第5話

「ま…………て…………」

 足を動かす度に上がる息。

「はぁ…………はぁ…………」

 額から流れる汗は止まることが無く、シャツはぐっしょりと濡れてしまっている。

 先程から追いかけっこを続けているのは一羽の家鴨で、全く疲れを感じないのか一向に距離が縮まる気配が無い。「グワッ、グワッ」とその事を楽しむかのように鳴き声が人気のない道に響き、それが不気味さを寄り一層引き立てていた。

「グわっ……ぐワっ……」

 相変わらず家鴨との距離は縮まらないまま。無情にも、変わらない時間だけが過ぎていく。右手には草臥れたビニール袋。溶けてしまった氷菓子はすっかり冷たさを失い、ただの生温い液体に変わってしまっていて。形を変える時に付着した、ビニールの表面を覆う結合した元素も、いつの間にか流れ落ち、閉じられた世界で小さな水たまりを形成し逃げ場を探すように揺れている。共に交ったスナック菓子は、内側に溜まった液体によってパッケージがふやけ、とても残念な姿へと変わっているのだろう。

「………わー……く……まー……」

 一体何度、道の交わる四辻を通り過ぎたのだろうか。

「……く……まー……く……まー……」

 目の前を走る家鴨の鳴き声に違和感を感じ足を止める。

「…………」

 その音を聞こうと耳を澄ませると、こちらの動きが止まったことを察知したのだろう。数メートル先の家鴨も同じように駆ける足を止め、ゆっくりと振り返った。

「…………」

 目の前には真っ赤な夕日。逆光のせいか、小さな白い家畜の姿は色の濃い影のようにしか見え無い。

「くまー…………く……まー……」

 ただ、その顔が嗤って居る事だけは何となく分かる。

「……く……まー……く……………まー……」

 幾度となく繰り返される不気味な言葉。それを呟く度に、真っ黒なシルエットへと姿を変えた家鴨の光る目が弧を描くのだ。

「………………」

 そしてその家鴨の影は次第に大きく肥大し、傾く夕日に比例するかのように黒い影が細長くこちらへと忍び寄る。

「ヒィッ!?」

 全身に立つ鳥肌。次の瞬間、踵を返し走り出してしまう。

 捕まってはいけない。少しでも早く、遠い所へ。

 自分よりも随分と小さな存在が何よりも怖くて仕方が無い。そんな思いから、背後を振り返る事も出来ず来た道を必死に引き返す。

「なんで……なんで……だよっ……」

 何処で間違えてしまったのだろう。祖母に頼まれた買い物はそれほど難しいものでは無かったはずだ。

 近道をしようと筋道を選んだとしても、その道自体は始めて歩くものではない。馴染みの焦点から十分もかからない距離で終わるはずだったことだが、もう、何時間もこの場所に囚われ逃げ出すことが出来ずに居る。

「くまー、くまー」

 背後から迫る黒い影と、雑音が混ざり不鮮明になっていく不気味な音。先程からそれは、壊れた機械のように、一定のリズムで同じ言葉だけを繰り返している。

「はぁ……はぁ……」

 追い掛けているときは縮まることの無かった距離。だが、その声は確実に、少しずつ開いた距離を狭めていく。

「いや……だっ……」

 相変わらず変わらない景色。何処にも逃げ込む場所は存在しないのだと言いたげな石垣だけが、延々と続く。数えることを辞めてしまった四辻を過ぎる回数も、きっと両手の指だけでは足りない程通過したはずだ。ただ、先程と明らかに異なる事が有るとするならば、襲いかかる闇という存在。

「いやだっ……いやだっ……っっ」

 家鴨を追い掛けている時は何処を見てもアカイイロだった世界が、今は己の背後だけ黒に染まっていく。

「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ」

 誰か、助けて。

 救いを求める言葉を言う代わりに口から飛び出した叫び声。

「ここから出してっっっっっっっっっっっ!!」

 再び巡ってきた四辻の真ん中に飛び込んだと同時に大きな声を上げて助けを請う。

「だれでもいいから、ここからたすけてよぉぉぉっっっっっっ!!」

 どっちに行けば良いのかその判断も出来ず出口を求めて視線を巡らせると、視界に入る奇妙な違和感。

「あっち……!?」

 既に正常な判断なんて出来なくなってしまっている。その違和感を確かめることもせず誘われるように足を向けると、四辻のうちの左側へと勢いよく飛び込む。

 だが、背後から迫る影は、未だ追従の速度を緩めない。更に速度を上げ逃げる獲物を捕らえようと素早くその手を伸ばし差し迫る。

 あと一歩。

 耳元で聞こえる「くまー」という音が直ぐ後ろまで近付いたと思ったときだった。

 

「なーおぅ」


 足元を横切る黒い影。次の瞬間、背後から気持ち悪い程の金切り声が響く。

「っっっ!!」

 耳を塞ぎたくなるほどの大きな不快音に驚いて無意識に振り返ろうとした反動で、バランスを崩し大きく傾く身体。ゆっくりと流れる景色に目を見開いたと同時に、左側に強い衝撃が走り思わず身を屈め蹲った。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっっっ!!」

 咄嗟に伏せた瞼のせいで真っ黒に染まる視界。接続が途切れた視覚の代わりに塞ぐことの出来ない耳から容赦無く音という情報が飛び込んでくる。鳴いていたのは家鴨だったはずだ。だが、今、叫び越えを上げているのは、どう聞いても家鴨の声などではない。

 

 それでは……一体……

 ソレハ、ナンダトイウノダロウ……

 

「ファアアアアアアアアアアッッッッッッッッ!!」

 何かを警戒するような威嚇音。その音は、猫が発するものと良く似ていると本能的に悟る。身体に伝わる痛みで溢れる涙を拭いつつ瞼を開けば、倒れ込んだ地面の上に捕らえたのは一匹の猫の姿だ。

「ファアアアアアアアアアアアッッッッッッ!!」

 全身の毛を逆立て、尾を針鼠の針のように膨らませたキジ色の虎猫。それが家鴨のような形をしている真っ黒な影に向かって唸り声を上げている。

「ウアウアウワウギャゥ……ウウウウッッ」

 時折伸びる黒い影に対し、必死に繰り出す爪を出した小さな手。近付くことを拒むその小さな姿が、何故か巨大な敵に立ち向かう救世主のように見えてしまう。

「たのむ……」

 擦りむいた両手の傷口には、荒く削られた小さな砂利。それを払うことも出来ないまま痛みを訴えるそれを併せると、神頼みと言わんばかりに情けない声でこう呟いた。

「たすけてくれ……たすけてくれ……たすけて……たすけて……たすけて……」

 少しずつ。対峙している猫と化け物との距離を取るように後ずさりながら、必死に同じ言葉だけを繰り返す。地面へと広がっていく濁った闇が蛇のように猫へと襲い掛かるが、猫は器用にそれを避けると、威嚇を繰り返しながらも懸命に攻撃を続けている。その光景を凝視しながら身体を動かし続けていると、背中に鈍い痛みが走り小さな悲鳴が零れた。

「ひぃっ」

 振り返ると目の前に迫る粗い岩肌。積み上げられた石で作られた石垣が、これ以上退路はないとでも言うように移動を阻む。

「なんでおれがこんなめにあわなきゃなんねぇんだよぉぉっっっ!!」

 ここまで来て遂に恐怖から理性の糸が切れた。

「はやくかえりたいっっ!! たすけてよ! おとう、おかあっっ!!」

 情けなく泣き言を繰り返しながら、涙と鼻水で顔を汚し必死に求める助け。

「おじい! どこ!? おばあっっ、たすけてよぉぉぉっっっ!!」

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