまり、早紀はその噛み跡が目立っていることを必要以上に気にしたということだろうか?

「いや、確かにそうですが、そんな、簡単な話ですか? だったら、親友の私にくらい言ってくれたっていいのに」

私が言い返すと、教授はふふと笑った。

「包帯くらいでこんなに詮索してくる警察官に、ただでさえ後ろめたいことを言えるわけないじゃないか。ばれたら引っ越すべきだと言ってきそうだよ」

確かに、私ならそう言うかもしれない。しかし、教授からもそんな正義感あふれる人間に見えているのだろうか?

「でも、そこまで言い切る理由がありませんよ。それに、空き巣事件の目撃証言はなんなんですか?」

私が聞くと、教授はやはり面白そうに笑う。

「だから、その目撃証言が決定的なのさ」

「あの目撃証言が決定的、とは?」

私がわからずおうむ返しに聞くと、教授は続ける。

「『最近よく散歩している人がいる』。なんだか、若い女性を住宅街で目撃した証言としては違和感がないか?」

私は少し考える。

「ええと、それこそ、なにか空き巣の下見だったらと私は考えたんですが……」

「さすがにそこまで怪しい人物なら君から聞くまでもなく目撃証言が上がったはずだよ。だからこれは自然に住宅街にとけこむような散歩だった。しかも、ジョギングじゃなく散歩だ。モデルのような若い女性がひとりで普通の住宅街をうろうろしていたら、やはり目立つだろうね」

教授の言葉に私ははっとした。

「ああ、つまり、犬の散歩だったわけですね!」

私が言うと教授はその通りとうなずいた。

「あの地域では少なくとも犬を飼っている家が2軒あった。だから、犬を散歩させている女性なら、怪しい人物の目撃証言としてこれまで出てこなかったことにも説明がつくだろう?」

こっそり犬を飼っていた早紀がそれを包帯で隠していた。そのように整理されるとなんともあっさりとした真相だった。しかし、私にはもうひとつ気がかりがあった。

「早紀は空き巣に関係なかったとしたら、空き巣の犯人は誰なんでしょうか?」

教授は腕を組むと少し考えてから言った。

「目撃証言が上がらない犯人、だそうだな」

ええ、と答えると、教授はあごに手を当てて考える。何か仮説はあるが言えない、という感じの顔だ。

「ええと、そう言えば、君は聞き込み先の家で宝石をたくさんつけたご婦人に会ったそうだな?」

思いついたような教授の質問に私はまたうなずく。どういう意図だろうか?

「そのご婦人が高級そうな革製の首飾りをつけていた。そうだな?」

「ええ。たしか、そうだったはずです」

私がちらっと言っただけのことをよく覚えていたものだ。大学教授とはこういうものなのだろうか? 

考えていると、教授はスマホに何かを打ち込み、私に画面を見せてきた。

「その首飾りとはこれか?」

私が見ると、あの時見たネックレスと似たデザインのものがたくさん表示されていた。

「ああ、そうです! まさしくこんな感じの……」

言いかけて私は目を見張った。見せられたのは画像検索結果だったのだが、その検索窓には。

「犬用リード 革製」

教授はスマホを引っ込めると画面を拭いてから言った。

「これは犬用のリードだよ。もちろん、高級なものには違いないがね」

私は混乱した。あのおばさん、どうして、犬用のリードなんかをつけていたんだ?

「これではっきりした。僕の仮説では、犯人は聞き込みに応じたそのご婦人だ」

またも、教授はさらりと言ってのけた。

「僕はこの事件の犯人像について、こう考えてみたんだ。つまり、人の目を気にしない大胆な人物なのではないか、とね」

「え、でも。誰にも目撃されていないわけですよね?」

私が驚き尋ね返すと、教授は笑う。

「さっきの講義を聞いていたかね? 人はそれほど他人を気にしていない。犯人にはそれがわかっていたんだ」

「でも、大胆、というのはどういうことですか?」

また私が聞き返すと、教授は説明を始めた。

「同一の地区で連続した犯行。普通の空き巣はね、自分の住所がバレるのを恐れてわざと犯行現場を散らすものだよ」

ああ、と私は納得した。どこかでそんな話を聞いたかもしれない。それにね、と教授はさらに続ける。

「目撃証言が上がらないのは、さっきも言った通り、あまりにその住宅街になじむ人物像だからなんだよ。その人がそこで何かをしていても不審がられない人物」

「ま、まさか」

私が驚いていると、教授は結論を述べた。

「犯人はその住宅街の住人だった。だから堂々と犯行を行ったんだ」

「し、しかし、盗品を持っていたらさすがに怪しまれますよ」

私が言うと、教授は思い出してみたまえ、と私を見た。

「君はそのご婦人に会った時、何を持っていた?」

あ、と私はまた気が付く。

「まさかあの宝石や首飾りが、すべて盗品だった……?」

「大きなカバンや不審な車があればともかく、身に着けているものならやはり住宅街でも浮くことはない。彼女は徒歩で現場を訪れ、盗品を身につけて堂々と歩いて帰ったんだよ」

教授の言葉に、あの夫人の顔が思い出される。言われてみれば図太そうな顔である。

「しかし、そうなるとそのリードはなんだったんですか?」

「だから、あれが決め手なんだ。犬用のリードを自分の身に着けるなんて、家の持ち主ならあり得ない行動だろう?」

まさか、と私は自分の考えに顔をしかめる。教授は目を閉じて言う。

「気づいたかい、あの聞き込みの時には、彼女の犯行は完了していたんだよ」

「つまり、空き巣に入った家で、堂々と盗品を身に着け、警察の聞き込みに応じていたって言うんですか?!」

私は自分の情けなさに思わず声を上げる。あの時気づいていれば……。

「し、しかし、犯人にしてはあまりに堂々としていましたよ。犬まで見せびらかして」

教授はそうか、と驚いたような顔をすると呆れた表情になって笑った。

「なるほど、大した女優じゃないか。すっかり家主になり切っていたんだな。逃げ隠れしなかったからここまで捕まらずに来たんだろう」

「そんなことって」

私ががっくりとしていると、教授はまたふんと鼻を鳴らした。

「隠したりうそをつけばかえって疑惑が大きくなる。事実、君の友人は後ろめたいことを包帯で隠したせいでかえって詮索されてしまったんじゃないか」

言われ、私は納得した。つくづく、早紀とは正反対の犯人像だったわけだ。

「ともあれ、これは単なる僕の仮説だ。あとは君が実証データを集めたまえ」

教授の推理に感服し、私は研究室を後にした。

「それと、今回の謝礼は佐藤の奴もつれてくると良い。あいつの金で焼肉が食いたい」

なるほど、ウソや隠し事のない誠実な人柄である。

私はこの偏屈な男を、憎からず思っているのだった。


12.

その後の調査で、空き巣の犯人が例のふくよかな婦人だったことが判明した。事件は犯人を突き止めた佐藤巡査の大手柄となった。私も一緒に捜査したのに。

早紀も、犬を飼っていたことを認めると、私に謝罪してきたのだった。

「おい宮坂、ライスもちゃんと食えよ。俺のおごりなんだから。」

佐藤先輩は肉を何度も返しながら、みみっちい忠告をしてくる。

夜7時の焼き肉屋。中央に置かれた鉄網からじゅうじゅうと音が上がる。机には私の隣に佐藤巡査、向かいに一ノ倉教授と、早紀が座っていた。モデルの友達がいると話したら佐藤先輩が見栄を張って呼んでくれたのだった。手柄を立てて気を良くした先輩が全員分をおごってくれるらしい。

「肉を何度も返すと脂が落ちるぞ」

そんな忠告をしながら一ノ倉教授は黙々と肉を口に運ぶ。おごられに来ている割には堂々としたものである。野菜も食べればいいのに。

「佐藤さんって彼女とかいるんですかぁ?」

早紀はと言うと、甘えたような声と上目遣いで佐藤先輩にアプローチしていた。彼氏のまわりにいたらいやな女ランキング第1位。

「でも、どうして犯人はあんな犯行を繰り返したんですかね?」

私が事件の話を聞くと、佐藤巡査はスープをすすりながら話した。

「聞いたところによると、よほど見栄を張るたちだったようだな。金遣いが荒く、社長である旦那の収入が下がってきたことで以前のような生活を維持できなくなったとか」

「絵にかいたような普通の悪人ですね」

私がそう言うと、早紀が口をはさむ。

「でも、女同士のマウンティングとかあるじゃん。負けられなくなっちゃったんじゃないの?」

流石はモデルらしい意見である。同意するように佐藤先輩も話を続ける。

「実際、婦人同士のコミュニティに属していて、そこでの見栄の張り合いがあったのは確かだそうだ。あの一帯は高級住宅街だしな」

なるほど、聞き込みに行った家庭はどこもそれなりの生活水準に見えた。その中で自分だけが没落していくというのも相当なストレスなのかもしれない。

と、一ノ倉教授がカルビを口に運びながら言う。

「クレプトマニーという精神症状がある。万引きや窃盗を繰り返す人物に共通してみられる心理なのだが、『そこにあるのは本来私が正当に所有する権利があるものだ』という考えになるらしい」

なるほど、教授らしいうんちくっぷりである。佐藤先輩もそうか、と納得して言った。

「犯人も衝動的な犯行だと供述していた。実際、婦人同士の顔見知りを中心に狙っていたらしいんだ。それって、相手がうらやましかった、ってことになるよな?」

空き巣ひとつとっても、複雑な心理があるものだ。大胆ではあるが、誰より人の目を気にしていたのは、やはり彼女だったのかもしれない。もっとも、盗まれた側の心情を考えれば同情などできないが。

そんなことを思っていると、早紀がしゅんとしたようにつぶやく。

「私も、いろいろ考えなおさなきゃな。レインにも心配かけちゃったし」

そう言えば、ペットの件はどうしたのだろうか?

「もう包帯はしてないんだ」

私が聞くと、ああと早紀は笑った。

「もう隠す必要もないし、仕事の時はコンシーラーで目立たなくできるからね」

なるほど、包帯でモデルなどできるのかと思っていたが、以前もそうやっていたのか。

「まあ、ワンちゃんのためにもいい物件探してみるよ」

さっぱりした顔で言った早紀に、私は安堵した。私が心配しないようにとそう言ってくれたのだろう。いい友達を持ったものである。

「ところで、教授は焼肉だけでいいんですか? せっかくの社会貢献だったのに」

私が思い出して教授に尋ねると、心配はいらないと返事した。

「君が授業であのシャツを着てくれたおかげで、生徒たちは興味津々だよ。警察に協力しているということがうわさになっている」

そう言えば、あれは単なるダサTではなくて、捜査協力をお願いしている旨が印字されていたな。

「まあ、感謝状ひとつもらえなかったのは残念だが、僕は仮説を話しただけだし、もとより期待はしていない」

と、教授は締めくくった。教授にとっては学内での評判がいちばんの関心事なのだろう。

そのまま和やかに祝賀会は終わり、私たちは解散することとなった。

席を立ち、店の外に出てから、一ノ倉教授を見てあることに気づいた私は、思わず声をかける。

「教授、社会の窓、空いてますよ!」

股間を見た教授は顔を真っ赤にすると、慌ててチャックを引き上げ言った。

「そういうことは早く言いたまえ!」

なるほど、誰しも人の目は気になるということだろう。私は教授の人間らしいところを見て、少し得意になった。

街の街頭がスポットライトのように人々を照らしている。私は人の目を気にせずスキップして帰るのだった。

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