第7話
「…………そう、だったんか……」
大きく開かれた窓から流れ込む温い風。
「そうよぉ……本当に吃驚したんだからね……」
年期の入った内装は、普段生活しているアパートのものではないもので、いつ訪れても懐かしいと思える場所のものだ。
「お墓から帰ってきたかと思ったら玄関で倒れるのに。直ぐにこっちに寝かせたけど目覚まさないから、三知代さんに調べて貰ってお母さん、救急車呼ぼうと必死だったさぁ」
何が起こったのかは自らの身を見れば、何となく想像はついた。
「心配かけて悪かったよ」
どうやら暑気に当てられたようで、熱中症の一歩手前の状態で倒れたのだろう。汗で濡れたシャツを持ち上げながら、妻から差し出しされた常温のペットボトルを受け取る。キャップを開くと空気に触れたスポーツドリンクが独特の甘みを伴い鼻を擽った。
「落ち着いたら、三知代さんに病院に連れて行ってもらいなさい」
「…………そうする」
溜息を吐く母の顔は酷く疲れ窶れている。そんな彼女を心配させたくなくて、反射的に飲み込んだのは「大丈夫」という言葉。妻に着替えを頼むと、未だに靄の掛かる記憶を整理するように口を開いた。
「あのさ、お母ぁ」
「何ねぇ?」
「……何か……変な夢、見た」
意識を失っている間に見たもの。
それは、自分がまだ小学生だった頃の記憶だと思う。
すっかり忘れていたそれは、本当にあったことなのかどうかを確認する事も難しいほど曖昧なもの。現実に起こったとは思えない不思議な体験のため、無意識に忘却を選択し、今の今までその事を思い出すことが無かった。
「あれさ……本当にあったことか?」
少しずつ紐解く奇妙な記憶は、こうして夢という形で母親に語ったとしても、全く実感が伴わない。未だ夢に囚われたような気持ちの悪いな感覚に頭を抱えながら、夢だと断言できる確証を探すように、出来るだけ鮮明にその事を思い出そうと言葉を探していく。
「…………こんな話、笑っちまうよな? 変なの……」
「……………………」
これ以上思い出せることがなくなったところで零した乾いた笑い。「何を言ってるの」。そう言って母親に豪快に笑い飛ばして欲しい。心のどこかでそんなことを望んで居たのだろう。しかし、彼女の反応は意外なもので、何かを考えるように黙り込んだ後表情を歪めながらこんなことを呟いた。
「……昔ね……アンタ、行方不明になったことがあるんよ」
話を聞いてみると、過去に自分に起こったのだという体験談を母は語り出す。どうやら幼かった自分は、祖母に買い物を頼まれて家を出てから、翌日の夕方まで行方が判らなくなったことがあったらしい。
「どんなに探してもね、あんたの姿は見つけられんかった。でもねぇ…………おじいが飼ってたタマがいたでしょう? あの子がね、アンタのところまで私たちを連れて行ってくれたんだよねぇ……」
姿が消えた子供が見つかった場所は、家から随分と離れた畑の中という。近所の親戚が持つその畑には大きなバナナの木があり、その下で気を失っているところを発見され、すぐに病院に運ばれたと。それから数日間は目を覚まさなかったが、目が覚めたときには行方不明になっていたことをすっかり忘れているかのように元気になった自分が、「病院なんて嫌だ!」と言いながら病室を飛び出した。そんな風に記憶を紐解く母親の表情は硬く、あの時のことを思い出せば思い出すほど奇妙な出来事だったとしきりに首を傾げてみせる。
「それ、本当の話なんか?」
夢と母の話は微妙に一致しているのに、それが自分たちの体験した事実だということだけが実感として伴わない。現実に起こったことだと認めたくなくて敢えてそんな言葉を口にすると、母親は困った様に眉を下げながら小さな溜息を吐く。
「本当よ。嘘言ってどうするの」
変な事件だったから良く覚えてるさぁ。ゆっくりと顔を上げる母親の目は、この部屋の中のものを何一つ捉えていない。過ぎ去ってしまった過去の残像を見るように、現実とは異なる幻を追うようにして視線を動かしているように見えて不安に囚われそうになってしまう。
「でもねぇ……そうねぇ……」
そしてゆっくりと。梁に掲げられた枚数の増えた遺影に視線を止めると、少しだけ寂しそうに笑いながら彼女はこんな言葉を呟いたのだ。
「もしかしたら、おじいが助けてくれたのかもねぇ」
「…………そう……かな……?」
「そうでしょう? 多分ね」
今は亡き祖父の姿。遺影の中で豪快に笑う白黒の記録に視線を合わせると、無意識に緊張が解け安堵から身体の力が抜ける。
「病院に行く前に、仏壇に手、合わせておきなさい」
いつの間にか母親が立ち上がり、こちらに向かって手を差し伸べていた。
「何で?」
「助けてくれて、有り難うって。ちゃんとお礼を言っておきなさい」
そう言われた瞬間、妙にその言葉がストンと落ちたような気がして、彼女の言葉に素直に従うことにし畳みの上に座り直した。
「線香は?」
「いいよ。有り難うって言ったら早く病院に行っておいで」
「判った」
あの頃から随分と大きくなった自分の手。無骨なそれを合わせると、静かに瞼を伏せる。正直に言えば、何と言えば良いのかは判らない。幽霊なんてもの、見たことがないのだ。だから、この行為はただの気休めにしか過ぎず、届く相手のいない言葉は心の中だけで虚しく響き消えていくだけ。
「お父さん」
「ん?」
呼ばれて瞼を開くと、出かける支度が調った妻が、車のキーを見せながら廊下に立っている事に気が付いた。
「早く病院行ってこようさぁ」
「あ……ああ」
壁に掛けられた振り子時計を見ると、時刻は夕方四時を過ぎたばかり。病院でどれくらい時間を使うかが判らないため、さっさと用事を済ませてしまおうと壁に手を付き立ち上がる。
「じゃあ、お母ぁ。言ってくるさぁ」
「気をつけていってらっしゃい」
「うん」
未だふらつきを覚える足取りで玄関に向かうと、既に妻が玄関の引き戸を開いてくれている状態で。靴ではなくサンダルを履いて外に出れば、生暖かい風が頬を撫で通り過ぎて行く。
「なーん」
「ん?」
甘えた声を出して身体をすり寄せるのは一匹の猫。
「ああ。タマか」
長い尻尾を上に伸ばし、ご機嫌そうに喉を鳴らしながら答えるように鳴き声を上げる猫は、自分の匂いを移すようにして何度も、何度も足元に頭を擦りつける。
「ちょっと出かけてこようなぁ」
しゃがみこみ、大きな手で頭を撫でてやれば、満足したように目を細めた後、小さな舌でこちらの手の平を舐めてから、猫はすっと離れた。
「じゃあ、行ってこようねぇ」
駐車場から聞こえてくるエンジン音。妻は既に運転席に座り、旦那である自分が来るのを待っているらしい。猫に小さく手を振ってから妻の待つ駐車場へ向かうと、白い軽自動車の助手席に乗り込みシートベルトを締める。
「じゃあ、病院までお願い」
「判ってるわよ」
サイドブレーキを下ろしギアをドライブに入れたところでゆっくりと転がり始める黒いタイヤ。家の敷地から道路へと頭を出した軽自動車は、一度そこで止まり左右から何も来ないことを確認して大通りを目指す。方向指示器の音が数回鳴り、示した向きへと切られるハンドル。ゆっくりと道路へ出て行く車のミラーに写り込むのは、背後にある四つの道の合流地点。
「…………?」
サイドミラーに何かが映った気がしたが、多分それは気のせいだろう。左右に続くブロック塀を抜け、丁字路を左折すれば大通りに合流出来る信号は直ぐそこだ。
「あ。壊れている」
ブロック塀の角に置かれた石敢當と掘られた石碑。それは、上の部分が欠け、石という文字が半分無くなってしまっていた。
「後で、壊れてるよって言っておかないとなぁ……」
ゆっくりと降りてくる瞼。歩行者信号のアナウンスは、横断可能な時間がそろそろ終わるということを告げている。開かない瞼の向こう側で、行き交う車の走る音だけが響いている。
「……でも……まって……」
何かを見落としているような気がして堪らない。それが何かを考えるために瞼を開こうとするが、身体は意識を手放してしまえと言わんばかりにどんどん重くなっていく。
あの時、祖父は確かに生きていたはずでは?
「それじゃあ一体、誰が助けてくれたんだ?」
車がゆっくりと走り始める。
ただ、その行き先を確認する事は、どうやら自分には出来そうにない。
何故なら強い眠気に囚われ、これ以上は意識を保っていられ無さそうだからだ。
周りにあった様々な音が一つずつ消えていくと、代わりに聞いたことのある不気味な鳴き声が耳に届き始める。
それはあの時に聞いた家鴨の鳴き声と同じもので、少しずつ音が大きくなり煩いくらい辺りに響き始めた。
やがてそれは意味の判らない言葉となり、その他の音が聞こえる事を嫌がるようにして耳を侵し始める。
『くまー、くまー』
「っっっっっっっっ!!」
すぐ、後ろから。
雑音で酷く濁った不気味な声が聞こえてきた瞬間、奪われた自由。
瞼を開くとそこに広がるのは、赤い世界なのか、黒い闇なのか。
残念ながら、それを確認する勇気は持てそうに無かった。
人を迷わせるのはシチマジムンと言ってな。辻に出るその化け物は、ブタやアヒル、牛なんかに化けて現れるって言われてるさぁ。場合によっては大木に化けたり、家の隙間に女の姿をして出たりもするって言われててな。だから実際の姿はどんなものなのか誰も分からんわけ。
んで。夜道とかを歩くときにシチマジムンに会うと、「くまー、くまー」って呼びかけられるわけさ。それに答えられんかったら神隠しに遭い、股の間を潜られたりしたらあの世に連れて行かれるって言われてるわけさぁね。
だからシチマジムンに会ったときはこういってやるといいわけよ。「お前は七か? 俺は八だぞ」って。
何でこれがシチマジムンをやっつける言葉なのかは判らんよ。でも、そう言えばシチマジムンは何も出来なくなって逃げていくって。そんな風に聞いたさぁね。
忘れないで覚えておきなさい。そうじゃないと、助かるもんも助からんよ。
人気のない十字路の真ん中で、黒い影が不安定に揺れる。
それは獣の姿とも、人の姿とも取れるような曖昧なもので、行く手を阻む大木へと姿も変える。
それが人を見つけると、とても嬉しそうに嗤うのだ。獲物を見つけた猛獣のように、楽しそうに口角を吊り上げ光る目で綺麗に弧を描き乍ら。
そしてそれはこう繰り返す。
「こっちにおいで、こっちにおいで」と。
返リ路 ナカ @8wUso
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