第6話
縋るものを探し彷徨わせた右手に触れたのは、石垣の角に置かれている頭の欠けてしまった小さな置き石。咄嗟にそれに抱きつきながら、来るかどうかも分からない人達の姿を思い浮かべ必死に呼び続ける。勿論、そうすることで本当に助かるかどうかなんて何一つ分からない。しかし、そうやって何かに縋っていなければ、この状況では直ぐに気を失ってしまうことだろう。それを想像するだけで恐ろしいと感じてしまう。先程から身体の震えが止まる気配は無い。
第一、こちらの味方は一匹の小さな猫だけなのだ。勇ましげに相手に立ち向かってはいるものの、目の前の不気味な現象に対しては余りにも無力に見えてしまうくらい心細い。それくらい猫と対峙する闇は大きく、未だに周りの景色を呑み込みながら勢力を拡大し続けていた。
完全に、呑まれてしまったら、もう二度と家には帰れない。
あと少しで闇と同化してしまそうになる猫の姿に強い不安を覚え、ついに我慢していた本音を吐き出してしまう。
「おうちにかえりたいっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!」
「フギャアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッッ!!」
帰りたいと上がる叫び声と、猫の唸り声が重なった瞬間だった。
『ヤーヤ、シチドゥヤミ』
どこからとも聞こえてきたのは、どこかしら懐かしい声である。
『ヤーヤ、シチドゥヤミ』
それは、目の前の闇に問いかけるようにして不思議な言葉を吐き出す。慌てて周りを見回すが、人気のない辻にあるのは闇に呑み込まれそうになっている小さな猫と、情けない顔をして泣き崩れている自分だけ。
『ワンネー、はちドー』
姿無き声がそう呟いた時だ。
「っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!」
明らかに動揺し揺らいだ闇が、その声を嫌がるようにして後ずさった。
その隙を見逃さないとでも言うように、猫が大きく唸りながら闇へと飛びかかる。
「グワッ!? グワッグワッグワッグワッ!!」
「ンギャウワゥワゥワゥワゥッッッッッッッッファアアアアアアアアアアアッッッッッッッ!!」
激しい物音と共に上がる二つの獣の声。濁った不気味な家鴨の声が苦しそうに藻掻く度、少しずつ契れた闇が赤い景色に散り溶けていく。
『ヌーアラン。シワネーンドー』
耳元で囁かれる優しい声。
『ヌーアランシガ。ヤガティ、ヤーンかいケーイン。いったーヤーニンジューぐゎ、待ッチョイビーンどー』
次の瞬間、後ろから温かな何かに抱きしめられたような気がし、ゆっくりと視界が暗くなり……やがて、意識を失ってしまった。
「……さん……」
焦るような女性の声がどこからともなく耳に届く。
「……う……さん……」
それは緩やかな振動を伴いながら、何度も何度も繰り返されているようだ。
「う……ぅ……?」
その声に聞き覚えが有るような気がして、答えるように返事を返そうと開く口。
「……お……う…さんっ!」
だが、まだ、上手くしゃべることは出来ないらしい。くぐもった音だけが言葉にならない呻きとなって外へと吐き出される。
「おとうさんっっ!!」
「……っっっっ!!」
急激に浮上する意識。一気に開いた瞼から大量の光りが飛び込み、思わず目を庇うようにして腕を持ち上げる。
「お父さん! 大丈夫ね!?」
「………みち……よ……?」
「……あんた……」
少しずつ正常に結ばれる像。ぼやけていた視界が鮮明になると、目の前には心配そうにこちらを覗き込む妻の不安そうな顔があった。
「もう! 吃驚するさぁっ!!」
勘弁してよ! そう言って妻が放った強烈な一撃が、私の胸を強く叩いた。
「あがっ!」
「何が痛いか! こっちは心臓止まるかと思ったさぁっっ!!」
心なしか彼女の目は赤い。顔を見られるのを嫌がるように手の平で覆い隠すと、妻はすっくと立ち上がり部屋を出て行ってしまう。
「お義母さん! 雅充さん起きた!」
「あい! 本当ねぇ!?」
静かになったと思ったのも束の間。すぐに慌ただしい足音と共に、姿を消した妻と初老の女性が部屋に飛び込んで来た。
「雅充!」
「……お……母ぁ?」
何が起こったのか分からなかった。
目に一杯涙を溜めた母親が、不安と怒りの入り混ざった表情でこちらを睨み付けている。
「あんたよぉ!! もうっ! 心配させないで!」
今にも泣き崩れそうな小さな姿。だが、気合いを入れるように両頬を叩くと、一度ゆっくりと深呼吸をした後勢いよく抱きしめられる。
「お母さん、心臓が止まるかと思ったさぁ!!」
「…………ごめん」
痛いくらいの抱擁。子供の頃大きいと感じていた母の身体を抱き留めると、宥めるように背中を撫でながら「ごめん」という言葉を繰り返し呟く。
「お墓から帰ってきたと思ったら直ぐに倒れるのに。やがて救急車呼ぶところだったさぁ」
そう言われて、倒れる前の己の行動をぼんやりと思い出す。
「……墓掃除から帰ってきて倒れたって?」
「そうよぉ。三知代さんが気付いてくれたから良かったけど、あんた、誰も気付かんかったらどうするの!」
しゃくりあげながらも必死に紡がれる言葉。気持ちが追いつかないのだろう。母が幼い子供が駄々を捏ねるように首を振りながら、細くなった腕で我が子を抱き嗚咽を零し続けている様子に、申し訳なさで胸が締め付けられ言葉が出て来ない。
「まぁ、お義母さん」
そんな母を気遣うように、妻が寄り添い優しく肩を叩く。
「雅充さんが無事だったから良かったじゃないですか」
「三知代さん、そうだけど……」
漸く気持ちが落ち着いたのだろう。漸く離れた母が、草臥れたように畳みに座り直すと、ボックスからティッシュを抜き取り流れていた涙を拭った。
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